Monday, December 11, 2006

モーツアルトに想う

音楽千夜一夜 第2回


すぐる12月5日がモーツアルトの命日であったが、やはりシューベルトと共に惜しんでも余りある短すぎた人生だったと思う。

モーツアルトは、次のような症状で死んだ。
連鎖状球菌性伝染病、シェーンライン・ヘノッホ症候群、腎不全、瀉血、大脳の出血、最後の気管支炎性肺炎。( H・C・ロビンズ・ランドン著「モーツアルト最後の年1971」12章)

 また、モーツアルトはとてもおしゃれだった。
「モーツアルトは南京フロックコート(最新のモード)やマンチェスター(綿)のそれを所有し、さらには白地、青地、そして赤地の別のフロックコートも所有していた。このように彼は自分の経済的状況はどうであれ同時代のファッションをはっきりと意識していて、それに乗り遅れることはなかったのだ。」(同書「付録A」より)

さらに、モーツアルトの左耳の外耳はなかった。あるいは渦巻きがなかった。
これは彼の早世したあまり才能のなかった息子も同様で、医学的には、天才を象徴する「モーツアルト耳」と呼ばれる。
 
それにしても、どうして彼はハイドンの誘いに従ってロンドンに行かなかったのか? 行っても41番のジュピターを超えるシンフォニーはもう書けなかったかもしれないが、せめてハイドンの半分くらいの分量は書いて欲しかった。

いや交響曲なんかゼロでもはいいが、オペラとピアノ協奏曲を少なくともあと3曲は残してもらいたかった。

いやいや、せめてレクイエムをジュスマイヤーに補作させずにちゃんと全曲書きあげてから瞑目してほしかった。

 等々、ないものねだりが続々でてきてしまうのである。

しかし、しつこいようだが、いくら急に雨風が吹き荒れたとはいえ、どうして誰もウイーンの共同墓地の埋葬に最後まで立ち会わなかったのか? 
悪妻コンスタンツエも含めてどいつもこいつも薄情な奴ばかりで、たった独りで暗い穴の中に真っ逆様に落下していったモーツアルトが可哀相になる。

わが国も大騒ぎで、飛行機嫌いのアーノンクールが来日して3大交響曲やらレクイエムやらを演奏していった。テレビで視聴する限りではじつにくだらない演奏。FMで聴いたオペラも最低。こんなものを有難がって大金を払って殺到するウイーンやザルツブルグや東京や大阪の客の左脳も耳も狂っているのではないだろうか?

思えば昔々ウイーンコンツエルトムジクスを立ち上げて、バッハのカンタータを録音したり、チューリッヒの歌劇場で「オルフェオ」を目玉の松ちゃんのように夢中で楽しんでいた頃が彼の全盛時代だった。

これは極端に過ぎる言い方だが、指揮者には朝比奈やベームやバーンスタインやギュンターヴァントやチェリビダッケのように晩年になって真価を発揮する指揮者と、カラヤンや小沢やマゼールやサバリシッシュのように老いてますます音楽がだめになるタイプ、そしてわけも分からずただ懸命に棒を振っている芸術の本質とは無縁な大多数の指揮者たち、の三種類があるような気がする。

そうして現代の古典音楽業界は、広範な消費者の増大するニーズに的確にこたえるために、この3種のカテゴリーの指揮者をそれぞれに必要としているのだ。

 最後に、モーツアルトの私の最近のおすすめデイスクは、ミシェル・コルボがジュネーブのオケとライブ録音でいれた「レクイエム」(ヴァージン・クラシックスのコルボ指揮レクイエム集廉価版5枚組3000円)、DOCUMENTSの10枚組廉価版、オペラ代表作4本入って2500円)カルロスのお父さんであるエーリッヒ・クライバーがウイーンのオケを振った素晴らしい「フィガロの結婚」が聴ける。

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