♪バガテルop55&遥かな昔、遠い所で第70回
日経の「私の履歴書」に谷川雁の実兄で民俗学者の健一氏がたいへん興味深い回顧録を連載しておられる。
氏は熊本県水俣に生まれ育ったが、3歳のときに近所の寒村からやってきた田上トセという当時12歳の子守の思い出を後年になって振り返り、彼女が80歳を越える年齢で亡くなったときに、次のような心に残る歌を詠まれた。
幼き日に乳母に背負われ嗅ぎたるは洗はぬ髪の燃えたつ匂ひ
どくだみの花揉みしだかるるゆふやみの庭の匂ひに乳母恋ひにけり
乳草の葉より滴る白き汁をてのひらに受け乳母と遊びき
乳草の愛を習ひし乳母ひとり身まかりゆきし夜の果てのこと
どくだみの花や乳草の汁のしたたりは、私の少年時代の生と性のくらがりの奥でも、いつも懐かしくひっそりと匂っていた。
そういえば、私の生家でもトセさんのような存在があった。小学生の頃、バスで1時間以上も奥に入った上林村から女中さんを迎えて家族と共同生活を送っていたのである。
私たち3人のきょうだいは、年上の彼女と一緒になって家事や家業を手伝ったり、児童公園で野球をして遊んだりしたものだ。
ある日の食卓で、おりょうさんというその女性が、たぶん私の両親の仲の良さについて何気なくからかうと、普段はおとなしい父が、「こら、おりょう!」と強く叱りつけたことがあった。
思いがけない叱責に驚き、首をすくめたおりょうさんの顔が突然真っ赤にあからみ、耳や首のつけねまでもがみるみる充血していくさまを、私たち3人のきょうだいはびっくりして見つめていた。
おりょうさんは私の実家に5,6年いたはずだが、おそらく私の祖父の口利きでお見合いの話があり、結婚して幸せな家庭を築いたようにぼんやり記憶しているが、おりょうちゃん、今頃どこでどうしているだろう。
♪漆黒のアスファルトを突き破りドクダミの花今年も咲きたり 茫洋
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