鎌倉ちょっと不思議な物語18回
私は鎌倉に住んで足掛け30年になるが、最初はこの十二所神社のすぐ脇のアパートに住んでいた。
アパートのうしろは横浜国立大付属小学校の畑で、畑のうしろも池のある広い畑になっていた。そして子供たちはその池のザリガニを捕まえて朝から晩まで遊んだ。
池と畑の奥には、大きなイチョウ(写真)が聳え、その巨木の下に郷土史研究でその名を知られた小丸俊雄さんの粗末な木造平屋住宅があった。
小丸さんは鎌倉や吾妻鏡の研究で成果を挙げ、晩年はこの近所の朝比奈峠や大慈寺史跡について研究していたらしいが、そんなこととは露知らない愚かな私は、氏の生前にただ1度しか会話する機会がなかったことを今頃になって悔やんでいる。
その小丸さんが著わした「鎌倉物語上下巻」(ぎょうせい刊、絶版)に印象的な記述がある。 生前の氏がある日材木座の海岸を歩いていると砂の中に白く光るものがあり、拾い上げてみるとそれは鎌倉時代に北条氏に敗れこの砂浜で死んだ畠山軍の若い武将の大臼歯であった。 60年代の鎌倉の海岸では、30センチも掘れば12世紀後半から13世紀の内戦の死亡者の遺品が大量に見つかった、というのである。
それを知った私は、材木座や由比ガ浜の海岸を歩くたびに砂浜を忙しく両手で掘り起こしては、緋縅姿の若武者のピカピカ輝く白い歯を懸命に捜し求めたのだが、ついに発見できないでいた。
そして、かの高名なる民間考古学者の記述は、もしかすると文学的なフィクションではなかったか、と、いささか疑いの気持ちが芽生えていたのだが、先日はしなくも朝比奈峠で日大大学院松戸歯学研究科で口腔解剖学を専攻しているS氏とめぐり合い、その話をしたところ、S氏は「それはおおいにありうる話です」と断言された。
S氏は鎌倉時代の人骨、特に口腔や歯の研究をしている少壮の学徒らしく、小丸さんの証言がけっして非科学的なでっちあげではないことを保証してくれたので、私はとてもうれしかった。
鎌倉の中心部のどんな地面でも1メートル掘ってみれば江戸時代の遺跡があらわれ、3メートル掘り下げてみれば鎌倉時代が出現する。
写真は数日前から行われている浄明寺の史跡発掘の現場であるが、開発ラッシュの鎌倉市内ではいたるところでこのような光景にぶつかる。
さてここで急に話が飛ぶが、私は以前それまで働いていた会社から突然リストラされ、さあこれからいったいどうやって食べていこうか、とおおいに悩んだ時期があった。
そんなある日、たまたま当時大学前のコンビニ(その2階は黎明期の鎌倉シャツが開店していた)の隣で行われていた発掘現場で、アルバイトのおばさんが土器のかけらを楽しそうに拾い上げている姿を見て、「そうだ、俺は少年時代にはシェリーマンになりたかったんだ」、と、突然心中にひらめくものがあった。
トロイの遺跡は難しいかもしれない。しかしお日様の下で知的かつ肉体的に楽しみながら、遊びながら毎日中世の暮らしの断片と出会うこのアルバイトは悪くない。しかもこの町は遺跡の宝庫だから、仕事がなくなることは永遠にないだろう…。
と、すばやく頭を回転させ、「これこそわが理想の第二の人生だ」と、久方ぶりに胸をときまかせたのであった。
しかも、これはけっして机上の空論ではなかった。
私と同時期にリストラされたU氏の奥さんが、わがあこがれの史跡発掘のアルバイトをしていたのである。
私はその夜早速U氏に電話をした。
幸いなことに彼の奥さんも在宅していた。現場からいま帰ってきたばかりだという。
そこで私が、「この際どうしても鎌倉のシェリーマンになりたいのですが」と、切り出すと、彼女は私にみなまで言わせず、「確かに日当はもらえますがね、結局はドカタですよ。きつい肉体労働ですよ。あなたは体力に自信がありますか?」
と、どすのきいた声で突き放すように言った。
昔から虚弱体質で、肉体とか根性という言葉にもっとも弱い私は、たったその一言でなぜかへなへなになってしまった。
かくして鎌倉のシェリーマンになる夢は、ここにあえなく挫折したのである。
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