ゴローの妻 メリザンド:エレナ・ツァラゴワ、ジュヌヴィエーヴ:アンネ・ソフィー・フォン・オッター
Thursday, June 07, 2012
フィリップ・ジョルダン指揮パリオペラ座バスチーユの「ペリアスとメリザンド」を視聴して
ゴローの妻 メリザンド:エレナ・ツァラゴワ、ジュヌヴィエーヴ:アンネ・ソフィー・フォン・オッター
Wednesday, June 06, 2012
ティーレマン指揮・ウイーンの「影のない女」を視聴して
Saturday, June 02, 2012
パッパーノ指揮ロイヤルオペラ「トスカ」を視聴して
Tuesday, March 27, 2012
バレンボイム指揮スカラ座の「ドン・ジョヴァンニ」をビデオで鑑賞する
2011年12月7日、世界の一流オケとオペラハウスを渡り歩いた舞酢吐露馬連母威武がついにミラノのスカラ座を射止め、このモーツアルトがそのお披露目となりました。なんせ大統領と首相臨席のスカラ座でイタリア国歌を振るのだから物々しい。
バレンボイムの指揮は三〇年前に巴里のシャンゼリゼ劇場でパリの管弦楽団とやったときとまったく同じぎくしゃくして不自然でとってつけたような劇伴ですが、ドンナ・アンナにアンナ・ネトレプコ、ドンナ・エルヴィーラにバルバラ・フリットリという配役が凄いので、いやがうえにも期待が盛り上がります。
才人ロバート・カーセンの演出はこの二人の裸や下着姿、とりわけ乳房の谷間をこれでもかこれでもか見せつけようとするもので、個人的にはなかなか楽しめましたが、冒頭ドン・ジョヴァンニに強姦されているはずのドンナ・アンナが快感に悶えているという演出はいくらなんでも行きすぎではないでしょうか。その忘れられない男の顔をようやく思い出すのが2幕になってからとは、なんぼなんでも遅すぎるでは。
それにしてもあれほど純情可憐だったアンナ・ネトレプコがころころ無様に肥ったこと。まるで人類ではなく子豚のような顔つきでモーツアルトのアリアをヴェルディ風に激唱する姿には驚かされました。この人に歌唱指導者はいないのでしょうかね。カラヤンなら首にしますよ。
それでも全盛期を過ぎて高音がまるで出ないバルバラ・フリットリよりははるかにましな演奏でしたが、表題役のペーター・マッテイも終始衛生無害のボンボンにしか見えず、辛うじて鑑賞に耐えたのはウエールズの快男児ブリン・ターフェルひとりという体たらく。こんなおそまつなプルミエにやんやの拍手喝采を呉れているスカラ座の観衆が阿呆に見えてしかたのないハイビジョン映像でした。
いやあモーツアルトのオペラって難しいですねえ。
配役 ドン・ジョヴァンニ:ペーター・マッテイ、ドンナ・エルヴィーラ:バルバラ・フリットリ、ドンナ・アンナ:アンナ・ネトレプコ、ドン・オッターヴィオ:ジュゼッペ・フィリアノーティ、レポレロ:ブリン・ターフェル、ツェルリーナ:アンナ・プロハスカ
マゼット:ステファン・コツァン、騎士長:クワンチュル・ユン
交合をかくにんした人とパンダの恥ずかしさ 蝶人
Thursday, March 08, 2012
森本恭正著「西洋音楽論」を読んで
クラシックに狂気を聴け、という副題が付いているのだが、全体をつうじてこの人がいったい何を言いたいのかさっぱり分からなかった。
この人がライブやCDを聴くと演奏を聴くと、欧州人の音楽はアフタービートで、日本人は前拍なので邦人演奏家のものはすぐに分かると豪語するのであるが、ほんまかいな。
楽聖ベートーヴェンはほとんどの作品をアフタービートで書いたが第9交響曲の終楽章だけはオン・ザ・ビートで書いたとか、同曲の同楽章の冒頭で「おお友よ、このような音ではなく」とバスが歌い出す直前のオーケストラの強奏で不協和音が鳴り響くのは、「このような非整数の倍音によるノイズ音楽を諸君は受け入れるのか? いやそうじゃないだろ?」と語りかけているのだという著者の推論は、どちらかというと誇大妄想の類ではないだろうか。
