Friday, July 31, 2009

西暦2009年文月茫洋歌日記

♪ある晴れた日に 第62回

水無月尽今年最初の蝉がなく

水無月今年最初の仕事来る

天青は七つ咲きたりはないちもんめ

天青や天まで届けと伸びるなり

天青咲いてわたしの夏が来る

ぎすちょんが轢き殺されている道路かな

ショスタコ愛しけやチュウチュウ蛸かいな

ある人いわく「眼をまなこといふ」と

くしゃみくらい好きにやらせてくれ

墓場の中まで五輪塔持ちゆく男あり

若潮の海を沖まで泳ぎけり

若潮の塩のにがりの強きこと

好きだおと言い交わしつつ蝉が鳴く

香取草之助てふ表札ありさぞや風流な人ならむ

妻が見しオオルリ求めて彷徨えどわれが聴きしはテッペンカケタカ

欄干の小さきデザイン火と燃えて人も世界も揺り動かしつあり 

哀れ哀れ余の身代りに兇暴蜂に二度までも刺されし妻よ

道の上二匹のギースチョンが轢き殺されている

墜ちながら手をアルプスに触れざりしヴァイオリニストは哀れなるかな

赤い服着ていた女の子異人さんを連れて行っちゃった

雑草という名の草はなく虫という名の虫もない

こうてくれえこうてくれえとさけぶのでこうてやるかな

こんな日は由比ガ浜で海水浴しようといいて学生に笑わる

「では来週」「来週はお休みですよ」といわれ先生赤恥かく

月曜のロッカーに挿したるわが鍵を木曜の朝に取りにいきたり

なにかあれば大好きですと言い交わし男同士で抱き合う父子なり

今日もまた能天気にてルポをするNY特派員を訳なく憎む

環境に優しい車を買うよりも車作りを止めればよろしい

恥多き人生なら生まれてこなかったほうがいいとでもいうのか

まるでゼウスのように天気予報してやがる

ショスタコこけつまろびつ愛しけやしもいちど聴きたしチュウチュウ蛸かいな

カラムシの葉をくるりと巻きてアカタテハの幼虫は夢結びおる

アカタテハとヒメアカタテハの弁別できず昆虫少年年老いたり

弱き者相識るや自閉症の息子に優しかりし拒食症の二人の娘

大好きだよと毎日父子で言い合う父子珍しいか

ああわが青春の麗しのドモンジョいまごろどこでどうしておるか

尻の穴に指つ込めば気持ちいいぞといいし井口君アルジェリアで何しているか

ほらほら千年前の巨魁が今日も土御門邸で梅の漢詩を作っているよ道長日記

精魂をこめて描きし傑作を二足三文で手放す悲しさ

雨の中女が歩きながら本を読んでいる

太田胃散いい薬かもしれないが悪い音楽です

恥多き人生なら生まれてこなかったほうがいいとでもいうのか

この次はもう生きてはあらぬと思いつつテレビで眺むる皆既日食

何故に内定取れぬと我に問ふ真直ぐなる眼を受け止めかねつ 

本日もまた遊泳注意なりわが生への警告と聞きて沖に乗り出す

受けて落ち受けても落ちる学生にぐあんばれとしか言えぬ悔しさ 

Wednesday, July 29, 2009

フエンテス著「老いぼれグリンゴ」を読んで

照る日曇る日第275回

1842年アメリカのオハイオ州に生まれたアンブローズ・ビアスは「悪魔の辞典」、そして私の大好きな短編小説「空を飛ぶ騎手」の作者として有名ですが、南北戦争に従軍し、ジャーナリストとして活躍した後、2人の息子と妻にも先立たれ、70歳の時、傷心のままメキシコに赴き、そのまま行方不明となりました。

この小説は、この伝説の作家ビアスをモデルに、暴力と革命の地南米メキシコを舞台にした恋と血と詩と死の物語です。「死と呼ばれるものは最後の苦痛にすぎない」とビアスは語ったそうですが、すべてに幻滅したビアスを思わせる老作家は、精悍なトマス・アローヨ将軍率いるメキシコの反乱軍に身を投じ、そこで文字通り死を恐れない英雄的な戦闘を繰り広げます。

そこに登場するのがニューヨークからやってきた若くて美しい女教師ハリエット・ウインズロー。ここにお決まりの恋の鞘当て、愛の三角関係が始まる、とみせかけて実は老作家グリンゴとハリエットは実の親子なのです。

そうとは知らぬハリエットは恋敵のグリンゴを殺そうとするアローヨ将軍の人身御供となって、そのスレンダーで美しいプロポーションが眩い全裸を、野蛮人の前に惜しげもなく晒すのです。
飛んで火に入る夏の虫、蓼喰う虫も好き好き。落花狼藉を地でいく凌辱は深々と沈みゆくベッドの上で2度にわたって繰り広げられ、第1ラウンドにおいては獰猛な男が、リターンマッチにおいてはみずから2度目を求めた乙女が、当然のことながら勝利するのです。

あらすじを書いているうちに阿呆らしくなってきたのでこれくらいにしますが、いったい著者はアンブローズ・ビアスという素材を借りてきて、何を言いたいのかが、読めば読むほどわからなくなってくる世紀の迷作といえましょう。


♪この次はもう生きてはあらぬと思いつつテレビで眺むる皆既日食 茫洋

Monday, July 27, 2009

チャトウィン著「パタゴニア」を読んで

照る日曇る日第274回

パタゴニアといえば社員がいつでも海でサーフィンして構わないふとっぱらのスポーツウエアの会社ですが、これは南米のさらに南の文明の果てパタゴニア地方を旅行しながら当地ゆかりの人物とその事績を延々と追及したルポルタージュ小説です。

歩きながら思考するというこの手法は、我が国では古くは松尾芭蕉、最近では司馬遼太郎氏も試みていますが、若き行動派英国人の海の深さと山の高さをものともしない行動力には初めから勝負になりません。

古今東西の文献を博引傍証しながら、怪獣プレシオサウルス、「ビーグル号航海記」のダーウィン、コールリッジの「老水夫行」に影響を与えた難破記録、アントニー・ソートというアナーキスト、ヤガン語の辞書を作ったトーマス・ブリッジなどなど現代史の表舞台から杳として消えた足跡を荒涼の地の草の根を分けに分けて現地探索する著者の情熱の秘密はどこにあるのでしょうか?

1989年に48歳の若さでエイズで死んだ著者に直接尋ねる機会は永遠に失われたわけですが、その代わりに、たとえばジョージ・ロイ・ヒル監督の手で映画化され、「明日に向かって撃て」の主人公、プッチ・キャシディ(映画ではポール・ニューマン)、サンダンス・キッド(同ロバート・レッドフォード)、エタ・プレイス(同キャサリン・ロス)となった3人のパタゴニアでの行状をつぶさに追った著者が、プッチ・キャシディの妹に会い、警官隊の待ち伏せに遭って殺されたはずのプッチ・キャシディが、しぶとく生き延びて郷里ユタ州サークルヴィルで平穏な晩年を送ったという証言を、パタゴニアのリオピコにあるプッチ・キャシディの墓と並べて読者の前に「さあどうだ」とでも言うように差し出す時、「すべてを疑え」という彼の呟きが南の風とともに聴こえてくるような気がするのです。

そして私たちが本書に添えられたサンダンス・キッドとその情婦エタ・プレイスが優美に盛装して寄り添う夢のようにロマンチックな2ショット、映画の2人を凌駕する一世一代の美男美女の艶姿に出会う時、まさに「事実は映画より奇なり」の思いを新たにせずにはいられません。

