Saturday, December 30, 2006

2006年最後のメッセージ

ふあっちょん幻論 第4回


これからブランド・デザインやアパレル・ビジネスの世界に挑戦しようとする人にとって重要なのは「じぶんの志を持つ」ということではないでしょうか。

というのは、世の中に存在する数多くのブランドが、定見にない数多くの人々が少しずつ参加することによって当初は存在した志=主張=存在理由=ブランドコンセプトを雲散霧消させたわけのわからない異様な代物だからです。

私はこれからじぶんの志を持った大小無数の個性的なインデーズ・ブランドがどんどん登場することによって、現在のファッション界の「見せ掛けの飽和状態」と世界の中の「ジャパンブランドの沈滞現象」を打破できるのではないかと心から期待しております。

以前、ムラカミタカシを引き合いに出して成功のお手本にせよといいましたが、すべての若者がムラカミタカシになれるわけではありません。

一人のムラカミタカシの足元には100人、1000人、10000人のムラカミタカシになれなかった人々が累々と横たわっているのです。

しかし最大の勝者になれなかった創造者にも十分に存在価値はあります。また長期にわたるマッチレースにおいてかつての勝者が一瞬にして1敗地にまみれる光景を私たちは何度も見てきました。

「いかにしてファッションでお金儲けするか」とか「いかにして売れる商品を企画し、生産し、販売するのか」

というところからこのブランド作りにアプローチするのではなく、

「自分はどんなファッションを創造したいのか」「自分にはファッションなんて必要なのか」「自分は何のために、誰のためにファッションを企画し、生産し、販売するのか」

という風に、最初の問題を立ち上げてほしいのです。


「絶対売れる商品を開発するんだ」などと称して外国直伝の科学的なマーケティング調査だの超現代的なマーケティング理論を振りかざして登場したブランドの大半が三年以内に絶滅しています。

「じぶんの考えや理想をぜんぶ犠牲にしても、ともかく売れればいいんだ」という悲壮な決意の元で立ち上げたブランドが、売れるどころか在庫の山を築きあげている現状をみれば、むしろその自分独自の考えや理想を鋭く磨き上げる道を、たとえ困難ではあっても選ぶべきではないでしょうか。


毎日のように生まれ、そして死んでいく数多くのブランドたちの中で、この問題意識を本気で内部に抱え込んだファションはほんとうに数少ないのです。


そして世の中に増殖する腐敗し堕落した“あほばかブランド”を、皆さんの手で完膚なきまでに打倒してください。“ふぁっちょんもびじねす”もいまさらながら革命を必要としています。

そういえば中国の悪名高い、しかし偉大な革命家である毛沢東が、「若いこと、貧乏なこと、無名であること、の3つがなければ革命はできない」と名言を吐いていますが、これは時代と国境を超えて正しい。私はさらにもうひとつ「頑強な体力」を付け加えたいと思います。
 (ここから絶叫!) 若者は、午前10時の太陽です。(これも毛沢東の言葉)。
若い皆さんにはいまだけジコチュウなのではなく、死ぬまでジコチュウを貫いてほしいのです。

不肖私はこの業界で長らく悪あがきしながらほとんど何も寄与できず、間もなくくたばりますが、君たちはどうか「全世界を獲得するために」ぐあんばってくれたまえ。

Friday, December 29, 2006

Hの終わり

ふあっちょん幻論 第3回


時代はHからWに向かってゆるやかに推移し、歴史は大きな結節点を迎えようとしています。

HOWを主題とする産業の代表選手は、たとえば電通や博報堂などの広告代理店です。彼らは政府・政党・自治体などに依頼されて、「絶対に負けない、絶対に効果のあるキャンペーン」なるものを展開しますが、賢い消費者に対してかつてそんなものが1度でも成功したことがあるのでしょうか?

また彼らは民間企業に対して莫大な金額を使った市場調査や最新の学説に依拠した超現代的なマーケティング手法を提案してくれますが、果たしてそんな代物がファッションをはじめとする企業の売り上げに少しでも貢献したことがあるのでしょうか。
非常に疑問です。

ファッション業界においても、過去20年間にわたってHOWを主題とするマーケティング手法や学識者やひょーろん家がえらそうなりろんを唱えてきましたが、結局それらは経済ひょーろん家や文芸ひょーろん家とまったく同じ運命をたどることになってしまいました。(いくら評論・批評しようとまったく肝心の経済や文学や演劇や音楽そのものの動向に影響を与えることができない大多数の言論商売の人々を指す)

これに付随するのが、まず主部や主語を明確に語ろうとせず、それらを巧みに隠蔽して述語や修辞をもてあそぼうとする隠微でHな服飾文化の行き詰まりです。

主張も思想もなく、隣人や先行者や外国人の生産物をただ模写したり、文脈への配慮や注釈もなしに盗用的に引用するような手法の破産です。

半世紀近くも前の時代に、発展途上国の異邦人という立場からこのクラシックな業界に参入した諸先輩は、いかにして売れる服を作ろうかと考えたのではなく、既存の世界には絶対に存在しない服を作ろうと考えたのではないでしょうか?

不定形のHOWからではなく、WHATという始原の星雲状態から暴力的に出発したのではなかったのでしょうか?

アパレル・ビジネス業界の全域に及んできたHの終焉を見つめながら、私たちは古くて新しいWの創造の波を形成しなければならないのではないでしょうか?

Thursday, December 28, 2006

朝比奈峠往還

鎌倉ちょっと不思議な物語26回


今日も朝比奈峠を登る。

心臓破りの丘では冠雪した富士山が、熊野神社の向うには東京湾が見えた。

はるか彼方の風景は、過去の時間と接続していて、いつも遠い昔の記憶を呼び覚ます。

20億光年の彼方にまたたく遠い星を眺めた夜のように。

そうしてそれらの映像の奥底には、かつて訪れた土地とそこに住む懐かしい人々の思い出がはかなげに漂っている。

素早く逃れる耕君に追いつこうと朝比奈峠の頂上を過ぎたとき、

またしても私はこの世からあの世への境界を跨いだのであった。

ここに中世国立墓地があった

鎌倉ちょっと不思議な物語25回


昔シロツメクサ咲くこの野原で、耕君、健君、ムクたちと遊んだり、四つ葉のクローバーを探したものです。

ところが数年前にくそったれ土建屋の手であほばかマンションが建つというので、例によって市の発掘調査が行われた結果、なんとここが鎌倉時代の最大の葬儀センターであったという事実が判明しました。

つまり前回紹介した鎌倉時代のエリートたちを矢倉(やぐら)に埋葬する前に、この焼き場で僧侶が盛大に慰霊してから骨を焼いたのです。

ですからわが太刀洗周辺は、地区全体が死者をこの世からあの世に送る聖なる場所であり、鎌倉幕府いや中世最大の死者慰霊センターであったのです。

近い将来には市、県、国が資金を出し合って中世国立墓地を記念する遺跡公園にするという計画が発表されましたが、いまはこのように閉鎖され雑草が生い茂っています。

この世でもっとも貴重なものは、汚れなき魂と人に見捨てられたくさっぱら。

なので、できたら頑張って世界遺産などに登録もしないで、間もなく人類が滅びるまでこのままにしておいてほしいのですが…。

ダメ?

