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Thursday, December 27, 2012

林瑞絵著「パリの子育て・親育て」を読んで




照る日曇る日第556回

パリで妊娠、出産した女性のひたむきな育児奮闘記

さきに「フランス映画どこへ行く」で私(たち)が全然しらなかったおふらんす国の映像産業の実態についてビシバシ蒙を啓いてくれた著者が一転してレポートするのは、なんとご本人の子育て体験である。

この本には、パリでフリージャナリストとして活躍する著者がフランス人男性のジル選手と巡り合い、妊娠、出産、そして育児に奮闘した10年間の記録がありのままに記されている。国内での出産だって一騒動なのに、異国、ましてやフランスでのそれとなればきっといろいろあるんだろうな、と思っていたら、その色々が詳しく紹介されていた。

親というやつはとかく子供に過大な期待をしたり自分勝手なリモコンをしようとするものだが、いまフランスでは精神分析医フランソワーズ・ドルトというカリスマおばさんが颯爽と登場して「子供を一人の人格ある人間そして認める」という哲学を実践して母親たちの絶対的な信頼を勝ち得ているという。

「子供は大人以前の未完成な存在である」として厳しく区別する大人社会のこの国にあって、ドルト選手の育児革命は大きな波紋を投げているそうだが、こういう育て方なら幼いプルーストも泣かずに済んだかもしれない。

それよりいちばん驚いたのは、ある日突然著者が夫のジル君と別れてシングルマザーになってしまうくだりで、育児に熱心だった良人に去られた著者は孤立無援の育児戦争に突入するわけだが、そのあたりは直接本書にあたってみてほしい。

本邦の「1.39」に対して「2.01」とフランスが先進国でもっとも高い合計特殊出生率を誇っていることはつとに知られているが、それを手厚くバックアップしているのは国を挙げての子育て支援政策で、その実態についても巻末で具体的に触れられている。選挙で一敗地に塗れたわが国の民主党ももっと早く研究してマニュフェストに反映しておけばよかったのにね。

鎌倉の針谷産婦人科で産まれたるわが長男はオギャアと泣かず 蝶人

Thursday, November 22, 2012

川西政明著「新・日本文壇史第9巻」を読んで




照る日曇る日第550回

本巻に収められたのは吉川英治、山本周五郎、大佛次郎、井上靖、吉村昭、司馬遼太郎、壇一雄、江戸川乱歩、松本清張、佐木隆三の面々で、著者はこれら「大衆文学の巨匠たち」の人生、代表的な作品が誕生するにいたった来歴を豊富な資料を駆使しながら、もはや自家薬籠中のものとなった自在な語り口で月旦するのである。

いちばん面白かったのは、吉川英治と直木三十五の間で昭和七年に交わされた「宮本武蔵論争」秘話である。著者によると、英治は武蔵が生涯六十三度の真剣勝負で一度も負けなかったから日本一の剣客である、と唱えたのに対して、三十五は柳生宗厳を「その弟子に破らせた」上泉信綱などの方が格上であると主張した。

三十五は、「武蔵は信綱、宗厳をはじめ当時の超一流の名人とは誰ひとり試合をしていない。もし試合の数だけなら塚原ト伝、松本備前守政信、波合備前守胤成に遥かに及ばないと数字を挙げて具体的に反論するとともに武蔵の人間性を問題にした。

確かに武蔵は小次郎を破り吉岡清十郎兄弟を斬ったが、その遺恨試合では幼少の又七郎を殺している。武蔵に弟子無く禄高は異常に低い。もっと問題なのは武蔵が著した「五輪書」である。そこには「われ十三歳にして初めて勝負を為して新当流の有馬喜兵衛という兵法者に勝ち、二十一歳にして都に上り、その後国々所々に至り、諸流の兵法者に行逢い、六十余度までも勝負すと雖も一度もその利を失はず」などと自慢そうに述べてあるが、これらは他人の筆で書かれるべき文章ではないだろうかというのである。

ここにおいて自らの不明を深く恥じた英治は、ただちに三十五への反論を取り止めて自分の中の武蔵像を確立しようと固く心に誓った。爾来幾星霜、研鑽努力の末についに誕生したのが彼の代表作「宮本武蔵」であったが、その生みの親である直木三十五は、連載が始まる前年の昭和九年二月二十四日にニッコリ笑って亡くなっていたという。