しかし「君が代」は世界で唯一戦争を放棄している国家にふさわしく、ヨーロッパの旋律で作られていない(右翼的ではなく)右脳的な国歌であり、いくら軍隊に強いてもこの行進曲では歩けない反戦的な国歌であるという指摘はなかなか興味深いものがあった。
「君が代」は右翼的にあらず右脳的国歌とはつゆ知らざりき 蝶人
Saturday, January 07, 2012
小澤征爾×村上春樹著「小澤征爾さんと、音楽について話をする」を読んで
クラシックとジャズに一家言ある作家だからこういう対話集を出してもおかしくはないが、それが小澤征爾とはちょっと意外だった。なんでも村上氏の細君と指揮者の娘さんが仲良くなって家族ぐるみの交際をするようになった副産物らしい。あんまり期待もしないで読み始めたのだが、これが意外なことにとてもおもしろく、あっという間に読み終えて、新年早々良い音楽を聴いたときのような軽い幸福感を味わうことができた。
対談と言ってもほぼ100%小説家が聞き手です。くだんの音楽家に3回ほど時間をとって比較的素朴な質問を発すると、それに音楽家が一生懸命誠実に答える。そのあとでテープの録音を小説家が丁寧にリライトしたものなのであるが、プライベートな時空間における対話であることと、聞き手の切り口が単純で明快で率直にして巧妙なために従来のインタビューや対談からはとうてい聞き出せなかった音楽家の偽らざる本音が、音楽と生活の両面にまたがってじゃんじゃんとこぼれおちる。私のように小澤の音楽をてんで評価しない冷たい人間にとっても望外の収穫がありました。
特に精気がみなぎるのはレコードやCDやDⅤDを視聴しながら2人で感想戦?を戦わせるくだりで、50年代にグールドとバーンスタインやカラヤンが入れたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番のレコードを聴きながら、今は亡きグールドや現役の内田光子の天才やゼルキン父子の思い出を今ここに流れている音楽に即し、ともにスコアを見ながらあれこれ具体的に語るところはものすごく説得力がある。私も彼らと同じ音源を流しながら彼らの発言を読んだが、小澤本人はもちろんだが村上春樹の音楽の読みの深さには秘かに舌を巻いた。これあるから小澤も進んでみずからを開いたのだろう。
マーラーやサイトウキネンやウイーン国立歌劇場、スイスのロール(ゴダールの居住地!)で開催されている国際音楽アカデミーのマスタークラスについても知られざる情報がてんこもり。師事したバーンスタインやカラヤンとの生々しいエピソードはもちろんだが、世界中の行く先々でオーマンディーやベーム、クライバー、ルビンシュタイン、ヨーゼフ・クリップス、ポネル、パバロッテイ、フレーニなどの音楽の先輩たちから与えられた数々の無償の好意と友情を授かったアジアの音楽快男児の持って生まれた幸運を思わずにはいられない。
小説家が、自分は音楽を作曲するようにして毎朝4時から小説を書いているとふと漏らす言葉も意味深い。そういえば漱石、荷風、潤一郎にしろ春樹、光代、弘美にせよ優れた小説家の文章の芯にはそれぞれに固有の音楽が流れているな。
倒れながらよくぞ電話をかけてきた正月6日義母92歳 蝶人
Friday, December 09, 2011
ジョルジュ・プレートル指揮ウィーン響の「マーラー交響曲第5番」を聞いて
♪音楽千夜一夜 第231回
これは驚いた。どこまでも透明で明確で真率な音楽が、最高の音質と最高の棒で滔々と流れていく。ワルターからバンスタイン、テンシュタットを経てアバド、シノーポリ、ラトルまで幾星霜にわたって紆余曲折のかぎりをつくしてきたマーラー演奏の、いわゆるひとつの決定的名盤がついにリリースされた感が深い。