Wednesday, December 27, 2006

隠し砦の埋蔵金

鎌倉ちょっと不思議な物語24回


鎌倉時代の貴族や武将などのエリートが死ぬと、火葬されたあとで山麓の鎌倉石を切り開いた直方体の空間に葬られました。それが「矢倉(やぐら)」です。

エリート以外の一般大衆はというと、たとえ死んでも狭い鎌倉でそんな贅沢は許されないのでそのまま山野に遺棄されるか、海岸の砂の下に埋められました。

鎌倉には無数の矢倉がありますが、昔から我が家の近所の矢倉の中のどこかに大量の埋蔵金が隠されているという噂があります。

そこで、何を隠そうこの私も、雨が降っても、槍が降っても、また昨日のように大風が吹いても、およそ30年以上にわたってこの辺で毎日のように黄金探しを続けているのですが、どっこいそう簡単に見つかるものではありません。

写真はすでにうちの健ちゃんとムクが捜索済みの矢倉ですが、残念ながらこの立派な矢倉には埋蔵金はありませんでした。

しかしこの矢倉は幕府から六浦港に至る交通の要所に位置しているうえに、小高い丘の上にあったために、おそらく幕府の兵隊が常駐して警戒に当たっていた隠し砦であったと思われます。

ちなみに当時の兵士は刀と弓で武装していましたが、彼らは長弓の名人ぞろいでおよそ100メートルの距離からの命中率は9割以上であったそうです。

Tuesday, December 26, 2006

「元禄忠臣蔵」千秋楽を観る

「元禄忠臣蔵」千秋楽を観る

これは江戸時代の仮名手本忠臣蔵ではない。

真山青果(尾崎紅葉の高弟、小栗風葉の弟子)が昭和に入ってから書いた近現代版の忠臣蔵である。(岩波文庫で全3冊です)

歌舞伎の楽しさは、踊りと音楽とセリフの入ったお芝居(演劇)の三要素のアマルガムにあるのに、この元禄忠臣蔵には最後のものしか用意されていないからつまらない。

歌舞伎の本質である「慰霊」はあっても、「カブく」や「ケレン」や夢幻性がないから、物足りない。歌舞伎18番などの古典とは違って、新派歌舞伎、いや新劇歌舞伎なのである。


しかし坪内逍遥、築地小劇場以来のリアリズムの表現が脚本の底流にあって、そのコンテキストでいわば歌舞伎を本歌取りしているから、大石内蔵助や堀部安兵衛や磯貝十郎左衛門など個人の思想や苦悩がイプセン劇のように浮き彫りになる。
内蔵助にいたっては、討ち入りの理由は幕府への反抗ではなく浅野内匠頭のうらみをはらすことだけだ、まるでブルータスのように演説したりする。

だから役者のセリフが生命である。そこが青果の苦心であった。

そして国立劇場創立40周年記念3ヶ月連続公演「元禄忠臣蔵」は、松本幸四郎の内蔵助の、「これで初一念が届きました」の胸をえぐるような一言で、全編の大団円を告げるのであった。

Monday, December 25, 2006

野にWHATを叫ぶ者

ふあっちょん幻論 第2回

 
今年90歳になる文化服装学院元学長の小池千枝さんが六本木ヒルズでファッションショーを開催されたそうです。小池は、今も昔もファッションとは世のため、人のために服を作ることであると考えておられます。

小池さんなどの薫陶を受けた60年代から70年代までのクリエーターたちの多くが、心の奥底で、WHATやWHYを抱え込んでいました。何のために、なぜファッションをやるのか、という内的な衝動です。

例えばオーダーメイドを卒業して誰にも着られる安価な既製服を作ろうとか、日本人ならではの感性を生かしたプレタポルテを作って世界のブルジョワをびっくりさせてやろうとか、フォーマルウエアが全盛なので思いっきりカラフルなカジュアルを提案しよう、というおのれを起動させる動機のことです。
彼らはこのような非常に単純明快な旗印を掲げて当時の欧米市場に殴り込みをかけ、見事に成功しました。

これはかつて大崎の町工場で誕生した東通工(現ソニー)が世界一小さなトランジスターラジオを作ってやろうと野望を抱いて、そのあとで懸命に無謀なその夢を実現していった軌跡(奇跡)に少し似ているような気もします。

けれども現在ファッションに携わるクリエーターの多くが、いかに大量の商品をいかに効率よく消費者に売り込むか、という巨大なグローバルメカニズムの1つの小さな歯車や部品の役割に甘んじています。

つまりHOWの世界です。

アレキサンダーマックイーンや川久保玲はともかく、トムフォードやカール・ラガーフェルドなどは完璧にHOWの世界で生きています。

これはソニーやトヨタなどの大企業において消費者起点の企画、生産、販売、広告宣伝の円環をいかに無駄や無理なく回転させるかが最大のテーマとなり、その課題に最適の解を出すために、ヒト、モノ、カネを惜しみなく投入している状況に対応しています。

このように時代はWHATやWHYから完全にHOWのモードに切り替わって久しいのですが、いっけん最高に進化し、時代の先端を走っているように見える、このHOWを主題とするハイテクグローバルマーチャンダイジングに問題はないのでしょうか?

よく観察してみると、HOWに生きる人は狭い蛸壺に生きる人です。

口ではグローバルを叫びながらも古い経験と規範に固執し、流動する生命現象を直観する原始的な能力を失い、死体を解剖してその断片を顕微鏡で観察し、データをパッチワークすることが創造だと勘違いしていることが多いのです。

そういうミクロの決死圏に生きる人が世界中のあらゆる業界で大繁盛していますが、彼らが主導する経営はいたるところでその推進力を失って根幹部分で破綻し、市場における売り上げ目標の達成はおろか、その創造の担い手たちにわずかな労働のよろこびを提供することにすら失敗し続けているような気がします。

他の産業はいざしらず、HOWの専門家たちの重要性と価値観は、少なくともこれからのクリエイティブデザイン、アパレル業界では急速に減退していくのではないでしょうか?

そして再び大声でWHATやWHYを問う人や骨太に考える人、の登場が待たれているのではないでしょうか?

Sunday, December 24, 2006

銀座通りには峠の茶屋があった

鎌倉ちょっと不思議な物語23回

やっと今月最後の、そして今年最後の仕事が終ったぞお!

メリークリスマス! そして、さよならディープインパクト!

さて今日も耕君と登った朝比奈峠の頂上には、山腹の鎌倉石を切り取って作られた空間があります。

鎌倉ちょっと不思議な物語第21回で紹介した「まがい物の磨崖仏」のちょうど対角線の位置ですが、ここに明治時代の末頃まで峠の茶屋がありました。

茶屋にはとてもきれいな若い女性がいたので、彼女をお目当てにして峠を上り下りする旅人が跡をたたなかったそうです。

三代将軍の実朝も、追放された日蓮も、この鎌倉時代の銀座通りを通って、麓の六浦の港まで降りていったのでした。

Saturday, December 23, 2006

あなたと私のアホリズム その3

♪ 眼には眼を、歌には歌を

「バカの壁」の養老先生が、
「音楽家は言葉にできないことだけを音楽で語った。だから我々はその音楽について言葉で語っても仕方がない」
と、語っていた。
なるほど、それもそうだな、と思った私は、
モーツアルトの「レクイエム」を聴いたあとで、K618の「アベヴェ・ベルム・コルプス」を小さな声で歌った。


♪ カフカのアフォリズムより(池内紀訳)


1)誰一人として自分の精神的な人生の可能性以上のものをつくり出せない。食べること、着るもの、その他もろもろのために働いているように見えるが、それは二の次のことであって、目に見える1着の衣類ごとに目に見えない1着を身につけている。これが人であることのしるしというものだ。あと追い式に存在を築いているかのようだが、それは心理的な鏡(かがみ)文字のようなもの、人はまさに自分の存在の上に人生を建てている。いずれにせよ誰もが自分の人生を(あるいは同じことだが死を)正当化できなくてはならず、この課題から逃れられない。

2)お前とこの世の戦いにおいては、この世に肩入れをせよ。(この世の側に立て。)


私のアホリズムでは、とうてい過負荷のアフォリズムには勝てませんて。

Friday, December 22, 2006

九本桜土俵入り

九本桜土俵入り

鎌倉ちょっと不思議な物語22回


太刀洗には、なぜか枝分かれした樹木が多い。

これは根本から九つの枝に分岐した山桜で、春には白い小さな花弁をはらはらと散らせてくれる。

この桜の下を2002年に死んだムクとよく散歩したものだ。
 
だんだん寒くなってくるけれど、らいねんの春もどうか無事に君の花を眺めたいものだ。

九本刀で土俵入りする横綱には到底かなわないけれど、近くには八本、七本大関も両腕を広げて立っている。

Thursday, December 21, 2006

まがいの磨崖仏

鎌倉ちょっと不思議な物語21回


この磨崖仏のようなものは、朝比奈峠の頂上、鎌倉市と横浜市の境界線のすぐ傍にあります。

磨崖仏ではなく磨崖仏のようなもの、と書いたのは、これは昭和30年代に横須賀市のあるおじいさんが、自分で勝手にここで刻んだものだからです。

ところが驚いたことに、そんなことも知らないでこれが鎌倉時代や室町時代に作られた、などと、もっともらしく記述するガイドブックが最近登場したようです。

でも、よく見ると、いかにも仏様らしい、もっともらしい表情をしていますね。

Wednesday, December 20, 2006

クリスマスとジェーン・バーキン

クリスマスが近づいてくると、私の家ではちょっと贅沢な飾りものを玄関につるす長年の習慣がある。

これは1986年の初冬にフランスのジェーン・バーキンという女優さんが私の家族にプレゼントしてくれた。帝国ホテルに泊まっていた彼女が、お向かいの日比谷花壇で買い求めてくれたものである。