何故に内定取れぬと我に問ふ真直ぐなる眼を受け止めかねつ 茫洋

Sunday, July 26, 2009

渚にて

バガテルop107&鎌倉ちょっと不思議な物語第201回


今日も3人揃って由井ガ浜の海に海水浴に出かけました。

午後2時過ぎに出発して2時半に海岸の傍の地下駐車場にさしかかると満車の表示が出ていたので、これはやばいと思ったのですが、しばらくすると空の文字が浮かび出て、うまく駐車できました。もっともこれらは全部お母さんの作業ですが。

海は大波、中波、小波が変わりばんこにザブンザブンと浜に打ち寄せ、中央監視所の上空には、青ではなくて黄色い旗がムクの尻尾のように強風にぶるぶる震えています。

昨日と同じように遊泳注意ということなので、僕は恐る恐る海に向かって前進し、星条旗の巨大な浮輪を抱えて波に乗りました。
ジャブーーン、ジャブッジャブジャブ、ジャブーーン、ジャブッジャブジャブ、せっかく塩辛いお風呂に浸かったと思ったら、あっという間に砂浜まで押し返されてしまいます。

僕は焦ってお父さんを呼ぼうとしましたが、隣で泳いでいたはずのお父さんはあらぬ方角に目を泳がせています。僕がその視線をたどると、お父さんは、渚で体をくねくね回転させたり、両手を青空に大きく広げてポーズをとったり、かと思うと砂に寝そべって顎を両手で支えてほほえんでいる、僕がいままで見たこともないようなすらりとした金髪の美人を口をポカンとあけてうっとりと眺めていました。

その女性は明らかに日本人ではありません。きっとお父さんの大好きなフランス人のモデルさんでしょう。そのきれいなモデルさんを渚の方からデジカメで写真を撮っているヤクザのようなおじさんがいます。
年齢はお父さんと同じかもう少し若いくらいですが、まるで動物園のマントヒヒのような獰猛な顔をして、プロレスラーのように頑丈な体つきの持ち主です。マントヒヒは白い小さなビキニを身につけたモデルさんのちょうはつてきなポーズを次々にカメラに収め、それらを撮影するたびに2人で体を寄せ合って眺めてはうれしそうに笑っています。

僕はこの2人は国際結婚をしたカップルではないかと考えましたが、それにして年が離れすぎています。きっと鎌倉に遊びにきたモデルさんが長谷の大仏あたりでマントヒヒと仲良くなって、一緒に由比ガ浜くんだりまでやってきたのではないでしょうか。

何気なくお父さんの顔を見ると、怒っているような、泣いているような、僕がいままで見たこともないようなへんてこりんな顔をしています。浮輪でプカプカ浮かんでいる僕を見ると、「今日の海水浴はどうもつまらないな」と塩水をペッと吐き出しながら言うので、僕が、「そんなことないよ。いつもと同じように楽しいよ」と言うと、「ヘン」と言ってそっぽを向いてしまいました。

どうも仕方がないお父さんです。中央監視所の上空を飛んでいる鳶が、相変わらずピーヒョロ、ピーヒョロと鳴いています。


♪本日もまた遊泳注意なりわが生への警告と聞きて沖に乗り出す 茫洋

Friday, July 24, 2009

♪ある晴れた日に 第61回

♪ある晴れた日に 第61回


ある人いわく「眼をまなこといふ」と

道の上二匹のギースチョンが轢き殺されている

雑草という名の草はなく虫という名の虫もない

こうてくれえこうてくれえとさけぶのでこうてやるかな

カラムシの葉をくるりと巻きてアカタテハの幼虫は夢結びおる

アカタテハとヒメアカタテハの弁別できず昆虫少年年老いたり

弱き者相識るや自閉症の息子に優しかりし拒食症の二人の娘

哀れ哀れ余の身代りに兇暴蜂に二度までも刺されし妻よ


♪好きだおと言い交わしつつ蝉が鳴く 茫洋

Wednesday, July 22, 2009

若杉弘氏を悼む

♪音楽千夜一夜第71回&遥かな昔、遠い所で第86回

昨日の夕方、指揮者の若杉弘さんが74歳で臓器不全で亡くなられたと聞いて、驚きかつまた悲しんでいるところです。

 私がこの人の音楽をはじめて聴いたのは、東京日比谷の日生劇場で行われた二期会の公演でした。それは獣たちが人間と同じように口をきいていたずいぶん昔の時代のことで、おそらくこれが私の生涯初のオペラ体験だったと思います。

曲はヤナーチェックの「利口な女狐の物語」でしたが、私は題名役に扮したソプラノの伊藤京子さんの抒情的で美しい歌声に強く惹かれると同時に、この作曲家が描いている「山川草木悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」の世界のいいしれぬ奥深さ、見事な美術と照明、そしてオーケストラ(おそらくは東フィル)をじょじょに加熱・加速し、最後の愁嘆場で舞台と会場全体を青白く輝く燐光でおおいつくしたこの芥川龍之介を思わせる白哲の指揮者の手腕にいたく驚嘆したことでした。

茫茫遥か四半世紀、彼が読響、都響、ラインドイツオペラ、ドレスデン国立歌劇場などの桧舞台で活躍した細身で長身の雄姿をしのびつつ、心から哀悼の意を表したいと思います。

仕込み杖のごとく長き指揮棒、広き額を振りまわしぬオペラの達人若杉弘 茫洋

Sunday, July 19, 2009

吉村昭著「生麦事件」を読んで

照る日曇る日第273回

文久2年1862年8月、生麦でイギリス人3名を切って捨てた島津久光の薩摩藩でしたが、その一年後にはどのように鮮やかな変身を遂げたか。これが本書のテーマといえるでしょう。

翌年7月の薩英戦争に敗北した薩摩藩は、その敗戦の原因が前近代的な軍備にあることをさとり、それまでのかたくなな攘夷の旗印を取り下げ、いっきに親英派に転向していくのですが、その奇妙な道行を、この作者ならではの周到な追跡取材によって綿密に跡付けていきます。

それにしても、一敗地に塗れた当の敵国に対して、軍艦の買い入れを和平の条件に挙げるとは、なんと人を食った交渉人でしょう。歴史上名高い大久保、西郷、小松などの才人のほかにも、この西南の雄藩には重野厚之丞という豪胆な外交官がいたのです。

脳裏の主観だけに依拠した尊王攘夷のイデオロギーを一夜にして打ち砕いたものは、最新鋭の戦艦とアームストロング砲の威力でした。

最後まで観念にとらわれて幕末の政治決戦にさしたる貢献ができなかった水戸藩とは対照的に、いち早く冷徹な現実の厳しさにめざめ、機敏な自己回転を完遂して政治権力のヘゲモニーを確立した薩摩藩でしたが、その15年後にはふたたび守旧的な武士道イデオロギーの泥沼に足を取られて、あにはからんやそれまでかれらが総力を挙げて戦ってきた徳川幕府の古典的理念に殉じることになるのですが、これを歴史の皮肉といわずになんと呼べばいいのでしょう。

♪香取草之助てふ表札ありさぞや風流な人ならむ 茫洋

Saturday, July 18, 2009

今年初めての海水浴

バガテルop106&鎌倉ちょっと不思議な物語第200回

ほんとうは金曜日に行きたかったんだけど、あいにくの天気だったのでそこはなんとか我慢して、今日も午前中は雨がぱらついていたけれど、午後になると少しは空も明るくなってきたので、お父さんとお母さんと僕の3人で由比ヶ浜の海に行きました。


海に向かって走っているカローラの中で、お父さんが「例の夏休みの歌を歌ってよ」とそそのかしましたが、その手は桑名の焼き蛤。僕はもう子供ではないのです。とてもじゃないけど、できませんよ。プン、プン。

いつも優しいお母さんは、走行距離がすでに地球の何巡りにも達したカローラを楽しそうに運転しながら、そんな2人のやりとりを笑いながら聞きていましたがいつものようになにもいいませんでした。

そうこうするうちに早くも由比ヶ浜です。
中央監視所の上には青い旗がへんぽんと翻っています。浜辺には去年と違ってやたら立派な海の家が立ち並んでいましたが、今日のお天気のせいもあってほとんどガラガラ状態です。

