照る日曇る日第271回
現代語訳吾妻鏡の第6巻は、建久4年1193年から正治2年1200年までを扱っています。
富士の巻狩における曽我兄弟の仇討、建久6年2月から6月末までに及ぶ頼朝の上京と盛大な奈良大仏供養を経て、頼朝の長男頼家の薄氷を踏むような危うい治世と梶原景時一族の殲滅までを悠揚迫らず叙述する本書は、しかしなぜか建久10年正月の頼朝の急死をふくめたおよそ3年間について完全な沈黙を守っています。
解説者は編集作業が間に合わず未完に終わったという説を採用していますが、私は北条時政一派による暗殺説を捨てきれません。思えば頼朝の近臣工藤祐経を殺害した曽我兄弟の名付け親は北条時政であり、兄弟の騒動を利用して頼朝の命を狙おうとしていたとすれば、建久9年12月の相模川の橋供養における頼朝の落馬事件による早すぎた横死も、じつはまったくの虚報で、実際は時政ファミリーによる将軍暗殺のカモフラージュであった可能性は高いと思われます。
ところで観光客がほとんどいない鎌倉の裏駅にある御成の商店街をぶらぶら歩いていますと、頼朝全盛時代の御家人の名前を大書したのぼりがたくさん立っています。
そして私のいちばん好きな畠山重忠、2番目に好きな和田義盛をはじめ、のぼりに登場する三浦義村、三浦義澄、千葉胤正、比企能員、葛西清成、大江広元、佐々木盛綱、梶原景時、小山朝政などの有力者たちの大半は、北条一門の悪辣非道な陰謀によって次々と圧殺されていきました。
まあ源家も北条家もどっちもどっちの政略家ではありますが、どっちかといえば北条家の人々の血はどす黒い。中世の東都鎌倉を血の海に沈め、暗殺の森に変えてしまいました。
尼将軍の政子もあれほど夫を愛していながら、実の息子を2名も屠ることにけっして反対ではありませんでした。結局は嫁ぎ先よりは親兄弟一族を取ったわけです。
しかし夫の跡を継いだ羽林頼家が好色の思いもだしがたく、安達景盛の妾の色香に狂って常軌を失い、景盛誅殺を命じたことを知った政子の驚愕と失望は察するに余りあります。
おそらく彼女は、この瞬間に源家の将来を見切ったのでしょう。
♪天青咲きてわたしの夏が来る 茫洋
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