当時の彼女のご主人は映画監督のジャック・ドワイヨンで、バーキンはなぜだかドワイヨンと一緒に来日した。

彼女は肌身離さずからし色をしてちょっと汚れた大きなバッグを持ち歩いていたが、あとから考えてみると、これが有名な例のエルメスのバーキンの第1号なのだった。

その年、ジェーン・バーキンはテレビCMの制作でやってきたのだけれど、私はバーキンよりもまずドワイヨンの人柄に惹かれ、この人がいったい何者であるか(実際はかなり有名で実力のある映画監督でした)なんて全然知らないままに仲良くなった。

私が住んでいる鎌倉までやってきた2人を、十二所のおばあちゃんの家に案内すると、「これが日本人の普通の生活なんだ」と、とても喜んでいた。


それから大仏と長谷観音を見物したっけ…。家内がカローラを駐車場から回してくるのを光則寺で待っていたら、バーキンが鳥かごのカナリアに指を差し伸べながらなにか歌を歌っていたので、「ああ、この人はこういう人か」と思っていたら、突然、「日本で火葬が始まったのはいつごろか」とか、「どうして火葬にするの」などと矢継ぎ早に聞かれてうろたえたことを、いま思い出した。

それから以前田中絹代が住んでいた鎌倉山の日本料理屋に行って4人で昼ごはんを食べた。ところが最近この広大な庭と素晴らしい眺望を誇る和風建築が取り壊されて、あの、みのもんた氏の豪邸に変身するという。

CMの撮影は京都の大沢の池などで行われたが、そのロケの弁当のおかずにどういうわけか巨大なザリガニが出た。私はこんな不気味なものが食えるもんかとあきれ果てて食べなかったが、バーキンがミック・ジャガーのような大きな口でバリバリと食らいつくのをみてたまげた。

無事に撮影が終了して最後に有楽町のいまはなくなったツタの茂るフランス料理のレストランに行った。入り口で彼女のお得意のジーンズ姿を一瞥した店の主人が、「うちはちゃんとした服装のお客様でないとお断りしています」とぬかして来店を拒否したのも懐かしい思い出。どうして断られたのか全然分からないジェーンを引っ張って隣の普通の料理屋に入りてんぷらとウナギとすき焼きを腹いっぱい食べて別れたのだった。

それからもジェーンは毎年のように来日しているようだが、あれ以来会わない。あんなに素敵なカップルだったのにドワイヨンとはとっくに別れたそうだ。

Tuesday, December 19, 2006

ふあっちょん幻論 第1回

ファッションビジネスの混迷と停滞

私はながらく日本のアパレルメーカーに勤務していましたが、残念ながら視野が狭くて、世界の中の日本ブランドという意識が欠落していました。

社内でトップの売り上げを達成しようとか、国内でナンバーワンになろうとかは考えていましたが、本気で欧米のトップブランドに勝とうなどと思ってはいませんでした。  70年代までにわが国では(若者はいざしらず)大人が満足できるそれなりの国産衣料品や雑貨は都会の百貨店へいけばおおかた入手できました。  ところが80年代になると、国内企業が国内の消費者のウオンツを的確に把握することができなくなり、その間に海外勢力が怒涛のように侵入してきたのです。  それからさらに20年。気がつけば高級品は外資系のラグジュアリーブランドに、実用品は中国からの輸入ブランドに席巻されています。

そしてこのことは識者によって60年代から予見されていたにもかかわらず、結局現在もきちんと対抗対策の手が打たれているとはいえません。  かろうじて2年前から東京コレクションの強化とかクールビズの立ち上げなど政府主導型のアパレル振興政策が打ち出されてきましたが、ほんとに必要なのは、そういう「上からの改革」ではなく、アパレル産業関係者自身による民間主導型の「下からの改革」ではないでしょうか?  では各人が各自の立場でどうしたらいいのか? それが問題です。  私は若い世代の人々が自分流に満足できる個性的なブランドを立ち上げ、国内のみならず世界市場にどんどん進出することを心から希望し、期待するものですが、そのためには我々が30年間にわたって失敗しつづけてきた旧世代の既存のやり方をよく研究し、その批判的な検討のうえに立って再度国際競争の最前線に出ていってほしいと思うのです。  具体的にここでその方法論を述べるつもりも余地もありませんが、最近アーチストの村上隆氏が書いた「芸術起業論」がこの問題を考える上で参考になると思われます。  村上隆氏は、「芸術家は世界の本場で勝負しなければならない」と説き、そのための道のりを、1)まずは本場の欧米で認められる。2)次に欧米の権威を笠にきて日本人の好みにあわせた作品を逆輸入する、3)そしてもういちど芸術の本場に自分の持ち味を理解してもらえるように伝える。
の3段階を想定しました。  そして「スーパーフラット展」でアメリカに認められ日本で作品を展開し、05年の「リトルボーイ展」でほんらいの自分の思うリアリティを表現できた、と3段階戦略の成功を総括しています。(同書113p)  しかしそこに至るまでは食うや食わずの悲惨な貧困と努力の生活が何年も続いたわけですが、やはり今日の村上隆を作り上げた最大の要因は、こういう戦略を自分に課し、それを懸命に実行したことにあるのではないか、と思わざるをえません。  ファッション界でクリエーターを目指すのも、まったく同じことだと思います。
村上氏は37歳のときにコンビニの裏口で弁当の残り物を貰うために立っているのはつらかった、と書いていますが、そういう忍耐と辛抱強さも必要なのでしょうね。

Monday, December 18, 2006

♪魔弾の射手よ今いずこ

音楽千夜一夜 第4回


最近ウエバーWeber, Carl Maria von (1786-1826)の歌劇「魔弾の射手」をクライバー親子とマタチッチが指揮したCDで立て続けに聴きました。

3人の中ではやはりエーリッヒ・クライバー&バイエルンオペラのものがもっとも優れた演奏だと私には思えたのですが、それはこの際どうでもいいことで。

この「魔弾の射手」はドイツ人による最初の国民オペラらしいのですが、確かにそれだけのことはあってドイツ帝国成立(1871年)をめざしてひたすら前へ前へと突き進んでいくドイツ人のロマンチシズムと強烈なエネルギーはまぶしいほどです。

全編どこでも斬ればゲルマンの血がほとばしり出るような生々しい音楽と言えるかもしれません。いうなれば新興帝国の精神の応援歌でげす。


よくWagnerの音楽とナチズムの親近性を指摘する人もいますが、その源泉はすでにウエバーの目もくらむようなドイツ魂の熱血音楽の内部から湧出していたのではないでやんしょうか。

メンデルスゾーン(1809-1847)とゲーテ(1749-1832)もほぼ同時代の人ですが、このウエバーほどの手放しの若さと過激さは持ち合わせていなかったような気がします。

アジアの片隅でゆっくりと黄昏てゆく少し疲れた老大国で、このウエバー選手のような元気で単細胞な音楽を聴くと、なぜか「やれやれ」というため息が出てきます。

ドイツ音楽のいちおうの完成者はやはりベートーベン(1770-1827)ということになるのでしょうが、昨日聴いた彼の感動的な第9交響曲にしても、ほんとうはその限りなき前向きさ加減にちょっと辟易させられるところがあります。