僕は浜辺につくやいなやズボンを脱いで浮輪の真ん中に太った体を突っ込むと、浜辺を全速力で走って海に飛び込みました。
あ、忘れていた。僕は金槌で全然泳げません。

が、この浮輪はものすごく大きいし、星条旗のデザインはものすごく派手でどこからも目につくし、もしも浮輪がパンクして溺れそうになったとしても、監視所のお兄さんが大きな双眼鏡で僕のことをしっかり監視していますから、すぐに駆けつけて救助してくれるに違いありません。お父さんはあてにならないけど……。

そのお父さんは、「今日は若潮という潮目で、これから小潮から大潮に向かうところだ」とお母さんに偉そうに解説していましたが、それがいったいどういうことなのか僕には全然わかりません。

いつもより少し冷たいけれど、浮輪につかまって緑青色の海に浮かんでいると、最近のきびしい世の中のことも、つらいお仕事のことも、お父さんやお母さんが死んでしまった後、僕がどうなるのかということも、嫌なことはすっかり忘れることができるのです。

気がつくと広い由比ヶ浜の海に浮かんでいるのは僕ひとりでした。ホンダワラヤヒジキやボラの親子がときどき僕のおなかの周りをすり抜けていきます。お父さんとお母さんははるか向こうの砂浜で二人揃ってクワクワとネンネグーしているようです。

僕はたった独りで相模湾という少し塩からいお風呂に入っているんだと思うと、なんだか心の底から愉快な気持ちになってきたので、僕が昔子供のころに作詞作曲した「夏休みの歌」を大海原に向かって歌いました。

♪あ、どこ行くの? あ、どこ行くの? こ、と、し、の、夏休み

若潮の海を沖まで泳ぎけり 茫洋
若潮を掻き分け沖まで泳ぎけり
若潮の塩のにがりの強きこと

Friday, July 17, 2009

吉村昭著「桜田門外の変」を読んで

照る日曇る日第272回

今となっては水戸藩徳川斉昭の尊王攘夷論に比べると、井伊大老の開国路線の方が時代に先駆けた近代性と開明性を備えた先賢の明であったように思われますが、しかし安政の大獄が猛威をふるったその時代にあっては、どちらが正しい選択肢であったのかを断じることはきわめてむずかしい。いや不可能に近かったのではないでしょうか。

ともかく朝廷の勅許を得ずに独断で米国との通商条約の締結に踏み切った井伊直弼に対して斉昭、慶篤父子を戴く水戸藩は怒り狂って反撃を開始し、とうとう朝廷から幕府討伐の勅命書を手に入れます。しかしそれ知った大老は斉昭に激しい憎悪を懐き、狂気の大獄を開始します。橋本佐内、吉田松陰、頼三樹三郎、安藤帯刀など14名が切腹、死罪、獄門の極刑に科せられ、遠島以下の刑に処せられた者は100名近くに上りました。

しかもその中には女性や幼児やまったく罪もない人々が数多く含まれていましたから、水戸藩の面々がこの残酷な仕打ちを黙って眺めていようはずもありません。藩の中央の圧力と対抗しながら、この小説の主人公関鉄之助をはじめとする水戸脱藩士17名、薩摩藩士1名の計18名の志士たちは大老暗殺のテロルを計画し、実行するのです。

しかし見事に桜田門外の変を成功させたものの、彼らの末路はあまりにも悲惨でした。討死1、自刃4、深手による死亡3、死罪7の計15名が次々に世を去るのですが、著者は彼ら一人ひとりの生きざまと死にざまに対して無限の共感を懐きつつ、それをひとことも漏らすことなく、さまざまな資料を駆使し、博引旁証の限りを見せつけながら、粛々と叙述していきます。

さらにその探索の手は少しも緩められることなく、生き残った3人の身の上に及びます。そして文久2年、3月3日の討ち入りのその日に鎌倉上行寺で割腹自刃した広木松之介をのぞく2名が、それぞれ明治14年10月、同36年5月まで無事に余命を全うしたことを述べて閣筆するとき、読者は政治闘争に身を捧げた人生の栄光と悲惨についてしみじみと思いを新たにするのです。


♪妻が見しオオルリ求めて彷徨えどわれが聴きしはテッペンカケタカ 茫洋

Thursday, July 16, 2009

三宅一生さんの原爆体験

ふぁちょん幻論第52回

世界的なファッションデザイナーの三宅一生さんが、先日NYタイムズにこれまで秘していた7歳の時の広島における原爆体験を明らかにしたうえで、米国のオバマ大統領に故郷広島を訪問するように呼びかけたそうです。

三宅さんは、1945年8月6日のヒロシマで母親とともに被爆し、放射線を浴びた母を3年後に亡くしたそうですが、「原爆を生き延びてきたデザイナー」というレッテルを張られるのが嫌でいつもヒロシマに関する質問は避けてきたそうですが、オバマ氏がプラハで核廃絶に触れたことが「自分の中に埋もれていた何かを呼び覚まし、体験者の一人として個人的、倫理的な責任をかつてないほど強く感じるようになった」そうです。

三宅さんは1938年広島県生まれ。63年多摩美大卆。パリとNYで学んだ後70年に三宅デザイン事務所設立。73年からパリコレに参加。98年にはパソコンの指令で特殊な編み機が一体成型の服をつくる仕組みであるA-POC=a piece of clothを藤原大さんと開発しました。
さらに06年10月にはNYのADC賞を受賞。07年4月には東京ミッドタウン内にデザイン&芸術、ものづくりの拠点めざす21_21デザインサイトを開設したこともよく知られています。
しかしなんといってもエポックメイキングだったのは、三宅さんの創作の原点である「一枚の布」の発想から生まれた生地の裁断・縫製がいらないA-POCでしょう。コンピュータであらかじめプログラミングされた編機や織機が、筒状の布をつくりだし、布地を裁断後に縫製するというインタラクティヴで新しい技法は、従来の服づくりの概念を根底からくつがえすもので、残り布などの無駄を少なくするばかりでなく、着る人がフォルムを選択でき、自分の着る服の最終デザインに参加することができるのです。大量生産とカスタム・メードという一見矛盾するように思われる二つの要素が、ハイテク技術とイマジネーションの結合によって見事に融合しているところに大きな特徴があると思います。
ところで三宅さんのこれらの輝かしい活動の原点となったのは、今回の報道と同じく広島における強烈なデザイン体験でした。広島市を象徴する平和大橋「つくる」と西平和大橋「ゆく」の2つの橋の欄干は、有名な建築家イサム・ノグチの設計にかかるものですが、三宅さんは高校時代の行き帰りに「鎮魂と再生」をテーマとするこの「心の橋」を渡りながら、みずからもなにかをつくる人になろうと決意したと語っています。

おそらく若き日の優れたデザインとの出合いこそが、その人の生涯そのものをデザインするのでしょう。

   ♪欄干の小さきデザイン火と燃えて人も世界も揺り動かしつあり 茫洋

Wednesday, July 15, 2009

「ウイーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団の芸術第2巻」を聴いて

♪音楽千夜一夜第70回

 タワーレコードと東京電化株式会社がコラボではなく、コラボラシオンして特別企画された上記のCDを8枚組2980円でゲットしました。1枚当たり300円超というお値段は、このご時勢ではなかなかグッドではないでしょうか。

 曲目はモーツアルトのハイドンセットを中心にハイドン、シューベルトの弦楽四重奏曲、さらにペーターシュミドールが加わったモーツアルトとブラームスのクラリネット5重奏曲までついてくるというワクワクのラインアップです。

ウイーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団というのは、ウイーンフィルのコンサートマスターであるライナー・キュッヒルが中心になって第2バイオリンにエクハルト・ザイフェルト、ヴィオラにハインツ・ゴル、チエロにフランツ・バルトロメイというウイーンフィルのメンバーで結成された構成された生粋のウイーンの団体で、どの曲を聴いてもさながら練絹のように柔和なハーモニーを奏でます。

シューベルトの「死と乙女」の冒頭をこれほど耳に優しく響かせた演奏はかつてありませんでした。同じウイーンでもアルベンベルクなどとは月とすっぽん、雲泥の差です。
私はシューベルトの作品の中で唯一嫌いなのがこの曲で、どこのカルテットで聴いても途中で放り出していたのですが、ウイーン・ムジークフェラインの演奏はおしまいまでBGMのように聴きおおせることができたのでした。

しかしどの曲でもこのようにはじめは処女の如く、終りも処女のごとき真綿で首を絞めるような演奏でよろしいのかといえば、たぶんよろしくないんでしょう。異論のあるかたも大勢いらっしゃるでしょうが、自分的には、もっと曲の神髄に食うか食われるか、生きるか死ぬかと切り込まないと音楽の本来としてたぶんだめなのでしょう。

同じウイーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団という名を戴いていても、その前身であるかつてのシュナイダーハン弦楽四重奏団やバリリ弦楽四重奏団との違いはそのくらいつきの甘さ、生ぬるさにあるのでしょう。
ああ、バリリ弦楽四重奏団の素晴らしさといったら! 彼らのモノラルのLPレコードを、このデジタル最新録音とどうか聴きくらべてみてください。

同じウイーンフィルのコンサートマスターをやっていたヴァルナー・ヒンクが率いるウイーン弦楽四重奏団も似たようなもので、この2つの団体がどうしてこの程度の演奏しかできないのかということは、ヒンクの間抜けな馬面やキュッヒルの計算高い銀行員のような顔を見ているとなんだかわかるような気がします。

思えば彼らの直属の上司であった偉大なるゲルハルト・ヘッツエルが、1992年7月29日に迂闊にもザルツブルグ近郊のザンクト・グルゲンで転落死して以来、日本国の自民党と同様、もはや回復不能なウイーンフィルのゆるやかな沈滞がはじまったのです。

ベームやバーンスタインとウイーンフィルの見事な演奏、黄金時代のウイーンフィルをその両手で支えていたのは、このユーゴスラビア生まれの第一コンサートマスターであったことは、こんにち彼の後継者たちの凡庸な演奏を聴けば聴くほど明らかになりつつあります。


墜ちながら手をアルプスに触れざりしヴァイオリニストは哀れなるかな 茫洋

Tuesday, July 14, 2009

文化学園服飾博物館で「赤い服」展をみる

ふぁっちょん幻論 第51回 

帝都唯一無二、本邦随一の衣服遺産の質量を誇る新宿南口甲州街道沿いの博物館が「赤い服」をテーマとした内外のコレクションを展示しています。

通常の展覧会の展示は、展示素材のそのもの=WHAT性(たとえばゴーギャン展、ルーブル展など)で集客をはかりますが、最近の傾向は、(たとえばだまし絵展、肖像画展など)素材の周辺=HOW性をテーマとするものが増えてきたようです。この「赤い服」展などはその最たるもので、この伝でいけば「白」や「黒」や「緑」などという切り口もでてくるのではないでしょうか。

会場にはわが国のみならず、アジア、アフリカ、南北アメリカ、ヨーロッパなど、時代もさまざまな世界各地の赤い民族衣装が所狭しと並んでいて壮観です。

私がはじめて外国と本邦の色の違いに気づいたのは、韓国の民族音楽「サムルノリ」の赤や黄や緑の差し物旗の目も覚めるような鮮やかさに接したときのことでしたが、本展に出品されている戦国時代の陣羽織や江戸時代の打掛、腰巻の華麗な赤にも心底驚かされました。
薄絹の赤い腰巻をじっと見つめていると、おのずとこの下着にくるまれたむっちりした下肢の乳色までもが想像され、その強烈なエロチシズムに圧倒される思いでした。当時のデザイナーはとうぜんそうした心理的機制を想定したうえでこの真っ赤な赤を紅花で染色したのでしょう。

それに比べるとアフリカやトリクメニスタンなどの中央アジアやベトナム、台湾などで使われている赤は、ここに並んでいるコレクションを見る限りは、彩度・明度・色相とも日本製よりもかなり低く、意外の感を与えます。国産のほとんどは中国やアジアからの輸入品で赤く染められていますから、このような彼我の偏りはどこからもたらされたのでしょうか?

しかし太陽や生命力の象徴である、これら大量の赤い衣服や服飾品を眺めているうちに、私は疲れきった心身に次第に生きる気力がよみがえってくるような気がしました。
ともかく理屈抜きに元気になれる展覧会であります。


♪赤い服着ていた女の子異人さんを連れて行っちゃった 茫洋

Monday, July 13, 2009

♪ある晴れた日に 第60回記念小特集

天青は七つ咲きたりはないちもんめ

天青や天まで届けと伸びるなり

まるでゼウスのように天気予報してやがる

くしゃみくらい好きにやらせてくれ

月曜のロッカーに挿したるわが鍵を木曜の朝に取りにいきたり

なにかあれば大好きですと言い交わし男同士で抱き合う父子なりき

大好きだよと毎日父子で言い合う父子珍しいか

今日もまた能天気にてルポをするNY特派員を訳なく憎む

こんな日は由比ガ浜で海水浴しようといいて学生に笑わる

「では来週」「来週はお休みですよ」といわれ赤恥かく

どうしても就活に打ちこめないんですと訴える君と別れけり

環境に優しい車を買うよりも車作りを止めればよろしい

恥多き人生が厭なら生まれてこなかったほうがよかったのか

会うを逢う町を街と書くのは精神の退廃である

一生懸命ならどんな音楽でも許されるのかそこんとこよろしく

♪虫は嫌いとおっしゃるけれど美枝子さんそれはアカタテハの幼虫ですよ 茫洋

Sunday, July 12, 2009

「ブラームスの子守歌」とわたし

♪音楽千夜一夜第69回

私は花鳥風月にだけは恵まれた田舎で育ちましたが、音楽的な体験はほとんどありませんでした。家にあったヤマハの古いオルガンで賛美歌を自己流ででたらめに弾くくらいが関の山で、家でクラシックのレコードを聴いたことなど一度もありませんでした。

ところが私が小学5年生だったころ、大本教の本山のすぐそばにあった体育館に全生徒が集められ、校長先生が「今日はアメリカからやって来られた歌手の方がみんなに歌を聴かせてくださるから、静粛にして聴くように」という前触れがあり、うらわかい、おそらくは20代のソプラノの歌手が年長の女性ピアニストとともに登壇しました。

そこで彼女が歌ったシューベルトやモーツアルトやブラームスのリートが、思えば私の音楽体験のはじまりでした。「野ばら」の愛らしさや「魔王」の恐ろしさ、「菩提樹」の旅情、とりわけコンサートの最後に歌われたブラームスの「子守唄」の、あの母胎に回帰していくような優しい旋律は、歌い終えた彼女の美しい面立ちとともにあれから幾星霜を閲した今日もありありと瞼の裏に残っています。

それからしばらくして、「サウンド・オブ・ミュージック」と同じ題材を扱った1956年製作のウォルフガング・リーベンアイナー監督のドイツ映画「菩提樹」の最後のシーンで、ナチスを逃れて無事にニューヨークでのコンサートを成功させたマリア(美貌のルート・ロイヴェリック)がこの素敵な曲を美しい声で歌っていました。(同じロイヴェリックが主演した「朝な夕なに」も、トランペットが活躍した主題歌とともに忘れがたい映画でした。)

これはおそらくルチア・ポップの吹き替えではないかと想像しているのですが、歌い終わったルート・ロイヴェリックが、まるで聖母のように微笑みながらドイツ語で「おやすみなさい」と観客(わたし)に囁いて、ザルツブルグからの逃避行が「めでたし、めでたし」で終わる無量の浄福感は、私の心に長く揺曳したものです。

