Wednesday, October 31, 2007

安藤忠雄の「歴史回廊」提言に寄せて

勝手に建築観光26回


最近ベネチア大運河入り口の旧税関跡美術ギャラリーの国際コンペに勝利して意気上がる安藤忠雄だが、この時流に敏感で商機に抜け目のない機敏な建築家が、東京に「歴史の回廊」を作ろうと提唱している。

「回廊」という言葉で誰もがすぐに想起するのは、最近亡くなった黒川紀章の未完の代表作である中国河南省都鄭州市の都市計画で、このコンセプトが「生態回廊」であることはつとに有名である。

これは北京から南西600kmの黄河流域にある人口150万人の古都に山手線内側の倍以上の広さの新都心を2020年までに造ろうという壮大な計画で、まず800hの人口湖「龍湖」を作って都心と結び、緑と水の生態回廊に基づいて各地域間に河川を巡らせ、超低層住宅群、水上交通、岸辺公園を随所にちりばめ、自然と暮らしの共生をめざそうとするものであるが、どうやら安藤の「歴史回廊」は、この黒川案の向こうを張ったとみえなくもない。

それはともかく、安藤は明治の代表的な建築物をつなぐプロムナードを東京駅周辺に作って、国際的にも世界の奇跡とされているこの黄金の時代の記憶を永久に後世に伝えようと、けなげにも提言しているのである。 

具体的には1931年吉田鉄郎設計の東京中央郵便局を破壊から守り、このたび晴れて復元&再建されることになった1914年辰野葛西建築事務所設計の東京駅と1894年ジョサイア・コンドル設計の三菱1号館を、1911年妻木頼黄建築の日本橋までつなげ、日本橋はソウル清渓川にならって高架道路を撤去しようとするそれなりに真っ当なプランであるが、このような“もっともらしい正論”をいまさらながらに提案するのなら、私はこの偉大なる建築家の驥尾に付して、ことのついでに丸ビルと新丸ビル、おまけに有楽町の旧都庁ビルと三信ビルの完全復活再生復元を提案したい。

近年三菱地所がおったてた「醜い巨大ガジェット」である丸ビルと新丸ビル、それに有楽町の「超モダンおばけ廃墟」東京国際フォーラムは、ダイナマイトでこっぱみじんに破砕しなければなるまい。

さうして丸ビルには高浜虚子が主宰するホトトギスの事務所もぜひ復活してほしい。銀座プランタン裏にあってドーリア調エンタシス柱が美しかった1931年徳永傭設計の「東邦生命ビル」と1929年完成の6丁目の交詢ビルジングも、だ。

それなくして安藤流「歴史の回廊」は画龍点睛を欠く。安藤が表参道ヒルズでお仕着せに試みた同潤会アパートの奇形的保存の反省を踏まえ、過去の偉大な建築物を、その地霊鎮魂を兼ねて徹底的に再建してほしいのである。

それあってこその偉大な明治の歴史的再生であり再現ではないだろうか。

Tuesday, October 30, 2007

♪ 07年10月の歌

♪ある晴れた日に その15

われもまた風狂の人になりたし
クワガタは樹液の近くに逃がしてやりぬ
私はとうてい大工にはなれない
鳥羽殿へ我勝ちに急ぐ参騎かな
夕闇に縄張り広げむ女郎蜘蛛
落石に注意といわれても具体的にどうすればよいのか
我君を食らふとも可なるか可也哉茸笑ふのみ
食らふとも可なるか茸笑ふのみ
男なら健女なら優と名づけむと語る甥に明るい未来を
君にもそして君にも安けき未来豊けき明日来たれ
露草を雑草とみなして焼く人をわたしは激しく憎んでいる
釣船草を船と知らずに雑草とガスバーナーで焼くな男よ
またしても君は雑草と口走る草それぞれに名はあるものを
鎌倉の横須賀線の踏み切りの傍に棲むとうかのウシガエル
踏み切りの主は幻のウシガエル心して過ぎよ横須賀線
自らの生の希薄に耐えかねてコッカコッカと鳴く自虐鳥
東京の出版社より来たりける月12万の仕事によろこぶ
キンモクセイ炎と燃ゆる秋深し
心中の業火燃やすか金木犀
わが魂を焼き尽くすや金木犀
人類は悔い改めよと金木犀日本全国激しく燃えたり
中原の中也展果てたあと大輪の薔薇静かの舞咲けり
カラス咲き、ジャクリーン咲くや薔薇の苑
油蝉10月20日に鳴いており
鳩さぶれー鳩の首から食べました
いい俳句をつくったのに忘れてしまった
人生は省略できないバイパスできない
次々に事件が起こるまず杉並一家惨殺事件から解決せよ
過ぎた昔が帰って来る日もあるだろう
なぜ1ドル117円が急に114円になったのかわからない
このキノコを喰わんとする男あり
いくたびも息子の名前をググりけり
首塚や皇子の怨念いまだ晴れず
首塚や人を呪わば穴ふたつ
ムクは死んだけどタロウはまだ生きている
十三夜愛する者より便りなし
十三夜希望の如く月は湧き
十三夜希望の如き月が出る
十三夜希望のやうな月が出て
カモはいいな真昼間から眠っている
おぼつかぬ右手でつかむケーキかな
障碍者たちがはたらくカフェで海を見ながらランチを食べた
一呼吸また一呼吸するうれしさよ
おろぬいたミズナを二人で食べにけり
俳句では言いたいことを詠むなかれ
我も人もすべての言説は生臭し
みそひとをむかえしむすこのたよりなし
人はなぜここまで自然を求むのか
偽りの自然を自然と読み直す姑息の智恵は愚かなるかな
偽りの自然も第二の自然なるかプラスティックの葉よ樹脂の樹木よ 
裏側の波の模様が美しい蝶なればこそウラナミシジミ
私はウラナミシジミのウラガワの紋が好きだ 
ユニクロで購いきたるカシミヤを身につけしきみはどうと訊ねる
ノバうさぎのCMをつくったやつは前に出よ
秋深し衆寡敵せず滅びゆく
秋深し友の寡なき男あり

Monday, October 29, 2007

ある丹波の女性の物語 第7回

 父は、女道楽の祖父を心から憎み、反面この上ない母思いであった。祖母がそこひの手術の為、京の眼科病院へ入院した時は、学校を休んで付き添いに行き、自分の眼片方と引き換えに母の目をよくしてくれと、病院内の神社に願かけをしている事が患者の中で評判になり、みんなで大きな数珠を廻して拝む念仏講を開いてくれたという。
院長も感動して精一杯の治療をしてくれ、目がみえるようになったと聞く。

 父と同い年の母菊枝は、福知山鍛冶町に雀部家の長女として生まれた。代々綿繰り機を商う家で祖父は九代伊右ェ門、幼名は庄之助、代々同じ名をついでいたようで、祖母みねも同じ福知山の彫り物師の娘で、生涯祖父を幼名の「庄さん」と呼び、色白で針仕事の上手な、まことに可愛らしい「おばあちゃん」であった。

 文明開化で紡績工場が出来てから家運は急速に衰えていったが、昔は丹波、丹後、北陸地方にかけて手広く商っていたらしく、母は庭にはまわりを子供が六人位手をつなげるような木があり、夜、燐がもえた事、米騒動の時の鍬の跡がいくつも柱に残っていた事など話してくれた事がある。

 母は20歳で遠縁に当たる佐々木家へ嫁いだ。郡立女学校の前身、香蘭女学校を出、神戸県立病院看護婦養成所を卒業、産婆の免状も持っていたが、幼い時から美人の評判が高かった。

福知山は芸事の盛んな土地で、雀部家代々のあるじも浄瑠璃が好きで、大阪の文楽から義太夫を招いて稽古をしたそうである。母も小さい時から舞や三味線を習わせられた。盆踊りも盛んな土地で、町々に連があり、母はその先頭に立って三味線をひいて町中を練り歩いた事、嫁のもらい手がふるほどあったとは、雀部の祖父のいつもの自慢話であった。

福知山音頭の優雅な調べに合わせて家々の娘は、きそうように美しく着飾って歩いたのであろう。

♪くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に  愛子

ある丹波の女性の物語 第6回

 両親・祖父母のこと

 佐々木家は代々男の子に恵まれず、何代も養子を迎える家系であったようで、曽祖父には女の子もなく、祖父祖母共の両養子であった。

祖父春助は天田郡大原村の生まれ、安産の神大原神社近くの西村家に生まれた。父のいとこ達は村長や郵便局長であった。

私は一度秋の遠足で大原神社へ行った事がある。何廻りもして峠を超えて行った事がある。道々にりんどうが色濃く咲いていたのが忘れられない。とても山深くきたという思いがした。
祖母、婦美は隣村の山家の米屋から来ていたが、49歳でなくなっている。

 明治18年2月22日、父小太郎が綾部町の佐々木家に生まれた時は、何代目かの男子誕生でとても喜ばれた。しかし栄養不良のしわくちゃな赤ん坊だったそうである。

 家は屋号が示すように昔は寺子屋であったそうで、古びた槍も鴨居にあがっていた。桑園もあって養蚕もしていたが、祖父の代に職人をおいて桐下駄の製造をはじめた。

祖父は素人芝居の女形を演ずるのが得意で、女遊びの好きな道楽物であった。それでも父は当時尋常小学校、郡立高等小学校を経て、城丹蚕業学校創立初回の卒業生であるし、父の妹つるは郡立女学校を出ているから、金もうけにも長じていたのであろうか。
どういうわけかヤン茶坊主の次男金三郎叔父だけは、小学校をおえると京の呉服問屋へ奉公に出ている。