やれやれ、おらっちもジャパンもいつの間にか年取ってしもうたなあ。

Sunday, December 17, 2006

鎌響の「第9」を聴く

音楽千夜一夜 第3回

 ことしも年末恒例のベートーヴェンの第9番の交響曲を聴いてきました。演奏はもちろん贔屓の鎌倉交響楽団です。

この演奏会場は10年ほど前に中西という自動車屋の市長が大船の旧松竹撮影所の傍に巨費を投じて作った気色悪い緑色に着色された鎌倉芸術館です。

この建物が完成したとき、当時の中西市長は自分の親戚の同じ姓の有名シャンソン作詞家をプロデユーサーにお手盛りで任命しました。ここらへんはちょっと石原知事とその息子の関係に似ているかもしれませんが、中西氏はその身内の作詞家に対してなんと年間2億だか3億円だかの法外なプロデユーサー料を(市のそれでなくても全国で有数の高額の税金から)気前よく支払ったのです。

その作詞家がやった仕事といえば、年間のコンサート計画なるものを企画立案し、東京の自分の知り合いのゲージュツカたちをこの湘南の田舎町にどんどん連れてきて好き勝手なプログラムを組んで自分勝手に「運営」したことくらいなのですが、こうした野放図な税金泥棒的行為?は心ある市民から指弾を受け、くだんの作詞家はいつのまにかこの地からいなくなってしまいました。

 ああうらやましい。じゃなくてけったくそ悪い。

そういういわくつきの会場ですが、唯一のめっけものは音響の良さです。1階は相当音が飛びますが、2階、特に3階の最前部の聴感は抜群で、どこに座っていても音響が怪しく飛散するサントリーホールよりも快適な響きで、これだけはダブルナカニシチームに心から感謝したいところです。

さて下らない前置きはともかく、今日の演奏はなかなか楽しめました。
私は前にも書いたように、プロの枯渇し疲弊しきった冷たい演奏よりも、たとえ技術的には劣ってはいても音楽への純粋な愛情と情熱では前者をはるかにしのぐアマチュアの演奏を好んでいますが、今日の鎌響もそのとおりの好演でした。

私はこれまで第9は第三楽章がいちばん気に入っていたのですが、今日はむしろ第二楽章の方が楽しく聞き応えがありました。ここでは弦と管とが華麗な舞踏を繰り広げ、踊りの輪郭が拡散しそうになると、途端にティンパニーが出てきて要所要所で音楽の形式をぴりりと引き締めます。

それがまことにカッコいい。今年亡くなった岩城さんがこの楽器の奏者であったことを思い出しましたが、ティンパニーって音を出せない指揮者に代わってああいう声を出しているのですね。

夢見るような第三楽章が終ると切れ目なく最終楽章に入ります。

しばらくとろとろ眠るがごとき音楽をまだ続けていますが、まず最初にあの有名な歓喜のテーマを深々と歌うのはチエロ、そしてコントラバスなんですね。

それから同じテーマをビオラが歌い、最後に第1と第2のヴァイオリンが高音部で高らかにうたい始める。すると木管と金管がそのシンプルなメロディーをあわてて追いかけるようにして唱和します。

やがてすべての楽器が私たちの心臓とおなじリズム、おなじメロディーでどんどん加速を強めていって、ベートーヴェンの心の音楽が堂に満ちる。そして最初の絶頂の峠の上で、ソプラノでもなくテナーでもなく、なんとバスが「おお、フロイデ」と歌いだすのです。この構成はほんとうに素晴らしく、こうなるとベートーヴェンはもはやゲーテにもナポレオンにも絶対に文句を言わせません。

じつは私はこのところ第4楽章がちょっと鼻につくようになって、リストが編曲したピアノ版第9の演奏をツアハリスの見事な演奏で楽しんでいたのですが、これを実演で聴かされるとやはり声楽入りも捨てがたい。いやそれどころではなく主にシニアの方々のものすごい咆哮は管弦楽の強奏を圧倒しました。

人間の声が最高最大の楽器とはよく言ったものですね。

Saturday, December 16, 2006

2冊の本を読んだ

♪ 半藤一利著「荷風さんの戦後」

浅草の荷風の行きつけの店。アリゾナキッチン(メトロ通り東)、尾張屋、浅草フジキッチン(雷門通り傍)、甘み所「梅園」(仲見世通り)、合羽橋どじょう「飯田屋」など。あとはつぶれた。

荷風は死の床でフランス語の本を読んでいた。仏書はアラゴン「現実世界」3部作、サルトル「嘔吐」など140冊。

荷風は邦画は自作の「つゆのあとさき」以外は洋画しか見なかった。「素直な悪女」「ヘッドライト」「リラの門」「川の女」「情欲の悪魔」「紅い風船」「トロイのヘレン」「わんわん物語」など。最後の作品は微笑ましい。

♪ 保坂和志著「小説の誕生」

何度でも繰り返し紐解きたい私の2006年随一の「小説ならざる小説」である。あるいは小説という名の悠久の生を生き直そうとする意欲的な試みである。

著者はいう。

小説とは破綻と自己解体の危険を恐れず、予定調和を拒否して、どこまでも伸びて行く1本の線である。私を虚しくし、小説をうつろな箱にすることによってその小説は優れた音楽の戦争のように、世界の何かを帯びてくるだろう。

書き手が小説に奉仕する限りにおいて小説は小説たりうる。いい小説とは遠い遥かな地点、世界の果てまでも作者=読者を連れ出し、豊かにしてくれる行為である。

小説という名の「1点突破、全面展開」の実例がここにある。

「雨がつづいた10月の久しぶりの晴天の、暖かく穏やかで風がない日の午後に、池のほとりに腰掛けてビールを飲みながら、池一面が太陽の光で金色に輝くのを見ていたら、このために本を読んだり、あれこれいろいろ考えたりしているんじゃないか、と思った」
という402pからの井の頭公園での特権的体験の描写は素晴らしい。

なお本書の中で樫村晴香という人が、自閉症について「自閉症児はリンゴや犬などの名詞を理解することはできるけれど、“美しい”を理解することはできない。あるいはリンゴを使ったセンテンスは作れるけれど、美しいを使ったセンテンスは作れない」と、著者との対談で発言したそうだが、これは事実に反する。

自閉症といってもいろいろあるのだから、そんな雑駁な言い方は非科学的である。
現にうちの耕君は立派な自閉症だが、そんなセンテンスなんかおやすい御用ですよ。

そのほかにもじっくり感想を書きたいが、残念ながら時間がない。

Friday, December 15, 2006

あなたと私のアホリズム その2

♪ Wang,Wang!

 後世の歴史家は、防衛庁が防衛省となり、教育基本法が衆院委員会を通過した日についてなんと記すだろうか? 

しかしそれよりも心配なのは、先日米国の科学者が出した「2040年に北極の氷の大半が溶けるだろう」という予測である。

間違いなくこの年までに、わが国は平和憲法をかなぐり捨てて「愛国的な核武装国」に美しく変身し、と同時に日本列島のかなりの部分が海没しているだろう。

しかしわが国のマスコミも、国民もこれらの危険性については異常なまでに平静であるか、あるいは平静を装って♪ラリラリラーン、と楽しい毎日を送っているようにみえる。

これではわが家の愛犬であったか「かわかわのムクちゃん」とおんなじ態度ではないだろうか?

Wang,Wang!



♪ ボーナス

松坂選手が6年間61億円の契約を結んだ日、月収1600円の耕くんは540円のボーナスをもらった。

松坂選手は、「うははは」と笑った。

耕くんも負けずに「あははは」と笑った。

誰にもどっちが幸せなのかは分からない。

そして、誰にも格差社会の行き着くところは見えていない。


♪ 当用漢字という名の言語ファシズム

教育基本法の前の年である昭和21年に、1850の当用漢字が制定された。

どうして妾や奸や妖や嫉や皿や鍋や釜が排除され、拷や隷が入ったのかは誰にも分からない。

どうしてその当用漢字がマスコミで「憲法」化され、難しい漢字がただそれだけでパージされるようになってしまったのか、誰にも分からない。

自分の思想をもっとも的確に表現するためには、漢字や用字用語の制限をとるはらうべきなのに、自由を恐れるマスコミは、自らの手足を縛り、執筆者にもそれを強要するにいたった。

「気狂い」ピエロがどうしてだめなの?

