鎌倉ちょっと不思議な物語101回
古代日本の律令国家では大和朝廷が権力を握り、國-郡-郷という行政単位を置き、国史を頂点としてその責務に当たらせました。
8世紀以来存続してきた国府政庁は10世紀には廃絶してしまいますが、一方国司の館はその政庁機能を受け継ぐと共に経済活動の拠点としても整備されていきます。そしてその後地方の実権を握ったのは国司ではなくその地方の豪族で郡家を拠点とした郡司でした。
10世紀に入ると郡司に代わって新興豪族が郡内に台頭、それに伴って従来の中央集権体制は崩壊し、律令制度も終焉を迎えるのです。
中世の鎌倉は、鶴岡八幡宮から南に延びる若宮大路を中心に大町大路や小町大路など各所に通じる路が通じ、道沿いには将軍の御所(幕府)や北条氏等の武士の館あるいは都市住民の住まいや町屋(商店)等が存在したと考えられています。
鎌倉では現在市内の御成小学校がある場所に相州の国府あるいは郡家があり、時代が下がって鎌倉時代になるとその同じ場所に有力武家の館ができました。ここでは武士の屋敷と共に家来の住宅や職人や商人の住宅、倉庫等が発見され、都市鎌倉のあり方を非常に良く示す遺跡として注目されています。
♪けふもまた何事も無く日が暮れた家族3人で囲む夕餉 亡羊
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