Wednesday, February 29, 2012

現代語訳「吾妻鏡11巻」を読んで

照る日曇る日第498回&鎌倉ちょっと不思議な物語第257回

暦仁元年1238年から寛元元年1244年までの鎌倉幕府の動向が、例に因って編年日記体で綴られています。

私の大好きな三大将軍実朝が暗殺され、京から藤原氏の4代将軍頼経を迎え、私が大嫌いな北条氏は着々と政権基盤を固めていきます。しかし大嫌いではあるけれど、北条義時の後を継いだ泰時という人はなかなかの人物で、家の近所の朝比奈峠に切り通しを造った張本人でもあります。

これによって鎌倉は滑川~相模湾コースとは別に、十二所から六浦の港を経て関東一円、房総半島、伊豆、東海地方、遠く宋に通じる海上交通路が切り拓かれ、各地からの物資が大量に流通するようになったのです。

この頃、天変地異は相変わらず頻発していますが、その都度京からやって来た安倍一族の陰陽師たちが御所に召集され、日食や月食などの真意の解釈をめぐってああだこうだと真面目に意見を戦わせているのが面白い。物忌みや方違えなど平安時代からの迷信や陋習が依然として必要以上に尊重され、人智を超えた大いなるものへの畏怖と信仰が、中世の闇の奥に怪しく蠢いているようです。

仁治2年1241年11月29日には若宮大路の下馬四つ角あたりで三浦一族と小山一族が大通りをはさんで呑めや歌えの大騒ぎをしていて、放たれた弓矢が原因で大喧嘩になったという妙にリアルな挿話も記録されていますが、その翌日、両家の棟梁を呼び出した北条時頼が偉そうに説教する後日談を載せて御家人の総元締めとしての権威を誇示するところが、官許「吾妻鏡」の厭らしいところです。


小川吉川岸川佐川宮川富川日本人は川の畔で生まれました 蝶人

Tuesday, February 28, 2012

西暦2012年如月 蝶人狂歌三昧

ある晴れた日に 第104回


鬼は外福は内!無限の闇に投げました

マレーシアと中国の女子学生に「日本人なんかに負けるな」と就活アドバイスしているビミョウなわたし

耕君と雪の下の小林理髪店に行き同級生の小林君に散髪してもらいました。

ただひとりバーキン乗せてエアフラは放射能の島に舞い降りたり

一匹の山猫となりて巣に潜む

どうしようもなく雄どうしようもなく雌

一握りの名作あまたの凡作込みにして名人はつねに名人

凡歌あり駄作の山ありて秀歌あり

太刀洗泉に二個のおたまが浮かんでる如月十日は春の訪れ

遺産処分のため3333万円差し上げますてふメール連日来る三井香奈子そも何者

奇声上げらあらあ泣きながら走る人憎んでいるのはこの私とは

雲見れば心哀しむまして愛犬ムクの形なればなおさら

小泉岡松伊藤大木年明けてどんどん死ぬなり鎌倉十二所村住人

ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット! さあ生き抜くんだ俺たち!!

市民より情け無用にむしり取る鎌倉税務署に災いあれ

青空に孤蝶消えゆく寒さかな

要は国や世間や他人をあてにしないで歩き続けること

造花でも真花を超える花にせよ芸術は俗世を超えた仇花なれば

おお、今も昔も他人の花はなんと美しく見えることか! 

からくも冥界から蘇り宝石耀く朝を迎えし哉

カラヤンの濡れ手に粟のレガートの濡れ羽の色の気色悪さよ

国家など即「YMCA」に変えるべし全国民が立って踊って歌うだろ

横須賀のリンガハットでモザールのBGM聞きながら長崎チャンポン

横須賀の歯医者へ行けば何か出来ると思いきや一句も詠めずただ痛いだけ

われ俄かに和製サンテックスとなりてマライ半島を下りぬ

温かき布団に包まれ寝た夜に南太平洋複葉郵便機のパイロットになりし夢見る

神様の涙のようなペイズリー滅びゆく我らを優しく包まむ

コメントの無き日々に耐え日記書く

宙天に孤鳥嘯く冬の朝


吉田山田西田東田日本人は田圃の傍で生まれました 蝶人

Monday, February 27, 2012

今村昌平監督の「にあんちゃん」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.208

この作品は、佐賀県唐津の杵島炭鉱のある海辺の寒村で貧困にあえぐ在日コリアンの一家の物語を、猛将今村昌平が1959年に映画化したもの。原作は一家の次女である安本末子で題名の「にあんちゃん」とは次兄の愛称である。

両親に死なれたこの4人きょうだいを次々に襲う離散と差別、極貧の危機と苦難を、映画はこれでもか、これでもかとリアルに描くのだが、不思議なことに暗欝さはなく、どこにも希望の無さそうなこの現実と現在を達観し、目には見えないエーテルで昇華したような透明さが吹きわたっているのが不思議である。

眼前の海や池と見れば躊躇せずに真っ裸になって飛び込む幼い兄弟姉妹たち。
彼等には彼等のハンデイキャップを、社会や他人のせいにしない健康さと潔さがある。無一物の者だけに許された自由と果てしない未来への飛翔と投企がある。

被差別の最下層から上空を見上げれば、エネルギー政策の破綻に因る労働争議も、不当解雇も、恐るべき求職難も、いわば非現実界の仮相事象として無化され、原始的、動物的な人世根性論による限りない上昇志向だけがフォーカスされてくるのである。

どのような困難にもめげずボタ山の頂上めがけて登り続けるにあんちゃんの後ろ姿には、当時の貧しい日本国が盲目的に懐いていた漠然とした希望と無限のエネルギーが象徴され、そして例えばソフトバンク現社長の華々しい登場が予告されている。
役者は、長門裕之、松尾嘉代、吉行和子、殿山泰司などが出演しているが、北林谷栄の怪演が印象に残る。
要は国や世間や他人をあてにしないで歩き続けること 蝶人