タヒチの女性は髪に花を飾ってる恋人がいる人は左いない人は右側に 蝶人

Thursday, November 15, 2012

古井由吉著「古井由吉自撰作品三」を読んで




照る日曇る日第549回

全共闘運動華やかなりし頃は、政治思想の共同体の内部やその周辺で、メンバー相互の性的な共同性がアメーバのごとく緩やかに拡張されていた。それは戦前の日共細胞のハウスキーパー制度ほど固定的なシステムではないにせよ、同一の教理や思潮を信奉する仲間たちの間には、所謂フリーセックスにまでは至らなくとも、ある程度の性的親和性をお互いに交わし合う自由な風土というものが自然に存在していたと思われる。

 本巻に収められた「櫛の火」は、ちょうどその時代に青春を散らした主人公のその後の白々しいまでに荒廃した生の軌跡を、二人の女性との性的、実存的交渉をつうじて赤裸々に描き切った大作である。

バリケードの中のノンポリ過激派四人組の紅一点弥須子に突然死なれた主人公は呆然自失のまま大学を中退しリーマンに転身するが、そんな彼の耳朶を撃つのは「また抱かせてあげるね」という弥須子の最期の一言だった。

やがて主人公の前に登場する年上の人妻柾子の生に行き悩んだ挙句の性的波乱を著者は舌なめずりしながらこれでもかこれでもかと執拗に描写する。一本の筆を以て一人の女の実存を捉えきろうと真正面から挑む著者の異常なまでの努力は、小説の最後の最後でついに酬いられ、読者は究極の愛によって結ばれた二人の姿がとうとう血と肉を得る。そして小説に許されるその小さな奇跡を目の当たりにしながら、彼らの明日に幸多かれ、と祈らずにはいられないのである。

父母すべて喪いし二人の秋の旅 蝶人

Thursday, November 08, 2012

山本嘉次郎監督の「エノケンのちゃっきり金太」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.341

エノケンが扮する巾着切が幕末明治にかけて岡っ引きや誌史維新の志士なぞを相手に大活躍するはずのコメディだが、これくらい面白くない喜劇映画も珍しい。

この映画はなぜかミュージカル仕立てになっていて、エノケンはいろんな歌謡曲を歌うのだが、これがじつにつまらない曲でそれを真面目に歌うエノケンもさらにつまらない。彼のトレードマークはくしゃみをすることで、劇中なんどもクシュンクシュンとやるのだが、この昔ながらのお笑いの常套手段がわざとらしくつまらない。

山本は戦争映画などを取り扱うとそれなりに無難な演出をする人だが、お笑いにはまったく不向きで、そもそも喜劇のなんたるかが全然分かっていない人なのだろう。

せっかくエノケンを起用しながらこんな不調法な映画が出来てしまったのだが、エノケンその人も大した役者ではないのかも知れない。もっと他の作品をみてみないとたしかなことは分からないのだが。


権力を我がものにせんとつるみあう我利我利亡者に災いあれ 蝶人

Wednesday, November 07, 2012

山本薩夫監督の「台風騒動記」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.340

杉浦明平のルポルタージュ「台風13号始末記」を原作に山本薩夫がメガフォンをとった1956年の風刺喜劇映画です。佐田啓二、菅原謙次、佐野周二、野添ひとみ、桂木洋子、渡辺篤、藤間紫などが続々出演しているが、わたしが高く評価する三島雅夫のいやらしさが光っているな。

台風の被害よりもその後の人災のほうが被害甚大であるという紋切り型のテーマをどんと据えて、老朽化した小学校の校舎を台風で倒壊したことにして公金を流用しようとたくらんだ地元の政治家や町長や校長や教員や住民たちの奮闘努力と右往左往を巨匠?山本が生真面目に描いておる。

されど原作者と監督の思想傾向がはなからマッチし過ぎており、終始力が入り過ぎ、コメディ特有の軽妙さに欠ける。こういうのはもっと軽薄なタッチで演出してもらいたがこのメンバーでは所詮ないものねだりなのだろう。