♪突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

Saturday, October 27, 2007

ある丹波の女性の物語 第5回

絢ちゃんの事

 絢ちゃんとは一卵性双生児の片われの姉の事である。

先に生まれたからか、後なのか、どういう訳か姉と言う事である。現在では妊娠中から男女の別も分かり、勿論双生児など初めから分かるらしいが、当時は異常にお腹が大きくなるまで分からなかったのではあるまいか。母は、後期にはふすまや柱を持たないと、立ち上がれなかったそうである。

何かにつけて絢ちゃんの方が秀れているので、私が妹でほんとによかったと思っているが、姉の絢ちゃんは、とてもひ弱で息もたえだえに生まれてきたそうで、遠くにやるなら元気な方をと私の丹波行きは決まったらしい。

ところがこの姉も、ひょっとすると立場が逆になっていたかもと、私の綾部行きには責任を感じているらしいのである。

私の名前は「神は愛なり」の聖句から決まったそうで、絢子は雀部では「あいこ」と呼ばれて育ったそうである。女学校4年の時、祖父の葬式で生まれて初めて、京桃山の雀部家を訪れ、その事を知った。生家でも私の事をいつも覚えようとしていてくれた事を複雑な思いで感謝した。

 絢ちゃんは大沢家に嫁ぎ、大学教授夫人、学長夫人となった。女としてはエリートコースにあるこの姉を羨む気持ちは少しもない。もう一人の私が受けている幸いを喜ぶ気持ちだけである。

私は一商人の妻として過ごして来たが、それなりの、幸せを感謝している。人には分からぬかも知れないが、普通の姉妹では感じられぬ特別の感情が、私達にはあるらしい。
こんな姉妹であって、こんな姉があってほんとに良かったといつも思っている。

♪ 直哉邸すぎ 娘と共に
ささやきのこみちとう 春日野を行く

Friday, October 26, 2007

ある丹波の女性の物語 第4回

裕兄さんの事

 裕兄さんは私のすぐ上の兄である。上に正という長男がいたので、この次男が生まれた時から、佐々木家へほしいと何度か交渉していたらしく、「幸太郎」と言う名前まで用意していたという事である。

本人は綾部の伯父が来るたびに外へ遊びに出てしまい、ある時は風呂桶の中に入り、ふたまでして隠れていたと言う笑い話まである。結局私達姉妹の誕生によりこの話は消え、裕兄さんは綾部へ来なくてもいい事になった。

 そんな訳で、私が遠い丹波の地へもらわれていった事を、子供心にも責任を感じていたらしい。後年、雀部の父が関西に住む事になり、当時中学の裕兄さんも転校した。その中学は教室に生徒の成績順に名札がかけられており、学期末には、トップにその名札がかけられたとの事であるが、転校生「雀部裕」の名が最後の席次にあるのを、その学期中悔しかったそうである。

雀部の子供の中では、なかなかユニークな存在であったようで、両親に無断で受験、大阪外語大の合格通知がきた時は、家中でびっくりしたそうである。当時は戦時色の強い時代であつたので、「中国語蒙古学科」に入学、卒業後は華北交通に入社した。

その当時の北京からの葉書が私の手箱の中に何枚か残っている。北京がどんなにすばらしいか、空がどんなに美しいか等したためてある。いろいろと人並みの青春時代の悩みを持っていた私には、「思い切ってこの新しい天地へ出てこないか」という葉書の文字が今も心に残っている。

その兄もビルマで戦死してしまった。中国語や蒙古語は軍ではとても重宝され、その人柄は誰にも愛されていたらしい。運動は万能選手、ほがらかで、心やさしかった。苦学している友達に物資のない時なのに自分の外套をやってしまったと、母がこぼしているのを聞いた事がある。

ほんの何度かしか会っていないこの兄の事が、しきりに思い出されるこの頃である。


♪なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく  愛子

Thursday, October 25, 2007

大庭みな子の「風紋」を読む

降っても照っても第69回

先日この作家の遺著「七里湖」を読んだばかりだが、今度は別の版元から別の遺作(短編3本と6つの小さなエッセイ)が出版されたのでついつい手にとってしまった。

短編は「あなめあなめ」、「それは遺伝子よ」、そして表題作の「風紋」であるがいずれもこの世とあの世の中間部、あるいは仏教の用語で中有(生有から死有までの)といわれる父母未生以前の混沌とした時空において天人一体となって無意識裡において創造された玄妙にして摩詞不思議な作品である。

音楽で喩えると例えば往年のSPレコードでスクリャービンの「法悦の詩」をワインガルトナー指揮のヴィーン・フィルハーモニーで聴いたような、典雅で深沈とした陶酔的境地に浸ることができる。

「あなめ」は小野小町の髑髏の眼底から生えてきた薄を引き抜こうとすると小町が「あなめ、あなめ(痛い痛い)」と叫んだという故事を本歌取った夢幻譚だが、その最後は、主人公のナコ(みな子さん)が、

「両目を左右のこぶしで押さえて目から生え出ている薄を抜こうとしたが果たせなかった。「まあ、そのうち薄の方が枯れるよ」とトシ(著者の夫)は言った。

 というところで唐突に終る。この婦唱夫随の二人の魂はすでにして中有を彷徨っていることがわかる。

「それは遺伝子よ」では、著者に先立って死んだ米国の友人ヘレンの思い出が語られるが、「すべての善悪を呑み込んだ上でアラスカの原野にすっくと立った女神」を思わせる神話的な存在は、自由で放胆な生を生き切った著者自身を思わせる。

例えば次のような文章を見よ。

著者の目の前で全裸になってシャワーを浴び始めたヘレンは、

「もちろん立派な二つの乳房と高い腰を持っていた。私が息もつかずにレモネードを飲み干している間に、ヘレンはベッドルームに行き、大きなキングサイズのベッドにバタンと倒れるように横たわって、「ああフランクがいてよかったわ。一人で暮らせるのは女じゃないわね」と言うともう高いびきをかいていた。そして、眼を開けて、「フランクは暖かくて素敵だった」――次の瞬間また高いびきをかいていた。」

最後の「風紋」はこれも最近亡くなった偉大なる小説家小島信夫と著者との交情を赤裸々に、しかし、夢のような淡彩画のタッチで描く。

「信さんはもう意識もなくて植物人間のような状態だそうである。それでもナコは走って行って信さんに抱きついてキスしたかった。信さんがまだ元気な頃にナコは何回も信さんと抱きつけるほど近くに立って、キスできるほどの近さだったのに一度もそんなことをしなかったことが心残りに思われて、今は無意識の中で走ってゆき抱きついてキスしたかった。」

この文章が書かれたとき、まだ確かに生存していた信さん(小島信夫)も、ナコと自称する著者も、いまはこの世には存在しない。しかしこの夢のような話のなかに悪女と言われた著者のあどけない少女のような本当の思慕が真率に刻まれていることだけは疑えない。

しかし私がこれらの短編にも増して感動したのは、まるでささやかな香典返しのように巻末におかれた「逝ってしまった先達たち」での川端康成や佐多稲子、野間宏、藤枝静男の思い出話であった。

凝縮された見事な文章の中に、物故した作家たちの姿が、いまそこにあるかのように生々しく立ち上がってくる、それこそ文学の力には思わずギョッとさせられる。
著者によって一撃の元に拉致された彼らの些細な所作は、彼らの生の本質を的確に射抜かれ、永遠の相というタブローに磔にされたまま、浄土から差し込む微かな西陽を浴びている。

さうして最後にそっと置かれた僅か数枚のエッセイ、「あの夏――ヒロシマの記憶」こそは、あらゆる“広島文学”中の最高傑作であろう。

Wednesday, October 24, 2007

五木寛之著「21世紀仏教への旅日本・アメリカ編」を読む

降っても照っても第68回

「21世紀仏教への旅」シリーズの最終巻を読んだ。

「わがはからいにあらず、他力のしからしむるところ」と親鸞は悟り済ませた。悪者も善人もただ「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽浄土へ行ける、という悪人正機説は、考えれば考えるほど、物凄い思想である。

しかし著者によれば、この有名な革命的宗教思想は、すでに法然以前の奈良仏教時代からその萌芽が生まれていて、平安末期に後白河法皇が集成した『梁塵秘抄』には
「弥陀の誓いぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称うれば 来迎引接疑わず」
というワンコーラスもすでにあらわれているという。

奈良仏教を経て鎌倉新仏教にいたる時代の変転が、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、ヒンズー教も、そしてブッダの仏教自体をも驚倒させるに足る悪人正機説を誕生させたのである。