Sunday, February 26, 2012

豊田四郎監督の「恍惚の人」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.207


1972年の段階で老人性痴呆という医学を超えた社会問題に着目した原作者有吉佐和子の慧眼には驚嘆敬服のほかはない。

恐らくはそれ以前にも随所で発症していた障碍がこれで一挙に市民権を得た功績は大であるが、かといってその治療が大きく前進したり、家族などの介護者が楽になったという話はてんで聞かない。むしろますますその被害波及の度は増大しているように実感される。

さてこの映画では、認知症の老人が激しく物忘れをしたり、脱走・徘徊したり、入浴中に溺死しそうになったり、糞便を塗りたくったり、かなりショッキングな光景が繰り広げられるが、最終的には嫁の超人的な奮闘努力のお陰で、症者がなんとかかんとかそれなりに仕合わせな生涯を全うするという結末は、しかしいま今振り返ると、現実の酷薄さと悲惨さを直視しない曖昧模糊とした不透明さがあり、原作者の余りにも文学的&情緒的な視点が物足らない。

全ての症者が次第に理性と悟性を喪失して無垢の幼時へと退行したり、甲斐甲斐しく介護してくれる嫁を恋人や母親のように疑似童話風に思いなしたりすることはない。またあれほど迷惑を蒙った嫁が、死んだ老人を懐かしく回顧して落涙するラストも、かくあれかしと誰もが望むのは勝手だが、余りにもご都合主義だし浪漫的であり過ぎる。現実はあんな甘いものではないのである。

しかし小説や映画はあくまで現実とは異なる異次元の世界なので、本作が時代的な制約もある中で、ある種の予定調和的なエンディングに着地したのはやむを得ない仕儀とは言え、それなら、雨の降りしきる中で老人が見惚れる垣根の白い花が見え透いた造花であるのは少なからず観客の感興を殺いでいる。森繁久弥と高峰秀子の熱演は賞賛に値するが、豊田監督のぬるい演出には疑問符が付くのである。


造花でも真花を超える花にせよ芸術は俗世を超えた仇花なれば 蝶人

Saturday, February 25, 2012

フランクリン・シャフナー監督の「パットン大戦車軍団」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.206

ジョージ・スコットが獅子奮迅の大活躍見せる第2次大戦のアメリカ陸軍大将軍物語です。

主人公の名前であり、この映画の原題でもあるパットンという将軍は典型的な体育会系の軍人で、戦争が大好き、戦史が大好きという風変わりな人物である。叩き上げの苛烈な軍人であるのみならず、カエサルやナポレオン、ライバルのロンメルの戦術論や戦闘記録も研究している立派な武人なのだが、惜しむらくは大局観と心身の冷静なバランスに欠け、一時の激情に駆られて取り返しのつかない軽挙妄動を引き起こすドンキホーテのような人物であったそうです。

彼はせっかくロンメル軍団をやっつけてイタリア戦線で赫赫たる成果を収めたというのに、野戦病院に収容されていた神経衰弱の兵士を腰ぬけ仮病人と罵って殴打したために左遷されるが、アイゼンハウアーの推盤でまた前線に再登場し、かつての部下であったブラッドレーの指揮下に入って欧州戦線でまたもや奇跡の大作戦を敢行します。

ともかくやたら好戦的で弱者への配慮どころか虐待を躊躇しない最低の人間ですが、東洋的な輪廻転生を信じ、おのれカルタゴのハンニバルの生まれ変わりと信じていたのは面白い。この映画では主演のスコットがまるでパットンの生まれ変わりのような名演技を披露しています。


カラヤンの濡れ手に粟のレガートの濡れ羽の色の気色わるさよ 蝶人

Friday, February 24, 2012

花村萬月著「信長私記」を読んで

照る日曇る日第497回

太田牛一の「信長広記」の向こうを張って、やさぐれのごんたくれ作家がいっちょでっち上げたる「信長私記」である。どうせ編集者の推挽で無理矢理書かされた連載小説なのだろうが、彼の血湧き肉踊る京都を舞台にした肉弾自叙伝と違っていまいち、いま二、いま三乗りが悪く愉しめなかった。

ごんたくれが尾張織田家のごんたくれになり代わって一族のみそっかすを打倒したり、斎藤道三の娘濃姫と濡れ場を演じたり、後年の前田利家の尻の穴を破ったり、後年の秀吉や家康の人となりを見抜いたりする戦国青春ヤッホーホイサッサのアホ馬鹿噺であるが、例に因ってくだんのごとし。面白くもおかしゅうもない。

 竹千代、すなわち当時織田家の人質になっていた家康が、「永久に戦のない世界を作ることが自分の願いである」、と語って、そんなことは阿呆鱈経の絵空事と考えている信長親子を驚かせるところが出てくるが、この家康流の信条って昔からNHKの大河ドラマの女流脚本家の決まり文句であるなあ、と思って軽くのけぞってしまいましたよ。まる。


青空に孤蝶消えゆく寒さかな 蝶人

Thursday, February 23, 2012

鎌倉国宝館で「氏家浮世絵コレクション肉筆浮世絵の美」展を見て

茫洋物見遊山記第78回&鎌倉ちょっと不思議な物語第256回


残念ながら既に終了してしまったが、今月の12日まで開催されていた恒例の「氏家コレクション」について走り書きしておこう。

「氏家浮世絵コレクション」というのは、浮世絵の海外流出を憂えた有徳のコレクター、氏家武雄氏が昭和四九年に鎌倉市と協力してここ国宝館に収蔵された世界的な浮世絵、なかんずく肉筆浮世絵の名品の数々で、今年も北斎、豊広、広重、雪鼎、長春、栄之の優品がおよそ五〇点展示されていた。

さすがに肉筆だけあって大量にプリントアウトされた通常の浮世絵とはその清新さにおいて断然優位に立ち、江戸期アーティストのカラフルで華麗な筆跡が生々しく目を射る。

どんな人物像を描いても生真面目で正攻法の硬さが抜けきらない大家葛飾北斎の「酔余美人図」や「桜に鷹図」、反対にどんな風物を描いても優雅なリリシズムを失わない広重の「御殿山の花図」、加えて西川裕信の「美人観菊図」や懐月堂安度の「美人愛猫図」など春近い古都で鑑賞するにふさわしい「無人の」展覧会であった。

