Monday, December 31, 2012

ペーター・ノイマン指揮「モーツアルト・ミサ曲全集」を聴いて



♪音楽千夜一夜 291

1940年生まれのドイツの指揮者ペーター・ノイマンがコレギウム・カルトゥジアヌム、ケルン室内合唱団を率いて録音したモーツアルトのミサ曲全集です。すべていま流行のピリオド楽器による演奏ですが、どうしたことかまことに平板で詰まらない。

 

ただ最後の有名なk626の「レクイエム」だけは心に響くとても良い演奏で、どうして名曲ミサ曲ハ短調K427もこのようにやれないのかと不思議で仕方が無い。

 

しかし他のミサ曲はシューベルトほどではないが、天才モザールらしからぬ凡曲が多いのも事実だから、彼らはそれをスコア通りに演奏したのかもしれないな。

 

 

またしても賀状を拒む家となれり 蝶人

Sunday, December 30, 2012

西暦2012年師走 蝶人狂歌三昧




ある晴れた日に 第119回 



十二月八日を吹くや猛き風

一枚の落ち葉となりて犬踊る 

一陣の疾風となりて犬走る

バーキンの頬柔らかしクリスマス

冬晴れや死票投じる総選挙

世の中はいかになるらん冬の朝

冬北斗一票の重さ比類なし

孤老死す皇帝ダリア植え終えて

凩や日中戦力を比較する

冬空の見おろすプールやバタフライ

願いより疾く流れゆく冬の星

玉虫を尋ねて今日も三千里

冬の朝ハワイに着きし瓦礫かな

私はゴキブリをゴム輪鉄砲でぶっ殺す名人ホイサッサ

ウレピーナ楽しいなニッポン全国ウヨクがウヨウヨ

ああ亡羊茫洋すべての人は通り過ぎて行く

待ちわびた新車ようやく店に着き白きアクアで妻と帰りぬ

健くんが川へ投げたアオダイショウよ流れ流れていずこへ行きしか

弾丸を噛みつつ政治も成熟す羹に懲りて膾吹きし人も

主よ人の望みの喜びよわが心に流れる一筋の川よ

天気晴朗なれど何事も無く暮れたり十二月八日

口にテープ手に丸太足を縛られ殺されしひと 

北条に睾丸切り取られて絶命す二大将軍頼家哀れ

家々に皇帝ダリアを植え終えて在所の山に縊れたるひと

死してなおシベリウスについて語りおり吉田秀和「名曲の楽しみ」

君はどんな目に遭ったのと尋ねてもただ手を舐めるだけ被災地からの犬

ポカンポカンと頭を西瓜のように叩いているもうやめてくれえ

鎌倉ざーます婦人は「紀ノ屋」ビンボー人のおいらは「鎌万」に行く

原宿の竹下通りでごろつきに顔殴られたルネ・コロいたまし

青渡岸寺より熊野灘目指し漕ぎ出ずる補陀洛渡海維盛の船

生きたまま入定されし空海の奥都城に舞う高野山の霧

十津川の流失家屋を眺めながら「観光に来て頂くだけで元気になれます」と語るガイド

だんだんと中国と戦争してもいいような気になる自分が怖い

私は日本の桃太郎尖閣も竹島もみんなあなたにあげましょう

今日もまた「行方不明者が出ました」と市の拡声機が叫んでる

三〇〇〇円のごみ箱を買うか買うまいか一か月も迷っていた建築家ミケーレ・デ・ルッキ

ののへいはクライアントの言うことをみな聞く駄目なデザイナー

デザイナーがクライアントの言うことをみな聞いてどうするんだ

鏑木清方は日本のアンリ・ルソーいつも江戸の春に遊んでるよ



大晦日生きてしあればそれで良し 蝶人


 1年間のご愛読ありがとうございました。皆さまどうぞ良いお年をお迎えください。

Saturday, December 29, 2012

「古井由吉自撰作品三」を読んで



照る日曇る日第557

本巻に収められたのは一九七九年刊行の「栖」と八〇年の「椋鳥」の長編二作である。長編というてもそのおのおのが六から八つの短編小説から成り立っていて、ある意味ではそれぞれが独立した小説世界を構築していると評してもよろしい。

結ばれた数珠の一つひとつに男と女の激烈な戦いともたれあいが透けて見えて、また似たような男女が繰り広げる似たような悶着が繰り拡げられているとなりの透明な数珠に繋がってゆく。

鎌のような月が冴えわたる真夜中に繰り広げられる四畳半の密室に閉塞した男女の交合といさかい。なまぐさい口臭や肉と生理のおぞましい叛乱の気配が夜のしじまに漂うのだが、朝になればなんの残骸も痕跡も留まることはない。これは荒涼とした都会に生きるのぞみのない男女のいつかどこかで見たような、もしかすると若き日の私たち自身の姿だ。