そして著者は、奈良から鎌倉までの悪人正機説の変遷を、

源信は「泥中にありて花咲く蓮華かな」、
法然は「泥中にあれど花咲く蓮華かな」、
そして親鸞は「泥中にあれば花咲く蓮華かな」

であると、巧みに評している。

世間ではゼニゲバ流行作家としてあまり評判がよくない五木寛之であるが、「以前から私は自分の個性などというものはないほうがいい、と思っている」と語り、「できるだけ近代的な自我というものを消去する生き方をしてきた」と自負するこのデラシネ男を、私はけっして嫌いではない。

Tuesday, October 23, 2007

ある丹波の女性の物語 第3回

 祖父も私を乳母車に乗せて歩きたいと、シキリに願ったそうであるが、早くから頭をゆさぶると頭に悪い影響が出ると許さず、余程してから籐製の大きな乳母車を東京から取り寄せた。ベルトで本体を宙吊りにしてあり、脳へ響かぬよう工夫した当時では最新型のものであったそうである。

不要になってからは倉庫の天井にぶら下げてあったが、戦時中、私の長男のために充分使用出来た程、頑丈な物であった。この乳母車を祖父が街々をひいて歩いてくれると、方々から沢山のお菓子をもらうのが例であったが、私は気に入った上菓子でないと、もらったその場で「チヤィ」といって捨ててしまうので祖父は非常に困ったそうである。

 その事も何となくおぼえているようにも思うけれど、幼い日の最初の記憶は、泣いている私をおんぶして夜の街を歩き回っている父の姿であり、おんぶされている私自身の姿である。
外は真っくら、街灯の明るさだけ、ガラス窓にうつる父と子の顔、ねんねこ半纏のオリーブ色の銘仙の色、黒いビロードの衿をハッキリ覚えている。冬の夜更け、夜泣きする私をしかたなしにおぶって歩いたのであろう。涙にうるんで見えるだいだい色の街灯の色、ねんねこ半纏のオリーブ色、私の最初の色への記憶である。

 いつ頃からか、タンスの上段の底に、赤いリンズに白のふち取りをした、よだれかけ、赤いちりめんのお守り袋がしまってあるのを見つけたが、その事にふれるのが何となくはばかれて、何度もソッと見るだけにしていた。

それは横浜の家から持って来たのだと、後で知ったが、母は大事にしまっていてくれたのだと、母の私への思い、心くばりを感じる。
 私が両親の実子でない事を、おぼろげに知ったのは、小学校低学年の頃かと思う。隣が伊藤という乾物屋で、そこの主人が「愛子ちゃんは東京生まれやから。」と何かの時にいったのを、何となく誇らしいような気持ちで聞いた覚えがある。
別に悲しくもなかった。前から何となく感じていたのかもしれないが、両親の愛にみたされていたからに相違ない。

♪五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線    愛子

Monday, October 22, 2007

ある丹波の女性の物語第2回

 私は大正10年年6月26日、綾部市新町、丹陽基督教会に於いて、内田牧師より幼児洗礼を受けている。その何年か前に、両親は基督教に入信していたのである。

 現在になっては珍しい事ではないが、70年前、私には寝台が用意され温度計が付いていたそうである。部屋にも商品がいっぱい。若い店員が寝起きしていたので、当時は蚤にはずいぶん悩まされていたらしく、寝台の両ワキにはマッ白な寝巻きを着た両親が寝たそうである。蚤をたやすく発見出来る為である。

 粉ミルクは私の身体に合わなくて下痢が続き、牛乳にかえてからよく太るようになったそうで、最高1日八合の牛乳を飲んだそうである。私が大きくなっても配達してくれていた農園からは、毎年お歳暮に牛乳風呂にと、バターを取った後の脱脂乳が届けられた。
 余程大きくなるまで、毎年私の誕生日にはもらい乳をした二軒の家には、赤飯が配られたのを覚えているから今で言う混合栄養にしていたのであろう。

 そんなに細心の注意を払っていても、冬は寒い丹波のこと、とうとう肺炎になり、看護婦、産婆の免状を持っていた母ではあるが、他に二人の看護婦を雇い昼夜部屋をあたため、湿布、吸入などあらゆる看護をしてくれて、一命を取り止めたのである。

大きくなってもレントゲン写真に肺炎の後が残っているといわれたが、そんな昔に、しかも乳飲み子を肺炎から救ってくれた事は両親の献身的な努力と愛という他はない。

 そんな事もあって、両親の他は誰にも私を抱く事を許さず、只一人、一番番頭の藤吉さんだけが厚司のふところ深くに抱く事を許されたそうである。後年、もらい乳に行くのも、この藤吉さんの役目だった事を知った。

♪七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり     愛子

Sunday, October 21, 2007

ピート・ハミル著「マンハッタンを歩く」を読む

降っても照っても第67回

アイルランドからの移民の子で、ブルックリン生まれのニューヨーカー、ピート・ハミルによる最新版ニューヨーク案内である。

ニューヨークといっても叙述はマンハッタンの西半分(地図では下半分)のダウンタウンにほぼ限定され、著者が生まれ育って喜びと悲しみとノスタルジーを共にしたこのエリアへのメモワールが縷々綴られる。

 あの01年9月11日の同時テロに遭遇した著者と妻の青木富貴子さんの危機一髪のてんまつや、著者の少年期や青春期の懐かしい思い出話も随所にちりばめられているとはいえ、本書の力点はこの小さな盲腸のような地域の歴史を厖大な資料を駆使して丹念に語りつくすことにおかれている。

まずは先住民、そしてこの地をニューアムステルダムと呼んだオランダ人、その後を襲ってニューヨークと呼ぶことにした英国人、さらにその後世界中から殺到した無数の移民たち……。私たちは後年なってニューヨーカーと呼ばれるようになった彼らが、この土地のどこにどんな建物や公園や教会をつくり、どんな人々がどんな生涯を送り、どのように生き、どのように死んでいったのかを、懇切丁寧に教えてもらうことになる。

例えば――、

オランダ人たちが入植地の先端部分を壁で仕切り、外界の脅威がなくなった段階で取り払った地域が、後年ウオールストリートと呼ばれるようになったこと。

1809年にオランダ系アメリカ人作家ワシントン・アーヴィングが採用したニッカーボッカーという名前が、そのまま彼らの呼び名になったこと。

そしてそのニッカーボッカーたちがセントラルパークを造園し、ニューヨーク公共図書館を建て、コロンビア大学を設立したこと。

1914年に日照権裁判が起こった結果、歴史上はじめて用途地域規正法が成立し、その結果その後マンハッタンに建つ高層ビルはクライスラービルのように軒並み尖塔をつけるようになったこと。

1948年カリフィルニアで金鉱が発見され「49年組」と呼ばれる多くの若者が西部に向かった、そのフォーティーナイナーズが、今も当地のフットボールチームの名前になっていること。

1889年のオーティス社製のエレベーターと同時期の鉄骨構造の開発こそがこの都市の高層ビルの建築をはじめて可能にしたこと。

1880年からの50年間にウールワース、シーグラム、クライスラービル、メトロポリタン美術館、カーネギーホール、ダコタアパートなど、この都市に重々しい壮観をもたらしたボザール様式の美しく装飾的なアメリカ・ルネサンス建築が続々誕生したこと。

だからこそ1965年にあの素晴らしいペン・ステーションが取り壊されたときに激しい抗議と怒りが湧き起こったこと、

等々の、忘れがたいこぼれ話の数々である。

ニューヨークとは切っても切れない関係にある有名百貨店や新聞社の歴史についても要領よくダイジェストしてくれている本書は、この街とこの街の住人とその歴史の光と影をを愛する人々にとって長く手放せないバイブルになるだろう。

ピート・ハミル著「マンハッタンを歩く」を読む

降っても照っても第67回

アイルランドからの移民の子で、ブルックリン生まれのニューヨーカー、ピート・ハミルによる最新版ニューヨーク案内である。

ニューヨークといっても叙述はマンハッタンの西半分(地図では下半分)のダウンタウンにほぼ限定され、著者が生まれ育って喜びと悲しみとノスタルジーを共にしたこのエリアへのメモワールが縷々綴られる。

 あの01年9月11日の同時テロに遭遇した著者と妻の青木富貴子さんの危機一髪のてんまつや、著者の少年期や青春期の懐かしい思い出話も随所にちりばめられているとはいえ、本書の力点はこの小さな盲腸のような地域の歴史を厖大な資料を駆使して丹念に語りつくすことにおかれている。

まずは先住民、そしてこの地をニューアムステルダムと呼んだオランダ人、その後を襲ってニューヨークと呼ぶことにした英国人、さらにその後世界中から殺到した無数の移民たち……。私たちは後年なってニューヨーカーと呼ばれるようになった彼らが、この土地のどこにどんな建物や公園や教会をつくり、どんな人々がどんな生涯を送り、どのように生き、どのように死んでいったのかを、懇切丁寧に教えてもらうことになる。

例えば――、

オランダ人たちが入植地の先端部分を壁で仕切り、外界の脅威がなくなった段階で取り払った地域が、後年ウオールストリートと呼ばれるようになったこと。

1809年にオランダ系アメリカ人作家ワシントン・アーヴィングが採用したニッカーボッカーという名前が、そのまま彼らの呼び名になったこと。

そしてそのニッカーボッカーたちがセントラルパークを造園し、ニューヨーク公共図書館を建て、コロンビア大学を設立したこと。

1914年に日照権裁判が起こった結果、歴史上はじめて用途地域規正法が成立し、その結果その後マンハッタンに建つ高層ビルはクライスラービルのように軒並み尖塔をつけるようになったこと。