1991年5月19日にウインコンツエルトハウスで行われたライヴ演奏だというのに、プレートルの棒は冴えに冴えわたり、書かれた音符の底の底まで眼光紙背に徹してウィーン響を完璧に牽引する。間違えてはいけない、こういう指揮者だけをマエストロと呼ぶのだ。
かようにどんなに言葉を尽くして褒めすぎにはならない「音楽的超名演」なのだが、惜しむらくはこの演奏からはマーラーそのひとの孤独や悲惨や苦悩のひとかけらも聞こえてはこない。おそらくプレートルが音化しようとしたものは、マーラーの音符に過ぎず、彼の人物や音楽観ではなかった。マーラーに傾倒し、愛するがゆえに演奏しようとしたワルターやクレンペラー、バンスタインやテンシュタットと鋭く一線を画するものはその一点である。
マーラーを好きでも嫌いでもない人がマーラーを名演してもこりゃ詮無いわなあ 蝶人
Sunday, October 23, 2011
ヘンデルの「オペラ・コレクション」を聴いて
♪音楽千夜一夜 第226回
大廉価メーカーのソニーグループが傘下レーベルを総動員して編んだヘンデルの偉大なオペラを2週間ほどで聴き終えました。
この「音楽の母」には全部で40曲以上のオペラがあるようですが、そのうちの比較的ポピュラーな8曲、すなわちリナルド、ジューリオ・チエーザレ、タメルラーノ、ロデリンダ、アレッサンンドロ、ロターリオ、パルテーノペ、セルセをジャン・クロード・マルゴワール指揮王室大厩舎・王宮付楽団、ジュリアス・ルーデル指揮ニューヨーク市オペラ管、ミハエル・シュナーダー指揮ラ・スタジヨーネ、クイケン指揮ラ・プチットバンド、アラン・カーチス指揮イル・コンプレッソ・バロッコでくいくいと聴かせてくれる素敵な22枚組CDセットです。
80年代初頭のサンフランシスコでは、ヘンデルのオペラに初めて接したというバークレー校の大学生が、オペラハウスで興奮しながら「これは誰の作品か」と東洋人の私に尋ねたくらいマイナーな存在でしたが、今では世界中でライブが興行されて多くの聴衆を集めるようになり同慶に堪えません。
どの曲も演奏も録音もすぐれていますが、とびきり新鮮なのはマルゴワール指揮王室大厩舎で、古楽器ながら現代的センスと解釈で、いつまでも私のロバの耳を惹きつけてやまないのでした。
狭き庭に巨大な棕櫚を植えし人 蝶人
Friday, October 14, 2011
EMIの「マルタ・アルゲリッチ・ソロ&デュオ集」を聴いて
♪音楽千夜一夜 第224回
1965年から2009年の間に彼女が演奏した独奏曲と連弾を集めた超バジェット6枚組CDでげす。
しかしソロはシューマンの作品15と46、ショパンの作品24等をスクープしたたった2枚しかなくて、あとの4枚はコワセヴィッチやフレーレや、その他名前を聞いたこともないあれやこれやのピアニストとの2重奏ばかり。
で、演奏はというと、私の嫌いなショパン(コルトーとフランソワの演奏だけは例外)はやはりこの人でもつまらないが、あとは、みないい。すごくいい。とりわけモーツアルトのk501とメンデルスゾーンの作品21は大変素晴らしい。
最後になりましたが、このピアノの天才の演奏をひとことで表現すると
驚天動地生成流動才気煥発丁々発止清新溌剌縦横無尽 蝶人
Tuesday, October 11, 2011
ジュリアード弦楽四重奏団のモーツアルト集を聴いて
♪音楽千夜一夜 第223回
お馴染みのソニーによる超格安セットですが、いくら安くても駄目なものは駄目だ!とあら懐かしや土井委員長。ハイドンセットや弦楽五重奏曲の全集を6枚のCDにセットした演奏は見事なのですが、ともかく録音が悪いから聞くに堪えません。
マイクの設定からして近すぎます。まるで大正時代の五右衛門風呂の大衆浴場風で採録したような粗大な音だから、あとで編集しようとしてももう遅い。ともかく録音プロヂューサーがクラッシック音楽のことを分かっていないから、こういう荒く汚らしい調音をするんだな。
