鎌倉ちょっと不思議な物語115回
私が住んでいる鎌倉の十二所は、鎌倉時代には「山之内庄」「大倉郷」などと称したこともあったらしい。里人たちによると字の家数がたまたま12だったので十二所となったとか、当所の小字に和泉谷、太刀洗、七曲、タタラヶ谷、宇佐小路、明石、積善、二ヶ橋、稲荷小路、番場ヶ谷、吉沢、関ノ上の12箇所があるのでこの名がついたとか諸説ある。 ちなみに私は最後の関ノ上に30年近く住んでいる。
この十二所の地名がはじめてものの本に登場するのは、応永23年1416年に刊行された「鎌倉大草紙」である。
下って「新編鎌倉志」巻二に「十二所村は報国寺の東の民家なり。十二郷谷ともいう。里人云う。『家村十二ヵ所ある故に名づく。今は僅かに三、四ヶ所あり』」とあるが、これは十二所ではなく現在の青砥橋の十二郷のことで、わが郷里とは異なる。
十二所の地番は泉水橋の右岸からはじまり、川岸をさかのぼって峠に至り、左岸を下ってまた泉水橋にきて1013番地となる。昨日紹介した大江稲荷は少し飛んで1014番、私の家は299番である。
気象庁も予報士もみなうそつきだお詫びと訂正くらいせよ 茫洋
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