Thursday, March 08, 2012
森本恭正著「西洋音楽論」を読んで
クラシックに狂気を聴け、という副題が付いているのだが、全体をつうじてこの人がいったい何を言いたいのかさっぱり分からなかった。
この人がライブやCDを聴くと演奏を聴くと、欧州人の音楽はアフタービートで、日本人は前拍なので邦人演奏家のものはすぐに分かると豪語するのであるが、ほんまかいな。
楽聖ベートーヴェンはほとんどの作品をアフタービートで書いたが第9交響曲の終楽章だけはオン・ザ・ビートで書いたとか、同曲の同楽章の冒頭で「おお友よ、このような音ではなく」とバスが歌い出す直前のオーケストラの強奏で不協和音が鳴り響くのは、「このような非整数の倍音によるノイズ音楽を諸君は受け入れるのか? いやそうじゃないだろ?」と語りかけているのだという著者の推論は、どちらかというと誇大妄想の類ではないだろうか。
しかし「君が代」は世界で唯一戦争を放棄している国家にふさわしく、ヨーロッパの旋律で作られていない(右翼的ではなく)右脳的な国歌であり、いくら軍隊に強いてもこの行進曲では歩けない反戦的な国歌であるという指摘はなかなか興味深いものがあった。
「君が代」は右翼的にあらず右脳的国歌とはつゆ知らざりき 蝶人
Saturday, December 24, 2011
よしもとばなな著「スウィート・ヒアアフター」
震災で亡くなった大勢の無辜の民を悼むために、この作家がみずからも亡き人の在ます世界に沈入して懐かしい人たちとの交わりを深めようとするのは善い事であるし、それは小説家だけに許された特権かもしれない。
京都に住むアーチストとヒロインが乗った車は上賀茂に帰宅する途中で交通事故に遭いあっけなくこの世をみまかる。フリーダ・カーロのように腹に鉄棒を喰らった彼女だけは一命を取り留め、最大の不幸と絶望の中から再生を試みようとするのだが、もしかすると彼女も彼と一緒に死んだのかもしれないし、生きていながら2つの世界を往還する霊魂の背負子のような存在なのかもしれない。
著者がそういう霊界の存在に寛容な人物であることは事実なのだろうが、ここで書かれているような生者死者を超越した父母未生以前の世界を、私は断固否定しようとはいまでは思わない。しかもそれは往々にして私に周辺でも実際に起こっているのだから、なおさらのことだ。
人世は死ねば終りではなく、あの世でかれらも私たちの身内も生きており、その気になればいつでも会って話してなぐさめあう事が出来るという考え方は、私たちにいわば2層倍のおおいなる精神の自由をもたらす。だからガリガリの無神論者たちも霊的なるものの存在を完全には否定したがらないのであろう。
けれども30年以上も前に同じ京都の比叡山ドライブウエイから谷底に転落した知人がたまたま車体頑強なボルボに乗っていたために九死に一生を得たことも知っておく必要があるのだろう。
午前二時また玄関の鐘が鳴る 蝶人
Wednesday, August 24, 2011
本郷森川町界隈を歩く
茫洋物見遊山記第62回&勝手に建築観光第43回
本郷館のすぐそばに、昔ながらの旅館鳳明館の森川別館がひっそりと立っていました。昔はどこへ行ってもこういうひなびた日本旅館ばかりだったのですが、いまでは洋風のビジネスホテルに圧倒されて少し肩身が狭そうです。
鳳明館には森川町のほかに本館と台町の別館があり、本館は有形文化財に登録されていますが、三館とも質素で静謐な佇まいを備えており、どうせ都内に宿泊するなら値段も安いしこういう昔風の宿屋に限ります。
私はこの鳳明館ではなく、石川啄木が明治の終わりに寄宿した蓋平館を再見したいとあたりをうろついたのですが、とうとう見つけることが出来ませんでした。なんでも現在はその由緒ある名前を捨てて太栄館という名前に変わったそうですが。
亡くなった私の父が生前語っていたとおり、東京の下町の人はみな親切です。本郷を久かたぶりに訪れた私は、本郷館がわからず煙草屋のおばさんや酒屋の兄さん、宅急便配達のオネエちゃん、本郷の女子中学生などに次々に所在地を訪ねたのですが、じつに懇切丁寧に教えてくれました。
七〇近くの煙草屋のおばさんは本郷館を惜しみながら、その近所にある徳田秋声と宇野浩二の旧跡を教えてくれたので、ついでに足を運んでみました。宇野邸後は駐車場になっていましたが、秋声宅は健在でミンミンゼミがここを先途と泣き叫んでおりました。以前訪れた時にはもう少しこのあたりに明治の趣があったような気がしましたが、いまはやたらマンションだらけ。しかし彼はこの木造住宅の書斎で「黴」や「あらくれ」などのエグイ私小説を書いたのです。
ああそうだ、ついでのついでに樋口一葉の旧居を見ておこうと思って菊坂に向かいました。確かこの路地を入るはずだと思ってあたりをうろうろしていたら、幸い近所のおばさんと行き合ったのでこれ幸いと尋ねてみたら、彼女も知らないという。
