Thursday, March 13, 2008

日輪寺再説

鎌倉ちょっと不思議な物語105回&鎌倉廃寺巡礼その4 

先日「タタラケ谷」との関連で報告した日輪寺だが、その後「鎌倉廃寺事典」をつらつら眺めていたら、この寺は北条高時の寺号であると記してあった。

高時は北条氏の第14代最後の執権でいまの宝戒寺の御所で鎌倉幕府の統括者の地位にあったが、後醍醐天皇の手の内の新田義貞に攻められて東勝寺で自害した。その墓は昼なお暗い「腹切りやぐら」にあって、ここに毎年俳優の高倉健さんがお参りにくるという話は前にも書いたが、闘犬と田楽に明け暮れて自滅した暗愚の統治者の法名が日輪寺とはおおいに驚いた。(ウィキペディアの高時の項に「月輪寺殿崇鑑」とあるのは日輪寺の誤り。)

日輪寺は高時の出家の7年前から確実に存在していて、その創建は恐らくは高時が執権になった直後の正和5年1316年7月7日であり、高時の信任厚かった僧栄海が初代別当に就任したらしい。(「将軍執権次第」)

その後文和2年1353年には、なんと足利尊氏と義詮親子が揃って十二所のわが日輪寺を参詣したという。義詮は尊氏の3男で義満の父。「太平記」には、酒色におぼれ魯鈍な人物であったと書かれているが、若くして死んだ室町幕府の2代将軍である。なぜか正成の子、楠木正行の隣に葬られたいと遺言してその通りになった。

吹きくる一陣の春嵐のなか、今を去る655年の昔、丹波とも深い縁で結ばれた天下の悪党足利尊氏が子を従えてこの緩やかな勾配をゆっくりと登りつめ、壮麗な七堂伽藍に吸い込まれていく姿を、私は確かにこの眼で見たような錯覚に陥った。

悪党の背にはらはらと梅の花 

春風や幻の寺ここにあり 

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