今はどうか知らないが、昔のCBSコロンビアやCBSソニーの録音技師はこういうデリカシーのないアホ馬鹿自称専門家が多かったに違いない。
この盤も相当なものだが、少し前に発売されたブタペスト弦楽四重奏団の3回目のステレオ録音も、演奏は素晴らしいのにもっともっとひどかった。リリー・クラウスのモーツアルトのピアノソナタの2度目のステレオ録音も同様で、きっと同じアホ馬鹿技師が手掛けたのだろう。
CBSのみならずドイツグラモフォンの録音技師にも酷い奴がいて、お陰でケンプの2回目のベートーベン全集の出来栄えをさんざんなものにしてしまった。世の中で下手な政治家と指揮者と録音技師ほど罪なものはありませんな。
自閉症を脳障害と認知できず百歳になりたる大病院長 蝶人
Sunday, September 25, 2011
四方田犬彦著「ゴダールと女たち」を読んで
照る日曇る日第456回
「女は俺の成熟する場所だった」という、ここに記すだに気恥ずかしい小林秀雄の顰にならって、このたび著者が用意したのは、希代の気狂い監督ゴダールの変貌常ならぬ思想と映像哲学を、もっとも分かりやすい物差しをあてがってぶった切ろうという手法で、これがある程度ハマッっているのは同慶に堪えない。
まずは「勝手にしやがれ」で一躍ヌーヴェルヴァーグのヒロインとして世界的に名を馳せたジーン・セバーグちゃん。黒人解放運動にかかわった彼女は謎の非業の死を遂げたが、若き日のゴダールのミューズであったことは間違いない。
デンマークから赤いスカートでふわりと巴里に舞い降り「気狂いピエロ」で一世を風靡した超キュートな現役アイドル、アンナ・カリーナとの嵐の4年間が破綻すると、お次はフランソワ・モーリアックの孫娘で現在フランスを代表する作家となったアンヌ・ヴィアゼムスキー選手。ゴダールと結婚した彼女は毛沢東思想にかぶれた「中国女」を演じさせられた。
あほばかヤンキー娘のジェーンフォンダ嬢を挟んで、お次は70年代から40年間にわたって現在までゴダールに圧倒的な影響を与え続けているアンヌ・マリ・ミエヴィル女史。極左冒険主義のドツボにはまり生と芸術の隘路で立ち往生していた孤独な主人公を救済したのは彼の同伴者にして師、批判者にして愛人である聡明な美女であった。
ひとたびは死んだゴダールをよみがえらせ、新たな創造の火を点火させた最大最高にして最後の女神こそ1985年製作「マリーの本」の女流監督なのであった。
おいらの最後の女それはアンヌ 僕ちゃんを見捨てないでねえとゴダールが泣いた 蝶人
Friday, September 23, 2011
青柳いづみこ著「グレン・グールド」を読んで
照る日曇る日第455回
グールドといえばバッハのゴルトベルク変奏曲だが、彼を世界的に有名にした1955年の録音は我が国でも吉田秀和氏のみのすぐれた聴力によって正しく評価されたわけだが、その前年の録音ではグールドはまったく別の解釈で同曲を演奏している。
前者ではご存知のようにスタッカートの鋭い刻みが強調された快速で疾走する即物的な演奏が旧態依然たるバッハ像を刷新したのだが、後者ではもっとテンポを落として自然に旋律を歌い込んでおり、いきなりこれを聞かされてグールドと言い当てる人はいないだろう。そして1981年の彼の最後の録音ではこれがもっと遅くなりほとんどロマンチックな演奏へと変身している。
1957年にカラヤン・ベルリンフィルとライブ演奏したベートーヴェンのピアノ協奏曲3番と、その2年後にバーンスタインとスタジオ録音した同曲とを聴き比べてもずいぶん違うし、1964年に完全にコンサートをドロップアウトする前とその後のグールドの演奏はもちろん全然違う。
ではいったいどの演奏が本当のグールドなのだろうか?
