Saturday, July 31, 2010

ピーター・セラーズ演出ウイーン響で「フィガロの結婚」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第153夜

今年5回目の海水浴から帰ったあとで、いまや完全にオールドメディアとなったLDでクレイグ・スミス指揮ウイーン響でモ氏の「フィガロの結婚」を視聴しました。

舞台はニューヨークの高層マンションに設定されていて、このベランダからケルビーノが飛び降りたりするのはいくらなんでも無茶だと思うのですが、鬼才ピーター・セラーズはてんで頓着しません。終幕の夜の庭園も室内の設定になっているので、登場人物の布陣がまったくわからないのですが、セラーズはそういう全体図よりも夫婦や恋人や男と女のⅠ対1の相関関係のゆがんだ愛憎に焦点を当てているので、別段このオペラの舞台がニューヨークでなくてもいっこうに差し支えなかったのでしょう。ともかくエグクて図太い演出家です。

そんな次第で音楽は完全な添え物となってしまいましたが、クレイグ・スミス指揮ウイーン響もジョルジュ・プレートルほどではなくともそれらしいモーツアルトを鳴らし、泳ぎつかれてうとうとしているうちに全員が浮かれてダンスを踊る大団円に突入していました。

どんなつまらない楽団と演出家の組み合わせでも、最後に伯爵夫人があほばか伯爵を許すシーンでは、それこそ粛然とした気分が、それまでの馬鹿騒ぎを洗い流して、やはり人間て素晴らしいなあ、なーーんていう身もふたもない法悦に浸らせてくれるのですが、残念ながらこのコンビにはそれはない。あほばか音頭がすべてを覆い尽くして、それこそプッツンと終わってしまうのでした。



♪ニイニイ油カナカナ鳴き揃うたり文月尽 茫洋

Friday, July 30, 2010

西暦2010年文月茫洋花鳥風月人情紙風船

ある晴れた日に 第77回


現金をゴミ箱の中に捨てていた不思議の国に生きている息子

金捨てる息子の生きる不可思議な世界を知りてまた驚きぬ

横顔が母に似ているなと思いながら息子の顔を見ている私の顔

障碍を持つ長男の髪を切る鎌倉2小の同級生かな

私と障碍のある長男を並べて髪切る小林理髪店

世界と私との戦いではおそらく私は息子の側に立つだろう

しかすがにてふ枕詞思い出したりシカスガオの歌ききて

お位牌のチンは横からそっと打つのよと母がいう

亡き父の鞄の底に眠りしは肩書のない一枚の名刺

父死にて泣けぬ我かと案じしがとどまることなく涙流れたり

大股を開いてメール打つガンガン娘は災いなるかな

「お父さんは好きか嫌いかどっちなの」に遂に答えられぬ柳美里

なんの根拠もなく絶対生きているという言葉にすがりつく哀れ

美しきうわべの貌をひとめくり心はいかに美しき人か

新宿の天丼てんやで五〇〇円の天丼食らうアメリカ人カップル

文学の巨星なれど医学の巨悪人間森林太郎をいかに位置づけるべき

なにゆえによきひとさきにゆくならむむらさきいろのあじさいさくひに

ポネル死してオペラまた死したりその雲居の声に残響に耳を澄ます

はじめに女ありき そこから始まった日本私小説 

ブロンドの謎の少女も叔父上もおのれもすべてうつせみにして

ライバルの御家人どもをなぎ倒し最後は自滅のああ伊豆豪族

ピッチには一度も立てずアフリカの歌をうたいし選手のこころ

野に山にノウゼンカズラの花咲けば狂乱の夏いまぞ来にけり

1200円の三浦スイカを食べにけり

シューマンの象徴の森深く分けて入る

おたま食らうヤマカガシ殺したるおぞましさ

ジャワ更紗サラサはスカンポの柄に似て

いくたびもカラス何代目あらわれては消え

佃煮にして食べたき魚泳ぎけり


ねえお母さん 茗荷と紫蘇が獲れる庭はいいね 茫洋

Thursday, July 29, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第13回

bowyow megalomania theater vol.1

10月29日

お母さんが、弟の純君を叱りました。
「こらっ、純。もっとちゃんとご飯を食べなさい」
僕も言いました。
「こらっ、純。もっとちゃんとご飯を食べろ!」

 そして、僕は、純がちゃんとご飯を食べないし、お母さんに純のことばかり注意するので、頭にきて、純の頭をごっつんと殴りました。

純は、びっくりして僕の顔を見ました。お母さんは、
「岳がほんきで怒ってるよ。マジだよ」
と言ってたいそう驚いて
「純君、どうしたの、なにが気にいらないの? どこか具合でも悪いの?」
と聞きました。

「ううん、僕どこも悪くないよ。大丈夫ですお」
と答えると、お母さんはなおも僕のことが心配になったようで、急に僕の機嫌を取ろうとするように、
「岳君、どこか遊びに行きたいところがあるんでしょう?」
とカマを掛けてきたので、僕が
「火星社書店」
と答えると、お母さんはもう一度びっくり仰天して
「そ、それは高尾山の麓の本屋さんじゃないの。あそこはあなたがもっと小さい頃に日曜日ごとにさんざん行ったところじゃないの。そんな遠いところじゃなくて、もっと近いところで岳が行きたいところがあるでしょ?」
と言ったので、
「それじゃあ川崎の岸さんちへ行きたいお」
と言ったら、お母さんはまたまたあわてて
「川崎も遠いよね」
と言ったので、
「それでは僕は大船のイトーヨーカ堂に行きたいです」
と言ったら、お母さんは思わず両手を胸の前でパシリと打ち合わせて、
「よおーし、じゃあ岳君、イトーヨーカ堂へ行こう。行こう、行こう、みんなで行こう!」と大声で叫んだので、僕は「僕は岳ちゃんではありません。岳君です!」
と言いました。


1200円の三浦スイカを食べにけり 茫洋

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第12回

bowyow megalomania theater vol.1

10月28日 曇

今日は朝から風邪気味でした。

具合がとても悪いので、流れてきた「イチョウまんじゅう」の箱をぼんやり眺めていたら、突然目から火が出ました。

現場監督の長島先生が僕をぶん殴りました。僕の頭をぐあんと殴ったのです。

僕は目からバチバチと火を出しました。それからあんまり痛かったのでわあわあと言って泣きました。そしたら、
「いつまで泣いてんだ。バカ」
と言ってまた長島先生が僕を殴りました。

今度はほっぺをぶん殴りました。すごく痛かったので、また泣こうかと思いましたが、また泣くと、また長島先生にぶん殴られると思ったので、僕は必死で泣きませんでした。

いっしょうけんめい泣くのをこらえました。ヒックヒックと言ってこらえました。

長島先生は嫌いだ。長島なんてぶっ殺してやる。



美しきうわべの貌をひとめくり心はいかに美しき人か 茫洋

Tuesday, July 27, 2010

柳美里著「ファミリー・シークレット」を読んで

照る日曇る日 第360回

どうやらこの人はいいしれぬ苦悩に陥っているようです。そうして、それがどういう苦しみであるのか、またその苦しさがどこからやって来たのかについて、この人の苦難に満ちた来歴が、あるいはまたその絶望的に悲惨な日常生活の断片が、啼くがごとく、恨むがごとく延々と語り続けられるのです。

幼い時から父親の家庭内暴力の被害に遭い、世間からも迫害されてきたという作者は、様々な小犯罪やリストカット、自殺未遂を繰り返しながら、おのれを護持するために懸命に小説を書いてきたそうです。

しかし不幸なことに、40歳を超えた今日も過去のトラウマから解放されず、新しい連れい合いからは連日殴る蹴るの虐待を受け、しかしながら前夫との間に出来た最愛の息子に対しては時として暴力を加え、夜は寝られず、精神には異常をきたし、とうとう著名な精神分析者のカウンセリングを受けることになります。

そうして何度かの濃密なセッションを通じて、次第に作者の精神的な障碍の構造があきらかになり、長年にわたって音信不通であった父親との再会が実現し、(それらの「家族の秘密」はすべてあからさまに小説の中で公開されるわけですが)、幼い時から奪い去られていた「愛」を取り戻すためのささやかな試みがようやく開始されるかにみえるところで、本書はなんとかハッピーエンドの姿を取ろうと努めるのです。

けれどもまばらな拍手にこたえるべくカーテンコールによろばい出た作者の、鎌倉雪の下カトリック教会で聖体拝受にあずかる疲労困憊した姿や、横浜弘明寺商店街を彷徨する幽鬼のような姿は、とてもこの世のものとは思えません。