1948年カリフィルニアで金鉱が発見され「49年組」と呼ばれる多くの若者が西部に向かった、そのフォーティーナイナーズが、今も当地のフットボールチームの名前になっていること。

1889年のオーティス社製のエレベーターと同時期の鉄骨構造の開発こそがこの都市の高層ビルの建築をはじめて可能にしたこと。

1880年からの50年間にウールワース、シーグラム、クライスラービル、メトロポリタン美術館、カーネギーホール、ダコタアパートなど、この都市に重々しい壮観をもたらしたボザール様式の美しく装飾的なアメリカ・ルネサンス建築が続々誕生したこと。

だからこそ1965年にあの素晴らしいペン・ステーションが取り壊されたときに激しい抗議と怒りが湧き起こったこと、

等々の、忘れがたいこぼれ話の数々である。

ニューヨークとは切っても切れない関係にある有名百貨店や新聞社の歴史についても要領よくダイジェストしてくれている本書は、この街とこの街の住人とその歴史の光と影をを愛する人々にとって長く手放せないバイブルになるだろう。

Saturday, October 20, 2007

ある丹波の女性の物語

第1回 誕生の頃
戸籍によれば私は大正10年2月22日、京都府綾部市西本町25番地に、父佐々木小太郎、母菊枝の一人娘として生まれている。両親共に36歳の時の初めての子供であるから、身分不相応に大事にされ、可愛がられていたようである。
その当時の家業は履物製造販売。祖父も含めて家族4人、職人、店員、お手伝い、合わせて20人近い人員構成であった。
店舗兼住宅と、一寸と離れて倉庫と職場があり、倉庫には北陸地方から貨車で仕入れた桐下駄の材料が、乾燥のためうず高く積み上げられてあった。
 

 私が母菊枝の弟、雀部儀三郎の三女として横浜市桐畑に生まれ、生後100日を経た日に佐々木の両親に守られて、東海道線を乗り継ぎ山陰線の綾部に貰われてきた事を知ったのは、ずいぶん後の事である。
長い間子供に恵まれなかった両親は、雀部家の二男一女のうち、次男をかねてから欲しいと希望していたが、なかなか思うようにならずにいたところ、下に女児の双生児が生まれたので、これ幸いとその一人を貰い受ける事にしたらしい。

それにしても、その頃の東海道線を、生まれて間もない赤ん坊づれ、母乳なしの長旅は夫婦づれとはいえ大変だったろうと思う。そして父は、自分の誕生日と同じ日付で、佐々木小太郎・菊枝の長女として出生届を出しているのだから、後々のためにも、すべてに万全を期していたのに相違ない。
この事に関しては両親は勿論、私も決して口に出した事はない。公然の秘密となった時も、両親のなくなるまで私達の間で話し合う事はなかった。

♪つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   愛子

Friday, October 19, 2007

鎌倉大町の常栄寺に詣でる

鎌倉ちょっと不思議な物語86回

日蓮は、文永8年1271年9月12日に鎌倉幕府の命によりとらわれ、龍の口刑場で処刑されることになった。

ところがその前夜、刑場で突然異変が起こったために刑の執行は不可能になり、上人は一命をながらえた。

その日、桟敷尼という老婆が捕縛された日蓮に牡丹餅を差し入れたので、上人はたいそう感激したという。

この桟敷尼の夫は京都から下ってきた将軍宗尊親王の近臣で夫婦とも法華経の信者であった。桟敷尼は龍の口の法難から三年経った文永11年1274年に88歳で亡くなったが、その法名を妙常日栄といいこれがこの寺の名前「常栄寺」になったという。

この頃から世間の人々は、老婆の牡丹餅の御利益をありがたがり、毎年9月12日には「御法難会」が催され、妙本寺や瀧口寺などの日蓮上人像に牡丹餅を供える慣しになっている。ちなみにこの夫婦の墓は現在も尚この常栄寺、別名「ぼたもち寺」にある。

 余談ながら大町近辺には日蓮宗の寺院が非常に多く、いかに鎌倉時代に日蓮が活躍したかを雄弁に物語っている。

もひとつおまけに、私は長らくこの常栄寺に行けばいつでもおいしい牡丹餅が手に入ると思っていたのだが、それが見物人に供されるのは年にたったの一度なのであった。
狭くて小さなお寺だが、可憐な庭に四季折々の花が咲く。

Thursday, October 18, 2007

アントニン&ノエミ・レーモンド展を見る

アントニン&ノエミ・レーモンド展を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語86回&勝手に建築観光25回

今日も仕事の運びがいまいちなので、久しぶりに県立近代美術館で開かれているアントニン&ノエミ・レーモンド夫妻の「建築と暮らしの手作りモダン」展(21日迄開催)に出かけた。

うららかな小春日和である。修学旅行の生徒たちが八幡宮の参道に並んだ露天に群がっていた。

展覧会ではレーモンド夫妻がわが国に遺した数々の建築やインテリアがたくさんならべられていて、見応えがあった。というより、こんな家なら住んでみたい、こんな家具なら欲しいと思わせる作品が、次から次に現れるのである。
私が思わず「この人がまだ生きているならぜひ家の設計をお願いしたい」とつぶやくと、美術館の隅に座っている職員が笑っていた。

これまで安藤選手だの、磯崎選手だの、亡くなったばかりの黒川選手だの数多くの有名建築家の作品を鑑賞してきたが、そんな気持ちになったのはこれが生まれて初めてだ。もっとも1888年生まれのアントニン・レーモンドは、すでに1976年に亡くなっているので、それは望むべくもない空しい夢なのであるが。

1919年に帝国ホテルの建設のためにフランク・ロイド・ライトとともに来日、大戦をはさんで戦前戦後40年以上の滞日生活の中で、アントニンは欧米と日本独自の和の伝統をきわめてデリケートに調和させた、優しく、美しく、しかもシンプルで機能的な建築とインテリアを創造し続けた。

和洋折衷というととかく曖昧で芒洋としたイメージで捉えられるかもしれないが、彼が各地で手がけた数々のカトリック教会の構成に顕著に見られるように、彼の作風は両者の特性を鋭くきわだたせながら、しかも相反する2つの要素をきわめて合理的、理知的にまとめているのである。

とりわけ軽井沢の夏の家や新スタジオ、笄町にあった自邸、一ツ橋にあったリーダーズダイジェスト東京支社、横浜にできるはずだった超モダンなフォード社の工場、現存する南山大学や群馬音楽センターなどの、まったくけれんみのない、生きた人間の肌のぬくもりを感じさせる建築たちは、あの東京クソミソタウンや、かの六本木あほばかヒルズなどの金満ガジェット高層仇花建築が跋扈する当節にあって、まさに一陣の清風が吹きすぎるような爽やかさと安らぎを感じた。

 現代の売れっこ建築家に欠如していて、レーモンドにあるもの。それは秘められた輝かしい知性と人間と世界に対する慎み深さ、一言で言うと上品なたしなみのこころであろう。

特筆すべきは妻ノエミ・レーモンドの家具・インテリアの出来栄えで、昨今流行のイタリアもの、北欧ものとは一線を画する、そのモデストでいぶし銀のような意匠は、夫の同様のデザイン思潮と内なるアンサンブルを奏で、彼らが琴瑟相和してつくりあげた1軒の住居からは、さながらカレル・アンチェルがチェコフィルを指揮する舞曲のような精妙な中欧音楽が流れ出る。

私は、建築とは「凍れる音楽」ではなく、春の小川のように絶えず流れ込み、私たちの頑ななこころを溶かす音楽であると、はじめて悟ったのだった。

追記
昨日の中原中也の最後の詩の4行目が欠けていました。お詫びして再掲載させていただきます。

四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
爆発する都会の夜々の燈火を後に
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。

Wednesday, October 17, 2007

鎌倉文学館の「中原中也展」を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語85回

仕事が行き詰ってしまったので、気分転換のために、鎌倉文学館で開催されている中原中也展(「詩に生きて」12月16日まで)に行った。

前回ここで中也の特別展「鎌倉の軌跡」が開催されたのは1998年だからあれからもう9年も経ったことになる。ああ、歳月の流れのなんと迅速無常なることよ!