仕方なく一緒にうろうろしていたら、彼女の知り合いのもう一人のおばさんがやって来て、「あんたも馬鹿ねえ、この路地の奥じゃないの」と教えてくれたので、この土地に何十年も住んでいるおばさんと共に一葉ゆかりの井戸を見物することができました。やれやれ。
本郷の西片町をわれ行けば一葉漱石順二の声す 蝶人
Saturday, March 26, 2011
川西政明著「新・日本文壇史第4巻」を読んで
本巻では小林多喜二、中野重治と妹鈴子、壷井繁治・栄夫妻、徳永直、日本共産党のスパイМ、野坂参三夫妻などのプロレタリア文学関連の挿話がこれでもか、これでもかと盛りだくさんに登場して読者を圧倒します。
マルクス主義者による階級闘争は昭和の初期からだんだん過激の度を強めてきましたが、彼らに対する官憲の弾圧も熾烈を極め、昭和8年2月20日に築地警察署の拷問で惨殺された小林多喜二や中野重治、埴谷雄高など数多くのプロレタリア文学者が鮮血迸る拷問を受けています。
とりわけ小林の拷問は凄惨を極め、バットや木刀で全身をくまなく殴りに殴り、太腿に針や錐を打ち込み、腹の上に靴のまま全体重を掛けて腹を踏まれた内蔵は破裂し、内出血した陰茎や睾丸は二倍に膨れ上がっていたそうですが、当時の革命家はこのような暴力の試練に抗しておのれの思想を死守する覚悟をつきかためていたようで、鉛筆で指をへし折られそうになっただけで弱音を吐くわたしなどは、彼らのような過酷な拷問にあえばたちまち右にでも左にでも転向し、場合によっては味方を売ったりすぐにスパイになったりしてしまいそうです。
ところが本書によれば日本共産党を代表する英雄的存在であった野坂参三は自分の細君と姦通していた親友山本懸蔵をソビエト共産党の幹部に密告して死に至らしめている二重、三重、四重のスパイであったそうですから、人間とはわからぬものです。
もっと興味深い存在は特高の親玉であった毛利係長に拷問されもしないのに、みずからが田中清玄以降の日本共産党の幹部となって、おのれの思想と組織と朋友をすべて敵に売り渡してしまったスパイМこと松村昇こと飯塚 盈延で、これほど興味深い深い人物もそうはいないでしょう。
その他、これまで美しい政治的抒情詩とばかり思い込んでいた中野重治の詩「雨の降る品川駅」の初出形が、昭和天皇の暗殺を示唆する過激な内容を含んでいたこと、彼の妹鈴子や壷井栄がいかに熱情的に男と革命を愛したか、「太陽のない街」の徳永直がいかに女性にだらしないあかんたれであったか、などなど、まさに巻を措くあたわざる諸国文藝裏噺の傑作です。
亡き祖母と生きてる母の念力で豚児のあの絵は売れたと思う 茫洋
Thursday, March 24, 2011
「田村隆一全集第1巻」を読んで
今年はじめて花粉症になってしまったので、目にはサングラス、鼻にはマスク、頭には帽子をかぶってハイランド坂上の西友で2個だけ並んでいた冷凍ブロッコリーを買い占めて家路に急いでいたら、舗道の右側に生まれたばかりのキタテハが垂直の柱を立てるやいなや別のキタテハが飛んできて、その隣にあざやかな黄色い翅を広げた。ああ、小さな帆掛け舟のようだ。
春の海帆掛け乗り出す二羽の蝶 茫洋
Sunday, November 02, 2008
水本邦彦著「徳川の国家デザイン」を読んで
徳川時代の日本は、中国などの海外から生糸、絹織物、砂糖などを輸入し、その見返りとして銀、銅、俵物などを輸出していた。「俵物」とは初めて聞く言葉だが、岩波の広辞苑を引くと、なんと煎り海鼠、乾し鮑の2品のことで、のちに鱶鰭が加わった、とある。
いずれも海産物であるから、これらを本邦の海民たちが俵に包んで港から搬出したのだろうが、当時の代表的な輸出商品が珍奇な海の幸であったことに意外の感を受けた。ナマコもアワビもフカヒレも日本というよりは中国、東南アジアの特産物かと思っていたが、当時はそれらの国では収穫する海人や技術がなかったのであろうか。
かのマルコ・ポーロが「黄金の島」と紹介した我が国では、黄金はともかく大量の銀、そして銀の産出が尽きてからは銅を海外に放出していたようだ。本書によれば、17世紀の全世界の銀産出量年間60万キログラムのうち日本銀は最盛期にはその3割から4割を輸出していたというからあきれてしまう。きっと明治の不平等条約のひな型のようにポルトガル、オランダ、中国などの諸外国から大いにぼられていたに違いない。
しかし石見銀山などからの貴金属大出血放出の見返りとして我が国にもたらされたものは、膨大な中国製生糸であった。16世紀後半の生糸輸入量は、年間六万から十五万キロ、1930年代には18万から24万に達し、我が国のアパレル業者たちはこれらすべてを原料にして、せっせせっせとおよそ13万から18万着の絢爛豪華な絹織物に変身させたのだという。(同書第6章P287~289)
15世紀末ごろから栽培が始まった木綿が、麻布に代わって庶民の日常着の主役に変わり、今度は最高級の絹の着物が陸続と登場すると、ホップ、ステップ、ジャンプ、男も女も少女も娘も、50歳を越した人妻も狂ったように絹の薄衣を身にまとったのだった。ああ、なんと贅沢の素敵なことよ!