野田橋下安倍石破慎太郎どいつもこいつも消えて無くなれ 蝶人

Wednesday, October 24, 2012

松本健一著「増補出口王仁三郎」を読んで



照る日曇る日第545回

寅さん「屹立する最後のカリスマ」なんちって品性下劣な言葉を使うなよ。んで、もう一人のカリスマは天皇の軍隊を農民の革命軍でひっくりけえして国民の国家をでっちあげようとした北一輝だって書いてるけど、それを言うなら、大衆の下衆のどん底から這い上がって銀幕の大スターに成り上がったおらっちの方が、よっぽどカリスマじゃあねえのかい」

おいちゃん「寅さん、まあまあそう怒るなよ。おいらお団子を売ってるだけでまるっきり学はないけど、この本で「日本思想史の基軸は近代主義とナショナリズムと日本原理主義の3本柱だ」と書いてるのはちょいと面白かったね。前の2つはお互いに闘争を続けてきたわけだけど、それらの基底に日本の神、郷土、先祖、血縁、自然を総括する「原郷(パトリ)」への愛情があり、この日本原理主義が、あるときは天皇制国家主義と同調したり背馳する契機があるというんだ」

さくら「そんでこの日本原理主義に依拠し、出口なお(変性男子)を教組、出口王仁三郎(変性女子)をカリスマ宣教師とする大本教は、近代主義やナショナリズムから落ちこぼれ、過去の伝統や因習にしばられた大衆の怨嗟を解き放ち、「もう一つの天皇制」を目指したのだというのよね」

ひろし「伊勢神道系のアマテラスを主神とする明治国家の天皇制絶対主義に対抗して山陰、裏日本に押し込められていた出雲系のスサノオを「丑寅(うしとら)の金神(こんじん)」として賦活させ、日本原理主義革命をやらかそうとしたんだね」

タコ社長「いくら橋の下とか小さな泉を探したって肝心の天皇や大衆の実体がエーテル化した平成の御代では、悔しいけどもう寅さん以上のカリスマは出っこねえだろうなあ」

おばちゃん「みんな何をぐだぐだ屁理屈ばかり言ってるんだい。この本の駄目なところはね、肝心要の出口なをと王仁三郎の郷里の丹波の風土について触れてないことだね。「弁当忘れても傘わするな」ということわざ通り、晴陰ただならぬあの地の不安定な気候が、暗欝と情動爆発が瞬時に交錯する宗教革命的精神風土を生みだしたことが、インテリさんたちにはまるで分かってないようだね。

御前様「こりゃあ困ったあ。大衆の原像おばさんのつねさんに1本取られてしもうたあ」


神仏も天皇陛下も無用ですこの世を私が生き抜くために 蝶人

Sunday, August 05, 2012

中平康監督の「狂った果実」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.289

昭和31年当時の鎌倉駅や逗子葉山の海岸、とりわけ曾遊の芝崎が登場するのが懐かしい。むかし家族揃ってよくこの岩磯で泳いだり魚やウニをとったものだ。そんな鎌倉の海でことし4回目の海水浴を楽しんで来たところだ。

当時は水上スキーなどは珍しかったと思うが、これをごわごわの水着をつけた子に教えるのが若き日の津川雅彦。謎の女性北原三枝に一目惚れするのだが、結局は遊び上手の不良少年、石原裕次郎に略奪され、ラストで狂気の皆殺しに転落していくその暗い無表情が素晴らしい。

すべてを放棄し自己を滅却した死への逃亡こそ石原慎太郎の潜在願望だが、年を経るごとにその衝動が保守されてきたことは慶賀すべきか、はたまた哀しむべきことなのかさっぱり分からない。

やんちゃで笑止千万な太陽族!?を演じる裕次郎のセリフは相変わらず聞きとれないがファムファタールの美枝ちゃんにミイラ取りが木乃伊となったアホ馬鹿プチブルのアトモスフェールだけはよく伝わる。