複雑な少女時代に「碧いうさぎ」の刻印を受けた酒井法子や、わが子を川に投じた畠山鈴香に自分の分身を感じるという作者の赤裸々な言行録は、読む進むほどに痛ましさがつのり、「親の因果が子に報い」などという古いことわざが、あたかもアポロンの不吉な神託のように聞こえてくるので面妖な心地さえしてくるのです。

いずれにしても、ほとんど精神の決壊寸前に立ち至ったこの俊秀の一日も早い拝復を祈らずにはおれません。

「お父さんは好きか嫌いかどっちなの」に遂に答えられぬ柳美里 茫洋

Monday, July 26, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第11回

bowyow megalomania theater vol.1


10月27日

星の子学園に行きました。

僕の住んでいる街でいちばん有名な「イチョウまんじゅう」の箱を折りました。

流れ作業です。最初にのぶいっちゃんと洋子がタテ折りだけして、次にひとはるちゃんと文枝がヨコ折りして、そこから回されてきたA4くらいのイチョウの絵が描かれたリサイクルペーパーを、僕と吉本公平君の2人がもういっぺんタテヨコきれいに折り直して化粧箱に組み立てます。

朝9時からお昼休みをはさんで午後5時までそればっかりやってる。やらされてる。

僕はとても不器用な人間なおですが、それでも毎日毎日やっているうちにだんだん上手になってきましたが、僕は結局なにをやっているんだろう。それが全然わからない。

朝から晩まで箱を折り続けているので、それでとても疲れます。

働くことは疲れることです。僕はもう働きたくありません。働くことは嫌になりました。

働くことが好きで上手な人だけ働いてください。


♪新宿の天丼てんやで五〇〇円の天丼食らうアメリカ人カプル 茫洋

Sunday, July 25, 2010

文化学園服飾博物館で「世界の更紗」展を見る

茫洋物見遊山記第35回&ふぁっちょん幻論第60回

更紗と聞けば、♪スカンポ、スカンポ、ジャワ更紗という歌を遠い日にどこかで聞いたことを反射的に思い出します。

調べてみると北原白秋作詞、山田耕作作曲の「酸模の咲く頃」という小学唱歌でした。正式には、次のような素敵な歌だったのでここで全国のよい子の皆さんとご一緒にのどちんこを全開しながら大きな声で合唱してみたいと存じます。

♪土手のスカンポ ジャワ更紗 昼は蛍がねんねする 
僕ら小学1年生 今朝も通って また戻る 
スカンポスカンポ川のふち 
夏が来た来た ドレミファソ

みなさん、いかがでしたか。ちゃんと歌えましたか。とってもいい歌ですね。
特に「昼は蛍がねんねする」というところと、最後の「夏が来た来たドレミファソ」というコーダはあーだこーだを許さないとてもチャーミングなもの。昨今の、歌詞が聞こえない、出鱈目英語入りのあほばかポップスなど足元にも及ばぬ白秋&耕作ゴールデンコンビの至高の境地でしたね。

私はこのスカンポソングをハミングしながら楽しく「世界の更紗」展を見物しました。展覧会のチラシによれば、更紗とは「主に木綿の布に手描きや型を使って文様をあらわしたもの」を指すそうですが、織りでなくなく染めで文様を作るところがポイントです。

原産国はインドですが、たちまちジャワ(インドネシア)近辺に飛び火し、ここから17世紀の大航海時代の東インド会社の貿易ルートを経由して、東は中国、日本、西はヨーロッパ、ロシア、中東、アフリカまでほぼ全世界に伝播していったようです。

それにしても同じ文様をアレンジしながらジャワ更紗、ペルシア更紗、アフリカ更紗、フランス更紗、日本更紗のおそろしく微妙で多彩な差異よ! ここに統合を夢見つつもけっして単一化されざる世界文化の一典型があるようにも思われます。

なおこの興味深い展覧会は新宿の文化学園服飾博物館にて9月25日まで開催されています。


♪ジャワ更紗サラサはスカンポの柄に似て 茫洋

Saturday, July 24, 2010

由比ヶ浜海水浴場にて

バガテルop128

今日も朝から猛烈な暑さです。午後の遅い時間に、例によって家族3人で、今年3回目の海水浴に出かけました。

由比ヶ浜の海岸は黄色い旗が立っていました。それほど波が高くないのにどうしてだろうと思っていたら、中央監視所からアナウンスがありました。
「今日は雷警戒警報が出ているので遊泳注意になっています。あまり沖には出ないようにしてください。それから海岸では決まった場所以外での喫煙はやめましょう」

そういえば今年の4月から神奈川県の喫煙条例が施行されたので、こういう放送をしているのでしょう。従来から海岸でプカプカ煙草を飲む連中には頭に来ていたので、この規制は大賛成ですが、ライフガードの人たちは例年にも増して大忙し。去年は大波で若い学生を溺死させたのですが、今年は海に加えて陸地でも目を光らせなければならなくなりました。

私たちはいつものようにライフガードの人たちがたむろしている監視所のすぐそばに陣取りました。これなら泳げない息子が浮輪で遠くまで行ってもすぐに助けてもらえます。

息子はもうとっくに星条旗の派手なデザインの浮輪に乗って波間にゆらゆら浮かんでいます。私も海に入りました。先日の花火大会のせいでしょうか、海水が濁って少しゴミがういています。(花火大会の後にはトラック何台分もの物凄いゴミが出て、毎年市の職員やボランテイアが総動員で片付けるのですが、大変な重労働だそうです。)

しばらく進むと次第にきれいになって中指くらいの大きさの魚がたくさん気持ちよさそうに泳いでいます。これを佃煮にしたらさぞやおいしいだろう、と思って両手ですくおうとしたのですがそうは簡単に問屋が卸さないのでした。

辺りを見回すと男女のカップルと家族連れが半々くらいでしょうか。みんな思い思いに楽しく遊んでいます。今からざっと700年前の和田の合戦で討ち死にした若武者たちの骨がおよそ5メートルの深さに眠っている砂浜の上では、褐色の肌の筋骨たくましいアフリカ人の青年が若い女性にフランス語で声を掛け、あちらではいかにも色男風のイタリア人が長身のモデル風の日本人女性を英語でくどいていますが、これまたそうは簡単になびいてはくれないのは北条氏の陰謀に斃れた武士達の怨念ゆえであることを、彼らは永久に理解できないでしょう。

私が海水浴に来るのは海で泳ぐためです。太古私の祖先が生まれた海に肌近く接し、海と風の声を聴きながら静かに物思いにふけるためですが、その大いなるさまたげになるのが海の家からの騒音。DJだかあほだらミュージックだか知らないがアルコールをあおりながら傍若無人に踊って叫んで騒音をまき散らして喜んでいる破廉恥漢々はどこか無人の山奥か都会のビルの地下室に直行してほしいものです。

♪佃煮にして食べたき魚泳ぎけり 茫洋

Friday, July 23, 2010

高橋源一郎著「「悪」と戦う」を読んで

照る日曇る日 第359回

どうやら作者にはいわゆる「発達障碍」の子どもが身内に居るようで、その切実な個人的な体験が、偉大な「ドンキホーテ」を想起させるこの気宇壮大な哲学的ファンタジー小説を生みだしたことは間違いないようです。

作者自身を思わせる父親には3歳のランちゃんと1歳半のキイちゃんという2人の男の子がいるのですが、このキイちゃんの言葉の発達が遅れているので父親はとうぜん心配するわけですが、母親はおおように構えている。

しかし不思議なことに、ろくに言葉を発しないキイちゃんの意思を、ランちゃんだけは的確に読み取り、いわば「親をしのぐ介護者」として叡智に満ちた大人のようにふるまうのですが、ある日彼らの前に超絶的な魅力を持った少女が登場するところからこの小説の発熱と激動がはじまります。

じつはこの少女は顔容のみ奇形ですが、他の部位はまるでモデルのように非の打ちどころのない完璧な美形なのです。生まれながらに天から授かったこの悲劇に耐えてきたミアちゃんの母親は、公演の片隅で「わたしは「悪」と戦っているのです」と父親に囁く。ここまでが本作の見事なプロローグです。

ここで彼女がターゲットにしている「悪」とは、障碍という不公平を地上にばらまいた天とその障碍をネタに迫害する世間の双方です。彼女と娘のミアちゃんには彼らがこうむった不当な悪に対して抗議し、反抗し、もしかするとその正当な復讐を要求し実行する権利があるのかもしれません。