それにしても、と私は思う。最近猫も杓子も大騒ぎのフェメールの良さなど私には皆目理解できず、タダで上げると言われても別に欲しくはないが、これらの肉筆画なら千万両を積んでも手元に置きたいと願うのだ。

こういう我々の先祖先輩が生みだした古拙な真の名人芸には目もくれず、舶来上等限定少数のフェルメール!?なぞにいともかんたんにうつつを抜かす軽佻浮薄な日本人のお芸術趣味が、明治以降の国産優品海外流出の惨を生んだのではないだろうか。 

おお、今も昔も他人の花はなんと美しく見えることか! 蝶人

Wednesday, February 22, 2012

増村保造監督の「暖流」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.205


原作は岸田國士だが、これは2回映画化されていまして、私が見たのは監督が増村保造、脚本は白坂依志夫、野添ひとみ、根上淳、船越英二、左幸子、山茶花究などが出演した2度目の1957年版です。

岸田は鎌倉の素敵な別荘に住んでいたので、当時の人跡稀な鎌倉や荒涼とした海岸が登場する。最後から2番目のヒロイン&ヒーローの印象的なロングショットもこのロケーションが見事に生かされておる。

お話としてはその鎌倉の名家が経営する古い病院の没落と内紛を主題としたもので、死病で余命いくばくもない病院長から経営の立て直しと一族の面倒を見ることを命じられた根上淳が獅子奮迅の大ナタ振るいをやってのけるのですが、結局やりての浪速商人の山茶花究によって追放されてしまうことになる。

 驚くべきは根上淳を異常なまでに熱愛して終始徹底的につきまとい、最後には男を根負けさせてしまう看護婦役の左幸子で、身体を張ったその猛烈な捨て身の演技は、彼女の代表作である今村昌平監督の「にっぽん昆虫記」のそれにおさおさ劣るものではない。

増村のポップな演出も次第に盛り上がりをみせ、ナカンズク病院長のアホ馬鹿長男船越英二と継母がデユエットで歌うアホ馬鹿音頭のくだりは最高にシュールである。1939年に吉村公三郎監督、高峰三枝子主演で製作された第1回目の作品も、生きている間にこの眼で見たいものだ。


横須賀のリンガハットでモザールのBGM聞きながら長崎チャンポン 蝶人

Monday, February 20, 2012

ジョージ・スティーブンス監督の「ジャイアンツ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.203

1956年に製作されたハリウッド映画の大作で、麗しのリズ・テーラーと岩のように頑丈なロック・ハドソン、そして本作を一期に泉下の人となったジェームズ・ディーンが競演しています。

人種差別を時代に先駆けて鋭く摘発したこの映画最大の見どころは、牧場王ハドソンに仕えるしがない農奴から一躍アメリカ西部を代表する石油王に躍り出たジェームズ・ディーンの嵐の中の大パーティ。ではなくて、小さなエピソードのように描かれているハドソン対バーガーインの頑固親父の人種偏見をめぐる乱闘で、溺愛する息子デニス・ホッパー。ではなくて、その妻のメキシコ人のために老体に鞭打って徹底的に殴り合うロック・ハドソンの姿と、そんな彼を熱愛するリズの夫婦愛は感動的なものがあります。

改めて鑑賞していて気がついたのは「陽のあたる場所」や「シエーン」の監督であるジョージ・スティーブンスの巧みな演出で、これによって2人の凡優の存在が見事に造形されたのでしょう。ちなみに原題は時代に抗して力強く生き抜く巨大な男ロック・ハドソンを意味する「GIANT」で邦題の「ジャイアンツ」は間違い。これでは日本プロ野球最大ののアホ馬鹿巨悪球団名になってしまう。

なおこの作品の撮影直後に急死してしまうジェームズ・ディーンは、直前の2作品に比べると背伸びした空回りの演技が目につきますが、長生きすればきっと米国を代表する名優になったことでしょう。


からくも冥界から蘇り宝石耀く朝を迎えし哉 蝶人

Sunday, February 19, 2012

文化学園服飾博物館で「ペイズリー文様 発生と展開」展を見て

ふぁっちょん幻論第67回&茫洋物見遊山記第77回

ペイズリー文様といえばただちに思い浮かべるのが1947年に製作された吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」。その前半部で原節子が着こなしていた大胆なペイズリー柄のワンピースであります。その大柄な装飾柄が、没落する桜の園でけなげに生きようとする彼女の役柄にふさわしい雰囲気を醸し出していました。

本展の資料によれば、ペイズリー文様の起源は、インド北部カシミール地方の可憐な花模様だそうですが、これがインドの染織品と共に18世紀に入った欧州で大流行を遂げ、それが更にアジア、アフリカ諸国の文様と複雑多岐に融合し、その混合物がまた全世界に波及するという一大トレンドを醸成したようです。

18世紀の末から19世紀はじめの欧州は、例のアールヌーボーの隆盛期だから、有機的なものと無機的なもの、植物と鉱物の融合を目指したこの歴史的な文化工芸運動とペイズリー文様はピッタシカンカンのコラボレーションを繰り広げたに違いありません。
当時英国で産声を上げたリバティプリント社や、のちのイタリア・エトロ社の装飾的なファブリックの源流も、すべてここから発しているのでしょう。

大きな涙を垂らしたようなペイズリー柄を見ると、生物のもっとも基本的な単位である細胞の顕微鏡写真によく似ています。ペイズリー柄は、生きとし生けるものの生命の原核を象徴するデザインであるだけでなく、それを身にまとう者に不滅の生命を賦活する呪術的な文様でもあるのでしょう。

人々と時代の生命力が限りなく沈滞し続けている現在、ペイズリー文様復興のビッグ・トレンドが深く静かに待機しているのかもしれません。なおこの展覧会は来る3月14日まで東京新宿の同博物館で開催されています。