奇才中平の演出を称える映画人が多いが、それほどご立派なものではない。むしろ岡田真澄の奇妙な存在感が貴重である。


喰うても喰うても冷蔵庫に一杯残っているよ愛知和合の巨大西瓜 蝶人


Monday, July 23, 2012

相米慎二監督の「お引っ越し」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.281


1993年に製作された夫婦の離婚とその波紋を描いた人情噺。父親が中井貴一、母親がなんと桜田淳子、彼らの一人娘に田畑智子という異色のキャスティングが面白い。ちなみに田畑智子は本作が映画デビュー、桜田淳子は映画どころか芸能界最後の作品となってしまったが、その女優としての異能を自らの手で封じてしまったことがつくづく惜しまれる映画でもある。

この映画は珍しく京都とその近郊が舞台となっており、ほとんどの会話が現代の京都弁で終始しているが、京都市東山区の出身である田畑智子のしゃべくりと自由奔放な演技に魅了される。

相米慎二は「映画の作法をいつのまにか逸脱して映画の外部への遁走を図ろうとする異様な映画」を理想とした監督であるが、本作に於いても五山送り火「大文字焼き」の夜に母親の追及を逃れた田畑智子が山野の闇にさすらうシーンや琵琶湖に浮かんだ船が炎上するラストなどは、もはや映画の主題から大きく逸脱した巨大な妄想がさながらフェリーニの幻影のように激しい情念の炎を噴き上げて、見る者を圧倒し戸惑わせるのである。


最期まで映画ならざる映画を夢見た男、それが相米慎二だった。


低機能でも高機能でも自閉症は自閉症先天的な脳障がいなり 蝶人


Monday, July 16, 2012

古澤憲吾監督の「ニッポン無責任時代」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.278



植木等が自称日本一の無責任男になって大活躍するといいう1962年製作のアホ馬鹿映画だが、根本的なアホ馬鹿映画ではなくてその背後に通底する暗さとその全体を覆う妙に背伸びした強勢感、圧迫感が最後まで気になる奇妙な映画だ。

学歴も金もコネもないリーマン1年生が、時代錯誤の能天気と度胸だけでのし上がって当時の時代閉塞の現状を変えようとぐあんばるお話だが、とどのつまりが北海道の水産関連の社長に就任し、後輩の結婚式が行われている今は亡き横浜プリンスホテルの高台でアホ馬鹿ソングを歌って万歳万歳おしまいという映画で、これではどこが無責任野郎なのかさっぱり分からない。

現実は高度成長経済が驀進している世の中なのだから、映画がそれをなぞるのではなくもう少し既成秩序と権力を打破して革命的脳天気資本主義社会をデッチ上げてくれるのかと期待していたのだが、これでは元の黙阿弥ではないだろうか。

「ハイそれまでヨ」というテーマ音楽がぴったりの空虚で虚妄な映画であるが、この明るい空しさこそが現在まで続く戦後ニッポン社会の本質であった。




なんとか教の教祖に成りあがりたる夢を見て教組も大変だと夢の中で思う 蝶人

Wednesday, June 27, 2012

黒沢清監督の「トウキョウソナタ」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.265


市川中車になった香川照之とキョンキョンがリストラサレタリーマンとその満たされぬ妻を力演している。

 夫が突然会社をファイアされたがそれを妻に隠してハローワークに日参するが、プライドが高くなかなか仕事にありつけない。そのうち慈善団体の給食をありがたく頂戴するあたりはなかなかみせる。

しかし長男がなぜか米軍に志願したり、キョンキョンが強盗に誘拐されて海岸で水浸しになったり、夫が自動車事故で死んだと思ったのになぜか生き返ったりするご都合主義のシナリオはまことに観念的で、それを現場におとそうとしたときに空虚な映像となって空中分解していることにこの監督は気付いていないようだ。