それからまた長い年月が経って、この6月、私はドイツ・グラモフォンが特別限定版で発売した46枚組の全作品全集を8457円で購入し、またしても1曲1曲なめるように聴いていたある日のこと、久しぶりにこの曲に出会いました。

作品49「5つの歌曲」の4番目のこの曲を、女声ではなく、なんとバリトンのフィッシャー・ディスカウがしめやかな声で歌っています。
といううことで、どちらさまもここらでgut' Nacht



♪雨の中女が歩きながら本を読んでいる 茫洋

Saturday, July 11, 2009

手垢まみれの「ショスタコ5番」のイメージを鮮やかに塗り替えた鎌倉交響楽団

鎌倉ちょっと不思議な物語第199回&♪音楽千夜一夜第68回 

忙中閑あり。久しぶりに鎌倉交響楽団の第93回定期演奏会に駆けつけました。土曜のマチネーですから間違いなくゆったりした気分で楽しめるはずです。

前回はマーラーの5番の感動的な熱演で、私の心胆を文字通り震撼させたこのオーケストラだけにいやがうえにも期待が膨らみます。
今回の選曲は、最初がチャイコフスキーの「スラブ行進曲」、次がラフマニノフの「パガニーニの主催による変奏曲」、最後がショスタコーヴィッチの「交響曲第5番二短調」というロシア物で、しかも制作年代順に統一されています。なかなか味のあるプログラム・ビルディングといえましょう。

まず冒頭は、私が愛してやまない「鎌倉市歌」。その湘南の海と山と空を思わせる伸びやかな旋律と穏やかなハーモニーがいいしれぬ郷愁を誘います。

以前はこの名曲を演奏しても誰も拍手しなかったのですが、たった独り私が喝采するようになってから、多くの聴衆もこれに準ずるようになってきたようでまことに慶賀にタエマセン。じつはいま恥ずかしながらネットで検索してはじめて気づいたのですが、作詞の大木淳夫もすごいけれど、作曲はなんと、なんと寡作の天才矢代秋雄だったとは!
私の耳もまんざらではないと、ひそかにうぬぼれているところです。
http://www.kamakura-faq.jp/faq/attachment/698_2.pdf

それはさておき、正式の曲目に入って最初の「スラブ行進曲」は駄曲の凡演。「1815」と肩を並べる、あの大作曲家にしては出来の悪い、ただうるさいだけの下らない曲をブラスバンドのように力奏させるものですから、耳が痛くてかなわない。

中西というかつての三流市長が、中西という身内のクラシック好きの作詞家と(金銭的に)つるんでおっ建てたこの鎌倉芸術館は、私が座っている三階席で聴くと金管楽器の強奏がドンシャリになって耳を聾せんばかりに直撃するのです。

音響火事場地獄がやっと終わると、今度は難曲として定評のあるラフマニノフの「パガニーニ変奏曲」ですが、これも指揮者(山上純司)とピアニスト(土田定克)とオケが、三位一体どころかバラバラ状態。どこがどう悪いのか私にはわかりませんでしたが、例のNHKの「希望演奏会」のテーマ音楽に使われた、甘美で、浪漫的な変奏の箇所をのぞいて、残念ながらどうもしっくりきませんでした。

もっともこれは演奏家のせいではなくて、作曲家のせいかもしれません。ラフマニノフの原曲がこれほど支離滅裂で神経衰弱的なものであることを今回の演奏は赤裸々に暴きだしたともいえそうです。

やれやれ今日の籤は大外れだったかいな、と失望落胆していた私をいっきに別世界へ拉致したのは、あにはからんやショスタコーヴィッチでした。
ショスタの5番は、やれスターリンに膝を屈したあかしの曲だの、いやいや陰にこもった反社会主義魂の曲だとか、作曲者の苦労も知らずに外野席が喧しい、いわば「音楽に政治が4の字固めに絡んだいわくつきの問題作」ですが、今回の演奏はそうした不純物やいわく因縁をことごとくぬぐい去り、天才ショスタコーヴィッチの音楽の正真正銘の深さと凄さを徹底的に掘り下げて、「どうだ!」とばかりに私たち聴衆に差し出した素晴らしい音楽のご馳走でした。

第1楽章モデラートアレグロ・ノン・トロッポにおける管弦楽の憂愁と悲愴、第2楽章アレグレットにおける弦と管、管と管、管とオケとの協奏の粋と秘術を尽くしたあえかな美しさとはかなさ、第3楽章ラルゴの透明な自己喪失、そしてアレグロ・ノン・トロッポの最終楽章における、こうであるほかはない自己解体と全世界への哄笑!

私のこのような哀れな言葉では到底表現できない、とても知的で、繊細で、しかも情感豊かな音楽を、またしても鎌倉交響楽団は山上純司という若い指揮者とやってのけたのです!
そしてその演奏の新しさは、かつて私がカーネギーホールで聴いたゲオルグ・ショルティとシカゴ交響楽団のそれをあざやかに抜き去るものでした。


♪ショスタコこけつまろびつ愛しけやしもいちど聴きたしチュウチュウ蛸かいな 茫洋


書評サイト→http://www.bk1.jp/contents/shohyou/retuden181

Friday, July 10, 2009

都のオリンピック招致広告について

茫洋広告戯評第9回


先日学友諸君と東京建築観光ツアーで新宿都庁へ行きましたら、原っぱで寝そべっている小学生たちの楽しそうな電光ポスターが掲示してありました。

このビジュアルをバックに、左には「日本だからできる。あたらしいオリンピック!」、右側には「元気な子どもたちを育てる校庭の芝生化! 緑あふれるオリンピックの開催を通じて環境の大切さを世界に伝えよう!」という2本のキャッチフレーズが並んでいます。

同様のものは西口広場にもありますが、この広告は、環境を大なり小なり傷つけるに決まっているにもかかわらず、環境問題とオリンピックを結びつけ、「校庭の芝生化=緑あふれるオリンピック」と短絡化し、東京の環境への取り組みを見てもらうためにオリンピックをやるのだと強弁しているようです。

しかし校庭の芝生は、以前から児童の健康のために植えているのであって、別に2016年に競技を見に来る観光客のために植えているわけではありません。文教とスポーツというもともと無関係な2つの主題をむりやり結びつけたところに、この広告の政治的な意図が感じられます。

確か別の場所に「23区の小学校の校庭を芝生にします」というキャッチだけで構成されている広告もありましたので、これは私の想像ですが、「オリンピックを東京でやりましょう」のほうはあとから付け加えられたものではないかという気がします。

もしそうだとすれば、校庭の芝生を喜んでいる小学生の笑顔を、東京オリンピック歓迎の笑顔に勝手にすり替えてしまう。そんな前代未聞の過ちを、知事と東京都は犯していることになるでしょう。

フランスや中国や我が国の女性や老人を蔑視し、お道楽で始めた新銀行東京が大赤字を出して都民にとんでもない迷惑をかけている石原知事が、おのれの死土産として始めたのが2016年の夏季オリンピック招致運動です。

彼はこのまったく個人的な妄執に狂奔することによって新銀行破たんの政治責任の追及から逃れようと画策しているようですね。

ロンドンの後のオリンピックを東京で開催することについては、新銀行東京の赤字に追い打ちをかける財政負担となり、さらに都民の懐を痛めるだけでなく、新しい環境破壊の要因になるとして、心ある都民のみならず多くの国民が反対しています。

すでに東京は一度オリンピックをやっていますし、前回は同じアジアの北京で開催したばかりです。
ここはそれこそグローバルな視点に立って、まだ一度も世紀の祭典を体験したことのない南アメリカ代表のリオデジャネイロ(ブラジル)に譲るのが成熟した国民と政治家がとるべき大人の態度なのに、俺が俺がとまるで餓鬼大将のようにでしゃばり、あまつさえほんらいならば己が推薦するべき福岡などの国内の開催希望までたたきつぶしてしまうとは、まことに夜郎自大な振る舞いではないでしょうか。