絢爛豪華な桃山文化も、後水尾院を中心に花開いた寛永文化も、地中奥深くから最貧労働者共が血まみれになって掘り出した貴重な鉱物資源と引き換えにもたらされた、と著者は言いたげである。その後歴史は何度となく繰り返されたが、織豊政権の昔から、わが国の得意技はバブリーな蕩尽だったのである。
♪さあ働け、働けば天国の門は開かれると誰かがささやいている 茫洋
Thursday, October 09, 2008
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読む
久しぶりにドストエフスキーを手に取った。話題の光文社版ではない。手垢のついた米川版である。昔から雑誌は改造、文庫は岩波、浪曲は廣澤虎造、小唄は赤坂小梅、沙翁は逍遙、トルストイは中村白葉、ドストは米川正夫と相場が決まっているのだ。
それはさておき、「カラマーゾフの兄弟」の最後の最後のエピローグで、多くの子供たちに囲まれてアリョーシャが別れの言葉を述べるくだりは、モーツアルトの「フィガロの結婚」の末尾の合唱を思わずにはいられない。愛と許しと世界の平和を願う音楽だ。同じ作曲家による「魔笛」のパパゲーノとパパゲーナの歌や少年天使の歌、近くはパブロ・カザルスの「鳥の歌」と同じ主題をドストエフスキーは臆面もなく奏でるのである。
それまでの数千ページを費やして、天上と地上、神と悪魔、男と女、貴族と農民、先進国と発展途上国、大人と子供、健常者と障碍者などの間に横たわる過去・現在・未来にまたがるいくつもの深淵を天空遥かなる高みから蛸壺の奥底まで観察し、人の世のどうしようもない存在様式と対立のありようを血と涙と愛をもって追体験し、それらを逐一なめるように描写してきたこのロシアの文豪が、謎の殺人事件による行き場のないカタストロフを無理無体に突破して地表に舞い降りた地点で、この天国の小鳩の歌が高らかに歌われるのだが、その調べはいつしか長調から短調に転じ、作家とアリョーシャの未来に不吉な影を投射したのだった。
事実まもなくドストエフスキーは書斎の書架の下に転がり込んだペンをとろうと無理な姿勢をとったのが原因で肺を傷つけ、あえなく急死し、作品のなかで何度も言及していたカラマーゾフ兄弟の続編はついに書かれないまま永久に未完で終わってしまった。
多くの人々が予想するように、その後のアリョーシャは汚辱にまみれたロシア社会の最底辺を行脚するうちに階級意識にめざめ、過激な社会主義者を経由してツアーリを暴力で打倒する一人一殺のテロリストになるに違いない。ドストエフスキーが亡くなった部屋の隣には、アレクサンドル2世の襲撃犯が潜んでいたのは周知の事実だ。
作家はアリョーシャに仮託して早すぎるレーニンの伝記を書こうとしていたのだろう。作家の脳髄の内部だけで成立していた「神なき世ではすべてが許されている」という仮説が、続編では“現実のもの”になるはずだった。
カラマーゾフの兄弟の長兄ドミートリー(ミーチャ)は無実の罪を逃れてファム・ファタール、グルーシェンカと新大陸アメリカに脱出するが、そこでいかなる運命が待ち構えているんだろう。想像するだにわくわくしてくるし、下男であり父フョードルの私生児でもあるスメルジャコフをシ指嗾して父を死に至らしめた次兄イワンと、恋人カテリーナの2人にはどのような未来がもたらされるのか。これまた興味深いものがある。
偉大なる文学者に突然降りかかったこの不慮の事故さえなければ、私たちはおそらく現在の3倍から5倍の長さの波乱万丈の大長編、悲劇も喜劇も併呑した驚異的な総合芸術をゆくりなく楽しむことができたであろう。太宰治の「グッドバイ」の未完と並んで、これを残念無念と言わずにおらりょうか。
♪100万匹の水母を裂きし博士かな 茫洋
Tuesday, September 23, 2008
息子の言葉『父の遺したもの』第2回
オルコット作「若草物語」を読んでの父の感想は、次のようなものでした。
「何でも買うことのできる金持ちは不幸です。」
また父は、特殊学級の先達者、杉野春男氏(小倉市、四七年モスクワ空港で没)の「花に水やりを教えられた精薄児が、雨の中、傘をさして水をやる姿に感動す。」という言葉をメモしていますが、私は、障碍児を孫に持った父なりの関心と苦悩がこれを書かせたのだろうと想像しています。
キリスト者としての父については、実は私はよく知らないのです。けれども信仰が父の生きる糧であり、絶えず聖書の言葉を胸に刻みつつ生活していたのは、熱意と集中力をもって書き遺された聖句のメモがおのずとそれを物語っています。とりわけ私が驚かされたのは「ヘブル書一一章」と「使徒行伝七章」。この二つの章は旧約聖書を凝結したものである」との断定でした。
さらにまた五九年四月二二日、イースター昇天祈祷会における中島牧師の言葉、「イエスの復活は信仰の出発点である。」も、父の心にしっかりと触れたのでしょう。