彼のありとあらゆる演奏、特に未発表のそれを丹念に聴きながらその正体を探り出そうとする著者の追及の手は、同業のピアニストらしく繊細にして苛烈であり、読者の関心を引きつけてやむことがない。
例えば後期ロマン派の音楽、とりわけシュトラウスを好み、若き日にはショパンを鮮やかに弾きこなしたグールドだったが、強大なフォルテを叩きだすべき右手の小指の肉が薄いうえに、彼の恩師ゲレーロが教えた「指先だけで弾く奏法」が仇となって、巨大なコンサートホールでリストやブラームス、チャイコフスキーなどのロマン派の大曲から遠ざかったと著者はいう。
身体の負荷のかからないバッハなどの演奏を、彼の大好きなロマンチックな解釈をあえて禁じて時流に先駆けた超クールでドライな高速ノンレガート奏法を採用したのは彼の音楽家としての戦略であり、この肉を切らせて骨を断つ捨て身の戦法が、「録音音楽家」としてのグールドのユニークな生き方をかろうじて成立させたのだろう。
無数の制約にがんじがらめにされ、その場限りで消えていくコンサート演奏ではなく、スタジオで録音した音楽をハイテクを駆使して独力で自由自在に編集・創造していく未来音楽の第一歩を、この天才は半世紀前に実践していたのだった。
玄関の鈴ピンポンと一回だけ鳴る夜もあり 蝶人
Tuesday, July 05, 2011
アバド指揮「チャイコフスキー交響曲全集」を聴いて
♪音楽千夜一夜 第211夜
これまたソニーの叩き売り超廉価盤CDですが、珍しやクラウディオ・アバドがシカゴ響を指揮しています。最近のアバドは「知・情・意」が絶妙に融合された名演奏を聞かせてくれるようになりましたが、これはちと知が勝ち過ぎて、情と意に欠ける演奏で、そのかわりにチャイコフスキーの管弦楽の構造が清明に透けて見えてくるような不思議な聴後感が残ります。
カラヤンやロストロポーヴィッチその他の指揮者で1番や2番、3番を聴いても、作曲者がなにを言いたいのか全然分かりませんが、アバドだとなんとなく分かった気にさせてくれる。しかし4番5番6番では全然興奮しない、できないという、よくいえば都会的でクールなチャイコフスキー、悪く言えばカタルシス皆無のチャイコということかしらん。
ところが交響曲よりも聴き映えがするのは序曲1812年やスラブ行進曲で、天才の天下の駄曲が立派な演奏に変身するところが、さすがはインテリアバドです。
天啓の如く鮎閃きぬ 蝶人
Saturday, July 02, 2011
Sony盤「ロベール・カサドシュ・プレイズ・モーツアルト」を聴いて
♪音楽千夜一夜 第210夜
毎度おなじみのソニーの超廉価盤5枚組CDでカサドシュのモーツアルトを聴いたのですが、いったいどうしたことか、さして心が弾まない。昔LPで聞いた時には、ああ艶なるかな!と二嘆、三嘆して飽かなかったのに、これは異なこともあったものじゃ。
コンチエルトは15、17番から21、22、23、24、26、27の代表曲がみな収められているというのに、あのフランス風の典雅な指のこなしが何回聞いても再現できないというのは、私の耳がまたしてもロバの耳に退化したのか、あるいは最新型の24bitの復刻が災いしているのかのどちらかでしょう。
