ふあっちょん幻論 第2回
今年90歳になる文化服装学院元学長の小池千枝さんが六本木ヒルズでファッションショーを開催されたそうです。小池は、今も昔もファッションとは世のため、人のために服を作ることであると考えておられます。
小池さんなどの薫陶を受けた60年代から70年代までのクリエーターたちの多くが、心の奥底で、WHATやWHYを抱え込んでいました。何のために、なぜファッションをやるのか、という内的な衝動です。
例えばオーダーメイドを卒業して誰にも着られる安価な既製服を作ろうとか、日本人ならではの感性を生かしたプレタポルテを作って世界のブルジョワをびっくりさせてやろうとか、フォーマルウエアが全盛なので思いっきりカラフルなカジュアルを提案しよう、というおのれを起動させる動機のことです。
彼らはこのような非常に単純明快な旗印を掲げて当時の欧米市場に殴り込みをかけ、見事に成功しました。
これはかつて大崎の町工場で誕生した東通工(現ソニー)が世界一小さなトランジスターラジオを作ってやろうと野望を抱いて、そのあとで懸命に無謀なその夢を実現していった軌跡(奇跡)に少し似ているような気もします。
けれども現在ファッションに携わるクリエーターの多くが、いかに大量の商品をいかに効率よく消費者に売り込むか、という巨大なグローバルメカニズムの1つの小さな歯車や部品の役割に甘んじています。
つまりHOWの世界です。
アレキサンダーマックイーンや川久保玲はともかく、トムフォードやカール・ラガーフェルドなどは完璧にHOWの世界で生きています。
これはソニーやトヨタなどの大企業において消費者起点の企画、生産、販売、広告宣伝の円環をいかに無駄や無理なく回転させるかが最大のテーマとなり、その課題に最適の解を出すために、ヒト、モノ、カネを惜しみなく投入している状況に対応しています。
このように時代はWHATやWHYから完全にHOWのモードに切り替わって久しいのですが、いっけん最高に進化し、時代の先端を走っているように見える、このHOWを主題とするハイテクグローバルマーチャンダイジングに問題はないのでしょうか?
よく観察してみると、HOWに生きる人は狭い蛸壺に生きる人です。
口ではグローバルを叫びながらも古い経験と規範に固執し、流動する生命現象を直観する原始的な能力を失い、死体を解剖してその断片を顕微鏡で観察し、データをパッチワークすることが創造だと勘違いしていることが多いのです。
そういうミクロの決死圏に生きる人が世界中のあらゆる業界で大繁盛していますが、彼らが主導する経営はいたるところでその推進力を失って根幹部分で破綻し、市場における売り上げ目標の達成はおろか、その創造の担い手たちにわずかな労働のよろこびを提供することにすら失敗し続けているような気がします。
他の産業はいざしらず、HOWの専門家たちの重要性と価値観は、少なくともこれからのクリエイティブデザイン、アパレル業界では急速に減退していくのではないでしょうか?
そして再び大声でWHATやWHYを問う人や骨太に考える人、の登場が待たれているのではないでしょうか?
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