しかし彼女は、天と世間への怨嗟や異議申し立てを健気にも押し隠し、正体不明の巨悪にやむを得ず立ち向かわざるを得ない自分の孤立無援の思想を、あたかもチャイコフスキーの6番目の交響曲の最終楽章のように奏しているようです。

物語はさらに進み、作者は世界中のいたるところに、この世界とこの世界に住む人間たちの「悪」を発見します。世界も世界の創造者も、それ自体が善悪を超越した存在であるために、ミアちゃんのような犠牲者は次々に生まれ、世界の住人たちも負けじと数知れぬ犯罪を引き起こし、その悪の連鎖が、またしても無数の悪と敵意と復讐の連鎖を生みだしているのです。

これらの諸悪を必罰懲戒せんとする正義の味方・善玉ボスから強いられて、なぜか悪玉暗殺者になってしまったランちゃんのところには、これまで人類のせいで惨殺されたシロクマやゾウたちまでもが、「千人一殺」(責任者全員ではなく任意の誰かだけを殺害すること)の復讐を要求して詰めかけます。

たった3歳の男の子が、世界を破壊しようとする悪意の持ち主を、みずからの判断で見ぬき、サイレンサーでプシュッと消さなければ、これまで世界中の善意の人たちがかろうじて守ってきた平和と秩序が決定的に破壊されるという極限状態は、どこかカフカの「世界と君との戦では、君はどちらを支援するか?」という名高い設問を想起させます。

いまや悪の象徴と化した最愛のミアちゃんを、わが幼いヒーローは果たして自分の手で消せるのか? それにしても、いったいなにが悪でなにが善なのか? 悪にも正義があるように、善にも不正があるのではないだろうか? ほんとうの幸せはどこにあるのだろうか? 

かつてドストエフスキーが問い、宮沢賢治が問うたこの難問に、今一度われらが高橋源ちゃんも鋭く問いかける。これは古くて新しい普遍的な人倫小説の平成新装版と言えましょう。


世界と私との戦いではおそらく私は息子の側に立つだろう 茫洋

Thursday, July 22, 2010

ギュンター・グラス著・池内紀訳「ブリキの太鼓」を読んで

照る日曇る日 第358回

現代ドイツ文学の最高峰の若書きとしてあまねく人口に膾炙する本作ですが、いったいどこがどう面白いのか理解に苦しみます。

3歳の時に地下室に転落して以来成長を拒否した主人公が故郷ダンツヒを舞台に第2次大戦の戦中戦後をアクロバチックに怪しく生き延びるピカレスクロマンにして20世紀のビルダングス浪漫、なのではありましょうが、それらのやっさもっさが著者の切実な戦争体験に基づく政治的性的ドキュメンツなのだとしたところが、それがいったいどうしたのさ。

それでも新工夫を凝らそうとする著者は、主人公の言動を、「オスカル」と「ぼく」に2分化して描写しようとしているのですが、ではこの3人称と1人称をどのように区分けし、どのように統合しようとしているのかが読めどもてんで分からない。いかにも20代の若造の考えそうなアイデア倒れに過ぎません。

もしかするとヒトラー・ユーゲントに入っていた前歴を2重人格的に複合化(ナチと非ナチの自分)しようと思いついたのかも知れませんが、このように重大な事実を著者が告白したのはようやく06年になってからのことでした。

あまり否定的なこと挙げばかりでは公平を欠くので、無理矢理面白そうなことをとりあげると、この主人公のいちばんの執着は女性のスカートの下の匂いで、祖母のそれからはじめって恋人や看護婦のその部分への異常なこだわりが随所で執拗に描写されているのはそれほど変態的でもなく、人間の本質を外貌ではなく肉体生理に求める文学者らしいフェチ嗜好として微苦笑しつつ読み飛ばすことができます。

そういえば、昔これを原作としたフォルカー・シュレンドルフの映画を見たことを思い出しましたが、オスカルの太鼓連打で教会の窓ガラスが粉砕される光景がことのほか印象的で、あのような武器を欲しいと今でも思わないでもありません。



♪一斉の太鼓連打で宿敵打倒恩敵退散 茫洋

Wednesday, July 21, 2010

グラモフォン盤「シューマン全集」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第152夜

ショパンと並んで今年はロベルト・シューマン(1810-1856)の生誕200年記念に当たるためにこのような大きなコレクションが続々発売されています。

交響曲はガーディナーと革命浪漫交響楽団の演奏ですが、ロマン派を古楽器で演奏するのは邪道につきゼロ評価となりますが、フィッシャア・デイスカウとエッシェンバッハを主力とする歌曲大全集が抜群に面白く、シューベルトと同様やはりロベルトは歌の詩人であることがよく理解されます。シューベルトもシューマンも歌曲においてもっとも重要なな仕事ができたわけで、その他のジャンルの作品は別になくても構わないと放言したら本気で怒るひともいるのでせうね。

時折エディト・マチスの可憐な声も入ってくるのですが、バリトンとソプラノに寄り添うエッシェンバッハのピアノ演奏の見事なこと。全35枚のうちでこの9枚の歌曲集がもっとも聴きごたえがありました。

ともかく1枚258円の廉価版なのであとはおまけのつもりで聴きましたが、室内楽のハーゲンカルテット、私のひいきのボーザールトリオ、クレメル&アルゲリッチも悪かろうはずがありません。ピアノの名曲の多くをポリーニが弾いていますが、牛刀割鶏の嫌いあり。シューマンの含蓄ある音楽をどうしてこのような神経衰弱患者が弾き急ぐのでしょうか。この名人は(ミケランジェリと同じく)音楽に無知なピアノの技術屋にすぎず、ショパンだろうがベートーヴェンだろうがシューマンだろうが同じことで、ただただ物理的な音響の連鎖を切ったり張ったりして粋がっている。

げいじゅつなんて昔も今も河原乞食の芸、サーカスの曲芸、いかがわしい小手先の魔術とおんなじなんだから、それすらわかろうとしないなまじインテリゲンチャンな藝術家がいちばんハタ迷惑なのです。この男はもいちど生まれ直してきてバックハウスやコルトーやサンソン・フランソワやホロビッツ、ポゴレッチ、サイなどのアホなところをたっぷりと外部注入しないと、世の心ある人は聴いてくれんだろう。いまだまされているのは耳無芳一的トウシロウばかりだよ。

音響には強いが音楽とは無縁の世界でボケることさえできずに醜態をさらしているポリーニと比べると明らかにシューマンらしい音を並べていたのが意外にもアシュケナージ。どこのオケを振っても下らない演奏しかできない指揮など一日も早くやめてもっとピアノの録音をいれてほしいと思いました。(これはエッシェンバッハ、バレンボイムも同様)。

シューマンの象徴の森深く分けて入る 茫洋

Tuesday, July 20, 2010

ウナギの大回遊

バガテルop127

謹んで暑中お見舞い申し上げます。

こんなに暑いと自分の脳力ではなんにも考えられないので、本日は以前日経の夕刊コラムで国際高等研究所の尾池和夫さんが東大大気海洋研究所の西田睦所長のお話にもとづいて書かれていた「ニホンウナギの記憶」からほとんどそのまま引用したいと存じます。

四万十川など西南日本の河川には天然ウナギが棲息しています。ウナギの稚魚は冬の川を上ってクロコになり、黄鰻になって数年を過ごし、銀鰻となって川を下るのですが、さてそこからどこへ行って産卵するのでしょう?