どこかにLPがあるはずですが、探し出すのに1週間はかかるでしょうからもう諦めていつか確かに耳にしたはずの洗練され尽くしたギャラントな洋琴の調べを無理にでも思いだして胸の奥で奏でてみることにいたしませう。
そんな残念無念なコンピレーションでしたが、そこをおしてあえて指を折るならば、ギャビー、ジャンとの家族3人で合奏したk365と242の2台&3台のピアノのための協奏曲とフィラデルフィア木管5重奏団と入れたk452ということになるでしょうか。
今宵特許許可局開店杜鵑 蝶人
Monday, June 06, 2011
フルトヴェングラーの「THE GREAT EMI RECORDINGS」を聴いて
♪音楽千夜一夜 第203夜
昔の指揮者の古い録音を聴いていると、いまどきの若手や中堅の音楽家がいかにつまらない低級な演奏に血道をあげているのがよく分かります。文学や映画もそうですが、古典的名作の凄さと素晴らしさを知らないで、阿呆な創作を夜郎事大に大展開している「期待の新人たち」のおゲイジュツごっこに付き合っているほどこちとらは暇でもないし、根気と親切も持ち合わせていないのです。
それでというわけでもないのですが、これは最近EMIから発売されたフルベンの21枚組の廉価盤で、何度も再発されたベートーヴェンやブラームスの交響曲全集やリヒアルト・シュトラウス、チャイコフスキーの悲愴、モザールの40番、ベトの歌劇フィデリオ、ワーグナーのトリスタンとイゾルデなどマエストロの代表作が要領よく網羅された珠玉のアンソロジーです。
今回聴いていまさらながらに感動を新たにしたのは、フィデリオとトリスタンとイゾルデで、既に所有している同じ録音と比べるとリマスターされたせいなのか音色がことのはかあざやかに甦り、(それはベートーヴェンの交響曲全集も同様)、やはりこの2つのオペラ、楽劇の演奏記録としては一、二を争う至高の境地に達しているなあと痛感させられた次第です。
しかしせっかくこういう名演に接した同じ耳で、これからまたしても幾多の凡演、駄演と付き合っていかねばならんと思うだに嫌気がさす今日この頃であります。
山笑う岩波文庫を読まぬ莫迦 茫洋
Sunday, May 29, 2011
小澤征爾指揮「賢い女狐の物語」を視聴して
♪音楽千夜一夜 第201夜
オケはサイトウキネン、松本市文化会館で2008年に収録されたビデオだが、小澤の指揮は相変わらず単調だ。
いつものように音色は透明であり、音譜の前後左右をまるで神経質な植木職人のように刈り込んであるが、いつものようにリズムが2拍子の尺取り虫の突貫小僧のようであるために、ヤナーチエックの音楽に必須の粘液質な遊びもためもメリハリもない。
ために3幕4幕のクライマックスになっても管弦の咆哮と抒情の絶美の歌がマッケラス&ウイーンのようには聴こえてこないのが残念というか当然の結果になってしまう。まあ所詮はその程度の音楽家なのであろう。
しかしなんという素晴らしいオペラをヤナーチエックは書いたことか。そこには人よりも深い獣の崇高な精神世界が昂然と歌われ、その穢れなき至高の境地に善導されるかのように人獣一致・善悪一致の極楽境が宇宙の彼方から奏されるのであり、このような別次元の音楽はかつてモーツアルトとワーグナーによってしか創造されなかった。
今を去る30年以上前に日生劇場で伊藤京子が若杉弘の指揮で歌った女狐の響きいまいずこ?
雨の月曜日は歌なんかを歌えない 茫洋