♪流れよ みこし どんぶらこ
鎌倉ちょっと不思議な物語120回 十二所神社物語その5
神社では当番を決めて毎晩灯明をあげていた時期があったそうだが、その札がいまなお伝えられているそうだ。町内会長さんのお宅にでも保管されているのだろうか?
しかし私はなにを隠そう、町内会長も町内会も苦手だ。このゲマインシャフトは、そのほとんどが旧住民の絆によって結ばれていて、たかだか30年の浅い町民歴しかない私などにはとうてい入り込めない古参連中の寄り合いだ。なにせその源流は、鎌倉時代にまでがさかのぼるのだから。
きっとかういう旧態依然たる村落共同体が江戸時代の封建制度を支え、すぐる大戦中の銃後の大政翼賛制度をがっちり支えたし、来るべき平成帝国ファシズム体制が確立されたあかつきにも、定めしけなげに支援するのであらう。
いかん、遺憾、またしてもあらぬ方角に筆が滑った。早く本題に戻ろう。
先日祭りとみこしのことを書いたが、十二所神社には昔はいまよりもずっと立派なみこしが備わっていたが、維持が大変なので川に流したそうだ。
それを大町の八雲神社で拾い上げて祀った。それで両神社の関係ができて、八雲神社の神職が十二所神社を兼務することになったという。また一説には小町妙隆寺前にあったテンノウ畑に埋めたともいう。
去年この二つの神社と寺院について書いたときには、そんな逸話は知らなかった。
確かに八雲神社には豪奢なみこしがたくさん安置されている。ある時期まで八雲神社の神職が十二所神社を兼務していたのはほんとうのことで、どうしてだろうといぶかしく思っていた私だが、なるほどこれで得心がいったが、待てよ、あんな小さな滑川に重いおみこしを放り込んで、下流に流れるものだろうか?
猛烈な台風のときだって到底無理だろう。では、村の名士である大木利夫氏の証言は虚偽であろうか? いや江戸時代以来の名代の庄屋がそんなでたらめをいうはずがない。
と、私の心は春の嵐のやうに乱れに乱れるのであった。
10歳若き知り合いが大社長になった 人の才知は見抜けぬものよ 茫洋
No comments:
Post a Comment