この長年の疑問が、やっと06年になって解決しました。ニホンウナギの産卵地がマリアナ諸島の北西約370キロにある北緯14度、東経143度付近の「スルガ海山」であることが、東大海洋研究所の塚本勝巳さんたちによって特定されたのです。ここで生まれたニホンウナギは北赤道海流と黒潮に乗って3000kmの大回遊をして日本にやって来るのです。

ウナギの先祖が地球に登場したのが2000万年前だとすると、その頃の西南日本の地は今よりももっと南にあり、その近くにマリアナ諸島がありました。またちょうどその頃インド大陸とアジアの衝突でヒマラヤが隆起し始め、その隆起した山地から豊かな栄養が大河によって海に運ばれるようになりました。安全な深海で生まれたウナギは近くの栄養のある浅い海に来て、その近くの陸地の川に上って成長したのでした。

地球のプレートは1年に5センチというゆっくりした速度で動いていますが、2000万年あれば1000キロ動くことになります。この結果マリアナ諸島は東へ、西南日本は北へ大きく移動して現在の位置に来たのですが、驚いたことにニホンウナギは、遠い先祖の記憶をたどって大回遊しながら相変わらず産卵を続けているのです。


野に山にノウゼンカズラの花咲けば狂乱の夏いまぞ来にけり 茫洋

Monday, July 19, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第10回

bowyow megalomania theater vol.1

小さな滝から冷たそうな水が次々に流れ落ちて、小さな滝つぼをつくっています。

滝つぼの上にももみじ色をしたもみじがいっぱいたまっていて、ほとんど水が見えないくらいでした。その、もみじの葉っぱを見ていてもぜんぜんこころが静まらないので、僕は石をつかんで滝つぼに投げ入れました。

でも、滝つぼは、ぼちゃんといったまま知らん顔をしています。
僕は頭にきて、ふたつ、みっつと石を投げ入れました。

ふと気がつくと、散歩にやって来た滝沢のおじいさんと秋田犬のシロが、滝の手前のところでじっと僕の方を見ています。変な目つきで見ています。

それで、僕はシロに咬みつかれるとヤバイと思って、いっさんに家の方まで駆けて帰りました。逃げて帰りました。

帰りましたけど気持ちは炭のように真っ暗で、身体のすみずみまでなにか膿のようなタンのようなものでぬりたくられているような気がしました。汚されているように感じました。

僕は、これからどうなっていくんだろう? 自分で自分のことが、分からない。

少し怖くなりました。


♪大股を開いてメール打つガンガン娘は災いなるかな 茫洋

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第10回

bowyow megalomania theater vol.1

小さな滝から冷たそうな水が次々に流れ落ちて、小さな滝つぼをつくっています。

滝つぼの上にももみじ色をしたもみじがいっぱいたまっていて、ほとんど水が見えないくらいでした。その、もみじの葉っぱを見ていてもぜんぜんこころが静まらないので、僕は石をつかんで滝つぼに投げ入れました。

でも、滝つぼは、ぼちゃんといったまま知らん顔をしています。
僕は頭にきて、ふたつ、みっつと石を投げ入れました。

ふと気がつくと、散歩にやって来た滝沢のおじいさんと秋田犬のシロが、滝の手前のところでじっと僕の方を見ています。変な目つきで見ています。

それで、僕はシロに咬みつかれるとヤバイと思って、いっさんに家の方まで駆けて帰りました。逃げて帰りました。

帰りましたけど気持ちは炭のように真っ暗で、身体のすみずみまでなにか膿のようなタンのようなものでぬりたくられているような気がしました。汚されているように感じました。

僕は、これからどうなっていくんだろう? 自分で自分のことが、分からない。

少し怖くなりました。


♪大股を開いてメール打つガンガン娘は災いなるかな 茫洋

Sunday, July 18, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第10回

bowyow megalomania theater vol.1



10月26日 雨

 白いつぶつぶを混ぜた、変な雨が、ざざあ、ざざあ、と降って来ました。

僕は、じんせいがいやになってきました。すべてのことが、いやになってきました。星の子学園が、いやになってきました。

僕は、僕のことも、弟のことも、お父さんのことも、ムクのことも、みんなみんな、いやになってきました。僕なんか、生まれてこなかったほうがよかったんだ、と考えたとたんに、自分で自分が悲しくなってしまいました。

なにもかもいやになってしまったけれど、だからといって特になにかすることを思いつかなかったので、近所の金沢八景へ抜ける切り通しのところへ行きました。


♪しかすがにてふ枕詞思い出したりシガスカオの歌ききて 茫洋

Friday, July 16, 2010

林望訳「謹訳源氏物語三」を読んで

照る日曇る日 第357回

第1巻がこの間出たと思ったら、もう第3巻でちょっと民主党の小沢を思わせる政敵右大臣の愛娘朧月夜の尚侍をまたしてもやってしまった源氏は、そりゃあんまりだ、当然の酬いだという訳で哀れ須磨に流されてしまいますが自業自得身から出た錆びの都落ちをおいおい泣いたり侘びたりするうちにまたしても都合よく明石の君を発見して奥方の紫の上を気にはするものの結局この鄙には稀な美女もおのがものにして玉のような女児をあげるのですがこういういいかげんうんざりするようなワンパターン的色好みすけこまし譚も一種貴種流離譚のようなお伽噺もすべて超インテリオバハン紫式部の空想にすぎず一世一代の色男を自分の都合のいいように手のひらの上でポンポコリンさせて色即是空させているだけのことじゃねえかと思えばなんだか物語の操り人のその怪しい手つきがほのみえてような気がしていささか興ざめにもなるのですがとはいえ平安時代は藤原道長が位人臣を極めこの世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えたご時世にあって藤原氏以外の貴族たちは立身出世の道を断たれて書画骨董文芸淫美女色の脇道に深入りするしか生きるすべがなかった時代ですからいくら道長から寝ようと誘われ自作の第一読者を自任されていたとしても所詮式部は藤原一族のはしくれですらない彼女はアンチ藤原氏一同を代表して彼らの見果てぬ夢である幻想の源氏の御代を描いてその世界初世界最大最高の物語のあちらこちらにおいて道長一派を皇室を危うくする権謀術数家や権力にこびへつらう滑稽な道化師女の性を利用し踏みつけにしてどこまでも私利私欲を追い求めようとする小市民として点描することによってせめてもの気晴らし口散じをすることだけが関の山だったといえばいえるのでしょうが結果的にその小さな嫌がらせないしささやかな政治的報復行為がこの史上空前の大ロマンの多種多様な副主人公たちの光彩陸離たる大活躍につながって物語の細部を異常なまでに充実させあまつさえそこに読者の視線が集中するという思いがけない結果を生んだために恐らくは致命的欠陥になりかねなかった主人公光源氏のあほばかウドの大木的キャラの肥大化および下半身爆弾常時突貫小僧的単細胞肉体性と諸行無常的空虚感の後景化に見事に成功したといえそうです。


♪藤原の摂関政治にあぶれたる貴族が励みしセックスと歌 茫洋

Thursday, July 15, 2010

吉村昭著「歴史小説集成第8巻」を読んで

照る日曇る日 第356回

「ニコライ遭難」「ポーツマスの旗」「白い航跡」の3冊の本を1巻におさめた最終巻をやっとこさっとこ読了しました。

帝政ロシア最後の皇帝ニコライ2世の皇太子時代の大津事件を扱った「ニコライ遭難」は、当時この暗殺未遂事件がいかに日ロ両国の政治外交関係に大きな衝撃を与えたかについて、手に汗握るような臨場感と事実の積み重ね(例えば長崎で入れた両腕の龍の刺青!)で描き、たとえば富岡多恵子の「湖の南」の視点の定まらぬ凡庸な記述などとは比べ物にならない歴史小説の力量を見せつけています。

日露戦争にかろうじて勝利したあと、国民の重すぎる期待を背負ってロシア全権ウイッテと凄まじい外交戦争を繰り広げた「短躯の巨人」小村寿太郎を主人公とする「ポーツマスの旗」では、当時イソップ物語に出てくるカエルのようなでパンク状態にあった日本という国を、未曾有の苦難から救済すべく粉骨砕身の努力を続けた孤独な外交官への熱い共感がいつもながらの冷静な筆致から隠しようもなくふつふつと湧き起ってくるのが格別の魅力です。

 そして1882年(明治15年)からの4年間に食物を改善して日本海軍の脚気を根絶し、後年のビタミンB欠乏原因説のさきがけの道を切り開いた医学者高木兼寛の孤軍奮闘の生涯を描き尽くした「白い航跡」では、幕末の薩摩でウイルスに医学を学んだあと、英国に留学して経験主義を大事にする現実的な臨床医学のノウハウを身に付けた高木兼寛と、理論主導医学の本場ドイツに留学してコッホ譲りの脚気細菌説を死ぬまで唱え続けた鴎外森林太郎の科学者としての生き方が、するどく対置されて見事です。

いかに文学者として偉大な業績を遺したにせよ、石黒陸軍軍医総監と結託して(結果的に)誤った非科学的な学説に依拠し、日清日ロの大戦で数多くの脚気死亡者を出した責任は、この謹厳実直かつ頑迷牢固な医学者に帰せられるべきでしょう。

 
文学の巨星なれど医学の巨悪人間森林太郎をいかに位置づけるべき 茫洋

Wednesday, July 14, 2010

川本三郎著「いまも、君を想う」を読んで

照る日曇る日 第355回


57歳で逝った妻を悼む鎮魂の書です。

著者の7歳年下の川本恵子さんは服飾評論家として知られていましたが、突然食道がんを患い、大手術の甲斐もなく次第に弱ってしまいとうとうラーメンを食べることすらできなくなります。