 中也についてはこの日記でさんざん書いてしまったので、もう付け加えることなどないが、今回もまた彼が27歳の折に山口であつらえた黒いコートとお釜帽子が出品されたのでとても懐かしかった。

あの黒ずくめのダダ・ファッションで、すぐに死んでしまう富永太郎や平成の御世まで長生きした長谷川泰子と連れ立って京都の河原町をランボウとヴェルレーヌ気取りでまるで風来坊のように遊び歩いたのだ。

ところがこのコート、実はもともと他の色だったのを中也が黒に染め直したらしい。また袖の長さが異様に短く、中也はこんなに小男だったのかと改めて思った。

中也は昭和12年1937年10月に30歳の若さで、私が贔屓にしている清川病院(旧鎌倉養生院)で亡くなったが、その直前彼が郷里の母親フクに書いた手紙は、すでに死を予感していたにも関わらず、愛する母親を悲しませないために、「これからの私はの運勢はとても良いそうです」などと空元気を装って綴られており、読むものの涙を誘うが、もしかすると、彼は最後まで自己の再生と復活を基督のやうに信じていたのかもしれない。

 会場には同年9月30日に寿福寺のいまは失われた小さな借家で書かれた中也の絶筆がそっと展示されていた。

      四行詩
おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
爆発する都会の夜々の燈火を後に
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。

Tuesday, October 16, 2007

八雲神社に詣でる

鎌倉ちょっと不思議な物語84回

平安時代の永保年間(1081~84)に新羅三郎義光が、兄の八幡太郎義家を助けて清原家衡を征伐する「後三年の役」で奥州に下るため鎌倉に立ち寄った。

当時鎌倉では悪疫が流行していたために、これを救おうと京都祇園社を勧請して祈願したところたちまち悪疫は退散し、住民は難を逃れたという。そこで元は社号を祇園天王社と称していたが、明治以降八雲神社となった。

関東大震災によって倒壊し、昭和四年7月に新規造営されたのが現在の社殿だがその割には神さびて見える。境内左手には江戸時代に造営された4基の立派な神輿が収められ、7月7,8,9日の例大祭にはにぎやかに繰り出す。

すっかり都会化された鎌倉だが、まだお祭りやおみこしというと、辻ごとに意外に大勢の老若男女が参加しているようだ。

Monday, October 15, 2007

マンションとファッション

ふあっちょん幻論第6回&勝手に建築観光25回

戦後日本のファッション史を振り返ってみると、60年代の高度成長期は国産のナショナル・ブランド、73年の第1次石油危機以降の低成長期からは、三宅一生、川久保怜、山本耀司などが主導したDCデザイナー&キャラクターブランド、85年の円高ドル安時代から現在までが、ルイ・ヴィトンやグッチなど外資系ラグジュアリーブランドの時代という流れになる。この見取り図に照らすと、マンション業界の消費者MDはアパレルに比べ約30年の遅れということになるだろう。

戦後日本人の飽食暖衣は驚異的な発達を遂げたが、「住」の進化速度は遅かった。衣食と比べて住宅はお金がかかる。デザインなんて夢のまた夢。「立って半畳、寝て1畳」、とりあえず雨露さえ凌げればいい、というウサギ小屋からわれわれは再出発した。
それからまずはファションのDCブランドに血道をあげ、高度成長の波に乗りながら、徐々にグルメ、インテリア、そして最近の建築・建築雑誌の人気、デザイナーズマンションブームへとその美的・感性消費の選択肢を拡張していった。

その結果、手近なミクロ環境は、現代ファッションの洗礼を受けた消費者の鋭い審美眼に晒されることになったが、界隈性や景観デザインなどのマクロ環境は、最近大流行の都市再開発地域を含めてまだまだ顧客のウォンツを的確に捉えたものとはいえないだろう。

しかしマンション業界もようやく長すぎた冬眠から目覚めつつある。03年に神田神保町にできた三井パークタワー(トーマス・ボルズリー氏がランドスケープデザイン、佐藤尚巳氏が外観デザインを担当)や六本木ヒルズレジデンス(テレンス・コンラン卿担当)の外装をとくと眺めて見よ。いままで無視されていた広大な領域、見ていても見ないことにしていた暗鬱な灰色の領域に、突然カラフルな光線が差し込んだのである。

過去の普通のマンションが、生地屋で買ってきたドブネズミ色のズボンを身にまとって立っていたとすれば、これらの最新ビルはパリコレの影響を受けた色彩豊かなオーダーメードのスカートをはいておしゃれに闊歩している。ような気がしないだろうか?
外装のカラーブロック柄という発想は、いったん実現してしまえば、当たり前田のクラツカー(古い!)。最近では同じアイディアのマンションがあちこちに乱立して、おやおやと首を傾げたくなるが、それはそれとして、そんなに好評ならどうしてもっと昔からやらなかった、と言いたくもなる。しかし、西洋デザイン後進国の私たちはずいぶん遠い地点からゆっくりここまで歩いてきたのだ。

機能が満たされ平準化された商品は、一部のデフレ商品は別にして、デザインと装飾性によって自らを差別化するほかはない。外資系ラグジュアリーブランドからは、彼らの生命線である、デザインの楽しさと深さを、成功しているアパレルメーカーからは、多様な諸個人にフィットする柔軟なパターンオーダー製法の知恵を学ぶことが、当面のマンション業界の課題だろう。

なにはともあれ、我々庶民は、「仕事が終わればまっすぐに帰りたくなるマンション」に、一日も早く住みたいものである。

Sunday, October 14, 2007

ガルシア・マルケス著「愛その他の悪霊について」を読む

降っても照っても第66回

1949年10月、母国コロンビアで駆け出し新聞記者として活躍していたガルシア・マルケスが由緒あるサンタ・クララ修道院の地下納骨堂で見たもの、それはシエルバ・マリア・デ・トードス・ロス・アンヘレスの頭蓋骨から伸びた22メートル11センチの長さの赤銅色の乱れ髪であった。

周知のように、人間の髪は毎月1センチずつ成長するもので、それは死後も尚続き、200年間で22メートルというのはごく平均的な数値らしい。聖トマス・アクイナスが書いたように「髪の毛は体の他の部分よりもずっと生き返りにくいもの」であるようだ。

マルケスは若き日のこの鮮烈な体験は、子どものころ祖母によって聞かされた「12歳で狂犬病で死んだ、長い髪を花嫁衣裳の尻尾のようにひきずる侯爵夫人令嬢」の伝説と重なり、神父と聖少女、聖霊と悪霊が熱に浮かされたように交わる異様な愛の物語を生み出した。

狂犬病に冒されたはずなのに死なない美少女シエルバ・マリアは、6度の悪魔祓いに耐え抜き、異端審問所で有罪判決を受けた永遠の恋人を「きらきら輝く目をして、生まれたばかりのような肌のまま」待ち続けながらみまかるが、「その剃り上げられた頭骨からは新しい髪の毛があぶくのようにふきだし、伸びていくのが見られた」のである。

当節のへなちょこ恋愛小説をあざわらう世紀の大恋愛意物語に、とくと耳を傾けよう。


金木犀業火盛んに燃ゆるごと 芒洋

Saturday, October 13, 2007

エリア・カザン監督の「エデンの東」再見

降っても照っても第65回

エリア・カザンがスタインベックの原作を映画化したこの作品は、カリフルニア州の景勝の地モンタレーを主な舞台にしている。

現在のモンタレーはリタイアしたアメリカの超大金持ちが優雅に暮らしている快適なリゾート地であるが、その岩礁に打ち寄せる荒波をただ延々と映し出す冒頭の序曲(オーバーチュア)が旧約聖書の創世記に記された人類最初の殺人事件を想起させる不気味な始まり方をするのである。

エホバによってエデンの楽園を追放されたアダムとイヴにはカインとアベルの兄弟が生まれる。2人は父なる神エホバに供え物をするがエホバはアベルの供え物を喜んで受け取ったが、カインのそれをかえりみなかった。それを恨んだカインは、弟アベルを殺してしまったので、エホバはカインを「エデンの東」に追放したのである。
兄弟の役割はさかさまになっているが、この創世記第四章の逸話がこの映画の物語の原点にあることを忘れてはならない。

エホバと同様に理不尽に父親への愛と尊崇の心を退けられたカインの怒りと悲しみは察するにあまりあるが、カイン役に全身全霊で共感したジェームズ・ディーンの演技が素晴らしい。

特にディーンが父のために稼いだお金を誕生日に贈り、それが父親によって拒否されるシーンの演技は迫真的で、最後に父との和解を遂げた病室のラストと共に涙をさそう。

しかし絶望に駆られて逃走した兄アロン(アベル)、その許婚は、それからどうなったのか、原作を読んだことがない私には気になるところである。

Friday, October 12, 2007

大庭みな子著「七里湖」を読む

降っても照っても第65回

10歳のときに父に死に別れ、12歳のときに日本を去り、アメリカに渡り、母が死んだときも帰国することなく学業を続け、長じて後も日米を行き来しながら齢を重ね、二人の娘もアメリカで暮らしている女性を主人公にした著者の未完の小説である。
日本人やアメリカ人や数多くの親族や友人男女が次々に登場し、ひとしきり思い思いのアリアを歌っては、舞台から退場してゆく。
その舞台では照明はひとつずつ消えうせ、セリフはもはや客席に向かっては語られない。言葉も、呼び出される記憶も、思い出も、やがてモノローグも遠くかすかなものとなり、人も、友も、家も、土地も、愛も、浦島草も、古井戸の死体も、幻の湖も、ありとあらゆるものが霧に包まれ、夢か現かもはや誰にもわからならい無明の闇に沈んでいくのである。

果たしてこれは小説であろうか? 小説だとしても、その物語は生者によって語られているのか、それとも死者が綴っているのだろうか? そうであるともいえるし、そうでないともいえよう。

