鎌倉ちょっと不思議な物語117回
十二所神社を現在地に移す仕事をしたのは、明王院の住持恵法法印で、神社棟札は明王院に伝えられている。
例祭は毎年9月8日から10日にかけて行なわれる。祭日には大人と子供のおみこし2基が出た。私は神社の隣の借家に住んでいながら、いつも不参加だったが、妻が二人の男の子にかわいらしい法被を着せて付き添い、みなと一緒に町内をワショイ、ワッショイと練り歩いたものである。
夜になると、神社の参道の入口にはいつも子供たちが描いたあどけない雪洞の絵が夜風によろめき、境内では綿飴やヨウヨウや焼き玉蜀黍や林檎飴などが売られ、舞台ではコロンビアレコードの新人だとかいう誰も知らない演歌歌手が、あまり上手ではない演歌を夜遅くまで歌っていた。
敗戦までは十二所部落の氏神として各隣組が順番に担当して祭典を行ない、祭礼に四斗樽3、4本を抜いて道行く人を接待したそうだ。またその年にとれた大豆で豆腐を作ったので、「豆腐祭り」とも称したと伝えられている。
祭りの前夜にはすべて祭礼の準備が整った神社の真ん中に一人の男が寝ずの番をして夜明けを待っていた。神社のきざはしの隣には幅7m、高さ3mの掲示板が組みあげられ、氏子一同の寄付金が高い順番に書かれていた。
私は氏子ではなかったが、いっとう安い口である千円を寄付していたので、念のためにそれを確認に行くと、墨黒々と「あまでう殿金1千円也」と書かれていて、それを見るとなぜか徒世の義理を果たしたような気になってほっとため息をついたものだった。
しかしその奉納帳である掲示板に異教徒であるはずのカトリック教会が5千円も寄付しているのを見ると、この国ではゼウスの神も国津神も並び立つのかと名状しがたい困惑を覚えるのが常だった。
祭礼に神前に供える日本刀は、山口義高翁の知己で当時二階堂の瑞泉寺にいた刀剣鍛冶師が奉納したものであるというが、今は十二所神社のすぐ近所になんとみこしの製作家が住んでいる。これもなにかの縁だろうか。
♪母上がこよなく愛で給いたるライラックの花今年も咲きたり 茫洋
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