父はおそらくこうしたメモを下駄の商いを営んだと同じ、暗くて狭い仕事場で書きつけ、折にふれて思考を反芻し、一人の信仰者として、一人の市民として、一介の商人としての在るべき道を必死で摸索し続けたのでしょう。
私は息子として、そのことにいささかの感銘を覚えたものですから、父の許しも得ずに、つい長々と駄文を連ねてしまいました。
私はクリスチャンではありませんが、いま何者かに一生懸命に次のように祈りたいと思います。「死せる父よ、死んでも私たちと共に在って、私たちを見守ってください」と。
一九八五年九月一三日
♪丹波竜わたしの実家を闊歩して 茫洋
Wednesday, September 17, 2008
父の言葉『思い出の記』第三回
さて、誠にたよりない足取りで信仰の道をたどりはじめましたが、聖書に記されている数々の奇跡を、如何様に頭でなく心で受け入れる信仰をもつことができるかと、迷い続けました。
この世の常識を越えたい岩のようなこの難関を突破しなければと、立ち向かうたびにハジキ返される思いをしました。そして、私ごとき者は、とてもみ救いにあずかる信仰は持つことはできないのではないかと思っていました。―私の拙い筆ではこのあたりを上手に表現できないのです。―
水に浮かぶ根なし草のようなこの信仰を力づけ、励ましてくれたのはクリスチャン作家椎名麟三氏―戦争中筋金入りの共産党員として検挙され、長い間東京の警察署をグルグルとタライ回しされている間に、神の存在を知り転向した人―の「生と死に就いて」の中で書かれた次の文章でした。
「一体信じられないことは信仰の浅さや罪の深さの証明でせうか。端的に申し上げれば、キリスト教には信じるか信じないかのようなせっぱつまった自刃のやいばは持っていないのであります。キリスト教においては不思議なことと思われませうが、信じられないということもそのまま充分に生きていけるようにされています。」
この場所で確かに人は死んだのだ 世界は死に溢れている 茫洋
Wednesday, September 10, 2008
レイモンド・カーヴァー著「必要になったら電話をかけて」を読む
村上春樹の翻訳によるレイモンド・カーヴァーの未発表の短編集である。
1988年に50歳の若さで亡くなったカーヴァーの人の世のほろにがい哀感をえぐった忘れがたい作品をもう読めなくなることは悲しい。
この人はその短編の最初の1行で、生の無常をさししめすことができた稀有な作家だった。
願わくば、いづれの日にか村上春樹の手になるマイケル・チミノの未完の映画「ドストエフスキー」のシナリオが公刊されんことを。
♪母さん
あのカンカン帽どこへ行ったんでしょうねえ
5年前浅草で買ったあの1500円の麦稈真田 茫洋
Thursday, April 24, 2008
日本と中国の今昔 鐘江宏之著「律令国家と万葉人」を読んで
前回に触れたように、本書のテーマは倭と中国、日本と中国の濃密な関係である。
全体的には当初朝鮮半島の百済、新羅、高句麗の影響を受けていた当時の倭、後の日本が、701年に制定された大宝律令の頃から次第に東アジアの先進国である中国のダイレクトな影響下におかれ、政治・経済・社会のみならず都市づくりや生活文化のすべての面で積極的に模倣していくプロセスが描かれているが、まことに歴史は3度くらいは平気で繰り返すものであり、本書がこれからのわが国の行く末を示唆しているよう気がして思いは複雑である。
遣唐使などという制度にしても、もちろん留学生が先進国に学びに行くのであるが、本当の目的は20年に一度の朝貢外交であったことを忘れてはいけない。
天平勝宝の遣唐使が元日朝賀に参列したとき、日本の席順が新羅、吐蕃(チベット)、大食(イスラム帝国)の次であった。そこでわが副使の大伴古麻呂が当時わが国に朝貢していた新羅が上位にあることは受け入れ難しと唐に猛烈に抗議した結果、新羅の外交官が席を譲ってくれたために面目を保ったそうだが、世界最大のグローバル唐帝国における当時のわが国のポジションを微妙かつ悲喜劇的に示す逸話として興味深い。私の目にはこのプライド高い外交官、大伴古麻呂は国際連盟を脱退した松岡外相にほぼ重なる。
また現在オリンピックのみならず、政治、経済、軍事各界で大活躍の中国も、かつてのおのれがチベットをどのように厚遇していたのかを、静かに胸に手を当てて思い出してほしいものである。
しかし日本という国は古来けっして排外主義には侵されておらず、百済、任那、高句麗、新羅などからのあまたの渡来人たちを積極的に受け入れ、平和的に共存を図った。桓武天皇の27人の皇妃のうち6人が渡来人であり、ここから東漢氏、坂上氏、百済王氏などの政治的貴族が輩出したのみならず、私の郷里の先住民である秦氏など衣食住、生活文化全体をリードする無数の高等技能集団を全国に帰化させたのである。
♪紺碧の空の彼方に何がある翔る男にわれもなりたし 亡羊
Sunday, April 20, 2008
倭から日本へ 鐘江宏之著「律令国家と万葉人」を読んで
