照る日曇る日第104回&ふあっちょん幻論第8回
座敷神と道祖神のはじまり
丑寅を鬼門とする思想は中国から輸入されたが、柳田國男はそれ以前に日本では東北よりも戌亥(西北)を恐れる信仰が存在したと強調している。平安時代の貴族の邸宅では戌亥の隅に屋敷神が祭られ、その伝統は都の西北早稲田の杜の安倍球場跡地の中世の館の戌亥の座敷神にまで及んでいる。
日本列島では毎年冬季にシベリア大陸から寒冷な西北季節風が吹き募る。日本海沿岸部で漁民がこの物忌みすべき時期に船を出してタマカゼやアナジと呼ばれる邪悪な風のために犠牲者を出すことも多かったが、それは行いの悪い者への「たたり」のせいであるとみなされ、家居して慎んでいれば戌亥隅神が至福を与えてくれると考えられたのである。
またわが国では古来境界を結ぶ神、旅の神、結ぶ神、祈願・祝福の神としての道祖神が尊崇されてきた。なかには木製やわら製の男女一対で陽物・陰物を表現したものもある。
「道祖」は少なくとも7世紀から10世紀ごろまでは「フナトノカミ」「サエノカミ」という邪悪なものの侵入を防ぐ神と、「タムケノカミ」という旅人の安全を護る道の神という二つの要素を包含する概念だった。それが10世紀以降政治と儀礼の場の多様化と共に道の祭祀は郡城の方形区画の四隅だけでなく、京の町や各地の辻などで実施されるようになり、いずれもが「道祖神」と称されるようになったと考えられる。
繊維工房のはじまり
長野県の特産品「信濃布」の布は麻布。千曲川流域の屋代周辺には一大繊維工房が存在し、多くの布手たちが麻布を大量生産していた。
また服部という苗字は現在ではハットリと発音されているが、じつは服部は古代においては織物に従事する職業集団の氏名であり、もともとは「服織部」と記されて「錦織部」とともに全国に流布していた。
この「服織部」は内包される2つの母音がいつしか省略されてハトリベ、ハトリと変化して現在のハットリに至ったのである。
♪啓蟄の虫仰ぎ見る空の青 亡羊
No comments:
Post a Comment