されどこのような地獄の蝮のごときからみあいの意味について君は深刻に考える必要はない。これらの文章は所詮は読んで楽しく面白い単なる読み切り小説なのだから。

それにしてもここで古井由吉が駆使している日本語の切れ味の鋭さよ。私は思わず尻の穴から忍び入って大腸の無数のポリープを無慈悲に切断するメスの純白のきらめきを思った。

古井由吉撰集パタリと閉じて思う男の妄想の凄まじさ 蝶人


Friday, December 28, 2012

ビャンバスレン・ダバー監督の「天空の草原のナンサ」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.371

ワカメ「「モンゴルの女性監督が母国の実在の家族を起用してその日常を描いたドイツ映画です。」

マスオ「大草原で羊の放牧をやっている一家の貧しいながらも楽しいパオの中での暮らしぶりが私たちの心を洗う。映画では別の放牧地に移動するためにパオを解体する様子をくわしく紹介しているが、この解体や組み立ては一人では無理だな。」

カツオ「若い夫婦には二人の女の子と一人の幼い男の子がいるんだけど、物語のナンサという女の子が草原で拾ってきた犬が問題。その前にそもそもナンサが言いつけられた羊の面倒をほっぽり出して犬探しに夢中になるのが問題。こんなのは我が家では絶対に許してもらえないよね」

波平「牧人が一匹のヒツジのために他の多くの羊を顧みないという話が聖書に出てくるが、ナンサもこれと同様に大事な羊をうっちゃらかす悪いやつ。しかし彼女の母親は叱らずに愛情でやわらかくつつむ。これは我が家ではなかなか出来ない真似だね。」

サザエ「モンゴル人の心の原郷にしばし親しむことができたナンサだったが、都会で学業を続けるためにふたたび大草原と羊と愛犬に別れを告げなければならない。古くて懐かしいモンゴルの世界の崩壊と新しい世界のはじまりをなまなましく描き出している映画でしたね」

死してなおシベリウスについて語り継ぐ吉田秀和『名曲のたのしみ』 蝶人


Thursday, December 27, 2012

林瑞絵著「パリの子育て・親育て」を読んで




照る日曇る日第556

パリで妊娠、出産した女性のひたむきな育児奮闘記

さきに「フランス映画どこへ行く」で私(たち)が全然しらなかったおふらんす国の映像産業の実態についてビシバシ蒙を啓いてくれた著者が一転してレポートするのは、なんとご本人の子育て体験である。

この本には、パリでフリージャナリストとして活躍する著者がフランス人男性のジル選手と巡り合い、妊娠、出産、そして育児に奮闘した10年間の記録がありのままに記されている。国内での出産だって一騒動なのに、異国、ましてやフランスでのそれとなればきっといろいろあるんだろうな、と思っていたら、その色々が詳しく紹介されていた。

親というやつはとかく子供に過大な期待をしたり自分勝手なリモコンをしようとするものだが、いまフランスでは精神分析医フランソワーズ・ドルトというカリスマおばさんが颯爽と登場して「子供を一人の人格ある人間そして認める」という哲学を実践して母親たちの絶対的な信頼を勝ち得ているという。

「子供は大人以前の未完成な存在である」として厳しく区別する大人社会のこの国にあって、ドルト選手の育児革命は大きな波紋を投げているそうだが、こういう育て方なら幼いプルーストも泣かずに済んだかもしれない。

それよりいちばん驚いたのは、ある日突然著者が夫のジル君と別れてシングルマザーになってしまうくだりで、育児に熱心だった良人に去られた著者は孤立無援の育児戦争に突入するわけだが、そのあたりは直接本書にあたってみてほしい。

本邦の「1.39」に対して「2.01」とフランスが先進国でもっとも高い合計特殊出生率を誇っていることはつとに知られているが、それを手厚くバックアップしているのは国を挙げての子育て支援政策で、その実態についても巻末で具体的に触れられている。選挙で一敗地に塗れたわが国の民主党ももっと早く研究してマニュフェストに反映しておけばよかったのにね。

鎌倉の針谷産婦人科で産まれたるわが長男はオギャアと泣かず 蝶人

Wednesday, December 26, 2012

五味文彦編・現代語訳「吾妻鏡12」を読んで



照る日曇る日第555 鎌倉ちょっと不思議な物語第270



本巻では鎌倉御家人の最強であったはずの三浦氏一族が武装蜂起したにもかかわらず哀れ北条一門の軍門に降る。寛元5年・宝治元年1247年の宝治合戦である。

「吾妻鏡」では御霊神社付近に拠点があった安達景盛一族が挑発したために三浦氏が決起したかのように記述されているが、これは北条側がみずからの陰謀を糊塗するためのでっちあげ記事だろう。悪辣な北条ばらは、当時競合していた安達・三浦両御家人を計画的に退治するために、まずは安達を取りこみ、その連合軍が500名を超える三浦一族の武士たちの隙をついて皆殺しにしたに違いない。