狂っているのは、あんたの方だろ?

それとも、おらっちなのかな? よく分からなくなっちゃった。

Thursday, December 14, 2006

冬の朝、瑞泉寺で歌う

鎌倉ちょっと不思議な物語20回



夢想国師が手塩にかけし瑞泉寺その庭園に降る紅き花花

光あればもみじはさらに輝かんもろびとこぞりて光待ちおり

紅葉の美しさはない美しい紅葉があるだけさと啖呵きりし人を嘲る紅葉

これやこの水戸黄門の御手植の天然記念物の冬桜見る

もう二度とこのお寺には来れまいと思いつつ訪ねし松陰と子規

夜間はイヌを放つゆえ要注意と立て札せる清泉小学校はあさまし

ピノチェトの棺に吐きしプラッツ陸軍司令官の孫のつばきよ

教育基本法を圧殺し高笑いするお前らの腹黒き野心はお見通しだぜ

是かまたは非なるか意思表示せぬ人をかすかに憎みつつ紅葉を見る

人も世もわれをも呪いつつ見る花のその美しさは限りもなくて

Wednesday, December 13, 2006

日々是好日

日々是好日

ともあれ、朝になったら、まずは起き上がることだ。

起きたら、ちょっと動いてみることだ。 

そして思い切っていきをして、まだぼんやりとでも生きているか自分の胸に問うてみることだ。

君の目の前にピアノがあれば、黒鍵をひとつだけ叩いてみることだ。

なにもなければ、4年前に亡くなったムクしか聞いていなくても、口笛などを微かに吹いてみることだ。

そうすれば、また新しい1日が始まったと知れるだろう。

そうしてテレヴィをつけよう。

テレヴィをつけたとき、不運のことにいきなり安部ちゃんが現れても、前の首相のライオン丸や、障子破り都知事や硫黄島のかなたの猿面冠者が現れたときのようにかんたんにゲロを吐いたりしないで、固く目をつぶったままどんどんチャンネルを回そう。

するともし運が超よければ、BS-1のニュースで平尾由美アナウンサーの切れ長の眼に会えるかもしれない。

そしたら1日超ラッキーだろう?

そしてこれはとても大事なことだが、まもなく国会で教育基本法が可決されても、やけを起こして玄関の扉を殴りつけたりしないように我慢することだ。

それからまたしばらく時間が経って、国民投票の結果現行憲法が塵芥のように闇に葬り去られても、間違っても首相官邸に凶器を携えて潜行しないように努力することだ。

なんといっても、人間辛抱だ。

ともかくようやくここまでやって来たのだから、ぜったいに軽々しく暴力に走らないように自戒することだ。


暴力は自己表現ではなく、自己否定であり、自己滅却であることを、ここでもう一度認識することだ。

いつか首相官邸に向かう坂道で、私の左の額に警棒を振り下ろした第7機動隊の若者が、私の出血を見てすぐにその凶暴な行いを後悔したように、

そしてその若者の振る舞いについてずーと考えていた私が、何年後かに彼の暴力を許したように、

ともかくできるだけ他人を憎まないようにすることだ。

アラブよ、そしてイスラエルよ。

不幸にももし誰かを憎んでしまった場合は、なんとかしてお互いに許しあうことだ。

一時的な過激な行為に走らないように注意することだ。

また、この国の指導者のみならず、この国のすべての人々がこの私に劣らず全員タコだとしても、可哀相なこれらのタコたちのことを、

「このタコ、くたばれ」とか、

「てめえ、このタコ、くそったれ」などと、

けっして下品で、醜い言葉でみだりに罵倒しないよう、今から自戒し、そのときに備えておくことだ。

そうして私は、ゆっくりとねんねぐーして死んでいくことにしよう。

そーゆーことだ。

Tuesday, December 12, 2006

雨よ降れ 草木国土悉皆成仏

鎌倉ちょっと不思議な物語19回



御成小学校の辺で雨になった。

この道は古くは大江広元が公文所に通勤するために歩いた道、

中世日本の行政センターに向かう道、

新しくは明治天皇が夏の海水浴のために馬車で運ばれた道、

緑豊かな邸宅が壊され、くだらないマンションが建ちあがりつつある道、

そしていま私がとぼとぼと図書館に向かって歩いている道…

図書館では光明寺の鎌倉アカデミアの回顧デイスプレイをやっていた。生徒は前田武彦、山口瞳、いずみたくなど、先生は林達夫など。

学長は三枝博音、1963年の国鉄鶴見事故で亡くなった。競合脱線という不可解な言葉が新聞を賑わせたことなど誰が覚えているだろう。

図書館には新刊書籍が7冊も届いていた。そのうちの1冊は1220ページの「ランボー全集」全一冊。こんなの2週間で読めるわけがない。

まてまて、花村萬月の「古都恋情百万遍」と杉本彩の「京おんな」もあったぞ。
雨足がだんだん強くなる。早くおうちに帰って彩ちゃんを読もう。

路地の奥に古いポンプがあった。

廃屋の一角で、褐色のポンプは誰かにくみ上げられるのを待っているようだった。

雨よ降れ 草木国土悉皆成仏

Monday, December 11, 2006

モーツアルトに想う

音楽千夜一夜 第2回


すぐる12月5日がモーツアルトの命日であったが、やはりシューベルトと共に惜しんでも余りある短すぎた人生だったと思う。

モーツアルトは、次のような症状で死んだ。
連鎖状球菌性伝染病、シェーンライン・ヘノッホ症候群、腎不全、瀉血、大脳の出血、最後の気管支炎性肺炎。( H・C・ロビンズ・ランドン著「モーツアルト最後の年1971」12章)

 また、モーツアルトはとてもおしゃれだった。
「モーツアルトは南京フロックコート(最新のモード)やマンチェスター(綿)のそれを所有し、さらには白地、青地、そして赤地の別のフロックコートも所有していた。このように彼は自分の経済的状況はどうであれ同時代のファッションをはっきりと意識していて、それに乗り遅れることはなかったのだ。」(同書「付録A」より)

さらに、モーツアルトの左耳の外耳はなかった。あるいは渦巻きがなかった。
これは彼の早世したあまり才能のなかった息子も同様で、医学的には、天才を象徴する「モーツアルト耳」と呼ばれる。
 
それにしても、どうして彼はハイドンの誘いに従ってロンドンに行かなかったのか? 行っても41番のジュピターを超えるシンフォニーはもう書けなかったかもしれないが、せめてハイドンの半分くらいの分量は書いて欲しかった。

いや交響曲なんかゼロでもはいいが、オペラとピアノ協奏曲を少なくともあと3曲は残してもらいたかった。

いやいや、せめてレクイエムをジュスマイヤーに補作させずにちゃんと全曲書きあげてから瞑目してほしかった。

 等々、ないものねだりが続々でてきてしまうのである。

しかし、しつこいようだが、いくら急に雨風が吹き荒れたとはいえ、どうして誰もウイーンの共同墓地の埋葬に最後まで立ち会わなかったのか? 
悪妻コンスタンツエも含めてどいつもこいつも薄情な奴ばかりで、たった独りで暗い穴の中に真っ逆様に落下していったモーツアルトが可哀相になる。

わが国も大騒ぎで、飛行機嫌いのアーノンクールが来日して3大交響曲やらレクイエムやらを演奏していった。テレビで視聴する限りではじつにくだらない演奏。FMで聴いたオペラも最低。こんなものを有難がって大金を払って殺到するウイーンやザルツブルグや東京や大阪の客の左脳も耳も狂っているのではないだろうか?