小学館から出ている「日本の歴史」シリーズの第3巻飛鳥・奈良時代編であるが、先の2巻と同様最新の学説や知見が随所に盛りこまれており、なかなか勉強になる。
本書では、5世紀から8世紀までの倭と日本の歴史を振り返りながら、特に中国との相関関係についてくわしく述べている。
例えば国家権力にとって重要な人民の時間管理の道具である暦にしても、百済経由の中国暦の丸投げが長い間使用され、日本が独自の暦を持つのは17世紀末の渋川春海による貞享暦の完成を待たなければならなかった。
判子も中国の文化で、日本がこれを体系的に導入したのは、邪馬台国から500年近く遅れてであったという。それが平成のいまになっても存続していることに驚くほかはない。
7世紀の後半の白鳳時代になると、飛鳥時代に朝鮮半島を経由して中国から移入された仏教が隆盛し、地方の豪族たちは郡家と寺院をセットで建立することに血道をあげるようになる。仏教は宗教のみならず当時の最新先端知識や科学技術を満載した総合文化であったから、彼らはその受け皿としての寺院を用意せざるをえなかったのである。
火葬もこの頃の仏教ブームに伴って行なわれるようになり、大宝2年702年、持統太上天皇がはじめて彼女の意志でこれを敢行した。
ファッションについても中国の影響が大きく、パリやミラノやニューヨークではなく、唐風アラモードがおしゃれなスノッブたちを圧倒的にリードした。
大宝律令における位階と服制もこの唐風を全人民に強制しており、当時の人々が上着を左前にして着ていたのを唐風の右前にしようとしたが、なかなか定着しなかったそうだ。
当時の人々は麻布製の下着と上着をいずれも2ピースで男女とも身につけ、季節に応じて重ね着していたようだが、それまでの国風のステテコのようなボトムを、中国風の袴に変更せよとの大宝律令の通達に対しても抵抗があったようである。
このように7世紀まで朝鮮半島を向いていた倭人たちの意識は、大宝律令の施行と同時にいっせいに中国標準に切り替えられ、すべてにおいて中国を視野に収めたグローバルな世界観が確立していった。
倭が日本へと変身したのは8世紀の初頭で、ちょうど「日本書紀」が編纂されていた国史創生の時代である。7世紀における東アジアの激動が、倭の国家整備をうながし、その過程で芽生えた国家意識が、日本という国号を誕生させたのである。
ある日の午後妻に別れを告げに来し瓦斯屋の青年故郷で縊る 亡羊
Thursday, April 17, 2008
荒岱介著「新左翼とは何だったのか」を読んで
60年代の終わりからから80年代の前半までわが国の政治、社会に影響を及ぼした新左翼の活動を、第2次ブント社会主義学生同盟委員長で三里塚や東大安田講堂占拠闘争で3年有余下獄した著者が“できるだけ客観的に”振り返っている。
私は当時ノンポリの学生ではあったが、彼らのシンパとしていくつかの局面でデモやストライキに参加していたので、おおよそのことは理解していたつもりであるが、自治会や生協・サークル活動とそれに付随して党派に流入する莫大な闘争資金のからくり、明治大学自治会と生協の崩壊の顛末などまるで知らないことも多かった。
しかしなにせ権力やライバルの党派と決死の覚悟でわたりあった張本人が語り部であるから、その客観性もたえず強烈な主観性によって揺さぶられる。
1967年10月8日の昼前のこと、
左手に棍棒、右手に檸檬を握り締め佐藤訪ベトを阻止するぞわれ
という気分で隊列を組んだ私らが羽田空港に向かっていたちょうどその頃、著者は、首都高一号羽田線鈴が森ランプで倒れた機動隊員を、高速道路の下に落とそうと持ち上げていた。
「彼は激しく抵抗、そのとき、後ろから駆けてきた女子学生が『やめてください! そんなことをしたらアメリカ帝国主義と同じじゃないですか』と機動隊員にしがみつきました。ガーンとなった筆者は『わかったよ』と彼から手を離しました。
と、まるで劇画の噴出しのようにあっさり記述してしまう著者であるが、これは事実なのだろうか? もしも都合よく女子学生が登場しなかったなら、彼は殺人を犯していたはずだが、そういう自問がなされていないことがとても気になった。
本書の第六章は新左翼ブームに水をかけ、消滅させた「内ゲバ」について詳述しているが、想像を絶する悲惨な内ゲバの記録などには、なまじそこに登場する人物に多少の見覚えがあるだけに、活字をたどることにすら大きな苦痛を覚えた。
私にとってはあらゆる思想は空虚である。絶対正義の思想などかつて存在しなかったし、これからもそうだろう。それだのにその時々の「絶対思想」とやらに激しく依拠し、憑依して、そうしない、できない他者と敵対し、あまつさえ殲滅してしまう人たちは今日も世界中であとを絶たない。
なまじご立派な思想を脳内にせっせせっせと培養すると、そいつがその人間をロボットのように操って、価値観の異なる人間を撲滅してもまるで痛痒を感じない殺人鬼になってしまうのではないだろうか。
