♪ 半藤一利著「荷風さんの戦後」
浅草の荷風の行きつけの店。アリゾナキッチン(メトロ通り東)、尾張屋、浅草フジキッチン(雷門通り傍)、甘み所「梅園」(仲見世通り)、合羽橋どじょう「飯田屋」など。あとはつぶれた。
荷風は死の床でフランス語の本を読んでいた。仏書はアラゴン「現実世界」3部作、サルトル「嘔吐」など140冊。
荷風は邦画は自作の「つゆのあとさき」以外は洋画しか見なかった。「素直な悪女」「ヘッドライト」「リラの門」「川の女」「情欲の悪魔」「紅い風船」「トロイのヘレン」「わんわん物語」など。最後の作品は微笑ましい。
♪ 保坂和志著「小説の誕生」
何度でも繰り返し紐解きたい私の2006年随一の「小説ならざる小説」である。あるいは小説という名の悠久の生を生き直そうとする意欲的な試みである。
著者はいう。
小説とは破綻と自己解体の危険を恐れず、予定調和を拒否して、どこまでも伸びて行く1本の線である。私を虚しくし、小説をうつろな箱にすることによってその小説は優れた音楽の戦争のように、世界の何かを帯びてくるだろう。
書き手が小説に奉仕する限りにおいて小説は小説たりうる。いい小説とは遠い遥かな地点、世界の果てまでも作者=読者を連れ出し、豊かにしてくれる行為である。
小説という名の「1点突破、全面展開」の実例がここにある。
「雨がつづいた10月の久しぶりの晴天の、暖かく穏やかで風がない日の午後に、池のほとりに腰掛けてビールを飲みながら、池一面が太陽の光で金色に輝くのを見ていたら、このために本を読んだり、あれこれいろいろ考えたりしているんじゃないか、と思った」
という402pからの井の頭公園での特権的体験の描写は素晴らしい。
なお本書の中で樫村晴香という人が、自閉症について「自閉症児はリンゴや犬などの名詞を理解することはできるけれど、“美しい”を理解することはできない。あるいはリンゴを使ったセンテンスは作れるけれど、美しいを使ったセンテンスは作れない」と、著者との対談で発言したそうだが、これは事実に反する。
自閉症といってもいろいろあるのだから、そんな雑駁な言い方は非科学的である。
現にうちの耕君は立派な自閉症だが、そんなセンテンスなんかおやすい御用ですよ。
そのほかにもじっくり感想を書きたいが、残念ながら時間がない。
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