「再々入院の日 帰って来れるかなという妻を抱く」(p143)

文芸・映画評論の売れっ子の著者は、ほとんどの仕事を断って、病院と自宅を行き来しながら3年間にわたって最愛の妻を看護するのですが、万策尽き果て2008年の梅雨の日に、お茶の水の順天堂医大で早すぎる死を迎えることになってしまうのです。

思いもかけない災厄に動揺しながらも、著者は本書の中で、美しく、怜悧で、快活で、いつも自分を励ましてくれた生涯唯一無二の伴侶との30余年の思い出を、淡々と書き連ねていくのですが、その日々の思い出が楽しく、その筆致が冷静であればあるほど、著者の悲しみと痛手の大きさと重さがうかがい知られ、読者の心を鋭くえぐるのです。

著者の不遇の時に「真昼の決闘」の新妻グレイス・ケリーのように夫を助けてくれた妻、「匿名で人の悪口を書くなんて丸腰の相手を撃つのと同じことよ」と非難した妻。(その結果、著者は気に入った映画のことしか書かなくなる。私とは大違いだと反省反省)

そんな妻の意を汲んで、著者は「静かな葬儀」を行うことを決意します。一日にひとつだけの葬儀を行う小さな斎場を選び、通夜の酒を出さず、香典と弔電の披露を辞退し、2人の親しい先輩と友人の弔辞とお経と焼香だけの簡素な葬式を、実行したそうですが、私たちはそこにも著者の亡き人への大いなる愛を実感することができるでしょう。

この感動的な思い出の記を読んで、私などには及びもつかない故人への献身と真心に打たれましたが、できれば愛する人よりも先に姿を消したいとも思ったことでした。


なにゆえによきひとさきにゆくならむむらさきいろのあじさいさくひに 茫洋

Tuesday, July 13, 2010

ミヒャエル・ハンペ演出で「ウリッセの帰還」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第150夜

前夜に引き続いてモンテヴェルディの歌劇を鑑賞しました。これは1985年夏のザルツブルグ音楽祭でのライブを収録したもので、演出は正統派のミヒャエル・ハンペ、そしてジェフリー・テイト指揮のオーストリア放送管弦楽団が手堅い伴奏を務めています。

「ポッペアの戴冠」がローマ時代の史実を脚色したのに対し、このオペラの原作はギリシア神話のホメロスの「オデュッセイア」で、10年におよぶトロイア戦争のあと海の神ポセイドンの悪意で妨害されたオデュッセウス(英語ではユリシーズ、イタリア語ではウリッセ)が、様々な苦難の果てに、女神ミネルヴァとゼウス(ユピテル、ジュピター、ジョーヴェ)の助けによって故郷イタカに帰還し、王妃ペネロペに言いよる求婚者どもを巨大な弓矢で射殺して晴れて再会のよろこびに浸るところで大団円となるのです。

モンテヴェルディの音楽は、「時」「運命」「愛」の3つの神が拮抗するあわいに、一枚の木の葉のようにもてあそばれる人間のはかなさ、そしてつかのまの喜びを、切々と美しく、またあるときは激しく、一瞬の弛緩もなくいきいきと表現していきます。

とりわけ帰還した謎の男が、ウリッセ本人であることをとうとう認めたペネロペが、長らく身にまとった黒衣を脱ぎ捨て白い肌着姿になってひしと夫と抱き合うラストシーンではテイトの棒は白熱の光を帯び、ORFのオケは凄まじい歓喜の調べを奏でるのです。

むやみに広いザルツブルグの大劇場の巨大空間を宇宙を象徴する黄金の円球でかこって天地海を自在に切り分けたミヒャエル・ハンペの演出も光っていました。


お位牌のチンは横からそっと打つのよと母がいう 茫洋

Monday, July 12, 2010

ポネル演出で「ポッペアの戴冠」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第149夜


1979年に天才的演出家のジャン・ピエール・ポネルがアーノンクールと組んでチューリヒで行ったモンテヴェルディの素晴らしい蘇演ビデオです。

モンテヴェルディは1567年に生まれて1643年に死んだイタリア・バロック初期のオペラ作曲家ですが、後年のオペラ音楽の原型はすべて彼の3つの作品(1607年の最初の作品「オルフェオ」、1641年の「ウリッセの帰郷」、翌42年の「ポッペアの戴冠」)の内部に含まれているといっても過言ではないでしょう。

17世紀のモンテヴェルディに発した西洋オペラ史はいっきに18世紀のモーツアルトに飛んでその最高の達成を刻んだあと、20世紀のワーグナーの楽劇の宇宙で大爆発を遂げるのです。

さて彼の遺作となったこの「ポッペアの戴冠」では、主題からして衝撃的で、勧善徴悪ならぬ「勧悪徴善」を謳歌するという反社会的な内容になっていて、これは当時の世間の常識はもとよりキリスト教会の教えとも完全に逆行していました。

ローマの危ない皇帝ネロが、恩師の哲学者セネカの反対を無視し、自死すら命じて従順な后妃オッターヴィアを追放し、野心的で官能的な誘い女ポッペアに戴冠するという物語はいま接してみても保守的な精神を動揺させる違和があり、そこにこのオペラの現代性と普遍性があると思います。

第2幕のセネカの粛然たる自死の直後に、その同じ場所で繰り広げられる若者たちの生と恋の讃歌、そして第3幕のポッペアの戴冠式をことほぐ合唱における聖歌隊の哄笑などには、この不世出の演出家の真価が遺憾なく発揮されており、随所で展開される歌手と楽員たちの演劇的な戯れ、「愛の神」に翼を持った少年の起用などはその後のオペラの演出に大きな影響を与えました。

アーノンクールとチューリヒ歌劇場モンテヴェルディ・アンサンブルの劇伴も、ポネルの指示に忠実に従っており、その後夜郎自大に成り上がってウイーンやロイヤルコンセルトヘボウの大オーケストラを振って内容空疎な音楽を奏でるようになった指揮者とは、とても同一人物とは思えない好ましい演奏振り。たかがビデオといえど、オペラの快楽ここに極まれり!

1970年代の半ばにチューリヒ歌劇場の総監督を務めたクラウス・ヘルムート・ドレーゼとポネルとアーノンクールの黄金トリオが奏でたモンテヴェルディ・チクルスのような革命的なオペラ公演があれば、世界の果てまで飛んで行って見物するのですが……。


♪ポネル死してオペラまた死したりその雲居の残響に耳を澄ます 茫洋

ショルティ指揮ロンドン響で「青ひげ公の城」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第148夜

懐かしやハンガリーの歌姫シルビア・シャーシュによるバルトークの傑作オペラです。

しかも作曲者も、指揮者も、青ひげ公役のコロシュ・コヴァーチエも、もちろんシャーシュもハンガリー人という完全なお国もののラインアップ。そこまでやるならどうしてハンガリーのオーケストラでやらないのかと思うのですが、そこはやはり老練ロンドン・フィルのバックアップあってこそのこの演奏でせう。

ニヒルでクールで残酷な青ひげ公のどこが女心をそそるのか、私にはてんで理解できませんが、そんな怪しい男にシャーシュ扮する美しくうら若い乙女は一方的にいれあげます。古今東西好きになるというのは本人にもどうしようもない病気ですから、不治の恋愛病に冒された重病患者は、両親も兄弟も、婚約者さら投げ捨てて、くだんの青ひげ男の前に身を投げるのです。なんとも管とも、あほなやっちゃ。

ところで、ひとつ、ふたつ、またひとつと青ひげ公の秘密の部屋をひらいていく趣向は、ヨハネ黙示録の世界の終りに封印が開示される状況にちょっと似ているところがあります。

ご存知のように新訳聖書では、第4の封印が開かれるとロープシンの「蒼ざめた馬」が、第5の封印では殺されし者たちの霊魂が叫び、第6の封印では地震が起こり月が真っ赤になりますが、最後の「第7の封印を解けば、およそはんときのあいだ天静かなりき。われ神の前に立てる7人の御使いを見たり」という光景が展開するのですが、この扉を開いてさあ今度はどんな怖いものが出てくるのだろう。はらはら、どきどき、という感じを、バルトークの音楽はとても上手に出していると思うのです。