現在の頼朝の墓の下にある法華堂に集結した三浦勢は、今はこれまで、と全員が自決するが、棟梁のひとり三浦光村は誰の首だか分からなくするために刀でおのれの顔を削り「どうが、これなら分からないだろう」と仲間たちに尋ねてまわったという証言が残っているが、三浦氏とはそういう勇猛果敢な武士だった。

もっとも彼らも、北条と一緒になって私の大好きなあの剛毅な英雄畠山重忠や和田義盛の一族を騙し討ちにしているから、自業自得といえばいえるのだが。

本巻ではたとえば宝治2年7月小10日などに女性の財産を男性から護る条文を掲載していて、鎌倉時代までは女性の経済的権利がある程度保証されていたことが分かるが、そんなことより蝶マニアのわたくしには同年9月に2度に亘って鎌倉市内を飛び回った黄色い蝶の大集団が気になる。

恐らくはシロチョウ科・モンキチョウ亜科に属するキチョウだろうが、その発生は通常夏であり、旧暦の9月といえばほぼ初冬であるからこんな時期に群れをなして飛翔することはありえない。三浦勢を騙し討ちにした北条がそれを天変地異に転化したり、悼んでいるかのように演出するための「作文」ではなかろうか。

待ちかねた新車ようやく店に着き白きアクアで妻と帰りぬ 蝶人

Tuesday, December 25, 2012

ビクトル・エリセ監督の「エル・スール」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.370

娘と父と母。フランコ独裁体制は去ったが、精神的には「ミツバチのささやき」の孤独な魂の世界をそのまま引きずっている映画です。

イレーネ・リオスという女優に心を奪われた父は愛する妻子を投げ捨ててとうとう自裁して果てるのだが、その心の奥底は観客には杳として知れないのであんまり同情はできない。

そうかい、そんなに惚れていたのならもっと若い時に一緒になってれば良かったじゃないか。こんなに可愛い娘がいるのに今頃になってどうして死んでしまうんだ。勝手にしろ、というような醒めた気持ちになってしまう。

ようやく、と言ってはなんだが、ようやく父親がいなくなった暗い屋敷から15歳の少女が南に向かって旅立つところで映画は突然終わるが、これも観客に失礼ではなかろうか。まだ話は半分しか終わっていないのに勝手に打ち切ってもらっては困るのである。

わたくし的には、さびしんぼうによる独りよがりな映画でした。


孤老死す皇帝ダリア植え終えて 蝶人

Monday, December 24, 2012

ビクトル・エリセ監督の「ミツバチのささやき」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.369

怪物フランケンシュタインは果たしていとけない少女を殺めたのだろうか? スペインの寒村にやってきた1931年製作の映画でそんな疑問を懐いた少女アナの心の旅路を辿る映画である。

みつばちの栽培と研究に朝まで没頭する高齢の父親、どこかの誰かに向かって手紙を書き続ける若い妻。そして2人の間に生まれた幼い2人の娘が同じ館に暮らしているが、夫婦の間はバラバラ。毎晩隣同士のベッドで眠る姉のイザベルと妹のアナは仲良しではあるが所詮はあかの他人なのだ。

こういう家族のありようがフランコ独裁時代のスペインを象徴しているとまことしやかに説く連中もいるが、そもそも人間は孤独な存在なのだ。

アナは怪物フランケンシュタインと巡り合い、「信じることさえできれば誰とでもお友達になれるのよ」と呟くが、その純真な心が果たしてこのモンスターに通じるのであろうか?
大きな謎を残したまま映画は突然終わってしまう。

バーキンの頬柔らかきクリスマス 蝶人


Sunday, December 23, 2012

鎌倉小町通りの鏑木清方記念美術館で「正月の風情展」を見る




茫洋物見遊山記第98 鎌倉ちょっと不思議な物語第269

全国の闘う学友諸君、そしてルンペン・プロレタリアートのみなさん、メリーⅩマス! いよいよ押し詰まって参りましたね。

今年は長年お世話になって来たクライアントからの発注が突然止まり、ヒジョウキンの口がひとつ減り、義母をはじめとして多くの人々が亡くなり、私が蛇蠍の如く忌み嫌っている政党とその一派どもが政権を奪取するなど、内外ともに気色の悪いことが積み重なりました。それらの影響はこれからジワジワと出てくると思いますが、それもこれも身から出た錆といふことなれば、この衰え行く痩身ぜんたいで受け止めて行かねばらなんと覚悟しておる今日この頃です。