♪墓場の中まで五輪塔持ちゆく男あり 茫洋

Thursday, July 09, 2009

五味文彦編「吾妻鏡」第6巻を読んで

照る日曇る日第271回

現代語訳吾妻鏡の第6巻は、建久4年1193年から正治2年1200年までを扱っています。

富士の巻狩における曽我兄弟の仇討、建久6年2月から6月末までに及ぶ頼朝の上京と盛大な奈良大仏供養を経て、頼朝の長男頼家の薄氷を踏むような危うい治世と梶原景時一族の殲滅までを悠揚迫らず叙述する本書は、しかしなぜか建久10年正月の頼朝の急死をふくめたおよそ3年間について完全な沈黙を守っています。

解説者は編集作業が間に合わず未完に終わったという説を採用していますが、私は北条時政一派による暗殺説を捨てきれません。思えば頼朝の近臣工藤祐経を殺害した曽我兄弟の名付け親は北条時政であり、兄弟の騒動を利用して頼朝の命を狙おうとしていたとすれば、建久9年12月の相模川の橋供養における頼朝の落馬事件による早すぎた横死も、じつはまったくの虚報で、実際は時政ファミリーによる将軍暗殺のカモフラージュであった可能性は高いと思われます。

ところで観光客がほとんどいない鎌倉の裏駅にある御成の商店街をぶらぶら歩いていますと、頼朝全盛時代の御家人の名前を大書したのぼりがたくさん立っています。
そして私のいちばん好きな畠山重忠、2番目に好きな和田義盛をはじめ、のぼりに登場する三浦義村、三浦義澄、千葉胤正、比企能員、葛西清成、大江広元、佐々木盛綱、梶原景時、小山朝政などの有力者たちの大半は、北条一門の悪辣非道な陰謀によって次々と圧殺されていきました。

まあ源家も北条家もどっちもどっちの政略家ではありますが、どっちかといえば北条家の人々の血はどす黒い。中世の東都鎌倉を血の海に沈め、暗殺の森に変えてしまいました。
尼将軍の政子もあれほど夫を愛していながら、実の息子を2名も屠ることにけっして反対ではありませんでした。結局は嫁ぎ先よりは親兄弟一族を取ったわけです。

しかし夫の跡を継いだ羽林頼家が好色の思いもだしがたく、安達景盛の妾の色香に狂って常軌を失い、景盛誅殺を命じたことを知った政子の驚愕と失望は察するに余りあります。
おそらく彼女は、この瞬間に源家の将来を見切ったのでしょう。


♪天青咲きてわたしの夏が来る 茫洋

Wednesday, July 08, 2009

神奈川県立近代美術館の「建築家坂倉準三展」を見ながら

勝手に建築観光36回&鎌倉ちょっと不思議な物語第198回

坂倉準三は大学卒業後、1929年に渡仏し、ル・コルビジュのアトリエで働き、彼の仕事をつぶさに見聞きしてそのノウハウを身につけた建築家です。

1937年にはパリの万博日本館の設計でグランプリを獲得、1939年に帰国してからはここ鎌倉に1951年に神奈川県立近代美術館を建てたり、1966年には新宿西口広場や地下駐車場のデザインを担当してフォーク集会に格好の場を提供するなど、わが国の建築史上に多大の功績を残し、全共闘運動の波動も禍々しい1969年に68歳で亡くなりました。

この人の特徴はやはり師匠ル・コルビジュ直伝のモダニズムと、そこに薄味の醤油のように加味された和風趣味のハイブリッドということではないでしょうか。それは東京市ヶ谷の日仏会館や本展が開催されている鎌倉の県立近代美術館を見ればよくわかるようなきがいたします。

市ヶ谷の高台に聳えるおふらんす文化の白亜の殿堂、東京日仏学院はそのモダンな内外装も見事ですが、その昔は語学を教える超絶的美人が何人もおりまして、当時田舎から上京したばかりの私は、最初の授業でうっかり最前列に座ったばかりに œuの発音を何度も何度もやらされました。

その金髪のミレーヌ・ドモンジョそっくりのパリジェンヌは、微笑みながら私の唇すれすれにその美しい唇を突き出して œu、 œuと繰り返しますと、シャネルの5番の香水がほのかに混じった生あたたかい息が、まともに私の顔に当たるので、私は生まれて初めて卒倒しそうになりました。

恥ずかしさに真っ赤になった私が、彼女の「口移し」でœu、 œuとうなりますと、その度に「ノン、ノン」なぞとたしなめられ、何度も何度もやり直しを命じられる。
このようにして美しき女教師ドモンジョ嬢の血祭りに上げられた三四郎は、もうこりごりと次回からの夏期講座を放棄してしまったのですが、そのおかげで女性とフランス語に対する致命的なトラウマを刻印されることになってしまったのです。

しかし、もしもあのシャネル鼻息攻勢に懸命に耐えて通っておれば、おのずとまた違った展開があったかもしれない、などと思いかえせば、いまなお恨めしき坂倉準三設計のお化け屋敷であります。

思いっ切り横道にそれてしまいましたが、八幡宮の入口右にひっそりたたずむ県立近代美術館は私のお気に入りの場所で、2階のカフェから見下ろす平家池の蓮は絶品です。なによりも土と水と緑に完全に溶け込んだ建物の、目立たなくて、上品で、温和な風情が私たちの心にしとりとなじむのでしょう。

それにしても、ル・コルビジュは、いったいどこから彼一流の高床式建築術を編み出したのでしょう。もしかするとアジアやインドシナ、南洋諸島の古い土俗的な様式から学んで、近代建築に生かそうとしたのかもしれませんね。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallTop.do?hl=k

♪ああわが青春の麗しのドモンジョいまごろどこでどうしておるか 茫洋

Tuesday, July 07, 2009

鎌倉国宝館の「お釈迦さまの美術」展を見る

鎌倉ちょっと不思議な物語第196回&バガテルop106

鎌倉国宝館では7月12日まで「お釈迦さまの美術」展をやっています。
今回は建長寺の「宝冠釈迦三尊像」や寿福寺の「釈迦三尊十六善神像」などが出品されていますが、私がもっとも惹かれたのは宝戒寺と瑞泉寺の「仏涅槃図」でした。

ご存じのように「仏涅槃図」はお釈迦さまが亡くなるときの様子を描いた絵画ですが、中央に横たわるお釈迦様よりも、その涅槃を嘆き悲しむお弟子たちや隣人たち、とりわけ画面のいちばん手前で身も世もあらぬ風情でのたうちまわっている動物たちの表情にいつものことながら限りなく魅せられます。

 牛や馬や鹿はもちろんさまざまな鳥や鶏、矮鶏、魚たち、大きな蛇や象まで地面に転がってウオンウオン泣き叫んでいる。生きとし生けるもののすべてに愛され、親しまれた宗教家の面目が躍如としています。しかも愁嘆場なのになぜかおかしい。時間の流れがとまりが一世一代の名演技をしているような錯覚にとらわれ、まるで一場の大芝居を見ているようです。

 ところが同じ偉人でもキリストなんかになるとやたら荘厳かつ近寄りがたい雰囲気になります。ベツレヘムの生誕の折には三人の東方の大博士の周囲に羊や牛などが前足を折ってひざまずいている絵などを見たことがありますが、十字架で磔にされた後、マリアや弟子たちなどの人間以外の存在から涙ながらに哀悼されるという情景はあまり絵画でもお目にかかりません。

ミケランジェロの「ピエタ」対「仏涅槃図」―。
ここに人間第一主義で動植物の生命を軽視する厳格なキリスト教と、天台本覚思想にもとづく「山川草木悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」という多義的でゆるい汎神主義をモットーとする仏教との対比を見るのも面白いかもしれません。