神様の涙のようなペイズリー滅びゆく我らを優しく包まむ 蝶人

Saturday, February 18, 2012

ジョン・アーヴィング著「あの川のほとりで下」を読んで

照る日曇る日第497回

76歳になる主人公の父親を執拗につけ狙ってきた87歳の元保安官代理は、コルト45の凶弾を胸にぶちこんでついにその黒い宿願を果たすが、58歳の息子であり作家でもある主人公の20口径のウインチエスター銃の3発の散弾を浴びて息の根をとめられ、親の因果が子に報いる因縁の復讐劇はとうとう幕を下ろした。

しかしいかに元警官が冷血漢で、己の愛人を寝取られ、その殺人の濡れ衣を着せられたとはいえ、およそ半世紀に亘ってその憎悪と殺意を持続し、あらゆる困難にもめげずにその復讐を貫徹できるものだろうか? 恐らくその凶悪な暗殺者の悪への暗い情熱は、同伴し続けた作者の内奥にも不気味に蠢めいているのであろう。良きものを大切に育もうとする作者の善き情熱と同じ重さで……。

哀れ我らが主人公は、父親ばかりか最愛の息子も事故で失う。そして父親の親友で主人公の親代わりだった偉大な樵ケッチャムの悲愴な最期、9.11後の母国アメリカを覆い尽くす亡国現象……相次いで襲いかかる死と人世の虚無と無常を、著者はこれでもかこれでもかと描きだす。そう。作者に指摘されるまでもなく、世界は確実に死と滅亡に向かっているのだ。

しかしながら極寒の吹雪の大空から天使が降臨し、絶望の淵に沈む主人公に愛の光を注ぎ入れるささやかな奇跡は、私たちがかつて映画「ガープの世界」の冒頭で見たみどり児のほほえみをただちに連想させ、まるでダンテの「神曲」のように地獄と煉獄をさすらうこの神話的な長編小説が、天国への見果てぬ夢を紡ぐひとの巨人的な幻想の産物であることを思い知るのである。

冬空の下、もういちど物語の素晴らしさを信じ、もういちどそれぞれの「人生の大冒険」を始めよう、と説く作者の孤独なアジテーションが、ボブ・ディランの嗄れ声のように寥々と鳴り響いている。


宙天に孤鳥嘯く冬の朝 蝶人

Friday, February 17, 2012

岡井隆著「わが告白」を読んで

照る日曇る日第496回


歌壇の孤峰にして泰斗である当年とって84歳の著者が、かのアウグスティヌス、スタンダール、森鴎外の顰に倣い、アナトール・フランスの「エピクロスの園」に霊感を受けてものした「コンフェシオン」こそが本書である。

なにせこれまで3人の女性と離別し、32歳年下の4人目の女性と共棲している平成の大歌人が、過ぎ越し方をばゆくりなく振り返って、常の人なら墳墓の奥底にまで引き摺りこんでゆこうとする忌まわしき己の所業その罪咎を、あますところなく暴露するぞお、なーんて、宣言するのだから穏やかでない。と同時に、ますます下賤の身ゆえの好奇心がくみ取り便所の蛆虫のように湧きだしたのだが、なまなかの私小説作家の赤恥物よりスキャンダラスで面白いことは請け合いである。

 しかし著者もみずから語っているように、2009年11月に日本芸術院会員に推されてからはメスの切っ先が鈍り、秘めたる暗所への自己切開に緩みが生じたのか、私がいちばん知りたかった彼の2度に亘る突然の出奔について全く触れていないのは、羊頭狗肉とは難じられないまでも、甚だ遺憾のコンコンチキである。

 それにしても、かつてのマルキストがあろうことか天皇皇后両陛下に親しく作歌を指導する宮廷第一等の桂冠歌人となりおおせた姿は、いかに思想の上下左右転回転倒は許されているとはいうものの、アホ馬鹿単細胞のわたくしには到底理解を絶したコンコンチキであった。

末尾の挑発的な「原発擁護論」も首をかしげてしまうような奇怪な論旨であるが、ゲーテが主唱した機会詩の今日的実践として自在に引用されている自作短歌の素晴らしさは、それらの瑕瑾を補って余りあるものだ。

国家など即「YMCA」に変えるべし全国民が立って踊って歌うだろ 蝶人

Thursday, February 16, 2012

ヴィンセント・ミネリ監督の「花嫁の父」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.202

私の大好きなスペンサー・トレーシーが主演する1950年ハリウッド製作のどたばたコメディです。

長年にわたって私財を蓄えてきた弁護士が、目に入れても痛くない愛娘エリザベス・テーラーが突然結婚すると言いだして連れてきた青年にパニックとなり、はじめは反対したり、次には簡素な式を、などと注文をつけていますが、娘と妻の連合軍のペースにはまってどんどん大規模かつ物入りの挙式となり、挙句に来場者で溢れかえったホームパーティの会場で娘と別れの挨拶も出来ないままに新婚旅行に旅立ってしまいます。

映画はそのランチキパーテーが終わってへたりこむ回想シーンから始まるのですが、「男は出て行って戻らないが女の子はいつまでも家にいる」と言って、初老なれどまだそれなりに若く、美しい細君とダンスを踊るラストが心に沁みます。

それにしても当時のアメリカでは、挙式費用は全部新郎側が負担したのでしょうか? わたしんときは確か折半でしたけど。

横須賀の歯医者へ行けば何か出来ると思いきや一句も詠めずただ痛いだけ 蝶人

Wednesday, February 15, 2012

ジョン・アーヴィング著「あの川のほとりで上」を読んで

照る日曇る日第495回



現代アメリカを代表する偉大な作家の最新作の上巻を読んだところです。

この長大な(私が思うに)ビルドゥングスロマンは、1954年4月、泥の季節のニューハンプシャー州の小さな町を流れる「曲がり河」の丸太の下に沈んだ一人の少年の挿話から始まります。

