Sunday, July 05, 2009

井上章一著「伊勢神宮 魅惑の日本建築」を読んで

照る日曇る日第269回

これは特に伊勢神宮について論じた本ではなくて、我が国の大昔の建築物は、どんな姿形をしていたかを真正面から論じた「超」の字が2つほどつく力作であり、日本の建築学にとってじつに貴重な価値をもつ書物です。

建築史には、あの築地本願寺や大倉集古館の設計で知られる伊東忠太や太田博太郎など、いくつかの定評ある名著と称されるものがありますが、著者はこの建築の起源問題に関するおよそすべての資料を記紀の時代、平安、江戸時代の文献や研究結果をまるで草の根をわけるようにして精査比較検討し、その結果として、これまでの学説の定説をほぼ全面的に否定し、著者の東大と京大の学閥にかんする興味深い観察を交えつつ556ページに及ぶ大論考を終えています。

著者によれば歴史、建築、考古学の学者や研究者の多くが、伊勢神宮に我が国の古代建築の源泉があると信じてきました。
またご承知のようにこの神宮は、大昔から社殿を20年ごとに建て替える不可思議な営みを、(戦国時代の混乱と謎や改築の際の幾多の歪曲はあるものの)、天武帝の頃からおよそ千年以上にわたって繰り返してきました。

伊勢神宮の社殿は、「棟持柱(棟木を側面から直接支える柱)をともなう高床建築」だそうです。そしてこの神明造りという建築スタイルは、七世紀の末頃まで歳月による風化や大陸からの仏教的な建築様式の影響をかたくなに排除しつつ今日まで存続してきたといわれています。
そもそも「日本」なる国家がそれまでの「倭」に代わってこの列島に登場したのはちょうどその天武帝の時代なので、この伊勢神宮の神明造りこそ日本の最古の建築様式かもしれません。

それで話が終わればめでたしめでたしなのですが、シンプルでモダンなデザインがお好きな我が国の多くの学者たちは、この「日本的な建築の祖形」を、「日本」確立以前の太古や古墳期、さらには遠く弥生、縄文時代の彼方にまで拡大し、遡らせようと「国粋的」かつタコ壺的な努力を夜郎自大に続けてきたのです。 

考古学学者の研究によれば、有史以前の日本列島には伊勢神宮のような棟持柱をともなう高床建築はたくさん建てられていたようです。ところが、これら棟持柱をともなう高床建築は昔から中国の長江や雲南省、さらにもっと南に下がってインドネシアやオセアニア地方などにもたくさん存在しています。

もしかすると伊勢神宮に代表されるこの荘重なまでに日本的な建築の祖形は、ニッポンチャチャチャ学者の大いなる期待と予想に反して、南洋諸島の海岸に立ち並んでいる高床式の簡素なニッパハウスなのかもしれません。

  
♪ご先祖は南洋ニッパハウス住まいぞニッポンチャチャチャ 茫洋

名も知れぬ南の島より流れ来しニッパハウスぞ先祖の我が家 茫洋

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