さて家に閉じこもってばかりいては心身共にろくなことはないので、わたくしは中原中也が死んだ病院で検診を受けた帰りに、久しぶりに駅から朝の小町通りをぶらぶら鏑木清方記念美術館まで歩きました。普段は無数の観光客であふれかえっている小町通りですが、ここはいつ行ってもほとんど人がなく、かつてまさにこの地この場所に日本画家鏑木清方が居住した頃とそれほど変わらない落ち着いた雰囲気が保たれていることに驚かされます。

会場に入って見ると右側の壁面に上下に並べられている清方の羽子板の原画と永井周山手造りの押絵羽子板の展示がたとえようもなくあでやかです。周山は清方のオリジナルを忠実に踏襲しながらも、場合によっては人物を減らしたり向きを変えたりしながら在りし日の「明治風俗12カ月」を見事に再現していました。

清方という人は単彩のスケッチも精妙そのもので江戸の昔を再現していますが、ひとたび色筆を取ればまことに華麗な色彩世界に遊ぶ、さながら江戸のアンリ・ルソーのような自由さ自在さを併せ待っていて、それはたとえば今回展示されている「初雁の御歌」の青や緑や朱色の饗宴に現れています。

展示作品こそ少ないものの、ここにはつねに明治、大正、昭和の初期を通じて流れていた江戸の情緒がほのかに息づいているのです。東京からの資本や商材で賑わう虚栄の市の愚かなさんざめきに飽きたら、横丁を左に曲がって観光客が一人もいないこの小さな美術館へどうぞ。

なお同館の「正月の風情展」は来年1月20日まで。ただし年始年末12月29~1月3日までは休館。詳しくはホームページ参照のこと。

清方は日本のアンリ・ルソーいつも江戸の春に遊んでるよ 蝶人

Saturday, December 22, 2012

岡松和夫著「少年飛行兵の絵」を読んで



照る日曇る日第554

「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず、紅旗征戎吾が事にあらず」という白居易の言葉をかみしめながらこういう本を読んでいると、いつの世も人の暮らしと心は変わらないよと亡き著者がそっと呟くのを耳にしたようで、乱れたこころが少しは慰められる。

これは著者が横浜で高校の教師をしていた自分の思い出をもとに書かれた私小説風の小説だが、登場する人物や風景がすべて懐かしく、嫌なところがないので気持ちよく読めるのだと、いま思い当った。世界が不快で不条理に満ちているからと言ってそれをそのまま反映した小説を書く必要など毫もないのだ。

青々とした草原に置かれている座り心地の良い杉の丸太や、その近所に建っている萱葺きの古家、そしてその屋根裏に棲む青大将の「ジョウ」を、いつかどこかで私も見たような気がする。

今から30年前の昔、私たち家族が陋屋の2階に枕を並べて眠っていたら、夜中にザワザワという不思議な音がする。目が覚めてあたりを見回したら中くらいの長さの青大将が私の枕のちかくで1匹とぐろを巻いていた。

驚いて妻子を起こして、さてどうしたものかと途方に暮れていると、いつの間にかやって来た次男がそっと座布団を蛇の上に掛け、横から両手を入れると、たちまち我が家のジョウが彼の捕囚となってしまった。陋屋の屋根裏にはいつも鼠がコロコロと走り回っていたので、ジョウはこれを退治してくれていたに違いない。

次男は幼い時からどんな動物や昆虫とも仲良く遊んでいた。毒のあるヤマカガシなども平気で首に巻いて遊んでいたので、無毒の青大将などおちゃのこサイサイだったのであろう。やがて妻と私の切なる願いを容れた彼は、ジョウを我が家の前に流れる小川に投じるべく、パジャマのままでのっそりと立ち上がったのだった。

話が大きく横にそれたが、この小説では最後の最後に思いがけない感動が待っている。が、別にそれがなくとも心地よい作品である。もっとも優れた芸術は、人の心を幸福にしてくれるのである。

 健くんが川へ投げたアオダイショウよ流れ流れていずこへ行きしか 蝶人

Friday, December 21, 2012

ワーナー版「バッハ大全集」を聴き終えて




音楽千夜一夜 290 

 153枚のCDに1枚のDⅤDがおまけについた定評あるバッハの全作品を半年がかりでようやく聴き終えました。

 全体のおよそ半分がカンタータで占められていて、そのほとんどをアーノンクール指揮のウィーン・コンツェントス・ムジクスとグスタフ・レオンハルト指揮のレオンハルト・コンソートが演奏していますが、大人しい後者に比べて前者はムラはあるもののかなり気合が入った積極的な演奏ぶりです。