そして1967年のボストン、1983年のヴァーモント州のイタリアンレストランへと舞台を移しながら、その間、氷結した川の上で2人の男のまわりで典雅なスクエアダンス踊っていた主人公の美しい母親の突然の溺死、叔母とのめくるめく性愛、主人公の父と冷酷な治安管の共通の情婦!をクマの襲撃と勘違いして!フライパンの一撃で!死に追いやった主人公!の悲嘆と一家の逃亡などの悲話を、「これが小説だあ!」とばかり銀ぎら銀にさりげなくさりげなく織り込みながら、ゆらゆる不気味に昇りつめる後楽園のジェットコースターのように次第に加速し、薔薇色の生と性の喜びと黒い死のコントラストを、父母未生以前の本源的なものにしていくのです。

作家は自らの分身である主人公とその一族の途方もない来歴を、始めは処女の泉のごとく、次には次第に激しく流れる川のごとく、佳境に達すれば悠揚迫らぬ海の満ち引きのように自由自在に語るのですが、その語りの低音部でじわじわと高まって来るこの未聞の法螺話とホラーがアマルガムに合体した恐ろしさの正体はいったい何なのでしょうか? 

それは少年時代の漱石が我知らず釣り上げてしまった巨大な怪魚の恐ろしさに少し似ていて、かつてこの作家の先達であるポーやクーパー、ホーソーンやメルヴィル、フォークナーがそれぞれの流儀で描いた世界でもあります。

果たして主人公の父ドミニクは、冷血カウボーイの魔手から逃げおおせることができるのか? そして父親と共にあっちこっちを逃亡しながらいつしか著者を思わせる有名作家になりあがった我らが主人公の運命は、これからどのように変転するのか? 

本書の翻訳を担当されたわが敬愛するミク友「上野 空」さんの、セミコロン連発の複雑怪奇な原文をあざやかに紐解く達意の翻訳と相俟って、途方もない傑作への予感が胸を限りなくときめかせます。

われ俄かに和製サンテックスとなりてマライ半島を下りぬ 蝶人

Tuesday, February 14, 2012

スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.201

1989年製作のシリーズ第3作では、お馴染みハリソンフォードのジュニア時代役に急死したリバー・フェニックス、父親役にショーンコネリーが出演して一層のお楽しみ度を加えた。

ジェフリー・ボームによる脚本は、私にはなんの興味もないキリスト教の聖杯伝説にのっかった安直なナチス対決冒険譚であるが、冒頭ベネチアの図書館の地下に美女とスーツ姿で潜入して早速鼠や蛇や蠍に遭遇したり騎士の墓を見つけたり、ナチに追われて石油が燃える水面を潜ったり危機一髪一気呵成のローラーゲームに引きずりこむスピルバーグ一流のストーリー展開はめざましいものがある。

例によって例に終わるこの出来レースの中で出色の存在は紅一点、ナチの女マタハリ、ボンドガールならぬインディガール役を演じる理知的にして妖艶なるアリソン・ドウーディ選手。仕事のためにはなんとインディ・ジョーンズ親子丼を美味しく食べてしまうという積極性を示すのですからたまりません。

あとは例によって聖杯が隠されている神殿におけるナチスとの争奪戦やらミイラやら老騎士やら大崩壊やらなんやかやで、息もつかさずにラストまで引っ張ってゆきまする。


遺産処分のため3333万円差し上げますてふメール連日来る三井香奈子そも何者 蝶人

Monday, February 13, 2012

スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ魔宮の伝説」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.200

上海のマフィアとのトラブルがインドに飛び、飛行機から命からがら脱出したり、例によって大蛇子蛇に絡みつかれたり、狂信的な邪教の徒に命を狙われたり、超高速トロッコで逃れたり、東洋少年が大活躍したり、霊験あらたかな石を持ち帰って部族の長に感激感動を与えたりするので、結局は勧善懲悪の素晴らしい映画なのだろう。

スピルバーグはこの映画のヒロイン、ケイト・キャプショーと撮影直後に結婚したそうだが、ふーんこういうタイプが好きなんだと分かってしまう映画でもある。ともかくこの監督の面白冒険活劇趣味とそれゆえの低俗さを物語る超娯楽大作です。


温かき布団に包まれ寝た夜に南太平洋複葉郵便機のパイロットになりし夢見る 蝶人

Sunday, February 12, 2012

林望訳「謹訳源氏物語七」を読んで

照る日曇る日第494回

本巻に収められたのは「柏木」「横笛」「鈴虫」「夕霧」「御法」「幻」の六つの巻です。

源氏が目に入れても痛くないほど大事にしている正室の女三の宮が、かつての頭中将の息子、柏木に犯されて子をなすくだりはまことに因果応報。若き日の源氏が桐壺帝と藤壺に対して冒したあやまちを身を以て追体験させる紫式部の冷徹な断罪は、主人公のみならず現代の読者の襟をも粛然として正しめずにはおきませぬ。

自責の念に駆られてはかなくもみまかった柏木の正妻、落葉の宮を狙うのは、今は亡き葵上との間に出来た源氏の一人息子、夕霧。さうして源氏ジュニアのいかにも不器用な横恋慕をはさんで、ようやく老境にさしかかった主人公を突如襲うのが、愛妻、紫上の死であります。

そんなに大切な妻ならもう少し生前に浮気を控えて大事にしてあげればよかったのに、と思っても、後の祭りとはこのことぞ、このことぞ。若き日の輝かしい光も急激に色褪せ、五二歳の雲隠を目前に控えた我らが主人公の落日の悲哀を、作者は残酷なまでに抉りだすのでした。

林氏の現代日本語訳は、谷崎潤一郎訳等に比べるといささか格調には欠けますが、これまでのいずれの訳者をも凌ぐ分かりやすさとテンポの明快さは素晴らしいものがあります。

太刀洗泉に二個のおたまが浮かんでる如月十日は春の訪れ 蝶人

Saturday, February 11, 2012

講談社版天皇の歴史最終巻「天皇と芸能」を読んで

照る日曇る日第493回

いつの間にかつらつら全10冊に目を通してしまったわけだが、どれも天皇と天皇に付随する制度の周縁を遠回しにぐるぐる迂回しているだけの空論閑文ばかり。天皇制を歴史的にあからめてくれようかという秘かな願いが叶えられることはただの1冊もなかった中で、落ち穂拾いのこの最終巻は予想を裏切って面白かった。