家族崩壊しかかっていた一家の絆がなんとか結び直され、ラストで次男が弾くドビュッシーの「月の光」が美しい。


君の鳥肌は軽々しく立ち過ぎる 蝶人

Tuesday, June 26, 2012

矢口史靖監督の「ウォーターボーイズ」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.264


よい題名なので、はじめは水泳少年のドラマかと思っていたら、高校生の男子が最後の思い出に文化祭で男子のシンクロナイズド・スイミングをするお話だったので驚いた。

導入からラストまで漫画のようによく出来ているが、いやあ良かった良かった感動ものだねなぞとと言いあって観終わるとなにも残らない炭酸飲料のようなもの。

いつの時代もこういう映画を好む国民がいるということはわかるが、こういう1発ノリの映画が主流になっていき、単館上映の大衆の原像に迎合しないインディーズ映画が廃れて行く国の文化は先が思いやられる。じじつそうなってしまっている。収穫は竹中直人の怪演のみ。やれやれ。

Wednesday, June 13, 2012

岩井俊二監督の「市川昆物語」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.259

映像作家としての市川昆に感動したことはない。けれどもこの映画を見て、彼の作品を「東京オリンピック」まで支えた和田夏十の人柄とシナリオについての思いを新たにした。

映像の職人の長きに亘る活動を背後から支えていたのは、じつに美しく聡明な女性だった。

岩井は繊細な編集技巧を駆使して尊敬する先達の生涯と作品の軌跡を追っている。


寒い朝葉に止まるルリシジミに息を吹く掛けるとうれしそうにじっとしていた 蝶人


Monday, June 11, 2012

行定勲監督の「遠くの空に消えた」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.258

物語はとうとう完成した空港の一角にうずもれた1足の靴型から始まる。

ちょっとに似た少年少女思い出物だ。最初から脚本と音楽のコンビネーションが拙劣で一体これはどうなるのか先が危ぶまれたが、三日月が満月に膨らむ頃には監督の脳髄に浮かんだ夢と浪漫の幻想譚は次第に大きな輪郭を描きはじめ、人力飛行機が夜の森に舞う。

ヒコーキは高級物理学上では飛行できないのに、それを可能にするのは飛ぼうとする意志であるというシナリオは日ごろのわたくしの考えと一致していてうれしかった。ラストは冒頭に戻って予定調和の美しい円弧を描く。


自公民駄目民社駄目その他も皆駄目と思う心の皐月闇 蝶人



Monday, May 21, 2012

ドナルド・キーン著作集第2巻「百代の過客」を読んで




照る日曇る日第515回

1983年から84年まで朝日新聞に連載されて読み、選書版で再読した覚えがあるが、3度読んでも汲めど尽きせぬ文芸と人世の叡智の泉を満々と湛えているのがこの1冊である。

文句なしに素晴らしいのは本書の斬新な問題意識で、838年の円仁にはじまり1854年の川路聖謨に終わる千有余年に記された日記を総覧し、百代の時は移れど未来永劫変わることなき日本人の密やかな心奥の声を聴き取ろうとする気宇壮大な研究手法は、まことに豊かな見事な収穫をもたらしている。

本来ならわが国の学界の泰斗がやるべき壮大な事業をやりおおせたのがなんと碧い目の一学徒であると知ったわたしたちの衝撃は大きかったが、大戦中に本邦の兵士の郷里への手紙に接し続けた著者にとって、それは運命的なライフワークでもあった。

さて内容であるが、円仁の「入唐求法巡礼行記」から紀貫之の「土佐日記」、「蜻蛉日記」「紫式部日記」と続く平安時代、そして「建礼門院右京大夫集」に始まる鎌倉時代には、これまでに読んだこともある女流作家の日記なども散見されて、それらの梗概を読むだけでも興味深い。

しかし平安時代の掉尾を飾る日野名子の名編「竹むきが記」以降、およそ2世紀にわたって女性による日記が1冊も残っていないのはどうしてだろう? 南北朝の戦乱を経て室町時代に入っても足利義詮や宗祇、正徹、一条兼良などを除いてめぼしい日記は書かれていないが、これは応仁の乱による大乱大混乱の影響もあるのだろうか。

「伊勢物語九」に出てくる三河の八橋と杜若の挿話は尾形光琳の屏風絵でも有名であるが、1567年に当地を訪れた紹巴の「富士見道記」によると諸国の旅人が八橋の橋柱を全部引っこ抜いて名所旧跡の欠片も無かったという。