 いずれも古楽器を使用した定評ある演奏ですが、ヘンスラー版のヘルムート・リリングが監修・校閲・指揮したベーレンライター版の新バッハ大全集(全172枚)の現代楽器による演奏に比べると当初の清新さが薄れ、その後続々と登場した古楽器演奏と比べても聴きおとりするのは否めないところです。

 私がバッハの全作品を耳にしたのはヘンスラー版に続いて二度目ですが、今回改めて感じたことはバッハの本領は彼がプロテスタントの信者として神に捧げる賛歌として日々書き続けてきたオルガン曲とカンタータにあり、その膨大な大河の小さな源流になっているのは数多くのコラールにあるということでした。

 トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団と合唱団によるBWⅤ250のコラールなどに耳を傾けていると、世上とやかくもてはやされている2つの受難曲やロ短調ミサ曲、華麗な旋律に彩られた管弦楽曲すらもいささか受けを狙った皮相で誇大な大曲のように思えてきます。

虚心坦懐に聞けばストコフスキーもグールドもアーノンクールもすべて頭の中で加工した妙に人工的で変態的で異様な音楽で、外形はバッハでも内面は全然違っている。村の古い小さな教会でオルガンを弾きながら子供たちと讃美歌をうたっている小太りの老人セバスチャンの姿など想像すらできませぬ。

バッハの音楽の本質は神への尽きせぬ感謝とひそやかな祈りであり、その名の通り小さな川のように流れる日々の頌歌にこそあるのでしょう。 

      主よ人の望みの喜びよわが心に流れる一筋の川よ 蝶人



Thursday, December 20, 2012

木下恵介監督の「カルメン故郷に帰る」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.368

サザエ「浅間山の白い噴煙がたなびく北軽井沢の高原に戻って来たレビューの踊り子高峰秀子が、仲間の小林トシ子とともに繰り広げるコメディ以前の醜悪なドタバタコメディね」

マスオ「演出も脚本も劣悪なら、木下&黛の主題歌も最低、見所は美しい大自然の景観と主役ふたりのチラリ太ももの大胆露出くらいだな」

カツオ「あ、忘れてた。これが1951年松竹製作の日本映画最初の総天然色作品なんだって」


冬の朝ハワイに着きし瓦礫かな 蝶人

Tuesday, December 18, 2012

市川昆監督の「四十七人の刺客」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.366

池宮彰一郎の原作を読んだことがないのでなんとも言えないが、今までの赤穂浪士余話とはずいぶん違った内容で、首をかしげる箇所も多かった。

たとえばあの謹厳な大石内蔵助があんな軽佻浮薄な京女にうかれてにわかに子をなしたりするものだろうか。それ以外にも鎌倉の料理屋のおかみと風呂場で濡れ場を演じたり、大事な討ち入りを控えているというのに行状に隙がありすぎるのである。

よし脚本がそうだとすれば、そんな硬弱併せ持つ複雑なキャラを高倉健のような素人大根役者が演じられるはずがない。吉良上野介の頸を血まみれになってちょんぎるラストまで違和感が付きまとって離れなかった。致命的なミスキャストだと思う。

市川昆の演出もしゃらくさいもので、例えば家老の妻のたもとが締めた戸に残っているのをぐいとひっこ抜く無くもがなのシーンにそれが現れている。

面白かったのは吉良邸が要塞のように強固に固められていて、義士が閉じ籠められたり行き場に困ったり、首領の内蔵助自身が刀を振るって懸命に血路を切り開いていたこと。もっとも興味深かったのはこの映画が、吉良を殺されるいわれのない人物として描いていることと、内蔵助が主君の仇討を口実に、幕府に対してひと泡吹かせようとしてさながら大塩平八郎のように決起していることであった。

されど内蔵助が大金を使って上野介の悪人キャペーンを行ったり、ドスを振りかざす内蔵助に向かって浅野内匠頭刃傷の秘密を明かそうとする上野介をぶっ殺してしまうシーンなど、まことに奇妙奇天烈後味の悪い忠臣蔵であった。

一枚の落ち葉となりて犬踊る 蝶人


Monday, December 17, 2012

レオン・フライシャー&セルのピアノ協奏曲集を聴いて




音楽千夜一夜 289 

フライシャーは長年に亘る腕の故障が癒えて後はさらに一層素晴らしいピアノを聴かせるようになったが、1950年代後半から60年代にかけて録音されたこの5枚組のベートーヴェンとブラームスの協奏曲でも、初夏の午後の青空のような晴朗な演奏を次々に聴かせてくれる。

当時絶頂期にあったセルとクリーブランド管弦楽団による伴奏も、アーノンクールのような妙な小細工をきっぱりと拝した純粋無雑な演奏で清明にバックアップしており、他の組み合わせによるさまざまな演奏を知らなければ、もうこれ以上なにも要らないとさえ思わせてくれるのである。