第1部の「天皇と和歌」では勅撰和歌集を逐次取り上げながら王朝和歌の特徴を具体的に論じているので、天皇をから離れた本邦歌論史としても大いに参考になる。第2部の「芸能王の系譜」では声わざの帝王としての後白河院、琵琶の帝王としての後鳥羽院、両統迭立の中で秘曲伝授を争った後深草院と後醍醐天皇等をとりあげ、第3部の「近世の天皇と和歌」では寛永文化を主導した後水尾院の和歌復興運動を、第4部の「近世の天皇と芸能」では天皇の学問・和歌と並んで茶の湯の歴史を概説しているが、この最後の小論文が私にはいっとう興味深かった。

 というのも家の近くに茶道宗徧流不審庵があったり、親戚にお茶の師匠で生計を立てている人がいたりするのだけれど、私はどうも当節の表層儀礼作法と門閥利権商売化した現代茶道というものに抜きが難い不信と偏見を抱いているからである。

かつて私は裏千家の千宗室氏が主宰する茶会なるものに臨席し、彼らが主導する作法通りに和菓子を頂いてわび茶を喫し、利休15代目の宗匠より有り難い講話?なぞも拝聴したのであるが、これが正統の茶道なりという感触のかけらすら体得できなかった記憶がある。

2畳か3畳の狭い茶室に閉じこもってちょん切られた朝顔や古臭い茶器をひっくり返して褒め殺したり、たかが1杯の茶を喫するのに長時間しびれを切らして正座したり、年代物の茶碗をぐるぐる回したり、宗匠の下らない人生訓を聴かされるのが正式な作法だと思っていたら大間違いだよ。

堺の商人や信長、秀吉、家康などがよってたかってもっともらしい禅の修行まがいに陰湿に歪めてしまったわび茶だが、茶道には平安初期の団茶、滋養茶、中世以来の衣冠を付けず裸行での乱遊飲茶や賭け茶、闘茶、嗅ぎ茶、酒席における能や少女歌舞音曲付きの回茶など、もっともっと奥が深くて開放的な楽しい喫茶文化があることを、改めて本書で学び直してほしいものである。


小泉岡松伊藤大木年明けてどんどん死ぬなり十二所村住人 蝶人

Friday, February 10, 2012

マリオ・バルガス=リョサ著「悪い娘の悪戯」を読んで

照る日曇る日第492回


ノーベル賞作家の2006年度の作品を読みました。

作家自身を思わせるペルー生まれのうぶな青年がリマ、パリ、ロンドン、東京、マドリッドを転々としながら運命の悪女を少年時代から激愛し、徹底的に入れ上げ、渇望しながら終始追いもとめ、たまにはセックスさせてもらいながらもまた逃げられ、翻弄され、日本ではヤクザのフクダに全部いいとこを持っていかれ、あまつさえ虎の子の貯金を入れ上げてもてんで悔いず、籍を作るために結婚してやり、またしても他の男に逃げられ、頭にきて娘ほど年の離れた若い女と浮気をしたり、それで頭に来た女が怒鳴りこんできたり、そうこうしているうちに2人ともどんどん歳をとり、とうとう万骨枯れて死病に取り付かれた女と再会した主人公は半世紀に及ぶ大恋愛の最後の瞬間をかのポウル・ヴァレリーが「海辺の墓地」を書いた南仏セトの海のほとりで大団円を迎えるのです。

モデルのような容姿、いたずらめいた濃いはちみつ色の瞳、ぽってりした小さな唇の持ち主にいちころで魅了された男性の半生記なのですが、そういう経験のないわたくしにはあんまり感情移入が出来ないし、このヒロインの魅力がいまいちのみこめない。でもきっとよっぽどチャーミングな小悪魔のようなファム・ファタールだったんでしょうな。

プルーストが言うように、あばたもえくぼ、すいたはれたも病のうち、虚仮の一念岩をも通す。信じる者はとうとう思いを遂げるんでしょう。されどよく出来た恋愛小説だとは思いますが、わたしにはてんで思いを馳せることすらできない絵空事の世界でした。


奇声上げらあらあ泣きながら走る人憎んでいるのはこの私とは 蝶人

Thursday, February 09, 2012

黒木和男監督の「父と暮らせば」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.199

私は仕合わせになってはいけないのですと恋人との結婚を拒む宮沢リエの娘。いやいやそんなことをしたって死んだ者は生き返るわけじゃない。その分まで幸福になっておくれと譲らぬ原田芳雄男の父。まるで歌舞伎の名場面のように江湖の紅涙をぐっしょり絞るこの映画最大の愁嘆場です。

1945年8月6日午前8時15分のその瞬間、父はまともにその光を身に受けたのですが、娘はお地蔵様の陰になって九死に一生を得る。これは近所にある鎌倉十二所の光触寺に安置された頬焼地蔵の逸話と同じです。

その父親が一人娘の身の上が心配で、死んでも死にきれない亡霊となって懐かしの我が家を出たり消えたりするという原作者井上ひさしの設定が心憎い。キャメラが家の上に移動していくと、それが原爆ドームの天井になるというラストシーンもことのほか印象的で、松村禎三の控えめな音楽もそれがかえって心を打つ。

わたしはこの秀作を世界中の人々に見てもらいたいと願わずにはいられませんでした。


雲見れば心哀しむまして愛犬ムクの形なればなおさら 蝶人

Wednesday, February 08, 2012

2011年大晦日のベルリンとウイーンの音楽会を視聴して

♪音楽千夜一夜 第245回


去年の大晦日に欧州の2つの首都で行われた年越しコンサートとオペラを録画で見物しました。

ベルリンンフィルを率いてジルベスターコンサートを振ったのはお馴染みのサイモン・ラトル。エフゲニー・キーシン迎えて演奏したグリーグの協奏曲を中心にストラビンスキーの火の鳥やラベル、ドボルザーク、ブラームス、シュトラウスなどいいとこどりのアラカルトでしたが、さしたる感銘を覚えず。