「仏涅槃図」のパロディで、あの伊藤若冲が野菜だけを主人公に描いた「果蔬(かそう)涅槃図」などを見せたら、ミケランジェロはなんというでしょうか。


♪人生にはいくつもの締め切りがあると知れ 茫洋

Monday, July 06, 2009

谷川俊太郎著「トロムソコラージュ」を読んで

照る日曇る日第270回&♪ある晴れた日に第60回

わたしがこのないだこの人の詩が下手くそであるという歌を詠んだのは
月いちで掲載される朝日新聞の短いものを読んでおそろしく手抜きである
あんなものなら誰でも書けると思ったからだが、
この「トロムソコラージュ」を先に読んでいれば
あんな馬鹿な短歌は作らなかったし作れなかった。

それにしてもトロムソコラージュってなんだ。ソロムコなら代打満塁ホームランだが
ノルウエーの森の向こうを張って、訳の分らぬ題名をみだりにつけるな。
しかしわたしはいちど書いたものを取り消すのは嫌だし沽券に係わるとも
感じているのであえて白紙撤回するのはやめておこう。
拍手喝采 博士は風邪だ うちのムクちゃん墓の中

その詩人は若き日の面影を濃密に湛えながらも
新宿地下鉄丸の内線のプラットホームを歩いていた。
どす黒い疲労と深い悲しみが彼の全身を覆い尽くしたが、
窪んだ眼窩の奥底で爛々と光る両の目は依然として20億光年の孤独を見つめていた。
思いのほか背が低かったが、巷を低く見ようと背筋を伸ばして歩いていた。

こんな可哀そうな老人を死んでしまえと罵ったねじめ正一は呪われてあれ!
怒った詩人は棺桶に突っ込んでいた左足をやっとこさっとこ引っ張り上げて
与えられたお題「ラジオ」による見事な即興詩をけつの穴からひりだして
傲慢なる前チャンピオンをかりそめの王座から引きずり落としたのだった。
ねじめ けじめ お前のあそこは くそだらけ

そして今度は竜虎の勢いで、
ロシア、ドイツ、モロッコ、イングランド、ウエールズ、スコットランドを次々に制覇し、赫々たる感情旅行の成果を長編詩集におさめてしまう。
土地の精霊が宿る心霊写真と共に。
いいないいな いい歳こいて いい娘を抱いて

ハレルヤ! 
永久不滅の詩のチャンピオン。
不老不死の言葉の錬金術師。
もはや勃起しない陰茎で女人を犯す。
立ち止まらないよ、君は。

ハレルヤ! 
死してはまた不死鳥のように蘇る気高き詩魂。
超低空飛行の後期浪漫主義者。
人っ子ひとりいない場所を自分の心の中につくる
立ち止まらないよ、君は。

♪尻の穴に指突っ込めば気持ちいいぞといいし井口君アルジェで何しているか 茫洋

Sunday, July 05, 2009

井上章一著「伊勢神宮 魅惑の日本建築」を読んで

照る日曇る日第269回

これは特に伊勢神宮について論じた本ではなくて、我が国の大昔の建築物は、どんな姿形をしていたかを真正面から論じた「超」の字が2つほどつく力作であり、日本の建築学にとってじつに貴重な価値をもつ書物です。

建築史には、あの築地本願寺や大倉集古館の設計で知られる伊東忠太や太田博太郎など、いくつかの定評ある名著と称されるものがありますが、著者はこの建築の起源問題に関するおよそすべての資料を記紀の時代、平安、江戸時代の文献や研究結果をまるで草の根をわけるようにして精査比較検討し、その結果として、これまでの学説の定説をほぼ全面的に否定し、著者の東大と京大の学閥にかんする興味深い観察を交えつつ556ページに及ぶ大論考を終えています。

著者によれば歴史、建築、考古学の学者や研究者の多くが、伊勢神宮に我が国の古代建築の源泉があると信じてきました。
またご承知のようにこの神宮は、大昔から社殿を20年ごとに建て替える不可思議な営みを、(戦国時代の混乱と謎や改築の際の幾多の歪曲はあるものの)、天武帝の頃からおよそ千年以上にわたって繰り返してきました。

伊勢神宮の社殿は、「棟持柱(棟木を側面から直接支える柱)をともなう高床建築」だそうです。そしてこの神明造りという建築スタイルは、七世紀の末頃まで歳月による風化や大陸からの仏教的な建築様式の影響をかたくなに排除しつつ今日まで存続してきたといわれています。
そもそも「日本」なる国家がそれまでの「倭」に代わってこの列島に登場したのはちょうどその天武帝の時代なので、この伊勢神宮の神明造りこそ日本の最古の建築様式かもしれません。

それで話が終わればめでたしめでたしなのですが、シンプルでモダンなデザインがお好きな我が国の多くの学者たちは、この「日本的な建築の祖形」を、「日本」確立以前の太古や古墳期、さらには遠く弥生、縄文時代の彼方にまで拡大し、遡らせようと「国粋的」かつタコ壺的な努力を夜郎自大に続けてきたのです。 

考古学学者の研究によれば、有史以前の日本列島には伊勢神宮のような棟持柱をともなう高床建築はたくさん建てられていたようです。ところが、これら棟持柱をともなう高床建築は昔から中国の長江や雲南省、さらにもっと南に下がってインドネシアやオセアニア地方などにもたくさん存在しています。

もしかすると伊勢神宮に代表されるこの荘重なまでに日本的な建築の祖形は、ニッポンチャチャチャ学者の大いなる期待と予想に反して、南洋諸島の海岸に立ち並んでいる高床式の簡素なニッパハウスなのかもしれません。

  
♪ご先祖は南洋ニッパハウス住まいぞニッポンチャチャチャ 茫洋

名も知れぬ南の島より流れ来しニッパハウスぞ先祖の我が家 茫洋

Saturday, July 04, 2009

藤原道長「御堂関白記」上巻(全現代語訳)を読んで

照る日曇る日第268回

「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」
という歌を詠んだといわれる藤原道長の自伝の現代語訳です。

 こういう手放しの自画自賛を臆面もなくやってのける奴はいったいどういう人物なのかと思って手を出したのですが、なかなか面白い本でした。
 
まず「この世をば」と即興でなぜ詠めたのかといいますと、これは道長が朝はお天道さま、夕べはお月さまを必ず観賞する人間だったからだと断言できます。
彼の日記は必ずお天気メモから始まり、夜の名月や笠置寺参拝の折の流星の記事などまるで天体観測家を思わせるほど。功なり名を遂げ摂関政治の頂点に立った自負を月に例える必然性はその日常生活の習慣からきているといえそうです。

道長は、お天気や彼の日常や身辺で起こった怪異だけでなく、14歳違いの甥の一条天皇との政治的な協調ぶりやちょっとした反発、寺院における法華八講などの盛大な法事や除目の詳細、さまざまな儀式や賀茂祭などの祭典、頻繁に行われた作文会(漢詩を作る)のテーマなどについてもくわしく書き記していて、ちょっと永井荷風の日記に似た関心の広さを示しています。次々に病に侵されるところや、連日のように相撲取りに相撲を取らせて喜んでいるところなど、とても一〇〇〇年前の人物とは思えません。

けれども荷風と違って日記の文章にはいっさい屈折も韜晦もなく、なにをどう述べても単純明快そのものであり、彼の精神がまことに健全で、西欧のルネッサンス時代の知識人のような強靭な知性と晴朗さ持ち合わせていたことを雄弁に物語っています。