著者もいうように、日本人の天然自然と人世観に対する近代的個我が目覚めて自在闊達な表現を繰り広げるようになるのはやはり近世には突入してからで、江戸時代のみならず全ての時期を通じて最高の芸術的達成として光り輝いているのが松尾芭蕉の「おくのほそ道」であることは当然至極だが、長崎の出島を旅した司馬江漢が行きがけの駄賃に鯨船に乗って鯨捕りに参加した話や、息子の嫁の献身のお陰で「南総里見八犬伝」を完成させることができたと呟いている「馬琴日記」、そして私が最も尊敬する幕末の政治家と私が最も愛するロシアの作家ゴンチャロフとの歴史的な遭遇を素描した川路聖謨の「下田日記」も深々と心に沁み込む佳編で、これらの感動的な叙述の中に、このたび晴れて本邦に帰化された著者の日本及び日本人への尽きせぬ慈愛を感じ取る向きも多いだろう。

なお藤原定家の「明月記」には、彼が19歳の年(治承4年)に書かれた「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず、紅旗征戎吾が事にあらず」という白居易を踏まえた有名な文章が出てくる。これを私は、若き定家の「幕末福沢諭吉風非政治的アカデミー宣言!」と解釈して粋がっていたのだが、とんでもない。

著者によれば、実は彼が実際にこのくだりを書いたのは、後鳥羽院が北条家の転覆を謀った承久の乱の後である。また紅旗は「天皇」、征戎は「征夷大将軍」を意味しており、定家は「そのいずれにも靡かなかった」と告白しているというのである。

「1人の青年が自己の将来に関して選んだ態度の表明というよりは、一人の老人が表明した己の人生評価だったのである」という碧い目の著者の解説を読んで、私の金環日食の残像が残る目から幾枚かの鱗が落ちたのだが、これこそが本当の学者の研究というものだろう。

通史の書けない歴史家は蛸壺の中の蛸だ 蝶人

Saturday, May 12, 2012

川本三郎著「白秋望景」を読んで




照る日曇る日第514回

林芙美子に続いて著者が取り上げたのは、なんと北原白秋です。

明治大正昭和の3代にまたがって詩歌の世界で活躍したこのいぶし銀のような文学者の生涯と業績を、前著と同様に慈しむように、呼吸を共にするように、もう2度と戻らない昔を懐かしい昔をしみじみと振り返るように、書き表しています。

 廃市、柳河の自然の中ではぐくまれた伸びやかな詩魂が、若き日の名作「邪宗門」「思ひ出」を生んだのもつかの間、明治45年に引き起こした人妻との姦通罪事件による入獄、そして郷里の実家の倒産と一家逃亡は、詩人の生涯を激変させると共に、その文体と詩形をいわば「社会化」し、鍛え上げることになりました。

 詩壇の寵児として一斉風靡した若き絶頂期よりも、社会的現実との格闘や挫折を経た後の平易な童謡つくり、そしてどこか水墨画を思わせるような、晩年の内心の想いをありのままに歌いながら自由で自在な古淡の境地を高く評価する著者の主張には説得力がありますし、白秋は軟弱で思想が無いと馬鹿にする、頑なで浅墓なイデオロギー論者への反論もじゅうぶん頷けます。

脳内論理の思弁で世界を解釈したつもりの自称思想家よりも、軟弱で繊細な自然鑑賞家の直観的詩藻のほうが世界を正しく射ぬいていることが多いもの。

「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。」

という詩句には、長谷川等伯の「松林図屏風」の極北の人世観がたゆたっているようです。

また、白秋の「からたちの花」が素晴らしいのは、それまでからたちの白い花や青い棘、まるい金色の実についてうたってきた詩人が第5連で突然、

「からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかったよ。」

と転じるからだ、と説く著者はこの詩句に詩人白秋の真骨頂を見ているのですが、日本文学の本質は「涙」であると断じる著者ならではの卓抜な視点だと思います。


からたちのそばで泣きたる少年が「からたちの花」を作曲したり 蝶人

Friday, April 27, 2012

川島雄三監督の「幕末太陽傳」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.233

若くして病に斃れた奇才の代表作である。維新も間近な品川の遊郭を舞台に、遊女や町人や勤王の武士たちが終始駆けずり回る。

余命いくばくもない商人に扮したフランキー堺が、これら多士済々の登場人物を手玉に取ってそれぞれ「いいように」してやるのが本作のみどころだが、死んでたまるかとばかりに宿をあとにするフランキーの姿に夭折した川島の絶望と希望がこだましている。そしてそのBGMには滝廉太郎の遺作「憾」のピアノがうつろに鳴り響いている。ラストを冒頭と同様に現代の品川で締めなかったのが、かえすがえすも口惜しい。