ひところの低迷を脱したかに見えたこのコンビですが、ティーレマンやヤンソンスの大活躍に比べるとそうとう格が落ちる。そろそろ別の指揮者に全トッカエしてもいいのではないでしょうか。

いっぽうウイーンでは正指揮者フランツ・ウエザー・メストを迎えた国立歌劇場で恒例の「こうもり」が上演されましたが、どこでどの曲をやってもつまらないこの謹厳実直だけが取り柄のこの人物の棒では、到底かつてのミュンヘンの夜のクライバーのシャンパンが沸騰するような喜悦感は皆無でした。

ゆいいつの目玉はその演出が当地生まれの名人オットー・シェンクだったことで、なんと御年81歳の当人が終幕のカーテンコールに登場すると、ここぞとばかりに嵐のような歓呼の声が劇場に渦巻きました。表層だけの薄っぺらな演出家が跋扈するなかで、彼のようなオーソドクスなやり方の値打ちをようやく世界のオペラファンも分かってきたのではないでしょうか。

貧乏人から情け無用とむしり取る鎌倉税務署に災いあれ 蝶人

Tuesday, February 07, 2012

コスタ・ガヴラス監督の「ミッシング」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.198

1973年に米国が軍部と結託して南米チリのアジェンダ政権をクーデターで圧殺して事件の内幕物。行方不明になった息子を案じて現地にやって来た保守的な父親が嫁と一緒に捜索するうちに米国大使館の陰謀に気づき、次第に事の真相に肉薄していく。

結局息子は米国の同意の元でチリ軍に虐殺されていたのであるが、無数の犠牲者が血まみれで横たわるサッカー場を2人が一人一人確認する場面は凄絶そのもの。おそらくこの映画が暗示するような問答無用の拉致、逮捕、拷問、処刑、殺戮が全土で繰り広げられたに違いない。

恐るべき国家犯罪の犠牲者となった息子のために父親は「われわれは、ひとつの国がその国民が無責任なせいで、共産主義化するのを無為に見ている必要はない」と述べたと言われるキッシンジャー大統領補佐官以下の政治家を訴えるのだが、結局彼らを裁くことはできなかった。

ジャック・レモンとシシー・スペイセクの渋い演技が心に残る。昔この映画の撮影監督に巴里に来たら遊びに来給えと言って名刺を貰ったがとうとう行かなかった。というのはやはり同じことを言われてノコノコ出かけた「エマニュエル夫人」のフランシス・ジャコベッティという監督が、若いスタイリストの尻ばかりを追っかけていて東洋人のわたしにつれない対応をしたからである。


ただひとりバーキン乗せてエアフラは放射能の島に舞い降りたり 蝶人

Monday, February 06, 2012

ルネ・クレマン監督の「海の牙」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.197

第2次大戦末期の北海を舞台に、あくまでも第3帝国の勝利を目指す人々のUボートの中での戦いと離反を名匠が最後までスリルとサスペンスを保ちながら演出しています。

敗色濃厚のスエーデンのオスロ港から南米脱出を図る潜水艦に乗り合わせたのはナチスドイツの将軍やゲシュタポ、ムソリーニ支持のイタリア財界人夫妻やノルウエーの学者と娘、途中で誘拐されたフランス人の医師(アンリ・ヴィダル)たち等の国際色豊かな顔ぶれが興味深い。呉越同舟の呪われた敵味方を乗せたUボート内部の息詰まる人間関係と最後の対決がみものだが、将軍の妾に扮したフロランス・マルリーが妖艶。

たった一人で潜水艦に取り残された医師が米軍によって救助され、1947年製作のこの映画のネタを執筆するという筋立てになっているが、いずれにしても潜水艦が登場する映画はすべて面白い。

一匹の山猫となりて巣に潜む 蝶人

Sunday, February 05, 2012

ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベリッシマ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.196

戦後間もない1951年製作の巨匠の初期の作品。チネチッタが映画に出演させる少女をローマ市内で公募したので、主人公の母親が愛娘を女優にしてやろうとなけなしのお金をはたいて懸命に奮闘する。

コネを作ってやると称するいんちきな青年に新居の建築資金をだまし取られたり、なぜか求愛されたり、夫に怒鳴られたりと、まるでリエママのように涙ぐましく滑稽などドタバタ劇が続くが、どういう風の吹きまわしか最終候補に勝ち残り一躍トップスターへの道が開かれるはずだったのに、それが娘の本当の仕合わせにならないと知ったイタリアのタレントママ第1号は、正気にたちもどって巨額の契約金を拒否するのでした。めでたし、めでたし!?

されど母も娘も美しい(ベリッシマ)が、あれだけ苦労した役をどぶに捨てるとはなんだかもったいない話じゃないか、という気がしないでもない。母親役のアンナ・マニャーニが強烈な存在感を発揮して今夜の夢に出てきそう。


マレーシアと中国の女子学生に「日本人なんかに負けるな」と就活アドバイスしている微妙なわたし 蝶人

Saturday, February 04, 2012

角田光代著「空の拳」を読んで

照る日曇る日第491回

日本経済新聞の夕刊に連載されていた拳闘小説がついに大団円を迎え、私は感動と一掬の涙と共にその最終回を読み終わった。小説を読んで感動の涙を流したのは遠くはロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」、近くは高橋源一郎の「官能小説家」以来だから久しぶりだが、涙は小説以外でも毎日のように大量に噴出させているからたいした話ではありませぬ。

それよりも角田光代は凄い。なんたって女だてらに草食男も三舎を避ける後楽園ホールへ日参して見事ボクシング小説を書きおおせたのだから。

ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット!