ヘルメットに棍棒握って武装せしこの手が握りし黄色い檸檬
Wednesday, April 16, 2008
ガルシア・マルケス著・旦敬介訳「十二の遍歴の物語」を読む
「族長の秋」を発表してからあと、18年間にわたって書き継がれてきたマルケスの十二の短編集である。とりわけ最初の2編「雪の上に落ちたお前の血の跡」と「ミセス・フォーブスの幸福な夏」は圧倒的に素晴らしい。
本書のまえがきで、マルケスは、こう語っている。
「短編小説をひとつ書くには、長編を書き出すのと同じくらいの強烈なエネルギーが必要なのだ。長編小説では、最初の一段落ですべてを決定しなければならない。構成、タッチ、スタイル、リズム、長さ、さらに場合によっては特定の人物の性格まで。それ以後は書くことの快楽、想像しうる最も私的な、最も孤独な快楽がある。そして、作家が自分の本を一生書き直し続けたりしないのは、書き始めるのに必要な鉄のような厳しさが書き終わりをも決定するからだ。それに対して、短編には始まりも終わりもない。一気に行くか、行かないか、それだけしかない。そうしてうまく行かない場合は、私の経験からしても他の作家の経験からしても、たいがいはもう一度最初から別の道でやり直すか、あとは思い切って全部捨ててしまった方がいい。誰かが言ったように、いい作家というものは、発表したものよりも、破って捨てたものの方で自分を評価するものだ」
その言うやよし。では「ミセス・フォーブスの幸福な夏」の最初の段落をどうぞ。
「午後になって家に帰ると、私たちは巨大な海蛇が首のところで、ドア枠に釘で打ち付けられているのを発見した。それは黒くて蛍光を発していてジプシーの妖術の道具のように見え、しかも目はまだ生きていて、押し広げられた口からは鋸のような歯をむき出しにしていた。私はその頃9歳ぐらいで、妄想の中から抜け出てきたようなこの化け物を前にして、激しい恐怖から声も出なかった」
この導入部を目の前に突きつけられたら、もう最後まで読み通すしか路はないだろう。
戯れに歌など詠めばひょいと出るその地金のおぞましきことかな 亡羊
Saturday, April 12, 2008
大江広元邸旧蹟再論
以前触れた大江広元旧跡について、「十二所地誌新稿」によりくわしい説明があったので再録しておこう。
屋敷跡は明石が谷一帯の地にあって、西は頂輪房に接し、北は船玉山をだきこみ、東南は一心院の旧蹟に及び、東方は羽黒山の裾に接して宇佐小路に至り、北は滑川によって区切られる。東西約200メートル、南北150メートルあって明石が谷では最も広い地域である。
江戸時代の末期に、大江広元の遠孫と称する毛利公がこの地を買収しようとした!が、価格の点で折り合いがつかずそのままになったという。
最近までは畑であったが、今は多くが宅地になった、とあり、その宅地のひとつがうちのおばあちゃんチなのであった。
「十二所地誌新稿」は昭和55年の編纂であるから、今では畑などはほとんど無くなってしまった。
♪ここからは進入禁止と5人組何事にもタブーはあるぞ
♪ランクル、オートバイは進入禁止おいらは太刀洗5人衆
Sunday, April 06, 2008
春宵源語
源氏物語が書かれてからすでに1000年以上の歳月が経っているが、紫式部という女性はまあなんとすごい長編小説を世界にさきがけて書いたものだと思わずにはいられない。
紫の上、夕顔、空蝉、女三の宮、六条御息所、明石等々、とても魅力的な女性が次々に登場して、光源氏という絶世のイケメンの前にまるで人身御供のように惜しげもなく美しい裸身を投げ出すのである。
昔はこの貴公子に嫉妬して、こいつはドンジョバンニの大和版ではないか。お前は異常性欲者か。朝から晩まで女の尻ばかり追い回していないで、宮廷を代表する政治家なら、もすこし真面目に仕事をせよ。
などと軽蔑していたが、人生女色にはじまり女色に終わってなにが悪い。それでいいじゃあないか。上等じゃあないか、と悟ってからは、この色即是空、もののあわれを尽くした華麗にして空虚な王朝絵巻をゆくりなく楽しむことができるようになった。
ご承知のようにここではさまざまな魅力的な人物が登場するのであるが、私が好きなのは藤壷中宮と柏木、それに六条御息所などである。
父の后を母と慕い、年上のお姉さんとしてほれ込む少年の恋は、それが禁断の恋であるがゆえに一途に激しく燃え上がり、その不純なる純情に体が応えてしまう藤壷のおんなのさがが素晴らしい。
柏木は源氏の友人頭中将の子であるが、源氏の晩年の正妻である女三の宮を強姦してその罪の意識に恐れおののき、ついに窮死する。
しかしそのほんとうの死因は、源氏への自責の念からではなく、好きな女から愛し返されない孤独であることを、紫式部は痛切な筆致で描きつくしている点が非常にモダンである。
不条理に犯された女三の宮も悲劇であり、自壊した柏木もあわれであるが、もっと悲惨なのは藤壷中宮との過ちを、女三の宮で応報された光源氏である。