それにしても「第2のカラス」などと呼ばれてひところちやほやされていたシャーシュ嬢、いったいどこへ消えてしまったのでしょうか。


♪クロシジミ一羽舞ひたり中野坂上プラットホーム 茫洋

Saturday, July 10, 2010

川西政明著「新・日本文壇史第2巻」を読んで

照る日曇る日 第354回


シリーズ第2作目では若山牧水、広津和郎、島木赤彦、斎藤茂吉、志賀直哉、里見弴、宇野浩二、有島武雄など「大正の作家たち」が次々に俎上に載せられ、彼らの女性関係が赤裸々に描かれます。

園田小枝子と別れ、太田喜志子を得てようやく歌人としての基盤を確立した若山牧水。

下宿の娘神山婦くとの腐れ縁につながれながら、婦くの妹を孕ませ、有楽町のカフェの女給栗林茂登を「第二の妻」とし、カフェライオンの松沢はま、新橋の待ち合の女将白石都里、インテリ女秋月伊里子と関係しつつ、長く文学活動を持続した広津和郎。

前妻うた、御妻ふじとの間に三男三女を産ませながら、年下の後輩静子との愛欲に溺れた島木赤彦。

気性の合わない妻てる子との満たされない思いを、若い美貌の歌人永井ふさ子との恋に激しく燃焼させた斎藤茂吉。

女中千代との肉交をきっかけに女遊びに走り、吉原の女郎峯との情交にうつつを抜かした志賀直哉。

その直哉と同様、自家の女中八重を妊娠・堕胎させた後に、志賀直哉から女郎買いを教えられ、吉原の君代との房事過多の日々を経て、芸妓山中まさと結ばれた後も、赤坂の芸妓菊龍との情交を続けた里見弴。

インテリの家庭に生まれながら蛎殻町の銘酒屋で娼妓をしていたヒステリー女伊沢きみ子との悲惨な「苦の世界」を描くことによって文壇に躍り出たが、置屋に叩き売った彼女を自死させ、その後芸妓村田キヌと結婚しつつも、上諏訪の芸妓原とみや星野玉子、村上八重との関係を続けて、ついには発狂した「小説の鬼」宇野浩二。

そして「妻波多野秋子を譲るから1万円出せ」との忌まわしい夫の強迫を断固拒否して純愛を貫き、大正一二年六月九日午前二時過ぎ軽井沢で縊死心中して果てた有島武雄まで、作家はすべて女性によってつくられたのです。

著者は「作家を作った女たち」という視点から、作家たちの、とても褒められたものではない無様な生き方を、舌なめずりするように精査し、そのレポート自体を彼らの作品論としています。

そもそも日本の私小説は、明治四四年東京朝日新聞に連載された徳田秋声の「黴」をもってその濫觴とし、大正九、一〇年頃には私小説という言葉が定着したそうですが、著者はそうした私小説作家の私生活を縁の下の「妹の力」として支えた女性たちにまばゆいばかりのスポットライトを浴びせながら、「日本文壇史」とはとりもなおさず「日本文壇女性関係史」であることを雄弁に物語っているようです。


はじめに女ありき そこから始まった日本私小説 茫洋

Friday, July 09, 2010

マノエル・デ・オリヴェイラ監督「ブロンド少女は過激に美しく」を鑑賞して

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.32


当年とって御歳101歳!というおそらく世界最長老のポルトガルの現役映画監督の「100歳の時の作品!」を試写会で鑑賞しました。

まず前座にオリヴェイラ監督が好きなJRゴダールの1958年の短編「シャルロットとジュール」が上映されました。これは当時のゴダールの狭いアパルトマンでほとんど即興的に撮影されたそうですが、題名役のシャルロットにはアンヌ・コレット(超キュート!)、その元恋人のジュールにはジャン・ポール・ベルモンドが出演しています。

1本のハブラシを持っていくためにだけ立ち寄ったシャルロットに対して、ベルモンドがよりを戻そうと懸命にしゃべりまくる。その漫才のような機関銃トークだけで14分を持たせます。なんでも編集の際にベルモンドが兵役でいなかったためにゴダール自身が吹き替えたそうですが、じつに達者なものです。

ちなみにフランスでは大概の外国映画をフランス語に吹き替えているので、ゴダールやトリュフォーたちはずっと反対してきたとはいえ、そのような翻訳カルチャーが妙なところで活かされたとも言えそうです。

さて本編は、リスボンを舞台にした謎の少女に恋した男の物語。叔父に雇われて衣料品店の2階で会計士として働く主人公は夕べを告げる鐘の音と共に通りを隔てた向かいの窓辺にたたずむブロンドの美しい娘に惹かれるようになるのですが、そんな恋する2人の古くて新しい感情を、オリヴェイラは現代では珍しくなった詩的で古典的な手法でじっくりと描いていきます。

男はブロンド娘と結婚しようとして叔父の許可を求めたのですが、意外にも強く反対され、順調だった仕事を辞めざるを得なくなります。頑迷な叔父は最終的には甥の結婚を許すのですが、最初の反対の理由も、最後の承認の理由も、物語が終わっても明らかにされず、このような「人間存在の了解不可能なくらがりを暗示すること」がこの作品のテーマのように思われます。

職場から追放された我らが主人公は、ご他聞に洩れず様々な苦難を経るのですが、2度にわたる遠隔地での一攫千金に成功してついに当地での社会的地位を確立します。そしてあこがれのブロンド娘はもとより彼女の母親、難攻不落だった叔父のゆるしも得て、順風満帆晴れて結婚にこぎつけたと思ったちょうどそのとき、結婚指輪を買いに行った2人に思いがけない事件が突発し、物語は突如謎のヴェールを下ろすのです。

そして「人間ていう奴は分からんよ、とりわけあんたの隣に居るブロンドの若い女はね……」という100歳翁のつぶやきが、暮れなずむリスボンの茜色の空から聞こえてくるようです。(9月、日比谷TOHOシネマズ シャンテにて公開)


♪ブロンドの謎の少女も叔父上もおのれもすべてうつせみにして 茫洋

Thursday, July 08, 2010

五味文彦編・現代語訳「吾妻鏡8承久の乱」を読んで

照る日曇る日 第353回

鶴岡八幡宮の大銀杏の陰から躍り出た公暁の兇刃にかかって三代将軍実朝が暗殺されたのは建保7(1219)年1月27日の雪降る朝のことでした。

甥の公暁がなぜ叔父を殺そうとしたのか昔から様々な説が乱れ飛んでいますが、実朝の兄頼家の謀殺と同様、やはり背後の巨魁である2代目執権北条義時の仕業でありましょう。
初代執権北条時政を退けつつも大枠では彼の源氏撲滅・北条独裁の野望を受け継いだ時頼は、姉政子の協働を得て、このいまわしい惨劇を実行したのです。

そのきっかけになったのは建保5年1217年6月20日の公暁の鎌倉到着です。どういう風の吹きまわしか仏道修行のために園城寺にいた公暁を政子がわざわざ京から呼び寄せ、当時欠員となっていた鶴岡別当に任じたのですが、これがどうもあやしい。弟の義時が姉のこのおためごかしの行動に関与していなかったはずはありません。 

「吾妻鏡」の建保6年12月5日の条によれば、「公暁がなにやら一心不乱に祈願にふけってまったく髪を切ることもない」と書かれていますが、暗殺決行までおよそ2カ月の時点で、彼は北条一族の手の者によって、父の敵実朝の仇を討てと、完全に洗脳されていたのでしょう。

そして実朝が後鳥羽上皇から頂戴した右大臣の地位を拝賀する運命の朝、黒幕の北条義時は「急に心神が乱れ」、御剣役を仲章阿臣に譲って自分は小町の邸宅に引き返しています。これぞ事件の真犯人の動かぬ証拠というものでしょう。

実朝はこの日自分が暗殺されることを予知しており、形見の鬢の毛を公氏に与えたとか、不思議な鳩が鳴いたとか、菅原道真の逸事にちなんで

出でていなば主なき宿と成りぬとも軒端の梅よ春をわするな

という「禁忌の和歌」を詠んだ、などと「吾妻鏡」は嘘八百を並べたてますが、こんな稚拙な歌をあの文学的天才が作る訳がありません。そうではありませんか皆さん?!(←政治センス皆無の某国首相のモノマネ)

さて「承久の乱」では尼将軍と言われて希代の名スピーチで実家の北条政権の勝利をアジりまくった実朝の母、政子ですが、頼朝、頼家、実朝と三大続いた源氏政権については、代が下るにつれてそうとうクールな態度をとってはばかることがなかったように思われます。そんな政子を含めて私は北条一族が大嫌いなのです。