リングの上では血湧き肉躍り、鍛え抜かれた肉体と肉体が激しく切りむすぶ。
主人公の立花はじめこの未聞の格闘技に魅入られた無名の青年たちが黙々と真剣勝負に挑む姿を、著者はやわな編集者空也の視線を借りてなんと生き生きと、美しく、チャーミングに造形することに成功したことか。

 立花のトレーナー、萬羽の姿もかの丹下段平をそこはかとなく忍ばせ、これは名作漫画「あしたのジョー」の平成小説版かと思う読者もいるだろうが、これはもっと身近でもっと切なく、もっともっと卑小な人間が精一杯戦い、生きる姿がいとおしくなるような、そんな素敵な現代のロマンなのである。

ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット!

この作品を通じて角田光代は、苦難に満ちた現代の日本に生きている私たちに力強いエールを贈ってくれたと言うべきだろう。それにつけても、一日も早い単行本化が待たれる。 


ジャブ、ジャブ、ストレート、アッパーカット! さあ生き抜くんだ俺たち!! 蝶人

Friday, February 03, 2012

村山由佳著「放蕩記」を読んで

照る日曇る日第490回

挑発的な題名に惹かれて手に取ってみたが、いったいこの小説の主人公のどこが放蕩なのかさっぱり分からなかった。

放蕩とは広辞苑によればほしいままにふるまうこと。特に酒食に耽って品行が修まらないこと等とあるが、ヒロインは少女時代にちょっぴりレスビアンの真似をしたり、高校時代に2人のクラスメイトと先輩と致したり、大学時代に出版社勤務のリーマンとラブホテルへ行ったりするくらいで、この定義のいずれにもあてはまらない。

その後もいろんな男と寝まくったというのだが、よしんば彼女が毎晩違う男と床入りしたからといってそれを色情狂と称しても放蕩娘とは言えないだろう。それはこのヒロインンがきわめて意志強固な倫理的な志操の持ち主であり、肉欲に溺れて男を漁らざるをえないマンイーターとは鋭く一線を画しているからである。

それでも彼女は粋がって自分を放蕩娘と命名したいのかもしれないが、彼女が放蕩するのはより深く人世を知り生き抜くための方法的放蕩であって、肉が肉に溺れるほんたうの放蕩とは似て非なるものである。

本作では関西弁で饒舌に自己表現する主人公の母親が登場して大活躍するが、どこの家庭でも母と娘とはまあこんな関係だろう。そう大騒ぎして書きこむほどのことはない。花村萬月ばりの波乱万丈の放蕩記を期待したのに、出てきたのは世間でよくある母娘の葛藤話。これを平凡な文体で延々と書き連ねられると読むほうもうんざりしてくる。こんな作家がよく直木賞をもらったものだ。

鬼は外福は内!無限の闇に投げました 蝶人

Thursday, February 02, 2012

五味文彦著「西行と清盛」を読んで

照る日曇る日第489回

奇しくも元永元年(1118年)に生まれた文武2つの領域に激しく生きた人物の生涯をその生誕から死亡まで淡々と叙述した書物である。ちなみに清盛は治承5年(1181年)に64歳で、西行は文治6年(1190年)に73歳で亡くなっている。両者とも当時としてはかなり長寿であり、長きにわたって本邦の武家政治と歌道に決定的な影響を与えた偉人といえるだろう。

清盛については最近毎回6千万円の製作費を投じて製作されたという大河ドラマが始まったので逐次そちらを見物して頂くとして、この本では元は清盛と同じ武人で後に出家して勧請僧兼歌僧となった佐藤義清(のりきよ)こと西行法師の和歌を年代ごとに紹介、解説しているので参考になった。

彼の歌は「山家集」「聞書集」「残集」の3つの家集や後鳥羽上皇が勅撰した「新古今和歌集」などに治められており、とりわけ「年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」、「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」、「こころなき身にもあわれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮」などが名歌として知られている。

その他にも「死出の山越ゆる絶え間はあらじかし亡くなる人の数続きつつ」、「あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来ん世もかくや苦しかるべき」、「きりぎりす夜寒に秋のなるままによわるか声のとほざかりゆく」などが現代に生きる私たちの心情にも響く繊細な歌心を伝えているが、それ以外の膨大な和歌の大半は今日の私(たち)の目で見れば、正岡子規の習作と同様ほとんど月並みの凡歌であり、天才実朝の鋭い感性に及ぶべくもない平凡な作風である。

 ところで偉大な歌人や芸術家にとって最も大切な要件は、富士の高嶺を人知れずゆるやかに支える広大な麓を備えていることであって、その枢要さは天を突き刺す一点の錐におさおさ劣らない。彼に高貴な頂点あることを熟知している私たちは、彼の広大な中下層ヒンターランドのゆるく凡庸な世界に安んじて遊ぶことができるのである。


凡歌あり駄作の山ありて秀歌あり 蝶人

Wednesday, February 01, 2012

吉川一義訳プルースト「失われた時を求めて3」を読んで

照る日曇る日第488回

スワンとオデットの恋が冷める果て凡庸そのもののサロン生活が開始されると、彼らの娘オデットと主人公との恋物語が延々と繰り広げられる。

そして知的な男性の片割れであるところの私は、スワンと同様その常として相変わらずおのれの前頭葉でひねくりまわした恋人の幻像に翻弄され、疲労困憊し、とうとう念願の恋を成就することなく自縄自縛に陥って自爆する。浅はかと言うも愚かで哀れな男子の所業である。

恐るべきは著者のその真情と心情に対する通暁であって、これはやはりみずからの恋愛体験とその心理的解剖の微分積分のなせるわざであろう。頁をはぐって読むだに恐ろしく涙ぐましい所業の数々がミクロの決死圏で描破され、当時の巴里の社交界ではこういう恋愛ごっこが競うように実践されていたことをうかがわせる。

されど虚飾と退廃の陰に咲く絵画や文学や演劇への愛はつねに私たちをこの世の果てへの旅に誘う。フェルメールの恐らくは最初の理解者であったプルーストのするどい審美眼が、この奇跡の書物を誕生させたのである。


どうしようもなく牡どうしようもなく牝  蝶人