十二月八日を吹くや猛き風 蝶人

Sunday, December 16, 2012

リチャード・ブルックス監督の「弾丸を噛め」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.365

「弾丸を噛め」というのはいい題名だなと思って、原題を調べてみたらまったく同じ意味の英語Bite the bulletだった。ちょっと奇妙な西部劇で、莫大な賞金を目当てに駆けつけたカウボーイや英国人やメキシコ人などが過酷な乗馬レースに挑むのだがその道中でいろんな事件が起こるので、観客はあれよあれよと指差しながら楽しむという趣向。

紅一点の元売春婦カウガールに懐かしのキャンディス・バーゲンちゃんがブロンドをなびかせながら駆け抜け、これをジーン・ハックマンやジェームズ・コバーンなどが追いかけるという構図。

面白いのはジーン・ハックマンが動物や女性に優しいキューバ戦争の闘士という設定になっていて、レースのゴール間際にも勝利よりも愛馬のいのちを大切にするという奇特なキャラクターを演じている。

実際に「弾丸を噛む」のは貧しく頑健なメキシコ人で、虫歯に苦しんでいる彼のために心優しいジーン・ハックマンが銃弾を加工したかぶせを作ってやる。おかげで歯痛から解放されたメキシカンは弾丸を噛みながら頑張ってという美談?にもとづくのであるが、お約束通り自民に大敗した民主党もとうぶんは弾丸を噛んで雌伏してもらいたいものだ。

弾丸を噛みつつ政治も成熟す羹に懲りて膾吹きし人も 蝶人

Saturday, December 15, 2012

岡松和夫著「実朝私記抄」を読んで




照る日曇る日第553

私が住んでいる鎌倉の小邑には二人の有名人が住んでいた。一人は日本画家の小泉淳作氏、もう一人は芥川賞作家の岡松和夫氏であったが残念ながらお二人とも本年一月に相次いで逝去された。本書はその岡松氏が綴られた鎌倉幕府の第三代将軍右大臣実朝の悲劇的な物語である。

鎌倉は中世の武家の都であるが、そこは殺戮と阿鼻叫喚の死都でもある。源氏ゆかりの将軍のみならず頼朝の御家人の代表的存在である畠山氏も和田氏も三浦氏も、ことごとく北条時政とその子孫たちが謀略と武力で屠ったのだった。

頼朝を殺したのも北条氏であるという説もあるが、その後継者の頼家を伊豆の隠れ里で謀殺し、三大将軍の実朝も頼家の甥公暁を指嗾して八幡宮階段下で暗殺せしめ、あわせて公暁も亡き者にすることによって源氏の直系を根絶やしにしたのは、他ならぬこの伊豆の成り上がり者一族である。下賤の北条が高貴な源氏を打倒したのがけしからんという気はさらさらないが、聞いてあまり愉快な話ではない。

この小説の中で著者は実朝の暗殺者は公暁であると断定されているが、その前後の義時の挙動不審を考えに入れると、政子を蚊帳の外に置いた執権が黒幕であることに疑いを挟む余地はなさそうだ。

実朝はみずから行政者と風雅の人と仏教者の三つの役割を担っていたが、著者は栄西や行勇、陳和卿などとの交友を詳しく辿ることを通じて、彼が由比ヶ浜での(義時の妨害による!)宋船建造失敗の後も宋への渡航を具体的に計画していたことをあからめ、もし彼が非業の死に斃れなかったとしたら前代未聞の将軍僧として本邦の歴史を変えていた可能性に触れている。

尼将軍とは子に先立たれた北条政子の別称であるが、みずからが宋の高貴な僧の生まれ変わりであると半ば信じていた実朝の二七歳以降の「もしも」は、甚だ興味深いものがある。夫を喪った妻の西八条禅尼は京に戻って八二歳の長命を全うしたそうだが、著者の繊細にして旺盛な想像は彼女の行状にまで及んでいるのである。


北条に睾丸切り取られて絶命す二大将軍頼家哀れ 蝶人

Friday, December 14, 2012

勝長寿院入口の「文覚上人屋敷跡」を訪ねて




茫洋物見遊山記第97 鎌倉ちょっと不思議な物語第267

文覚上人(1139-1203)の鎌倉の屋敷跡は、滑川に面した勝長寿院(大御堂)の入り口にあった。

彼は平安末期から鎌倉時代初期の真言宗の僧で、元は遠藤盛遠という俗名の北面の武士だった。芥川龍之介の「袈裟と盛遠」に登場するのがこの遠藤盛遠で、彼は渡左衛門尉の美貌の妻に横恋慕して誤ってわが手で殺めてしまい、仏門に入って熊野で苦行したという。