ライバルの御家人どもをなぎ倒し最後は自滅のああ伊豆豪族 茫洋

Wednesday, July 07, 2010

リッツィ指揮レーンホフ演出で「西部の娘」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第147夜

これまでカルロ・リッツィという人はあまり聴いたことがなかったのですが、なかなかオペラには適した指揮でネーデルランドの管弦楽団を鮮やかにドライヴしています。

幕ごとに乗りが良くなってくるこの見事な伴奏を下敷きにして、悪玉保安官のルチオ・カルロ、強盗犯の悪人だけれども善玉に回心したソラン・トドロビッチ、そして今夜のヒロイン、ミニーを立派に演じ切ったエファ・マリア・ウエストブルックがプッチーニの次第に無調に傾きかけた美しい旋律を見事に歌いきるのです。

脚本はどうみてもでたらめで、いくら西部の荒くれ男たちが酒場のアイドルミニーちゃんにどれほどお世話になっていたにしても、クライマックスでどうして強盗犯のヒーローが死刑にならずにすむのか理解に苦しむところですが、こういう理不尽な箇所を理不尽と感じさせないために俊才ニコラウス・レーンホフが用意したのは、第3幕の大詰めで登場したミニーの背後に、なんとメトロゴールドウイン・メイヤー映画のあの有名なビギニング・タイトルを映写する!というユニークなアイデアでした。

私も大好きなあのライオンが「ぐおう、ぐおう」と咆哮すれば、満員の観衆もどどっと笑いこけながらそれ以降に展開される愛の救済劇に納得するという趣向です。つまりここでレーンホフはこのご都合主義のリブレットを半分漫画にしながらも、恋人の危機一髪を救うために登場した西部の女を、超法規的に正当化し、もろともにエンジョイしようと提案している。じつにユーモアとウイットに富む賢い演出家と申せましょう。

私はこれまで「西部の娘」はプッチーニの3流オペラだと思い込んでいたのですが、こういう優れた演出と演奏で聴くと、それがとんでもない誤解であったことにはじめて気付かされました。


横顔が母に似ているなと思いながら息子の顔を見ている私の顔 茫洋

Tuesday, July 06, 2010

三菱一号館で「マネとモダンパリ展」を見物しながら

茫洋物見遊山記第34回&勝手に建築観光39回

最近買ったばかりのパナソニックのブルーレイレコーダーの電源が勝手に入ったり、やくざと一体化した相撲界がてんやわんやの大騒動になったり、せっかく小沢と鳩山がおん出てくれた政党でなにを勘違いしたのか消費税を10%上げると口走ってまたまた支持率大幅ダウンを勝ち取ったあほばか首相が出てきたり、ともかくいろんな事件が毎日のように起こるのでついつい見そびれていたマネ展をようやく瞥見することができました。

 さて印象派もいろいろありますが、私がこれは印象派だなあと思うのは美術流派としてはポスト印象派に勘定されているセザンヌやらゴーギャンやらゴッホなどであって、モネを例外とすれば、今回のマネもドガもあんまりインプレッションは感じない。むしろ写実の中にある種のインプレッションを求めようと模索したのではないでしょうか。


私はむかしポール・ヴァレリーの「ドガ、ダンス、デッサン」という美術論を読んで、この博学の思想家の絵画を見る目の鋭さに驚きましたが、今回のマネについても「マネは黒だ。黒だ。要するに黒だ」という彼の名言に尽きると痛感しました。マネ独創の黒の中には無数の明度、彩度そして色相さえもが入っていて、それが彼の絵にじつに豊かな感興をもたらしているのです。

例えば有名な「死せる闘牛士」を見よ。牛に刺されて地面に横たわっているトレアドールはあまり死んでいるようには思えませんが、それでも彼が死んでいると分かるのは赤い血と黒い格闘着の漆黒の黒の死の色があまりにも生き生きとして美しいからであって、彼の顔容に死の気配が漂っているからではありません。(つまり私は、マネは死体としての表現は下手くそだけど、ただ黒の素晴らしい彩色で助かっていると主張している)。

次にはあの有名なバルト・モリゾの肖像画の連作を見よ。この愛すべき人物画の主役を務めているのはじつはモリゾというモデルではなくて、黒という色彩の鮮やかな存在そのものであることに見る人は気づくでしょう。
黒、黒、黒! そこがモネの生命線なので、じっさい彼が黒を基調としない人物画や風景画にこれといったものはないといっても過言ではありません。(つまり私は、モネに幽玄の黒なかりせば2流、3流の作家であると主張している。)

ついでに今回初めて訪れた三菱1号館は(もともとがオフィスであったために)いくつもの小さな部屋から成り立っていますから、この狭隘な空間を美術館として使うことは(観客がうんと少なければ別ですが)、視野狭窄、空間重層、移行不自由、美術品安全管理の上で数多くの難点をもたらしています。開館を続行するのはトラブルの元でしょう。ここを美術館として商売に使おうなどというけちな考えは即刻やめてほしいものです。
(つまり私は、こんな場所では絵をじっくり鑑賞することなど断じてできない。同じデベロッパーの森ビルが運営する六本木ヒルズの美術館と並んで都下最悪の美術館ではないかと主張している。)

それにしても巨大デベロパーの考えることはよくわかりません。1894年ジョサイア・コンドルの設計で丸の内最初のビジネスビルジングとして誕生した三菱1号館を2009年になって再建するほどの価値があるなら、三菱地所はどうして1968年にいとも簡単にぶっこわしたのでしょうか?

丸ビルだって新丸ビルだって、どうしてあんな立派な文化資産をいそいそと破壊して、超くだらない超高層ビルに建て替えたのでしょうか?
ああそうだ。いっそそれらも全部ぶっこわしてこの際明治時代の「一丁倫敦」を完璧に再現してみてはどうでしょう。ご当地の英国を含めて世界中から観光客がやって来て、泉下の岩崎弥太郎もごっつう喜ぶのではないでしょうか。


嘘臭い平成超高層うちくだき即一丁倫敦に戻すべし 茫洋

Monday, July 05, 2010

ポネル演出でモザール「ポントとの王ミトリダテス」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第147夜

オペラの演出家で私が一等好きなのはジャン-ピエール・ポネルです。彼はモーツアルトの超若書きのこのK84の「オペラの試み」といってよい作品においても正統的な環境整備と劇的な表現を巧みに組み合わせて現代人の鑑賞に堪えるリアリザシオンを繰り広げています。

ローマと戦って戦死した、と聞いたポントの王ミトリダテスの2人の息子が戦場から飛んで帰って王妃に求愛し、王妃が長男とよろしくやっている最中に、ミトリダテスが「どっこい俺は死んじゃいないぜ」と帰国するところからこのオペラは始まります。

ラシーヌの原作からアイデアを得たトリノの田舎者サンティによる脚本はきわめてお粗末なものですが、天才の作曲の筆がそのイージーゴーイングさをどこか遠いところへうっちゃって、義務と愛との相克に引き裂かれた男女の苦悩を深々とえぐり出すにいたるさまはじつに聴きごたえがあります。

出演者で特筆すべきは、王妃に扮したイヴォンヌ・ケニーの役柄にぴったりはまった超絶的な美しさ。ほんとうの愛を求めるろうたけた年上の女の肉体とこころを、実際に歌いながら涙するなどの迫真の演技で3人の男どもを完全に征服します。

この美貌のヒロインには、右頬のほくろがあるのですが、ポネルはこれを情愛のシーンでは皮膚の色と一体化してぬりつぶし、死に瀕する悲劇的な場面では、黒の衣装とコーディネートさせて黒く塗るなど、ほとんど観衆が見逃してしまうような細部にも心理の綾を起伏させているのです。

劇伴はアーノンクールが指揮するウイーン・コンツエルトゥス・ムジクス。チューリッヒのオペラハウスではじめてポネルと組んだコンビが見事な演奏を繰り広げています。後年思惑通りにクラシック界の永ちゃんのように成り上がって、ウインフィルやコンセルトヘボウなどを偉そうに振るようになったアーノンクールですが、私見ではこの頃が一番優れた音楽をやっていました。


