照る日曇る日第107回
「吾妻鏡」は源家の末裔を滅亡させた北条政権によって編集された史書であり、その記述を鵜呑みにはできないが、ゆっくり読んでいくといろいろな発見があり、さまざまな思いにとらわれる。
例えば頼朝は、思いのほか大胆な経略家にして緻密な計略家であった。
文治元年1185年12月6日には、右中弁藤原光長に充てた書簡で、彼は「今は天下の草創の時であり、もっとも事の淵源を深く究めるべきです」と高らかに宣明している。
同年3月壇ノ浦に平家一門を屠ったあと、彼は自分が天下の盟主であり、この国を自分の手で支配するのだ、という決意を固く胸に誓ったに違いない。
後白河法皇を「日本第一の大天狗」と悪罵し、院が弟の義経などに与えた官位の沙汰に異議をとなえて否認し、とりわけ、部下の大江広元の提言を受けて己の息のかかった御家人を全国の荘園に守護・地頭として配するという強権の発動に、彼の旺盛な権力への意志を垣間見ることができる。
当時、天下分け目の平家追討戦が行なわれており、前線で戦闘に従事する範頼や義経に対する頼朝の指示は、連日のようにきめこまかく発令されていた。
彼は、鎌倉の大倉幕府にあって、父義朝を追悼する南御堂(勝長寿院)を創建しつつ、その眼はひろく畿内、西国、四国、九州にまで見開かれていた。
本書を読めば、彼が膨大な情報の収集と緻密な分析にもとづいた雄大な戦略の策定と、それを実現するに際しての具体的な政策と戦術の展開とを、ふたつながらに企画推進する実力をそなえていた偉大な武将であり政治家であることがわかるだろう。そしておそらくその器量の大きさは、後年の徳川家康に比肩するのではあるまいか。
南御堂供養を終えた日の翌朝、義経誅伐のためにいきなり御家人を上洛させる決断力は、さすが武家の棟梁の名にふさわしい。
しかし残念ながら頼朝は、「こころの寛大さ」というものに少しく欠けるうらみがあった。平氏との決戦においても、もし己の手足となり、あるいはそれ以上の抜群の働きを示した範頼や義経なかりせば、源氏が平家に勝利できたとは到底考えられないにもかかわらず、一時はあれほど重用した血族を、自らの手で次々に抹殺してしまう。
頼朝の両の手は、マクベスのように生涯鮮血にまみれていた。
義仲の長男義高もその哀れな犠牲者のひとりであるが、彼と婚約していた長女大姫の愛と生きがいを奪い、廃人同様の悲惨な状況に追いやったのもほかならぬ頼朝であった。
しかも頼朝の命を受けて義高を暗殺した藤内光済を、妻政子からのたっての要請で死に追いやってもいる。もう、めちゃくちゃである。
親族はもちろんのこと、最強の盟友であった上総介広常をゆえなく誅殺したことも彼の精神の弱さと人間性の狭量を物語る。一条次郎忠頼も同断である。
このように、獅子の体内に宿る欠点もあるけれど、有能で多様な人材たちを、性急に「獅子身中の虫」として成敗したこの政治家のアキレス腱は、そのまま北条家にもっと醜悪で悲劇的なかたちで受け継がれ、皮肉なことには己の血族をも根絶やしにされてしまったのであった。
そんな頼朝にとって生涯でもっとも幸福であったのは、平家滅亡の日でも、勝長寿院落成式でもなく、元暦元年1184年5月19日、平頼盛、一条能保らを伴って由比ガ浜から船に乗り、森戸海岸沖で御家人たちと海上でタッカーのように競争し、その後上陸した森戸の有名な松の木の下で呵呵大笑しながら笠懸(射矢)を行なった日であったに違いない。
わが妻が母の遺影に手向けたるグレープフルーツ仄かに香る 亡羊
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