照る日曇る日第125回
面倒くさいので帯の腰巻から引用すると、モスクワに突如出現した悪魔の一味が引き起こす謎に満ちた奇想天外な物語が本作である。さらに本屋の惹句によれば、20世紀最大のロシア語作家が描いた究極の奇想小説ということになっていて、まあ当たらずとも遠からずの迫力と読み応えがある。
捕囚のナザレ人ヨシュア、ユダヤ駐在ローマ第5代総督ポンティウス・ピラトゥスなどが紀元前後のゴルゴダの丘に登場するかと思えば、現代都市モスクワに歴とした悪魔やしゃべる黒猫共が出現し、お得意の黒魔術のショーや開催されて偽のルーブリ札が天から降り注ぎ、百鬼夜行の悪魔の大舞踏会やらがワルプギルスの夜に派手に挙行され裸の魔女が箒にまたがって夜空を飛んでいく。と書けばおおよその輪郭がつかめるだろう。
ワルプギルスといえばベルリオーズだが、その音楽家と同じ名前の作家の首がモスクワの市電に轢かれて道路をころころ転がっていくところからこの綺談は始まり、満月の夜に睡眠薬を注射されて眠る狂人イワンの夢で全巻が閉じられる。ドストエフスキーではないが、神が不在なら大審問官か悪魔か、はたまたただの人間がこの世を統治するしかないのだが、作者は悪魔による統治の壮大なシミュレーションを途中で放棄して、世界を再び人間の手に返還しようとした地点で擱筆している。
ヴォルテールは、「もし神が存在しないなら、神を創造しなければならない」、というたが、ブルガーコフは「神も悪魔も自分が創ろう」といい、いうただけでなく、実際にそれをこの小説でやろうとしたのである。その意図たるや天晴れ壮大ではないか。
最初から最後までが作者の無果てぬ夢であり、過去も現在も、現在も未来も、神も悪魔も、正義も悪も、過酷な現実も琥珀色の夢もすべての実在と非在を内包しながら作者の巨大な幻想が驀進していく。そしてその先には大いなる徒労と無限の虚無が待ち受けているのである。
♪道端のすべての塵を拾いあげ、河に捨ておるわが子いとおし 茫洋
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