思えば昔々ウイーンコンツエルトムジクスを立ち上げて、バッハのカンタータを録音したり、チューリッヒの歌劇場で「オルフェオ」を目玉の松ちゃんのように夢中で楽しんでいた頃が彼の全盛時代だった。

これは極端に過ぎる言い方だが、指揮者には朝比奈やベームやバーンスタインやギュンターヴァントやチェリビダッケのように晩年になって真価を発揮する指揮者と、カラヤンや小沢やマゼールやサバリシッシュのように老いてますます音楽がだめになるタイプ、そしてわけも分からずただ懸命に棒を振っている芸術の本質とは無縁な大多数の指揮者たち、の三種類があるような気がする。

そうして現代の古典音楽業界は、広範な消費者の増大するニーズに的確にこたえるために、この3種のカテゴリーの指揮者をそれぞれに必要としているのだ。

 最後に、モーツアルトの私の最近のおすすめデイスクは、ミシェル・コルボがジュネーブのオケとライブ録音でいれた「レクイエム」(ヴァージン・クラシックスのコルボ指揮レクイエム集廉価版5枚組3000円)、DOCUMENTSの10枚組廉価版、オペラ代表作4本入って2500円)カルロスのお父さんであるエーリッヒ・クライバーがウイーンのオケを振った素晴らしい「フィガロの結婚」が聴ける。

Sunday, December 10, 2006

あなたと私のアホリズム その1

なんの己が桜かな。


60年代の終わりに構造改革派は「欲望拡大路線」という横断幕を掲げ、ブントや革協同中核派は「自己の実存のすべてをさらけだして全世界を獲得せよ」と叫んだ。

80年代の終わりに、ブルータスのある編集者は、「俺たちって、まだ一人も人を殺していないもんね」と目を輝かせて語った。
 
革命よりも、殺人よりも凶暴な存在、それは自己実現の欲望である。

百たび死んでも治らないのは、ジコチューという病気である。

Saturday, December 09, 2006

鎌倉のシェリーマン

鎌倉ちょっと不思議な物語18回


私は鎌倉に住んで足掛け30年になるが、最初はこの十二所神社のすぐ脇のアパートに住んでいた。

アパートのうしろは横浜国立大付属小学校の畑で、畑のうしろも池のある広い畑になっていた。そして子供たちはその池のザリガニを捕まえて朝から晩まで遊んだ。

 池と畑の奥には、大きなイチョウ(写真)が聳え、その巨木の下に郷土史研究でその名を知られた小丸俊雄さんの粗末な木造平屋住宅があった。

小丸さんは鎌倉や吾妻鏡の研究で成果を挙げ、晩年はこの近所の朝比奈峠や大慈寺史跡について研究していたらしいが、そんなこととは露知らない愚かな私は、氏の生前にただ1度しか会話する機会がなかったことを今頃になって悔やんでいる。

その小丸さんが著わした「鎌倉物語上下巻」(ぎょうせい刊、絶版)に印象的な記述がある。  生前の氏がある日材木座の海岸を歩いていると砂の中に白く光るものがあり、拾い上げてみるとそれは鎌倉時代に北条氏に敗れこの砂浜で死んだ畠山軍の若い武将の大臼歯であった。   60年代の鎌倉の海岸では、30センチも掘れば12世紀後半から13世紀の内戦の死亡者の遺品が大量に見つかった、というのである。
 それを知った私は、材木座や由比ガ浜の海岸を歩くたびに砂浜を忙しく両手で掘り起こしては、緋縅姿の若武者のピカピカ輝く白い歯を懸命に捜し求めたのだが、ついに発見できないでいた。

そして、かの高名なる民間考古学者の記述は、もしかすると文学的なフィクションではなかったか、と、いささか疑いの気持ちが芽生えていたのだが、先日はしなくも朝比奈峠で日大大学院松戸歯学研究科で口腔解剖学を専攻しているS氏とめぐり合い、その話をしたところ、S氏は「それはおおいにありうる話です」と断言された。

S氏は鎌倉時代の人骨、特に口腔や歯の研究をしている少壮の学徒らしく、小丸さんの証言がけっして非科学的なでっちあげではないことを保証してくれたので、私はとてもうれしかった。

鎌倉の中心部のどんな地面でも1メートル掘ってみれば江戸時代の遺跡があらわれ、3メートル掘り下げてみれば鎌倉時代が出現する。

写真は数日前から行われている浄明寺の史跡発掘の現場であるが、開発ラッシュの鎌倉市内ではいたるところでこのような光景にぶつかる。

さてここで急に話が飛ぶが、私は以前それまで働いていた会社から突然リストラされ、さあこれからいったいどうやって食べていこうか、とおおいに悩んだ時期があった。

そんなある日、たまたま当時大学前のコンビニ(その2階は黎明期の鎌倉シャツが開店していた)の隣で行われていた発掘現場で、アルバイトのおばさんが土器のかけらを楽しそうに拾い上げている姿を見て、「そうだ、俺は少年時代にはシェリーマンになりたかったんだ」、と、突然心中にひらめくものがあった。

トロイの遺跡は難しいかもしれない。しかしお日様の下で知的かつ肉体的に楽しみながら、遊びながら毎日中世の暮らしの断片と出会うこのアルバイトは悪くない。しかもこの町は遺跡の宝庫だから、仕事がなくなることは永遠にないだろう…。
と、すばやく頭を回転させ、「これこそわが理想の第二の人生だ」と、久方ぶりに胸をときまかせたのであった。

しかも、これはけっして机上の空論ではなかった。
私と同時期にリストラされたU氏の奥さんが、わがあこがれの史跡発掘のアルバイトをしていたのである。

私はその夜早速U氏に電話をした。
幸いなことに彼の奥さんも在宅していた。現場からいま帰ってきたばかりだという。

そこで私が、「この際どうしても鎌倉のシェリーマンになりたいのですが」と、切り出すと、彼女は私にみなまで言わせず、「確かに日当はもらえますがね、結局はドカタですよ。きつい肉体労働ですよ。あなたは体力に自信がありますか?」
と、どすのきいた声で突き放すように言った。

昔から虚弱体質で、肉体とか根性という言葉にもっとも弱い私は、たったその一言でなぜかへなへなになってしまった。

かくして鎌倉のシェリーマンになる夢は、ここにあえなく挫折したのである。

Friday, December 08, 2006

太刀洗の血闘

鎌倉ちょっと不思議な物語17回

曇り空の太刀洗を散歩していると、滑川の傍の電線で2羽の鳥がおしくらまんじゅうをしながらくちばしをつつきあっていた。

それは大きなカラスとトンビだった。

2羽とも大きいが、どちらかというとトンビの方が大きく強そうだった。

しかし闘争を好まないトンビに身を寄せ、攻撃を仕掛けているのは私が嫌いなカラスの方だった。

なぜ私がカラスが嫌いかというと、昔原宿の会社に通勤していたある朝、千駄ヶ谷中学の校門の前で、イチョウの木に待ち伏せしていたカラスに後頭部を鋭いくちばしでコツーンと一撃されたからである。

カラスは私が攻撃しないのに、宣戦布告もしないでいきなり襲ってきた。これは真珠湾攻撃と同じ卑劣な行為だ。

でも私はトンビに襲われたことは一度もない。

いつも大空を漂い、のどかにピーヒョロと鳴くこのうす茶色の鳥を、私はひいきにしている。

ああ、それなのに哀れトンビは敗退してしまった。醜悪なカラスの執拗な攻撃に耐えかねて、悔しそうにピーヒョロと泣きながら裏山に逃げ去っていった。
(写真は電線の上で勝ち誇るアホガラス)

それで思い出したのは、数年前の晩夏の夕方のことだった。

私が散歩から帰ろうとしてふと空を見上げると、異様な鳴き声が聞こえた。

動植物のすべて、動くものでも静止しているものでもなんでも食い荒らすタイワンリスが、「ケッツ、ケッツ」と、鋭い叫びを発しながら地上10メートルの樹上を前後左右に飛び回っている。

いったいなにを騒いでいるのかと思ってよーく観察すると、長く伸びた枝の先に約2メートルのアオダイショウが鎌首を立て、紅い舌をびらつかせ、ときおりシュー、シューと排気音を発しながらこの凶悪獣に立ち向かっていた。

このタイワンリスが逗子、藤澤方面から鎌倉に侵入してきたのはいまから10年くらいまえのことだった。

そいつは鋭い歯でたちまち鳥や動物や昆虫の幼虫などを食べつくし、植物の葉っぱはもちろん立ち木の樹皮まで剥いで枯らし、古都の自然環境をこれまた悪名高きアライグマとコラボレーション(注=これを不用意にコラボと言ってはならない。コラボは第2次大戦中の対独協力者を指す)しながら徹底的に破壊したのであった。

そんなこととは露知らず、報国寺の橋のたもとにある馬鹿なフランス料理屋では、あろうことか観光客の人寄せパンダ代わりに長年にわたって餌付けを行ってきたのである!
人間の次に獰猛で悪魔のように凶悪なこの獣を!