アラスカに10年以上も住んだことのある著者は、本書の最後の最後に、アラスカで熊に食べられた星野道夫について、こう語っている。

「熊は相手をほふるとき、先ずその内臓に鋭い歯を立てる。それは食欲というよりは、相手と合体し、天地と合体しようとする夢の行為のように思われる。星野さんの写真や文章に現れていたあの奇妙なもの、この地球の軸を揺り動かすような衝撃は、その熊の夢だったと私は知った。(中略)ところで星野さんはなぜ熊に食べられたのだろう。そのような生き方をしていたからだ。文学に生きるのもきっと同じようなものだ。」

Thursday, October 11, 2007

鎌倉の東勝寺跡を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語83回

「本朝高僧伝」によれば、東勝寺は13世紀の前半に三代執権の北条泰時が創建し、開山は退耕行勇となっている。

はじめ禅密兼修で、のちに純粋の禅となったかなりの大寺であったが、元弘三年1333年、新田義貞に攻められた北条高時以下の一族郎党およそ800人がこの寺に立て籠もり、火をかけたのちに切腹して果てた。
これが有名な“いちみさんざん”鎌倉幕府の滅亡である。

頼朝一族をはじめ私の大好きな三代将軍実朝や名だたる名門氏族を次々に陰謀によって滅ぼした陰険で暗い北条政権は、今は、この谷戸のいちばん奥まった暗いやぐらの奥にひっそりと眠っている。

なんでもあの俳優の高倉健氏の先祖がこのとき滅んだ北条一族ゆかりの人らしく、年に一度は以前ご紹介した宝戒寺に詣で、このやぐらに卒塔婆を立てられるそうだ。
目を凝らすと本当に真新しい“高倉”の文字があったので驚いた。 

このようにいったんは破却された東勝寺だが、その後再建され、暦応五年1342年には関東十刹の第五位、至徳三年1386年には第三位の座を獲得している。

むかしむかしいずれのおほんときにか、この東勝寺の裏山には弾琴松という松があって、風に響くその松籟が尋常ではなかったという。私はぬかるんだ山道を駆け登っ東奔西走すみずみまでその名松を尋ねたが、ついに見出すことはできなかった。

参考「貫達人著鎌倉廃寺事典」

Wednesday, October 10, 2007

♪ザルツブルグ音楽祭2006の「フィガロの結婚」を観る。

♪音楽千夜一夜第26回

衛星放送で昨年のモーツアルト生誕250周年記念ザルツブルグ音楽祭のアーノンクール指揮、ウイーンフィルの「フィガロの結婚」を視聴した。最初FMで聴いた時は序曲の乗りの悪さや特有のぎくしゃくした運びに抵抗を覚えたが、そのときの演奏とは違うのか、今回はまずまずの出来栄えだった。正確には、モーツアルトの音楽の邪魔をしなかった、というべきか。

このザルツブルグ音楽祭では、スザンナを演じたアンナ・ネトプレコが指揮者のアーノンクール以上の話題になったようだが、それなりの美貌、それなりの歌唱と演技、ということで世間がわあわあ騒ぐほどのことはない。
いずれおちつくところに落ち着き、世界中のオペラハウスで稼ぎまわったあとで消えていくだろう。カラスのような、デヴァルディのような歌手の偉大さは微塵もなく、単なる消費財として使い捨てられて終るに違いない。

それでも強いて言えば、ネトプレコの唯一の取り得は美脚であろう。男たちはみな彼女の脚下に膝まずき、そのふくらはぎに口づける。そうしてクラウス・グートの演出は、この美しい足に対してこだわることで全編に偏執的な奇妙な味わいをもたらしているのだった。

というのも、この「フィガロ」では、クリスティーネ・シェーファーが演じるケルビーノをのぞいて、アルマヴィーヴァ伯爵も、伯爵夫人も、フィガロも、スザンナも、性愛への欲望をむきだしにしているのである。登場人物たちは彼らの空虚な生に耐えられず、やたらと舞台のフロアにごろごろ転がり、覆いかぶさり、ネトプレコなどは得意の騎乗位?まで見せつけるのだからたまらない。モーツアルトが見たらいったいなんと言うだろう。

ところが驚いたことに、グートの演出ではモーツアルトご本人が、舞台のいたるところにしょっちゅう登場して歌手たちと絡む。両肩に白い翼を乗せたアマデオ(天使)の姿をして……。こんなのありだろうか?

第四幕のフィナーレはどんな凡庸な舞台をいつ見ても感動的だが、グートは、愛とやすらぎのうちに結婚式に臨む三組のカップルのうち、バルバリーナとしぶしぶ組み合わされたケリビーノだけが天使モーツアルトの祝福を拒否して、彼の次のオペラ「ドン・ジョバンニ」の主人公として再来することを予告するなど、まことにこざかしい。また彼の今回の演出では、三幕までの室内を本来の舞台である庭園の代用にしようとする機能主義むきだしの精神がよくない。

それらを含めて、すべてにおいて己の頭の良さそうなことをひけらかしているようなグートの演出は、聴衆が純粋にオペラを楽しむことを妨げ、見た目にもわずらわしく、ちゃんちゃらおかしく、結局は霊感に満ちた天才の音楽の素晴らしさに泥を塗っている。シュトラウスではないけれど、やはりオペラは音楽第一、歌手第二、最後に演出、で願いたいものだ。

かく申す時代遅れの私は、J.Pポネル以降のオペラ演出がどうにも苦手です。当節ではそれが完全に逆転して世界中であほばか演出家が我が物顔に振る舞っているが、あんな見世物に大金を払うくらいなら、家でCDを聴くか、舞台形式での上演に行った方がよっぽどましである。

最後に、歌手ではアルマヴィーヴァ伯爵役のボー・スコウフスの歌唱と演技が見事。ケルビーノを演じるシェーファーは完全なミスキャストでした。

Tuesday, October 09, 2007

「オズの魔法使い」再見

降っても照っても第64回

不気味な小人たち(その多くが身体障碍者だろう)が続々登場してジュディー・ガーランドを取り囲むシーンはその起用の無神経さとヒュウマニテイの欠如にいつも胸糞が悪くなるのだが、吐き気をこらえながら気力を奮い起こして「オズの魔法使い」を衛星放送で再見した。

アメリカ幻想小説の祖L・フランク・ボームの原作を「風と共に去りぬ」のヴィクター・フレミングが監督した本作は、フランスの詩人ネルヴァルの「夢は第二の人生である」という考え方からの影響を受けていると思われる。弱虫のライオンが「お前さんはライオンじゃなくてダンデリオン(フランス語で“たんぽぽ”、直訳すると“ライオンの歯”)じゃねえか」とからかわれるところにも、監督と脚本のおフランス趣味が表われているような気がする。

(昨日久しぶりに見た私の夢は、ライオンともたんぽぽとも関係なく、私の口の中のすべての歯がぼろぼろ取れていくという不気味なものであった。これは夢判断だとどういうことになるのだろうか?)

さて、フランスで活躍したアメリカ人といえば、なんといってもフランクリンであるが、偉大な科学者にして政治家、外交官そして“ヤンキーの父”でもあったこの怪物こそは、この映画の隠れた主人公である大学教授こと“オズの魔法使い”のモデルであろう。
フランクリンは凧を揚げて雷雲が帯電することを証明したが、カンザス州の牧場を襲う竜巻からそのめくるめくファンタジーを開始するこの映画は、90年代に盛んに製作されたトルネード映画の草分けともいえる。

フランス社交界で活躍したフランクリンは、アメリカ伝統の典型的な“ほら吹き男”として、当時の欧州で好意的に認知されたこともつけくわえておこう。フランクリン一流の白髪三千丈的な素晴らしいホラ話が、この映画のベースに横たわっている。

平凡な日常ではモノクロ、夢の世界では華麗な色彩の対比は非常に鮮やかで、主人公「カンザスのドロシー」は皮相な現実と夢魔にみちた“虹の彼方”を行き来するなかで成長して大人になる。
ジュディー・ガーランドの大人とも少女とも見分けがつかない不気味な顔をよく見よう。これこそが当時の“アメリカ合衆国の顔”である。 

この映画が製作された1939年に第二次大戦が始まったが、この国は1941年に突如日本帝国の闇討ちによって真珠湾を攻撃されるまで“虹の彼方”の理想を求めながら独り世界をさまよっていたともいえよう。

そして映画は、There is no place like home(家ほどいいところはない)、という大合唱で幕を閉じる。ウッドロー・ウイルソンやその後継者のセオドア・ルーズベルト大統領以来、世界の警察官を自負して世界中を侵略し続けている米国だが、これは戦争に疲れた帝国主義者の本音でもあるだろう。

もともとはモンロー主義が専売特許であったこの國は、いずれわが帝国と同様、中華人民共和国との歴史的争闘に敗れて、可愛いドロシーちゃんが待つカンザスの片田舎に名誉ある帰還を遂げるに違いない。

ちなみに太平洋の孤島サイパンのスローガンは、There is no place like Saipanである。

Monday, October 08, 2007

五木寛之著「私訳歎異抄」を読む

降っても照っても第63回

浄土真宗の始祖親鸞が入滅しておよそ25年、さまざまな教説が登場して教線が大混乱するなか、異説の跋扈を嘆き、真の親鸞の教えなるものを唱導するために弟子の唯円が著わした「歎異抄」を著者が自分流にほんやくしたのが本書である。