面白いのは、当時の皇族や貴族たちは「毎日が物忌デー」といえるほど数々の禁忌に取り囲まれて暮らしていたということです。
たとえば甥の一条天皇が住んでいる内裏では、しょっちゅう犬や鳥、時折は身元不明の人間の死体が発見され、その度に安倍晴明などの陰陽師が呼び出されて占い、その託宣次第でさまざまなリアクションが起こります。いまから1000年目に陰陽師たちがこれほど権力者たちに重用されていたとは驚きです。

それから忘れてはならないのが、藤原道長と紫式部、源氏物語との関係です。
寛弘2年10月1005年の浄妙寺三昧堂の供養における法王・天皇をはじめすべての皇族や貴族百官や高僧たちが居並ぶなかで粛々と繰り広げられた荘重な儀式や読経、楽器の演奏などの華麗なパフォーマンスの数々、あるいはその3年後に一条帝が左大臣道長が住む土御門邸を訪ねるシーンでは、はしなくも紫式部が源氏物語で描写した華やかな式典と権力者たちの栄枯盛衰の無常をまざまざと想起させ、光源氏のモデルに擬せられる道長の存在ともども、いずれが表でいずれが裏か、いずれが真でいずれが虚か、と日記の細部に至るまでつきせぬ興味が湧いてくるのです。


♪ほらほら千年前の巨魁が今日も土御門邸で梅の漢詩を作っているよ道長日記 茫洋

Friday, July 03, 2009

杉本秀太郎著「伊東静雄」を読んで

照る日曇る日第267回

私にとって伊東静雄は、中原中也と並んでまさに「詩人の中の詩人」というべき存在です。

太陽は美しく輝き
あるひは太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った

1935年(昭和10年)、彼が若冠29歳で書いた詩集「わがひとに与ふる哀歌」を読んだ人なら、この詩人の研ぎ澄まされた知性とあまりにも繊細な感受性、その孤高に拠るエキセントリックな世界に驚嘆し、憧憬と近寄りがたさの両方の気持ちを懐くに違いありません。

彼の詩はヘルダーリンやゲーテ、古今集などから学んだ象徴的な修辞技法、とりわけ隠喩を駆使した難解ではあるけれど美しすぎる語法に最大の特徴があると思われますが、その代表作「わがひとに与ふる哀歌」を文字通り徹底的に読み解いたのがこの本です。

まず著者は、この詩集はプロットにもとづいてすべての作品を作り配列されたと断言します。次に、題名の「わがひと」とは詩人の恋愛の対象である女性ではなく、「私」という男の「半身」であるところの男性であるとし、冒頭の「晴れた日に」以下の連作は、その「私」と「私の半身」との間の応答あるいは対立と相互抵抗から生まれ、和解のないままに「放浪する半身」の入水自殺によってこの相互関係は断絶したと断定するのです。

それは確かにひとつの仮定にすぎませんが、強引とも思えるこの想定に従って読みはじめた私は、それまでは美しいけれども難解そのもので結局は意味不明であった諸作品が著者の解説と解釈によって次第に統一的な視点で像を結び、形式と意味内容ともどもが初めて腑に落ちるという類稀な詩的体験を味わうことができたのでした。

余談ながら著者は、「わがひとに与ふる哀歌」の第14番目の「詠唱」という作品を読むと、ショパンの「24の前奏曲」の第7番の曲を思い出すと書いています。

この蒼空のための日は
静かな平野へ私を迎へる
寛やかな日は
またと来ないだろう
そして蒼空は
明日も明けるだらう

というたった6行の短い詩は、あの短いイ短調のピアノ曲にまことにふさわしい境地であり、私は著者の鋭い感性にいたく共感を覚えたのですが、それがアルゲリッチやポリーニの演奏ではなく、太田胃散の悪名高きBGMとして耳朶を打ったことに激しく臍を噛んだことでした。

♪太田胃散いい薬かもしれないが悪い音楽です 茫洋

Thursday, July 02, 2009

「ゲバゲバサマーショー展」をのぞいてみたら

「ゲバゲバサマーショー展」をのぞいてみたら

バガテルop105

東京のJR大塚駅北口徒歩10分にある画廊MISAKO&ROSENで7月19日まで開催されている展覧会「ゲバゲバサマーショー」は、新進気鋭の現代作家たちのカジュアルな新作が狭い会場せましとラインアップされ、それこそゲバゲバで楽しいカオス状況をかもしだしています。

油彩、アクリル、水彩、スケッチ、肖像、いたずら書きなども交えた小品が中心ですが、アイデア満載のビデオ作品、インスタレーションなども出品されており、おもちゃ箱をひっくり返したようなハチャメチャさと新鮮さが魅力です。

参加アーティストは森田浩彰、後藤輝、服部あさ美、ディーン・サメシマ・トレバー・シミズ、今井俊介、岸本雅樹、相田可奈子、ダン・ハーズ、ウイル・ローガンなどの面々ですが、私は佐々木健が描いた2つの小さな油絵の新境地に打たれました。

この作家はここしばらくはアンプや楽器などおよそ見栄えのしない身近な物をモノトーンで描き続けてきました。そういう石ころのように地味な物を凝視し、その物の内部に肉薄し、その物の核心をつかみ取ろうと地を這うような精進を続けてきたようです。

そして作家の努力と研鑚は、描かれたただのラジオやペットボトルが、平成のアール・ヌーヴォーとでも呼ぶべきある種の生命性を獲得し、「物の精霊」それ自体が発するような不思議な燐光を発しながら静かに輝いている、そんな光景をついに出現させたのではないでしょうか。

梅雨空の下、ギャラリーの外では無情の雨が降り続いていましたが、私は名状しがたい感動につつまれてそのちっぽけなキャンバスに見入っていました。

◎ゲバゲバな4週間→http://www.misakoandrosen.com/exhibitions/09/06/

Wednesday, July 01, 2009

小栗康平監督の最新作「埋もれ木」を見る

闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 6 

「埋もれ木」とは彦根の大老井伊直弼の話かと思っていたら、あにはからんや三重の鈴鹿の話でした。この町から大昔の炭化した巨木が掘り出されて話題になったので、それをタイトルにしたようですが、何千年前の壮大な森林、埋没林の威容をまざまざとしのばせてくれる黒い断木でした。

「木は切られても呼吸をしています」、とある登場人物が語りますが、すでに無くなったはずのものが、じつはまだどこかで生き残っていて、ある日突然その懐かしい面影を私たちに伝える。この映画を見ているとしばしばそんな場面に立ち会うことができます。

砂漠から町にやってきたラクダや浅瀬に迷い込んだ巨大なクジラ、森で踊っている妖精たちやトンパ文字……その思いがけないうれしさ、かけがえのなさを、この映画は手を替え品を替えまるで魔法の手品のように、サンタの贈り物のように手渡ししてくれるのです。

それにしてもこの映画の美しさは、とうていこの世のものとは思えません。1カット1カットが詩であり光と影に彩られた美しいタブローです。現実の鈴鹿の町のコンビニをキャメラがとらえたさりげない光景にしても、外国人労働者の国外退去を通告する役人の声も、どこかお伽噺のように非現実的です。

大人も子供も、男も女も、すべての人々はこの世にありながら、遠く忘れられた時代に生きている。いやもしかするとあの世とこの世を行き来しながらもの静かに暮らしている虚構の町の亡霊たちなのかもしれません。ラストの埋もれ木に取り囲まれた洞窟から放たれた赤いラクダが夜の空にゆらゆらと立ち上っていく幻想的な情景を、人は子供のころにいつかどこかで目にしたに違いありません。

鈴鹿町の住民をはじめ岸部一徳、田中裕子などの個性的な役者が出演していますが、とれわけサックス奏者にしてミジンコ研究者の坂田明のキャラクターが印象に残ります。そいいえば坂田さんは、小学館の万能キャメラマンの斉藤君をつかまえて、「ミジンコがちゃんと撮れなきゃあ一人前とはいえないぞ」と1ぱつかましたことがありました。


あの世とこの世を行き来しながらもの静かに暮らしている 茫洋