後に高雄山神護寺を再興し東寺の大修理を主導したほか、源頼朝の挙兵を助け、幕府創設後その帰依を受けたが、頼朝の没後は佐渡・対馬に流罪となった

全盛時代の文覚上人は頼朝に対して影響力があり、平家直系の最後の子孫、平維盛の子、高清、通称六代御前の助命を嘆願して認められ、彼を神護寺に匿っていたが、上人が事件に巻き込まれて佐渡に流されている間に、六代は逗子の田越川の傍で処刑されてしまった。六代御前の墓は、キマグレンというポップグループのメンバーが通っていた逗子スポーツクラブのすぐ近所に実在するが、ここが平家一族の終の住処となった。

一方平家と覇権を争った源氏の一族の最後の地といえば三大将軍実朝の墓地ということになるが、「吾妻鏡」によればそれは文覚上人屋敷跡からほど近い勝長寿院(一説では寿福寺)にあった。実朝と六代の墓の距離は車なら一〇分もかからないので思いのほか近い場所に武士社会を創始した源平二つの部族の末裔が眠っていることになる。

寿福寺は、昔源頼朝の父義朝が住んでいた跡に政子が実朝の師であった栄西を迎えて創建された臨済宗の名刹で、ここにも実朝と政子の墓があるが、形式的なもので実際に骨はないだろう。しかし私はこのお寺を訪れる度に、これらの歴史上の人物が歩んだ苔むした敷石の上を、この境内の借家に住んでいた晩年の詩人中原中也がふらふらと歩いていた姿を思わずにはいられないのである。



ああ亡羊茫洋すべての人は通り過ぎて行く 蝶人


Thursday, December 13, 2012

鄙びたる軍楽の憶ひ~“自民大勝”の後に来るもの



バガテルop161

いよいよ運命の日が近づいてきた。

昔から政治や政治家が嫌いで極端な変化を嫌う私は、今回もどこに入れようかと迷っている。そんな混迷派の私が愚かにも政変を期待して清き一票を投じた元逗子市長の長島選手は、選挙民への挨拶もなく、義理も果たさず、落ち目の民主党から足を洗って早々と戦線から逃亡してしまった。なんと自分勝手な奴だろう。

今回も選挙のポスターやテレビスポットなどを一瞥すると、私利私欲と権力欲に目が眩んだと思しき醜い顔貌ばかりが並んでいてウンザリする。いま日本経済新聞の「私の履歴書」では、かつてこの国の総理大臣を務め、IT革命を「イット革命」と読み下して平然としていた男の自慢話が延々と続いているが、この男が「自分はバカダ大学や産経新聞にコネで入った」と恥じらいもなく公言しているので仰天したが、他の政党の首領も推して知るべし。こんな手合いがコッカコッカコケコッコー!と偉そうに呼号しているから困ったものだ。

さて今回は2大政党の他にいわゆる第三極が出現し、表向きでは原発や災害復興や経済再生政策等を巡って多種多様な選択肢が登場したように見える。それらはどれひとつゆるがせにできない重要な問題ではあるが、それらの帰趨はそれとして、じっさいには現行憲法を基軸とした戦後政治の是非こそが、水面下で激しく問われることになるのではないだろうか。

もとより現行憲法はアメリカ帝国からの押しつけであることは否めず、私のように第1章に異論があったり、第2章に文句をいう連中が増えてきたり、様々な問題点を含んでいることは事実だが、しかしそれが全体としてわが国の指導者と国家の恣な権力の発動と暴走に対する決定的な最後の枷と砦になってきたことは周知の事実である。

あの品性劣悪で極悪非道な暴走老人が口走っているように「憲法のお陰で人が殺されている」のではなく、憲法のお陰でわが国は彼が望むように他国とはみだりに戦争できず、その結果およそ70年の長きにわたって「人を殺したり殺されたりしないで済んだ」のである。自虐とかサドとかマゾなぞと口をきわめて罵っている人たちも、たまにはそんな石原慎太郎憲兵隊長の命令で尖閣諸島に突撃しないですんでいる僥倖を、せめて年に一度くらいは感謝したらどうだろう。「ありがとう憲法!」と。

自民党はすでに本年4月に新しい改憲案を策定し、そこでは「国防軍」「非常大権」「天皇元首制」などが麗々しく謳われている。現行憲法を廃棄してより強権的な内容に改定するだけではなく、象徴天皇制を改めて明治時代のような元首制に変えるというのだが、それは「日本を取り戻す」のではなく、歴史の針を2世紀前の非民主的な昔に戻すという時代錯誤の試みというべきだろう。

もし自民党が第1党となれば石原・橋下の維新と合体した独裁的な極右政権が「合法的に」誕生し、戦後まがりなりにも継続されてきた“民主政治”は楽天的な私たちが思っているより早く崩壊するだろう。