いつも映画に出ると妙なことになる石原裕次郎が、これまた若死にする高杉晋作を演じてあっけらかんと嵌っているのも見ものだが、遊女のライバル左幸子(美しい!)と南田洋子の本気の喧嘩がすさまじい。

てなことを書き飛ばしてはみたが、川島は1963年に死ぬまでに18本もの映画を撮っているから、以て瞑すべしか。享年45。


櫻散る無神論者の庵哉 蝶人

Wednesday, March 07, 2012

是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.212

何も知らずに見物し始めたのだが、中陰の状態にある死者に対して「あなたの一番大切な思い出をセレクトしてください。それを映像化してあげますから、それを見てから成仏してください」というサービスを提供する団体の映画だった。

しかし私は、一番大切な思い出なるものをあえて発掘する骨董趣味を持たないし、よしやそれがあったとしても後生大事にそれを胸中に懐いて黄泉の国に赴こうとする気持ちもない。

まして他人のその思い出をのぞき込んだり、ああだこうだと比較対象する興味も持ち合わせていないので、終始冷たい視線でこの才走った監督の映像をつらつら眺めていたのだが、最後まで見終わってもついにどうということはなかったな。

されど世の中には、じつにけったいなことを考え、それをわざわざ映画などにする変態的な暇人がいるものであることよ。と言っては身も蓋もないので、せめて本作には谷啓や由利徹の死の直前の演技が瞥見できるのが望外の奇貨である、と言い添えておこうか。


一寸来いと呼ばれて行けばコジュケイの家族哉 蝶人

Tuesday, March 06, 2012

円城 塔著「道化師の蝶」を読んで

照る日曇る日第501回

 飛行機の中で昆虫網を振り回したら、架空の新種の蝶アルレキヌス・アルレキヌスなる「道化師のような蝶」が採れました。

これは本書の引用ではありませんが、例えばこーゆーよーな内容のフレーズがビシバシ登場して参ります。

普通なら我が家のムクも歯牙にもかけない変態的作品が何故か芥川賞を受賞したために、やれ安部公房の真似だとかSFの下手くそな習作、超難解理系純文学とかアホ馬鹿駄文の見本などといろんな評価が乱れ飛んで、それがかえって洛陽の紙価を高騰させているようです。

がしかし、この小説のほんとうの値打ちは、やたら肩入れして「死んでいながら生きている猫を描こうとしている画期的小説!?」などと無闇に意気込んでいる川上弘美選手よりも、著者本人がいちばんよく分かっているのではないでしょうか。まあ世間がらあらあと騒ぎたてるような代物でないことは間違いありません。

私はともかく途中で居眠りはせずに最後まで紙上に乾いた視線を晒すだけの義理は果たしましたが、これは新しい文学的感興がむくむくと湧き起こるような瞬間は、ただの一度もありませんでした。

小説に因る人世の方法的制覇を目指して夢中で書いている本ご人はきっと楽しいのでしょうが、その醍醐味は架空の新種アルレキヌス・アルレキヌスよりも、春になれば郷里の里山に優雅に舞い飛ぶ超現実種のルエホドルフィア・ジャポニカを偏愛する私のような蝶保守的古典文学マニアをてんで満足させてくれはしませんでしたね。

文体やあらすじがどうのこうのと評しても意味がないので書きませんが、この醒めた唐人の寝言のような奇妙な日本語列を反芻していると、なぜか最近は誰も聴かなくなってしまったいにしえの現代音楽のことが思い出されてきました。