それはともかく、この夕べ、蘇我入鹿のような悪漢タイワンリスが、山背大兄皇子のように温和なアオダイショウを襲ったのである。

攻勢をかけるのはやはりアホリスである。アオダイショウの後に回って尻尾から食いつこうとする。そうはさせじと鎌首をもたげて反転しながら食いつくヘビチャン。しかしその時に早く、その時遅く、アホリスはもうヘビチャンの背後に回っているのである。そのパターンの繰り返しだ。

ヘビチャンも必死で健闘してはいるものの疲労困憊はなはだしく、闘いは敏捷なアホリスが圧倒的に有利である。

ああ、ここにパチンコがあったら私はあのアホリスをたったの1発で射殺すことができよう。しかしこれはハリウッド映画のやらせの決闘ではない。正真正銘の荒野の決闘なのだ。天然自然の生存競争なのだ。いくら私が「アホリス憎し」の一念に燃える魔弾の射手であっても、ここは人間の出る幕ではないだろう。

私はその場でしゃがみこんだ。そして切歯扼腕しながら、手に汗を握って文字通り食うか食われるかの死闘を見つめていた。

戦う彼らに気づいたのが午後3時ごろであった。いまは6時を過ぎている。両者の闘いは恐らくその数時間前から繰り広げられていたのではないだろうか?

夕闇がどんどん立ち込め、頭上で戦う2匹の黒い姿がおぼろになってきた。

いくら目を凝らしてもなにも見えなくなってきたので、私はアオダイショウの無事を祈りつつ太刀洗の野道を涙を飲んで引き揚げたのであった。(写真はまさにその現場です)

太刀洗の血闘

鎌倉ちょっと不思議な物語17回


曇り空の太刀洗を散歩していると、滑川の傍の電線で2羽の鳥がおしくらまんじゅうをしながらくちばしをつつきあっていた。

それは大きなカラスとトンビだった。

2羽とも大きいが、どちらかというとトンビの方が大きく強そうだった。

しかし闘争を好まないトンビに身を寄せ、攻撃を仕掛けているのは私が嫌いなカラスの方だった。

なぜ私がカラスが嫌いかというと、昔原宿の会社に通勤していたある朝、千駄ヶ谷中学の校門の前で、イチョウの木に待ち伏せしていたカラスに後頭部を鋭いくちばしでコツーンと一撃されたからである。

カラスは私が攻撃しないのに、宣戦布告もしないでいきなり襲ってきた。これは真珠湾攻撃と同じ卑劣な行為だ。

でも私はトンビに襲われたことは一度もない。

いつも大空を漂い、のどかにピーヒョロと鳴くこのうす茶色の鳥を、私はひいきにしている。

ああ、それなのに哀れトンビは敗退してしまった。醜悪なカラスの執拗な攻撃に耐えかねて、悔しそうにピーヒョロと泣きながら裏山に逃げ去っていった。
(写真は電線の上で勝ち誇るアホガラス)

それで思い出したのは、数年前の晩夏の夕方のことだった。

私が散歩から帰ろうとしてふと空を見上げると、異様な鳴き声が聞こえた。

動植物のすべて、動くものでも静止しているものでもなんでも食い荒らすタイワンリスが、「ケッツ、ケッツ」と、鋭い叫びを発しながら地上10メートルの樹上を前後左右に飛び回っている。

いったいなにを騒いでいるのかと思ってよーく観察すると、長く伸びた枝の先に約2メートルのアオダイショウが鎌首を立て、紅い舌をびらつかせ、ときおりシュー、シューと排気音を発しながらこの凶悪獣に立ち向かっていた。

このタイワンリスが逗子、藤澤方面から鎌倉に侵入してきたのはいまから10年くらいまえのことだった。

そいつは鋭い歯でたちまち鳥や動物や昆虫の幼虫などを食べつくし、植物の葉っぱはもちろん立ち木の樹皮まで剥いで枯らし、古都の自然環境をこれまた悪名高きアライグマとコラボレーション(注=これを不用意にコラボと言ってはならない。コラボは第2次大戦中の対独協力者を指す)しながら徹底的に破壊したのであった。

そんなこととは露知らず、報国寺の橋のたもとにある馬鹿なフランス料理屋では、あろうことか観光客の人寄せパンダ代わりに長年にわたって餌付けを行ってきたのである!
人間の次に獰猛で悪魔のように凶悪なこの獣を!

それはともかく、この夕べ、蘇我入鹿のような悪漢タイワンリスが、山背大兄皇子のように温和なアオダイショウを襲ったのである。

攻勢をかけるのはやはりアホリスである。アオダイショウの後に回って尻尾から食いつこうとする。そうはさせじと鎌首をもたげて反転しながら食いつくヘビチャン。しかしその時に早く、その時遅く、アホリスはもうヘビチャンの背後に回っているのである。そのパターンの繰り返しだ。

ヘビチャンも必死で健闘してはいるものの疲労困憊はなはだしく、闘いは敏捷なアホリスが圧倒的に有利である。

ああ、ここにパチンコがあったら私はあのアホリスをたったの1発で射殺すことができよう。しかしこれはハリウッド映画のやらせの決闘ではない。正真正銘の荒野の決闘なのだ。天然自然の生存競争なのだ。いくら私が「アホリス憎し」の一念に燃える魔弾の射手であっても、ここは人間の出る幕ではないだろう。

私はその場でしゃがみこんだ。そして切歯扼腕しながら、手に汗を握って文字通り食うか食われるかの死闘を見つめていた。

戦う彼らに気づいたのが午後3時ごろであった。いまは6時を過ぎている。両者の闘いは恐らくその数時間前から繰り広げられていたのではないだろうか?

夕闇がどんどん立ち込め、頭上で戦う2匹の黒い姿がおぼろになってきた。

いくら目を凝らしてもなにも見えなくなってきたので、私はアオダイショウの無事を祈りつつ太刀洗の野道を涙を飲んで引き揚げたのであった。(写真はまさにその現場です)

Thursday, December 07, 2006

アオサギとヘンゼルとグレーテル

鎌倉ちょっと不思議な物語16回


今日の午後、浄明寺郵便局に向かって道路の左端を歩いていると、イチョウサブレー製造所の入り口に大きなアオサギがいた。

道路の傍を流れている滑川にはときどきシラサギやゴイサギが魚を狙っている姿を見かけるが、こんなに大きいアオサギは初めてだ。

しかも川の中ではなくて舗装道路の上を両翼をふわりふわりと上下させながら歩いている。

私はあわてて愛用のデジカメを取り出してシャッターを切りながら、この日本産の最大のサギを追いかけた。

アオサギは軽快な足取りで民家の入り口まで前進しアーケードで覆われた屋根を見上げている。

しかし私はそれ以上追うと逃げ場を失ったアオサギが狭い空間で自傷することを恐れてその場を立ち去った。

サブレー屋さんの話では、「橋の欄干くらいまではやってくるが、こんなに接近したのは初めてだ。あんな神経質な鳥がどうしてこんな所まで」

と、とても驚いていた。

アオサギと別れてどんどん進んでいくと、泉水橋の先に奇妙な建物が見えてきた。

去年、いやおととしから気になっていた誰が建てたのかわからない謎の建造物だ。
全体はどちらかというとスペイン風の別荘のような感じである。

最初は普通の洋館かと思っていたが、どうも様子が変だ。色といい形といい、まるでヘンゼルとグレーテルのお菓子の館のようである。

本体が出来上がるまでに優に1年はかかり、それが一段落するや今度は写真左下の階段や東屋やガーデンがゆっくりゆっくり形作られていく。まるで時間も経費も気にしない手作りである。