「歎異抄」はこれまでも多くの人たちによって読解されてきたが、五木版のそれは知と情を兼ね備えた達意の名訳であると思った。

「善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という有名な悪人正機説のくだりも、「いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人々は、阿弥陀仏の救済の対象ではないからだ。ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちからから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心を改めて他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるにちがいない」
とじつにわかりやすく胸におちる。

悪人正機のみならず、念仏と往生、阿弥陀仏への帰依と絶対救済、他力本願など親鸞の基本的な考え方はなぜか不信者の私の心にも沁みとおった。

巻末に付された五味文彦氏の解説は短文ながら、南都北嶺の弾圧に耐えて関東、東国に力を伸ばしてきた法然、親鸞の布教活動を取り巻く承久の乱前後の情勢について私たちの理解を深めてくれる。

Sunday, October 07, 2007

加藤典洋著「太宰と井伏」を読む

降っても照っても第62回

何度も何度も作品を読み、考え、そして論理とひらめきの端子を辛抱強くつむぐことによって編み上げられた精巧な織物のような文芸評論である。

周知のように、太宰は1948年6月に玉川上水で山崎富枝と心中したが、それまでに都合4回の自殺未遂と心中を繰り返している。

しかしいずれの場合も左翼運動の行き詰まりや、生家からの除籍と結婚生活への不安、生家からの仕送りの打ち切り、妻の裏切りなどでその原因がはっきりしているが、唯一成功した最後の試みの原因だけが、以前深い謎に包まれている。

事実前年の「斜陽」で一躍洛陽の紙価を高からしめた太宰は、当時超人気の流行作家で、ひところの睡眠薬やアルコール中毒の後遺症からも脱し、少なくとも外見からは死ぬ理由などひとつもなかった。

それなのに太宰は「人間失格」を書いて死ぬ。そしてそれはなぜか?と著者は問うのである。

作者は「人間失格」をはじめ太宰治の当時の作品や生活、とりわけ恩師井伏との対立関係などを詳細に分析し、新しく敗戦が彼にもたらした戦争の死者への同情と後ろめたさ、またそれと拮抗するように再び呼び出された、「忘れたい、そして忘れがたい人間の記憶」が、彼を死に突き動かした最大の要因であると指摘している。

「ひとからなんと思われようと、おれは生きる」といったんは決意して小山和代と別れたはずの太宰は、しかし「純白の心」を持つ死者たち、すなわち

 大いなる文学のために、死んでください。
自分も死にます、この戦争のために。

と、太宰に書き遺して死んだ若き弟子たちとの約束を果たすために、あの三島のように潔く自死したのである。

この本では、太宰とその恩師井伏の晩年の角逐についても詳しく紹介されている。

どんなに汚れた心に身を堕しても、したたかに生き延びる頑強な生活者である井伏に多大の恩義を感じながらも、太宰は、最後の最後の瞬間に反旗を翻して、「家庭の幸福は諸悪の本」という純白の御旗を勇ましく打ち振りながら死地に乗入れた。

飼い犬に激しく手を噛まれた渡世の達人井伏は、内心忸怩とした気持ちで最愛の弟子を見送ったにちがいない。

さらに著者は、三島と太宰は同じ死に方をした、と本書で断じている。
彼らは、平和と民主主義と幸福と豊かさと醜い大人の処世術というものにまみれた彼ら自身の戦後の薄汚い生き方をどうしても許容できず、己の手で己を切断する道を選んだというのである。かててくわえて、三島の恩師川端までも、三島の「純白の心」からの糾弾を受けて後に自死を遂げている。

太宰の遺書と考えられる「人間失格」の丁寧な読み直しから記述されるこれらの考察はきわめて論理的で説得力に富む。

しかし、確かに太宰の晩年の心境が「ギリギリのところで正直に語られている」作品だとしても、その次に書かれた、太宰の本当の遺作にして絶筆の「グッドバイ」は、いささか「人間失格」の世界とは異なる心境が披瀝されているように私には感じられる。

太宰は「人間失格」においてドンズマリに陥った即死状態から懸命に身を起して、ふたたびこの汚れた人間共魑魅魍魎どもが跋扈する穢土に雄雄しく居直り、もういちど生き直そうとしていたところ、運命の女との突然の遭遇によって不慮の死を遂げたのではないだろうか?

成熟した大人がこの世で生きることの苦しさと馬鹿馬鹿しさとユーモアとペーソス……。太宰の未完の最後の作品「グッドバイ」は、ヴェルディの最後にして最高のオペラ「ファルスタッフ」に似た独自の世界の端緒を創造することに成功している。

もしも太宰が、彼一流のファルス、人間喜劇の新しい物語を見事に歌い終えていたならば、彼はもはやけっして自死への誘惑に身を任せることはなかっただろう。

とまあ、著者の驥尾に付して勝手なことを書き連ねてしまった私だが、本人ならぬ私たちが死んでしまった人の死因をあれやこれやと臆面もなく想像し、とやかく議論することなど不遜であるばかりか、そもそもその作業自体が不可能なのではないだろうか? 

もしそうだとすれば、本書の著者の最初の問いかけ自体が虚妄であるというほかはない。

Saturday, October 06, 2007

07年9月の歌

♪ある晴れた日に その14

海からの風はかすかに鼻をさし今年の夏はいま逝かんとす

梓川青き流れに座しおればマガモの家族餌をねだり来る

飛騨高山上三之町の軒下に咲いていたのは天青の花

ひともとの白き芙蓉の花残しきたみ工房引っ越しにけり

らあらあときょうも賛美歌うたいつつ白髪の老人橋上に立つ

イタリアの脳天気テノール死にたれば地球は少し暗くなりたり(パヴァロッテイ死す)


大本営の秘密漏らさず逝きにけり (瀬島龍三死す)

季語のない俳句をひとつよみました

叱られて今日はどこまでゆくのでしょう

天青のなかに海と空がある

どうしても好きになれない人がいる(安倍退陣)

須賀線に身を投じたるカンナかな

クワガタの肉に食い入る痛さかな

おタマより手塩にかけし蛙かな

名月や世に格別のこともなし

けふもまた蝶よ花よで日が暮れる

紋白蝶に纏わりつかれるうれしさよ

てふてふは未来のために生きている

マンジュシャゲに願を掛けるか揚羽蝶

Friday, October 05, 2007

鳥越碧著「兄いもうと」を読む

降っても照っても第61回

鳥越碧という作家が「兄いもうと」という本を書いたので、読んでみるとなんのことはない正岡子規と律の兄妹物語だった。

子規の壮絶な晩年を母の八重と共に、妹の律が献身的に支えたことは広く知られているが、その家族愛の根底に“秘められた男女の愛の絆”を想定したことが本書の大きな特色であろう。

確かに律の観点から兄の短すぎた晩年を描こうとすれば、“単なるきょうだい愛を越えた異性愛”という“いまどき風の異色のファクター”を導入したほうがドラマチックな展開になるのは知れたことだが、その根拠は、お話を面白おかしくしようとする著者の読者サービス精神以外のどこにあるのだろう?

律の性格や看護について「仰臥慢録」にいくばくかの記述は出ているが、自伝のどこにも立ち昇った形跡のない薄煙を、まるで業火のように針小棒大化して、さながら近代深層心理小説のようにとくとくと書き継ぐ著者の神経に私は疑問を抱いた。

もっともあの江藤淳だって、悪妻が漱石を毒殺しようとした、なぞと本気で考えていたわけだから、当たらぬも八卦かもしれないが、ともかく私はこんな妄想的想定自体が想定外に不愉快だった。そんな小手先のテクニックを使わなくても最後の第九章などは十分に感動的な読み物になっている。

余談ながら、私は子規の小説より、俳句より、短歌より、お得意の写生文よりも、彼が激痛の合間に描いた水彩画が好きだ。

草花を画く日課や秋に入る 子規

Thursday, October 04, 2007

藤原伊織著「遊戯」を読む

降っても照っても第60回

最近亡くなった藤原伊織の遺作「オルゴール」と同じく未完の短編連作「遊戯」全5編が収められているが、やはり後者の雄大な構想と読み進むにつれて高まるスリルとサスペンスが心に残る。

登場人物は人材派遣業種に勤務する30代の男性と、ネットで知り合った20代の女性、その二人を脅かす謎の中年男という設定だが、著者は得意とするインターネットや広告・モデル業界やテレビCM制作現場の知見をフルに活用して、平成十九年の御世に棲息する同時代人の、格別面白くもない日常を平凡に生きる喜びと悲しみを知的に抑制された筆致で淡々と描き出していく。

しかしそれだけではなく、この物語では、パソコンゲームや派遣ワーカーやワインや道玄坂のバーやホテルや冷たい拳銃や銃弾やバイオレンスなどの、いかにもありそうな道具立てが手際よく点描され、いまどきの若い男女がクールに交わす乾いた双方向コミュニケーションの情景が上出来の風俗画のように次々に繰り広げられ、読者の心をしっかり捉えて離さない。