現金をゴミ箱の中に捨てていた不思議の国に生きている息子 茫洋

金捨てる息子の生きる不可思議な世界を知りてまた驚きぬ

Sunday, July 04, 2010

カール・ベーム指揮バイエルン放響で「後宮からの誘拐」を視聴する

♪音楽千夜一夜 第146夜

1980年4月にミュンヘン国立歌劇場でライブ収録されたLDの映像です。ベーム翁はこのあと思い出のウイーンでフィガロを振ったあと翌81年8月14日にザルツブルクで無くなりましたから、これは最期から2番目の白鳥の歌ということになります。

恐らくこの日の演奏は、若き日の思い出の地に決別するためのものであることを、老鶴のように病み衰えた指揮者も、マエストロをこよなく愛する観衆も暗黙のうちに了解しているためでしょう、例によってゆっくりとしたテンポで始められた序曲の1小節1小節が万感の想いで彩られているように聴こえてきます。ベーム翁はこの青春の都を、最愛のモールアルトの音楽を、彼が歩んできた波乱の生涯を懐かしく振り返るようにしながらこのオペラの幕を開くのです。

出演はセリムパシャにトーマス・ホルツマン、ベルモンテにフランシスコ・アライサ、オスミンにマルッテイ・タルベラ、ブロンデにレリ・グリストですが、いずれも破綻なく、わかてもヒロインのコンスタンツエを演じる芳紀20数歳のエディタ・グルベローバが、栴檀の若葉のように初々しく美しく、その歌唱が素敵なことは筆舌につくしがたいものがあります。

第2幕の有名なアリア「あらゆる拷問が」では、興奮した聴衆の呼び出しに応じて登場した彼女がうやうやしく答礼するという、トスカニーニなら絶対に許さなかったであろうシーンもちょっとした見ものでした。

演出は安心して見物することができる正統派のアウグスト・エファーディング。トルコ風呂に入った偉丈夫のタルベラが吹き出す蒸気にむせかえる一幕もありましたが、照明や美術、オスマントルコの異国情緒豊かな衣装やインテリアも含めてこのモーツアルトの出世作の素晴らしい音楽をくっきりと引きたてていました。

そしてなによりのご馳走は、もちろんベーム翁の音符の隅々にまで歌心が充満した円熟の指揮振り。どんな軽いパッセージにもモーツアルトの音楽を生きる喜びが満ち溢れていました。モーツアルトのこのオペラの決定盤的な演奏であり、マエストロの遺作にふさわしいまことに立派な演奏といえましょう。


私と障碍のある長男を並べて髪切る小林理髪店 茫洋

Saturday, July 03, 2010

「デスパレートな妻たち」第5集第13夜を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.31

現在NHKで放映されているお馴染みの海外ドラマ番組です。原題:DESPERATE HOUSEWIVES、制作:チェリー・プロダクションズ/ABCスタジオ(2008年 アメリカ)ですが、面倒くさいので以下番組HPから引用します。
郊外に住む主婦たちの日常に隠されたさまざまな本音や苦悩を、ミステリーとサスペンスをからめ、コミカルかつスタイリッシュに描いたアメリカの人気ドラマシリーズ第5弾!5年の歳月が過ぎてもウィステリア通りには騒動や謎がイッパイ! 
運命の愛を成就させたはずのスーザンに新たな恋人!? リネットの双子の息子たちは思春期に突入し、ガブリエルはすっかり地味なママに! ブリーは全米のカリスマ主婦への道を歩み始め、一人暮らしのキャサリンはさみしさを埋めるために…。そしてあのイーディも戻ってきた。もちろんただでは終わらない!!

その第13夜「ほほ笑みがえし」(原題The Best Thing That Ever Could Have Happened)には思わず泣いてしまいました。またまたHPを引用すると、

ウィステリア通りで便利屋をしていたイーライが亡くなり、ここに住む女性たちはこれまでどれほど彼に救われてきたかを思い出すのです。初め郊外の生活になじめなかったガブリエル。出産後、職場復帰を焦りとんでもないことをしてしまったリネット。2度も離婚したスーザン。前夫と破局したイーディ。そして、一度は料理本を書くことをあきらめざるをえなかったブリー。彼女たちがつらい時、いつもイーライがそばにいてくれた……。

というお涙頂戴の話なのですが、これがじつによく練られた台本(マーク・チュリー、ボブ・テイリー他)で、さすが本場アメリカらしい素晴らしい出来栄えでした。
しかもイーライ役を演じるのがゲスト出演のボー・ブリッジス。「ホテル・ニューハンプシャー」「恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」をしのばせる渋い名演で梅雨空をさらにウエットに湿らせてくれたのでした。


父死にて泣けぬ我かと案じしがとどまることなく涙流れたり 茫洋

Friday, July 02, 2010

米映画「天はすべて許し給う」を視聴する

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.30

原題のAll That Heaven Allows(邦題「天はすべて許し給う」という言い方がAll ThatJazzとか私の造語であるAll That Fashionに似ていて恰好が良いのでついつい視聴してしまいました。1955年製作のアメリカ映画です。

ロック・ハドソン扮する若者と母親くらいの年齢のジェーン・ワイマンのラブストーリーを見ました。夫に死に別れて大学生の息子と高校生の娘を持つワイマンはあんまり美人とはいえないけれど、どこか田中絹代を思わせるろうたけた風情とかわいらしさもあって悪くありません。

内心から湧き出る恋情もだしがたくとうとう若いハドソンと結ばれてしまいますが、いざ結婚となると世間体と子供が気になってなかなか踏み切れずとうとう身を引く決心をするのですが、せっかく大きな犠牲を払ったというのに子供たちは自分勝手な道に走ってしまう。取り残された女はやはり愛する人の元へといっさんに駆けつけるというめでたしめでたしの結末です。

ジェーン・ワイマンはそれなりに苦悩に引き裂かれた年上の女性の表情を懸命に演技しようとしているのですが一方のロック・ハドソンは相変わらずの大根役者振りをあからさまにしていて、ダグラス・サーク監督は彼にあんまり演技をさせまいと懸命なのですがどうしようもないというところが見どころのかつてはよくあった典型的なB級ハリウッド映画です。

男と女の恋が次第に燃え盛ろうとすると必ずブラームスのハ短調交響曲の第4楽章のコーダが遠く近くで鳴り響いて、文字通りクラシカルに恋の予感という奴をまきちらしているのが耳に残りました。

亡き父の鞄の底に眠りしは肩書のない一枚の名刺 茫洋

Thursday, July 01, 2010

林望訳「謹訳源氏物語二」を読んで

照る日曇る日 第352回

なかなかに味わい深かった第一巻に続いて、本巻では末摘花、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里の各編をすいすい読ませる快適な現代日本語にほんやくしおおせ、凡百の源氏研究家との違いを見せつけました。

とかく源氏は難物で、真面目な学者先生のみならず流行作家や文学者のはしくれが手がけた場合でも、読んでちっとも面白くないことが多いのですが、りんぼう先生のはまずは合格点を差しあげられます。とりわけ物語・小説の面白さを第一義にして、重箱の隅をつつくような煩瑣すぎる語義解釈に傾かず、平安時代物の格調にさほどこだわらず、適当にポップで遊び心を取り入れているところが特によろしいのではないでしょうか。

それらの美点は、あほばか下半身突貫男がどうしようもなく藤壺に惹かれて執拗に迫るところや、六条御息所の怨霊が本人の意思を超越して葵上の肉をとり殺すシーンなどに生々しく活かされています。

それにしても紫式部という女性は恐ろしい作家です。片方では源氏の放恣な性的欲望とその全面的な勝利を描きながら、後半部ではその矛盾と崩壊を徹底的にえぐりだし、愚かにも哀れな男のさがを、さながら掌中に蠢く虫けらのように描破するのですが、そのありさまはちょいとモーツアルトのダポンテ・オペラの「ドンジョバンニ」に似ているのではないでしょうか。

たとえば六条御息所はドンナ・エルヴィラ、藤壺や紫上や朧月夜の君はドンナ・アンナタイプ、末摘花は歳をくったツエルリーナといったところ。そしてレポレロが揶揄したように「スカート(肌襦袢)をつけている女なら誰でもモノにした」この希代の好き者は、結局己の妻を寝とられて苦悶しながら地獄の業火に身を焼かれる。自業自得とはこのことでしょう。

「光り輝く君」などともてはやしておきながら、それらは表層のキンキラキンのお飾りに過ぎず、とどのつまりは「高転びに、あおのけに」地獄に蹴落とされる。源氏とは、「所詮男はこうしたものよ」という紫式部の冷笑が、全編にわたってあちこちから聞こえてくるような男子禁断の書かもしれませんね。


フィールドに一度も立てずアフリカの歌をうたいし選手のこころ 茫洋