現行憲法はたちまち骨抜きにされて強権的で偏狭で好戦的な国産憲法が誕生し、集団的自衛権を裏打ちするための徴兵制が復活して若者はささやかな愛と自由と平和を奪われ、いともたやすく戦場へ送られるだろう。「シナ」と対抗するアジアの最強国をめざして富国強兵と核武装への道が我等臣民の前途にたのしく、ルンルンとひろがっていくのである。

そういう次第であるからして、今回の選挙で私たちに問われているのは、「短兵急に決められる戦前型強権政治」への回帰か、それとも“相変わらずなかなか決められない、非効率でカッコ悪いオタンチン・パレオロガスでモモンガーのようなお馴染みの「俗流あらえっさっさあ的民主主義」の継続”か、という二者択一である。  

自民大勝の後にやって来るのは、私たちがこれまで見たこともない“地獄の季節”だ。政権交代の果実を収穫できなかった民主党のアホ馬鹿さをサディステイック・ミカバンドのように厳しく懲罰することも大事だが、私たちがとっくの昔に見捨てた超無能政党の「イトレル・チャプリン的」妄想の成就に加担し、戦後70年掛けてようやく形成し得た国家国民の現有政治遺産を根こそぎに崩壊させる愚だけはなんとしても避けたいものである。


ウレピーナ楽しいなニッポン全国ウヨクがウヨウヨ 蝶人

Wednesday, December 12, 2012

小栗公平監督の「泥の河」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.364

泥の河を挟んだ廓船と食堂に住む人々、とりわけ3人の少年少女の出会いと別れを描いた日本映画の傑作である。

冒頭の馬車曳きの死、橋の下に蠢く大魚、引き続き描かれる水の人と陸の人とのつかのまの友愛の姿は儚くも美しい。

廓船で客を取る加賀まり子の怪しいまでの妖艶さを見よ! それは焼かれて燐光を発しながら悶える蟹の残酷なまでの美しさともシンクロしている。何度見ても心に響く見事な映画である。


原宿の竹下通りでごろつきに殴られたルネ・コロいたまし 蝶人

Tuesday, December 11, 2012

今村昌平監督の「豚と軍艦」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.363

この映画でいちばん驚いたのは、生命力あふれる長門裕之の演技でもなく映画初出演の吉村実子の新鮮な肉体でもなく、ましてやどぶ板通り狭しと荒れ狂う豚共の大暴走でもなく、胃がんで余命三日と通告された丹波哲郎の親分が横須賀線に飛び込もうとしてできずに見上げたその視線の先に堂々と掲示されている日産生命の「つかもう明るく豊かな暮らし」の巨大看板であった。

ちなみにこの生命保険会社はこの映画の協賛スポンサーになっているのである。
ロケ地の横須賀狭しと暴れ回る今村の自由奔放な演出ぶりにおしみなき拍手を!

鎌倉ざーます夫人は「紀ノ屋」ビンボー人のおいらは「鎌万」に行く 蝶人

Monday, December 10, 2012

ジョン・シュレシンジャー監督の「遥か群衆を離れて」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.363

サザエ「一九六七年製作の素晴らしい英国映画。トーマス・ハーディの原作を名匠シュレシンジャー監督が見事な映画に仕立てましたね。

カツオ「人ひとり見えない英国エセックスの荒野に放牧されている羊と牧羊犬。意地の悪い牧羊犬が羊たちを断崖絶壁においつめて海に追い落とすシーンには息を呑みました。

ワカメ「群衆から遠く離れその荒涼とした風景がしみじみと都会の喧騒に疲れた心に迫ってきます。でもそんな大自然に生きる男女の間にも凄まじい愛の放電が交錯するのよね。

マスオ「愛する人には愛されず、どうでもよい人からは熱愛される。ヒロインのジュリー・クリスティもヒーロー役のアラン・ベイツともどもこの世の不条理のドツボにはまってのたうちまわるんだけど、ジュリー選手はけっこうガードが甘いというか男を見る目がないというのか、押しの強い男にずるずる気押されてしまうね。

イクラ「初恋に一途にのぼせあがるところはとても可愛い。けっきょく自分で自分がよく分からないから、どうしようもない男に入れ上げて大事なものを見失ってしまうのね。パブーン

フネ「でも最後の最後には私たちが最初に予感したとおり落ち着くべきところに落ち着くんだけど、この映画でいっとう可哀想なのはいよいよ物に出来ると舞い上がったところでトンビに油揚げをさらわれる中年の牧場主ピーター・フィンチ。死んだはずの恋敵テレンス・スタンプがあんなところで戻ってきたら逆上して拳銃で撃ってしまう気持ちも分からないではないわね。

十津川の流失家屋を眺めながら「観光に来て頂くだけで元気になれます」と語るガイド 蝶人