恐らくは全編の半分の道程で静かなること山の如きこの見事なサスペンス心理大作が著者の死によって永遠に途絶してしまったことは、まことに残念至極である。

しかし旧弊な人である私は、この作家が叙述文の中で頻繁に使用する、「なので」といういまどきの話し言葉がとても気になった。やはり味噌と糞とは区別しなければなるまい。

Wednesday, October 03, 2007

マリー・アンジェリック・オザンナ著「テオ もうひとりのゴッホ」を読む

降っても照っても第59回

兄である画家ヴィンセントと画商である4歳年下の弟テオの双生児的・同性愛的関係を、テオにスポットライトを当てながらその全生涯を丹念に回顧したイストワールが本書である。

ゴッホ、ゴッホというけれど、長兄ヴィンセントが誕生したのは、あのペルリが黒船で浦賀にやって来た嘉永6年だからまあつい最近の話である。

そもそもゴッホ家は先祖代々の篤信家で、父親は新教の熱心な牧師であったが、その真似事までやった兄と違い、テオはキリスト教の教義を激しく疑っていた。

しかしこの兄弟はときおりの喧嘩や行き違いがあったものの、まさに一身同体の人生を歩むことになる。

兄弟は一族の遺伝である精神病を二人ながらに患ったこともある。また兄が一時画商の見習いを勤めたように、弟も画家を志した時期もあった。二人はまるでシャム双生児のように、分離される前のベトちゃんドクちゃんのように、心身ともに依存しあいながら、「ぼくらの作品」を共同で制作しながら病で倒れ、短かい生を激しく燃焼しつくして彗星のようにこの世を去ったのであった。

よく知られているように、兄ヴィンセントは1890年7月、37歳でオーヴェールでピストル自殺するが、その直接の死因はテオが毎月150フランの仕送りを保証できないと兄に告げたためだった。当時ヨハンナと結婚し愛児ヴィンセントが生まれたばかりの弟は、パリの画廊グーピル商会の支配人であったが、昇給を認めず、印象派の絵画に無理解で保守的な考え方の画廊経営者と激しく対立し、あまつさえ梅毒の後遺症が心身を蝕んでいく懊悩を抱えるなかで、兄の援助を放棄してグーピル商会を辞して独立しようとひそかに考えていた。唯一の庇護者である弟の窮状を察知した兄は、それが最善の方法であると確信してみずからの胸に弾丸を撃ち込んだのだった。

たつきを失い、最愛の弟をヨハンナとヴィンセントに奪われたと感じていた兄に残された選択は、自死しかなかったのである。兄の死に大きな衝撃を受けた弟の病状はいっきに悪化し、錯乱して妻子に暴力を振るうようになる。

1890年11月18日にユトレヒトの精神病院に入院したテオは、絶望に打ちひしがれた若き妻子を残して、あのフランツ・シューベルトと同じ31歳、同じ病(梅毒末期の全身麻痺)で翌91年1月25日に息を引き取った。

テオの忠実な友ピサロの嘆きの言葉や、めったに人を褒めないゴーギャンの「テオが狂った日に私も終った。私はもうどうやって絵を売っていいか分からない」という言葉が、数多くのヴィンセントの作品とともにあとに残された。

それにしても当時誰一人として認めようとしなかったゴッホの作品とその悲惨な生涯の意味と価値を、生前もうひとりのゴッホが、

「もう兄さんは治らないだろう。彼のした仕事は無駄にはならないが、実を結ぶことはないだろう。世の中が彼が絵の中で語っていることを理解するころにはもう遅いのだ。彼は最も先を行く画家であり、最も理解しがたい作家だ。彼の思考は世間の常人から遥かに隔たったところにある。だから彼の言いたいことを捉えるにはまず既成概念からすっかり解放されなければならない。理解されるとしてもずっと後世になってからだろう」

と的確に予言していたわけだが、その「理解の時期」はテオが想像したよりも意外に早かった。

ヴィンセントの真の復権と輝かしい栄光の日々は、1953年の彼の生誕100年を期してテオの息子ヴィンセント・ウイレム・ヴァン・ゴッホが祖父の作品展を開催した日にはじまったのであった。

Tuesday, October 02, 2007

杉本観音の自転車屋さん

鎌倉ちょっと不思議な物語82回&遥かな昔、遠い所で第21回

肌寒い雨の中を、神中運輸の産廃運搬車がぼろぼろになった自転車を運んでいった。

あれは確か25年前のことだった。2万5千円くらいしたブリジストンの最新型のかっこいいやつを杉本観音下の自転車屋で買ってやったのだが、少年が喜び勇んでどこかに乗って行ったら、いきなり誰かに盗まれてしまって、二度と出てこなかった。

それを知った自転車屋のおじいさんが、
「それはお気の毒だったネ。代わりにこれでも持っていきなされ」
というて譲ってくれたのがその自転車だった。

もとよりオンボロ自転車だったが、以来五年、一〇年、そして25年の歳月が流れ、少年は大きくなってとっくの昔に遠い町に行ってしまったので、もっぱら私が彼の自転車に乗ることになった。

私はいつも雨ざらしのために褐色にさびついたオンボロ車を駆って鎌倉中を疾駆し、いつでもどこでも鍵を掛けずに停めていたのに、今度は誰も盗まないのだった。たった一度だけ一晩放置していた間に消えうせたことがあったが、それは放置自転車狩りに遭ったとみえて東勝寺の脇の市の自転車置き場で見つかった。

おじいさんはその自転車がパンクしたり、ベルが取れたり、チエーンが外れたりするたびに何度も何度も無料で修理してくれ、よほど大きな修理でも200円を超えるお金はびた一文受け取らなかった。私が無理矢理500円玉をそのしわくちゃの手に握らせようとしても断固として拒否したものだった。

いつもきたない作業着を着て、無数の自転車や中古オートバイと油とゴミにまみれ、いつも腰を正確に45度に折ったまま、ビュンビュン車が走り去る道路の傍にしゃがみこんで修理していたおじいさん。
一日で幾らの収入があったか分からないけれど、靴屋のマルチンのごときその質朴で真面目で正直な仕事ぶりはいつも変わらなかった。
ある日のこと、またしても自転車がえんこしたので、私が杉本観音までえんやこら、えんやこらとひっぱっていくと、お目当てのおじいさんの姿はどこにも見当たらなかった。

店の奥から息子さん(といっても4、50代だが)が出てきたので、「おじいさんはどうしたのですか?」と尋ねると、「去年の2月に交通事故に遭って亡くなりました」という返事に、私は絶句した。

自転車を丁寧に診察してくれたその息子さんも、父親に似て質朴で真面目で正直な職人で、「これはすぐには直らないので修理が終ったら私がおたくまで届けます」と約束し、翌日修理の終ったボロボロ車をピカピカに磨いて自動車に乗せて玄関口まで運んでくれた。料金はたったの100円であった。

おじいさんが亡くなってしまったその自転車屋さんは、その息子さんとその息子さんの息子さんの2人が跡を継いで、いつも道路脇の溝の上に腰を下ろして夢中で修理している姿を見かける。

 けれども私の自転車は、今回はもう修理どころではなかった。チエーンが劣化してとろとろになり、走るたびに外れてしまう。いよいよこれで御用済みだと思い切り、ついに涙を呑んで廃車にすることにしたのである。

長い歳月を共にしたおんぼろ自転車を積んだトラックが、雨の和泉橋を右折して走り去るその後姿を、私はしばらく見詰めていた。

Monday, October 01, 2007

紅葉山やぐらと東勝寺橋

鎌倉ちょっと不思議な物語81回

宝戒寺の奥には昭和8年1933年に発見された「紅葉山やぐら」がある。

この附近のやぐらは鎌倉・室町の上層階級の墳墓と考えられているが、ここからは五輪塔、納骨堂、さらに海蔵寺と同様の十六井戸が見つかった。

そして平成11年1999年の大崩落の際に、神奈川県教育委員会の調査で、ここが北条執権ゆかりの納骨個所であることが確認された。

紅葉山やぐらに渡る橋から滑川の下流を眺めると、鎌倉で現存する最も古い赤くて瀟洒なな東勝寺橋が見える。

最近これを味けないコンクリート橋に架け替えようとする計画が発表されたようだが、四季折々の見事な景観を維持するために、どうかこのままにしておいてほしいものである。

鎌倉の宝戒寺を訪ねて

鎌倉ちょっと不思議な物語80回

この寺の一帯は北条義時の代に一門の屋敷が築かれ、その後歴代の得宗家が最後の執権十六代守時の代までここで総指揮を執った。三つ鱗は三菱ではなく、北条家の家紋である。

その後、北条氏打倒の命を下した後醍醐天皇が北条一門の怨霊鎮護のために足利尊氏に命じて同じ場所に建てたのがこの宝戒寺である。

その後醍醐天皇を滅ぼした形になった足利尊氏が、亡き天皇の慰霊のために京都に建立したのが天龍寺であるから、思えばこの二つの寺は不思議な縁によって結ばれているともいえる。

本堂には本尊の菩薩像のほかに梵天像、帝釈天像、不動明王などが安置されており、境内右には2世普川国師が鎮護国家を祈念して歓喜天を安置した大歓喜天堂、左には北条氏を供養する宝篋印塔が建てられ、さらに本堂を巡る庭園には、正月の羽子板の羽根の重石に使われるムクロジュなど、四季折々のさまざまな花や植物が植えられている。