Saturday, May 24, 2008

めまぐるしい所有権者の変遷

鎌倉ちょっと不思議な物語126回 十二所物語その3

徳川時代の十二所の地主は誰だったのだろう。

再び「十二所地誌新稿」によれば、村高67貫181文のうち64貫156文を分けて十二所村および山之内の建長寺・東慶寺などの社寺領に寄付し、残る3貫25文を徳川氏直轄とし、代官がこれを管していたという。

嘉永5年1852年には、そこが彦根藩の井伊掃部守領となり、安政元年1854年には山口候松平大膳太夫、同6年に熊本候細川越中守、文久3年1863年には佐倉候堀田鶴之丞に移属し、慶応3年1867年代官所管、さらに廃藩置県の翌明治5年1872年にはいったん韮山県所管となり、同年12月にようやく神奈川県所管となった。

十二所神社の階段の上にある石門には文久3年の銘が刻まれているから、恐らく佐倉候の堀田氏によって建立されたものだろう。その十二所神社の社寺領は明治4年1871年になって国家に返上したが、その後地券交付によって戻されたという。

さらに第2次大戦の敗戦後は、農地は没収同様に買い上げられてしまい、昭和二十年1945年そこを農作していた者に払い下げられたというからかなりでたらめな所有権の移動だったに違いない。

♪妻と子は横須賀の歯医者に出かけわたしは授業の準備をしている 亡羊

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