照る日曇る日第498回&鎌倉ちょっと不思議な物語第257回
暦仁元年1238年から寛元元年1244年までの鎌倉幕府の動向が、例に因って編年日記体で綴られています。
私の大好きな三大将軍実朝が暗殺され、京から藤原氏の4代将軍頼経を迎え、私が大嫌いな北条氏は着々と政権基盤を固めていきます。しかし大嫌いではあるけれど、北条義時の後を継いだ泰時という人はなかなかの人物で、家の近所の朝比奈峠に切り通しを造った張本人でもあります。
これによって鎌倉は滑川~相模湾コースとは別に、十二所から六浦の港を経て関東一円、房総半島、伊豆、東海地方、遠く宋に通じる海上交通路が切り拓かれ、各地からの物資が大量に流通するようになったのです。
この頃、天変地異は相変わらず頻発していますが、その都度京からやって来た安倍一族の陰陽師たちが御所に召集され、日食や月食などの真意の解釈をめぐってああだこうだと真面目に意見を戦わせているのが面白い。物忌みや方違えなど平安時代からの迷信や陋習が依然として必要以上に尊重され、人智を超えた大いなるものへの畏怖と信仰が、中世の闇の奥に怪しく蠢いているようです。
仁治2年1241年11月29日には若宮大路の下馬四つ角あたりで三浦一族と小山一族が大通りをはさんで呑めや歌えの大騒ぎをしていて、放たれた弓矢が原因で大喧嘩になったという妙にリアルな挿話も記録されていますが、その翌日、両家の棟梁を呼び出した北条時頼が偉そうに説教する後日談を載せて御家人の総元締めとしての権威を誇示するところが、官許「吾妻鏡」の厭らしいところです。
小川吉川岸川佐川宮川富川日本人は川の畔で生まれました 蝶人
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