照る日曇る日第106回
岩波から刊行されているこのシリーズであるが、早くもこれで通算7冊目となった。
いまNHKで放送されている朝ドラ「ちりとてちん」は小浜市が舞台だが、その小浜の小さな部落にスポットライトを当て、東寺領若狭国太良荘(たらのしょう)の平安、鎌倉時代から室町、戦国時代までの歴史を、さながら大河小説か一大絵巻のように、あるいは長編ドキュメンタリーのように、とうとうと語りつくし、論じつくした政治・経済・社会史が本書である。
長年の東寺文書の精読と研究から編まれた著者の大学卒業論文でもある本書には、同地の主人公である(べき)本百姓、小百姓を中心に、荘園の預所、地頭、東寺の供僧、守護などが、入れ替わり立ち代り相次いで登場し、時の権力基盤の移動に敏感に対応して、これでもか、これでもかとばかりに激烈な権力・権益・生存競争を繰り広げる。
鎌倉幕府は得宗の時代になるとそれまでの御家人時代の自制を失い、旺盛で無秩序な欲望が、かつて貞永式目の理知的な規範と統御と自主規制を全面的に解除して、前代未聞の、あるいはまた平成の御世と同様の「私利私欲の時代」に突入する。
すべての同時代人が時の権力にへつらい、隙あらば己がその権力を簒奪しようとてぐすねを引いている。そんなある意味で刺激と興奮に満ち満ちた時代である。下克上、酒池肉林の端緒はここにある。
当時公家、寺家、社家、御家人、地頭たちの百姓に対する収奪は過酷であった。
しかし百姓は黙ってされるがままになってはいない。窮地に追い詰められた際には、彼らは反撃に出る。共通の敵に対して一致団結するかと思えば、その翌日には、隣の朋友に対して刈田狼藉、家内追捕、略奪放火をほしいままにするなどは日常茶飯事であった。
もはや誰も信用できない。家族や親族さえも敵であり、敵とみればすかさず昨日の味方に襲い掛かる。
では、「眼には眼、歯には歯」が時代のスローガンであり、「万人が万人の敵」であり、「万人が悪党」であった疾風怒涛の時代に、なぜ百姓たちは彼らの階級的利害にめざめて一致団結し、皇室や武家や権門や宗教勢力をしのぐ政治的共同性を獲得できなかったのか? と著者は自問し、それは彼らが「所職」の法則と原理の壁に己を閉じ込め、その境界を突破できなかった、と自答する。
広辞苑によれば、「所職」とは任ぜられた職務、帯びている職務のことであるが、結局彼らの律儀で生真面目なモラルと自己戒律が、その後数百年にわたってそのまま生真面目に生きながらえ、もしかすると現在もなお彼ら(私たち)自身を貫いているかもしれないのである。
しかし若き日の著者が願ったように、もしも彼らの革命が見事に大願成就していたとするならば、それはそれで早すぎる階級専制国家の血みどろの地獄絵図が展開されていただろう。
おお、今も昔もなんと因業な世の中であることよ!
出棺に思わず拍手が沸いたという小田実の見事なる一生 亡羊
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