いまでは部屋にカーテンもかけられ電気工事も終ったようだが、昼も夜も誰も住んでいない。

はじめはレストランは、ブティックか、それとも鎌倉によくある個人美術館かと想像したが、いまだもってよく分からない。

町内で話題の謎の不思議館である。

Wednesday, December 06, 2006

筑波山のガマ

耕君が福田の里に短期入所してくれたおかげで、私たちは新婚旅行以来はじめて夫婦水入らずの旅行を楽しむことができた。

最近開通したばかりの「つくばエクスプレス」に乗って、筑波山のホテルで一泊したのである。

女体山直下のホテルからは夕方も朝も関東平野を一望することができた。富士山や新宿副都心や霞ヶ浦も見えたし、雲間から浮上してくるご来光を仰ぐこともできた。

あの有名な筑波山名物のガマも見たし、日本百名山のひとつ筑波山の頂上にも立つことができた。

耕君、ありがとう。

Monday, December 04, 2006

 勝手に東京建築観光・第3回

 
魔術師は虚空を見つめる~電通本社ビル


汐留にあるこの高層ビルは、わが国を代表する巨大な広告代理店、電通の本社である。

電通はテレビ、雑誌、新聞、ラジオなどのマスメディアに食い込み、彼らの商材である媒体の販売代行を通じてその命運をひそかに握る。オリンピックやW杯、万博などのビッグイベントを自社に獲得するためには政財界との強大なコネクションが不可欠である。

また電通は、基幹産業の広告宣伝活動を代理され、主要ブランドのマーケティイグとマーチャンダイジング戦略、販促計画に大きな役割を果たしている。宣伝広告のみならず経営戦略までも代理店にげたを預ける企業すらある。

かつて私はある企業の広告宣伝部門で働いていたことがあるが、あるときその会社の歴代宣伝部長の息子や娘が電通の社員に採用されていることに気づいて今更ながらに驚いたことがあったが、これは驚くほうがうぶなので、電通は有力企業の実力者から人身御供をとることによって自らのビジネス基盤を確固たるものにしているのである。

しかし電通はあくまでもビジネスの表面に出ることを嫌う。徹底的に縁の下の力持ち、影武者としてフィクサーの役割を果たそうと涙ぐましい自己規定をしている。

したがって02年10月、ジャン・ヌーヴェル、ジョン・ジャーディによって設計された電通ビルのコンセプトは「空に消えゆくビル」、つまり普通の高層ビルにありがちなランドマーク性、記念碑性を拒否し、つまり「できるだけ目立たないこと」であった。

ジャン・ヌーヴェル自身は、「敷地内の樹木や空の雲、風景がガラスの反射と重なり合い超現実性をかもし出すこと。非永続性の変幻をもたらすこと」が狙いである、ともっともらしいことを語っているようだが、なにいくらビルだけ謙遜して黒子に甘んじようとしても、そうは問屋が許さない。

世間の耳目をひきつける魔術的な虚業こそが電通の実際の仕事。この大いなる矛盾を内包しながら、天下の電通ビルは今日も虚空をにらんでいるのである。

Sunday, December 03, 2006

福田の里は夕焼けだった。

福田の里は夕焼けだった。

今日から耕君が大和市の福田の里で1週間ショートステイするので、家人の運転する車で送っていった。

とても寂しい所であった。寂しい建物であった。

今日は日曜日なので、中は重度の人ばかりがうろうろしていた。

しかしこんな施設で働いている若者はえらい。尊敬します。

耕くんは背中を向けて真っ赤な西日を見ていたが、しばらくすると、「もう帰ってください」と言ったので、我々は後ろ髪を引かれるような思いで福田の里を立ち去った。

Saturday, December 02, 2006

音楽千夜一夜 第1回

よみがえる伝説のフォーク

昨夜のBS2でフォークを歌う奇妙なおじさんに出くわした。

杉田二郎という人が、じつにへんてこりんな、しかしじつに無理のない発声で自在な歌を自由に歌うのである。

北山修や加藤和彦、はしだのりひこは知っていたが、この人が70年大阪万博の年に大ヒットした「戦争を知らない子どもたち」を作曲者とは知らなかった。はしだのりひことシューベルツの名曲「風」も彼の作品だった。

1963年11月22日の金曜日の午後一時、私は左京区田中西大久保町の路地で立ちつくしていた。近所の家から聞こえてきたFEN放送が、「プレジデント・ケネディー・ワズ・アササンド! ジス・イズ・ザ・ファーイースト・ネットワーク」と叫んでいた。

そして翌年私は上京したが、さらにその翌年の1965年にザ・フォーク・クルセダーズが結成された。そして70年代初頭の京都はフォーク全盛の黄金時代を迎えた。

けれども私は、そんな京都とはまったく知らずに独りで東京に出てきてしまったので、善ちゃんの医大の同級生である偉大な北山修氏以外は知らないのである。フォークはおろかあらゆる音楽とは無縁の数年間がそのあとしばらく続いたのである。

さて、杉田二郎の歌唱はなかなかよかったが、ゲストの庄野 真代 とのデュエットもよかった。

この人は若くしてイスタンブールまで飛んでいった人だが、昔から旅行の好きな人で、私は彼女が前の旦那と世界一周旅行していたときにバハマで会ったことがある。

庄野 真代は当時に比べるともちろん年を取り、いろいろ苦労もしたのだろうが、それらがすべて歌のキャリアを形作っていた。飾りのない透き通った声で、二郎と調和の幻想を奏でた。

また若いトキハイのボーカルはとてもよい声で「戦争を知らない子どもたち」を歌い、続く二郎との協奏もよかった。

かつてはフォークなあんて、なんてばかにしていた私だが、数年前電撃的に友部正人の「1本道」が落雷し、それから耕君に吉田拓郎の魅力を教えられていらい、すっかりこのジャンルの素晴らしさに目覚めたのである。

そこには電気増幅で決定的に失われた人間の歌と楽器の原初の姿が、まだ霜日の朝顔のように人知れず輝いていた。

Friday, December 01, 2006

鎌倉霊園、そして夢。

鎌倉ちょっと不思議な物語15回

 

今朝はちちとおじさんが眠る霊園に、ははとつまの3人で出かけました。

ここはかの悪名高き西武資本が近所の鎌倉逗子ハイランドに続いていくつもの大きな山をぶっ壊してお墓にしたのです。
頂上には総帥堤康二郎氏の壮大な墓地があります。

むかし西武グループの管理職は毎日誰かがこの墓地の隣の宿舎に泊まりこんでいました。さらに毎年大晦日の夜には、すべての管理職が東京からバスに乗ってこの墓地に大集合し、元旦には遠く富士山を望みながら(写真)偉大な創始者に年頭の挨拶をしたそうです。まるで北のどこかの国の儀式のようですね。

私は鎌倉には30年くらい前に住み着いたのですが、当時お隣の家のご主人が国土の課長さんからそんな話をきいたものです。西武流通グループも崩壊し、義明氏も不祥事で退陣し、おごれるものは久しからず、ああ、昔の光いまいずこ、です。

たくさんのお墓の中にはたくさんの死者たちが眠っています。

中には帝国ホテルに住んで藤原歌劇団を設立したわれらのテナー、藤原義江などの有名人もなんねぐーしています。

その中にコークが3本も供えられている19歳で亡くなった人のお墓がありました。石碑には純と刻まれています。きっと彼はコークが大好きだったのでしょう。

また音楽院という戒名の25歳で亡くなった女性のお墓は、翔という文字が刻まれていました。いずれもご家族の気持ちが痛いほど伝わってくるようでした。

そのほか墓石には空、慈、憩などと書かれたいろいろな墓碑銘が並んでいます。
読めないアラビア語やRest here for next lifeという英語もあり、死者の不抜の信念に感銘を覚えました。

ははから、「倶会一処はなんと読むの?」と聞かれたので、「ともにいっしょにかいす、でしょう」と答えてから、帰宅して調べてみましたら、「くえいっしょ」と音読みするだそうです。「念仏者は等しく西方浄土に往生し、一つところに相会うこと。阿弥陀経に「諸上善人倶会一処」とあるところから出た仏語」と、大辞林に出ていました。でも「みんないっしょにねんねぐー」という解釈は間違ってはいませんね。

ちなみに平成9年に亡くなったうちのちちのは、「そして夢」です。家族みんなで相談してこれに決まったのでした。