誰でも指摘することであろうが、このあまりにも有名な二つの不倫が、源氏物語の脊梁のツインピークスを構成している。彼女はこの二つの中点に支えられてはじめてあの巨大な物語を書くことができたのである。
六条御息所は怨霊になって葵上や紫上、さらには女三の宮にまで取り憑くのであるが、紫式部は、六条御息所と怨霊の関係を、彼女が冷静に第3者的に自覚しているように記述している。そこには現代流行のスピリチュアル世界のあいまいさはかけらもない。
また現代の殺人犯たちが、「殺せという声がどこかから聞こえた」などとバッハのカンタータのタイトルもじって口走る流行の台詞とはまったく無関係な、澄み切った理性の世界そのものである。
のみならず、御息所が源氏との関係において、好むと好まざるとにかかわらず不可避的に陥ってしまった愛憎の道行き、すなわち彼女の運命についてあまりにもクールに描いているので、私たちはまたしてもなぜかとてもモダンな印象を与えられるのである。
お前などに今日もお気持ち爽やかにお過ごしくださいなどど言われたくないわい 亡羊
Wednesday, March 19, 2008
歌人たちの鎌倉
春、いまにも降り出しそうな曇天の午後、愛する妻と共に鎌倉文学館へ行きて「歌人たちの鎌倉」展を見る。
万葉の時代から、明治、大正、昭和、平成に至る鎌倉ゆかりの歌人たちとその短歌を特集した例によって小ぶりの好ましい展示である。
実朝、鉄幹&晶子夫妻、子規、信綱、白秋、吉井勇、木下利玄、かの子、太田水穂&四賀光子夫妻、川田順、吉野秀雄、秀雄の弟子の山崎方代といった豪華なラインアップであるが、私は奈良時代に成立した「万葉集」に当地の歌があるとはじめて知った。
家に帰って早速巻十四の「東歌」をひも解いてみると、次の三首が見つかった。
鎌倉の見越の崎の岩崩の君が悔ゆべき心は持たじ
まかなしみさ寝に我は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか
薪刈る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋いつつやあらむ
どれも素直な歌であり、歌はさかしらに頭で詠むな、からだからおのずと湧いて出て、天涯にうったえるものが歌だ、という私だけの歌論のお手本のようなひなびた歌であるが、とりわけまんなかの美奈瀬川(現在の稲瀬川)を夜渡りして女のもとに夜這いする歌が、格別私の気に入った。
さて当日は、歌人の今野寿美氏による「与謝野晶子」の鎌倉詠についての講演会も行なわれていた。氏によれば、
鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
という彼女の有名な大仏の歌は、当初は「御仏なれど釈迦牟尼は」の箇所が「銅(かね)にはあれど御仏は」だったそうだ。意味内容において改訂版の方が圧倒的に優れているが、高徳院の本尊がほんとうは阿弥陀如来なのに釈迦如来菩薩と詠んでしまったことで、この歌を彼女が実際に現場で詠んだ歌ではないがことがはしなくも暴露されてしまった。
しかしそのことがこの詩歌の価値をいささかも貶めるものではないことは自明のことわりである。なんといっても「美男」というキーワードを、晶子以外の誰が持ち出せたであらうか。最後の「夏木立」の環境設定も、まっことあざやかな切れ味であるよなあ。
鉄幹と晶子はいまの季節の鎌倉を紅く染めている椿が大好きだったらしい。私もこの花がとても眼と心に沁みて格別の感興を覚える今日この頃である。
地に落ちて憾みはなきや冬柏 亡羊
与謝野夫妻は有島生馬や内山英保氏の別荘をよく訪ねたそうだが、後者を気に入り「冬柏山房」となづけた。冬柏とは椿の別名で、夫鉄幹の法名も「冬柏院」であった。
晶子は生涯2万2千を下らない数多くの短歌をつくり、鎌倉詠もかなりの数にのぼっているが、やはり死せる鉄幹を悼む歌が心に響く。
鎌倉の除夜の鐘をば生きて聞き死にて君聞く五月雨の鐘
やうやくにこの世かかりと我れ知りて冬柏院に香たてまつる
遥けきはな思いそと霞引く春の心に任せおかまし
この最後の句は、私が去年の夏に詠んだ
死者のこともう忘れよとダリア咲く
という駄句に、どこか遠くで響きあうものがあると思うのは、我田引水が過ぎるというものだろうか。
♪生きている人のことはすぐ忘れるが
死んだ人のことはしょっちゅう思い出す 亡羊
Sunday, March 16, 2008
春の復習 20世紀の10大トレンドその1
18世紀の産業革命以降の機械文明は豊かな中産階級を生みだす社会変革をもたらした。
20世紀はじめの時代は「ベルエポック」だが、1910年にコルセットを追放したポール・ポワレの登場でゆったりしたシルエットが女性の体を解放してゆく。
第1次大戦が起こると戦場に行った男性に代わって女性がはたらくことになる。そこに登場するのがギリシア風チユニックで踊るイサドラ・ダンカンとシャネルであった。
第1トレンド 「シャネル・スタイル」byガブリエル・シャネル(1883-1971)
彼女は第一次大戦前は帽子デザイナーであったが、1913年ドーヴィルにブティックをオープン、ここにココ・シャネル誕生。戦場に行った男の代わりにワーキングウーマンが大量に登場したため、その仕事着を作ろうと考えたシャネルは頭がいい。
1916年、そのワーキングウエアを下着素材の黒のジャージィ素材で作ったところがまたとてもクレバーだ。
仕事着は当然装飾性を省き、活動的でないといけない。そこで歴史上はじめてパンツをはく女性が登場する。彼女のスカートやヒザ丈のカーディガンスーツは、80年代のヨージ・ヤマモト、川久保玲、90年代のマルジェラなどのギャルソンヌルックに大きな影響を与えた。
シャネルは、ヘアをボーイッシュに切る、日焼けした肌、ボアルックなどのさきがけをなした人であり、階級や富を拠り所にしないファッションを創造したひとでもあった。
シャネルの功績
○ 最初から大衆服をめざし世界で初めて米国でライセンスビジネスをやった→コピー複製時代を予言・先取り
○ 戦後ニュールックの復古調のあと再び機能的なシャネルスーツを発表、日本でも流行、60年代と80年代オートクチュールからプレタ全盛を予言しその通りになった。
前世紀に無視されていた身体的な機能性を重視、予言、先取りし、製品化した。
○ このようにつねに大衆時代のニーズを先取りしていたために、現在デザインを担当するカール・ラガーフェルドもシャネル・スタイルの伝統を自在に加工できた。
シャネル以降
彼女のギャルソンヌ(米ではジャズエイジのフラッパースタイル)ルック以降、30年代に入るとスカート丈が長くなり、ハリウッド映画の影響でグレタ・ガルボ、マレーネ・デートリッヒなどのグラマラスな着こなしが登場。そこで第2次大戦が勃発し、ファッションの暗黒時代に突入するのであった。ジャンジャーン。
♪斎藤茂吉と永井ふさ子合作の愛の歌
光放つ神に守られもろともに あはれひとつの息を息づく
Friday, March 07, 2008
平川南著「日本の原像」を読む その2
座敷神と道祖神のはじまり
丑寅を鬼門とする思想は中国から輸入されたが、柳田國男はそれ以前に日本では東北よりも戌亥(西北)を恐れる信仰が存在したと強調している。平安時代の貴族の邸宅では戌亥の隅に屋敷神が祭られ、その伝統は都の西北早稲田の杜の安倍球場跡地の中世の館の戌亥の座敷神にまで及んでいる。
日本列島では毎年冬季にシベリア大陸から寒冷な西北季節風が吹き募る。日本海沿岸部で漁民がこの物忌みすべき時期に船を出してタマカゼやアナジと呼ばれる邪悪な風のために犠牲者を出すことも多かったが、それは行いの悪い者への「たたり」のせいであるとみなされ、家居して慎んでいれば戌亥隅神が至福を与えてくれると考えられたのである。
またわが国では古来境界を結ぶ神、旅の神、結ぶ神、祈願・祝福の神としての道祖神が尊崇されてきた。なかには木製やわら製の男女一対で陽物・陰物を表現したものもある。
「道祖」は少なくとも7世紀から10世紀ごろまでは「フナトノカミ」「サエノカミ」という邪悪なものの侵入を防ぐ神と、「タムケノカミ」という旅人の安全を護る道の神という二つの要素を包含する概念だった。それが10世紀以降政治と儀礼の場の多様化と共に道の祭祀は郡城の方形区画の四隅だけでなく、京の町や各地の辻などで実施されるようになり、いずれもが「道祖神」と称されるようになったと考えられる。
繊維工房のはじまり
長野県の特産品「信濃布」の布は麻布。千曲川流域の屋代周辺には一大繊維工房が存在し、多くの布手たちが麻布を大量生産していた。
また服部という苗字は現在ではハットリと発音されているが、じつは服部は古代においては織物に従事する職業集団の氏名であり、もともとは「服織部」と記されて「錦織部」とともに全国に流布していた。
この「服織部」は内包される2つの母音がいつしか省略されてハトリベ、ハトリと変化して現在のハットリに至ったのである。
♪啓蟄の虫仰ぎ見る空の青 亡羊
Thursday, February 14, 2008
蕪村のアイドルをさがせ
俳人にして画家の与謝蕪村は、一休のように65歳になっても若い女たちとうたを詠み交わし、精神と肉体の愛の生活にふけっていた。らしい。
「蕪村七部集」の「花鳥篇」のなかの「花櫻帖」を見ると彼女たちの名前と俳句が載っている。おそらくは芸妓や町人の娘であろうが、初心の素人衆ばかりであるとはいえ、いずれも蕪村好みの天明調の緩さが懐かしく、捨てがたいのどかな趣がある。
それにつけても蕪村の御伽は次の女衆のうちのいずれであらうか。
月のよは花より明てさくら哉 うめ
うつくしき花のさかりやきのふけふ ことの
いろいろの人見る花の山路かな 小いと
老いて猶さくらは花にとはれける 柳女
櫻かりかの木この木の一構 まさ女
雲と咲雪と散けり山ざくら 石松
♪小浜氏が勝ち栗を剥く冬の朝 亡羊