実際本作品には初めて12音音楽に挑んだかのシェーンベルクの懐かしい響きが聴こえてきますし、同時に芥川賞を受賞した田中選手の作品では新ウイーン学派の無調やノイズミュージックの乱入も散見されます。先駆する中原昌也の革命的な実験作も含めて、鴎外、漱石、芥川、荷風、谷崎、太宰、三島、大江、村上の正統派に反旗を翻そうとする「平成現代文学」がおそまきながら産声を上げようとしているのでしょうか。


腐敗堕落した文藝春秋社賞なぞによりかかることなく、犀のやうに文学路地を歩め 蝶人

Sunday, October 16, 2011

深川栄洋監督の「白夜行」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.159

東野圭吾という今まで読んだことのない作家の大ベストセラー小説を映画化したのが本作だというが、ともかく全篇を通してセリフが聞こえないのでどういう話かよく分からない。どうやら「砂の器」を模倣したような長期間執念真犯人追及サスペンスドラマではないかと見当をつけたのだが、その殺人事件の舞台になるのが桐原という質屋だった。

桐原質屋はいざ知らず、「桐原」書店には吾輩の失業時代に苦い記憶がある。新聞広告で通信教育の採点者を募集していたので応募したら幸いにも合格した。送られてきた学生の作文にインクでビシバシ赤を入れていたら、女性のキャリア編集長から「貴方の修正は間違っていて字は汚くて読めないしこのままでは商品にならない!」と厳しいクレームが来て、一発退場で馘首されてしまった。おいおい試験もせずに採用したのはそっちだろう。おいらに正しい添削方法を教えもしないでいきなり首はないだろう。

と文句を言いたかったが、彼らに迷惑を掛けたことも事実なので、以来私は「桐原」という言葉を聞くとやたら不吉な予感がするのである。よほど見るのをやめようかと思ったが、ヒーロー桐原亮司がとても良い顔付きだし、堀北真希のヒロインが突然裸になったりするので、とうとう仕舞まで見てしまった。

しかし映画のあらすじはというと、なんでも幼児倒錯性癖?がある父親が仲良しの少女をもてあそぶところを見てしまった主人公の少年が、その場で父親を殺害しただけでなく、その後もその少女のためにならない人間を、見境なく次々に犯したり殺したりしてやる。すると貧しいかった少女は、長ずるに及んでどんどん周囲の人間をたらしこんでおのが立身出世を果たす、というとんでもない噺のようだ。

どうしてこんなけったくそなの悪いリアリテイのない話を、何百万もの日本人が真面目な顔をして読んだり見たり泣いたり?できるのかと呆れてしまう。もしかするとこの人たちは揃いも揃って全員アホ馬鹿人間なのではなかろうか?

というでまたしても貴重な149分を無駄にしてしまったが、主人公たちを「砂の器」の伴淳三郎の軽薄なコピーのように終生にわたって追及する船越英一郎が、せめて父親の英二だったら少しはましな映画になったかもしれない。

翌日には皆忘れ去られる誇大記事を今日も綴るなり三文新聞 蝶人

Sunday, July 17, 2011

成瀬巳喜男監督の「めし」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.131

この映画は原節子扮する主人公の人妻が、女の幸福とは懸命に働く夫を陰ひなたなく支える夫唱婦随のささやかな喜びにあるのではないか、と殊勝に呟くシーンで終わっているが、こんなくだらない結末を、原作者の林芙美子が書く訳がない。明らかに川端康成による悪しき助言の副産物であろう。

そのせいでいっけん一昔前の封建的なイデオロロギーを前提にした男尊女卑の映画と受け取られがちだが、さにあらず。原節子と上原謙のそのような定型的な夫婦関係の横合いから予告なく闖入して安穏な市民の平和をかき乱すこの映画の真のヒロインは、上原謙の姪を演じる島崎雪子の小悪魔ぶりにあって、中産階級のちょっと可愛い馬鹿娘が、己の若さと美貌と無意識のコケットリーを武器にして世の男どもを手玉にとり、徹底的な自己中で周囲を引っ掻きまわす悪意に満ちた天衣無縫さこそ、この映画の最大の見どころであり、原作者がしっかりと見据えていた、弱そうでつよい女の本質がこれでもか、これでもかとばかりに鋭く抉り出されているのである。

いまならどこにでもいる身勝手なアホ馬鹿娘であるが、1951年に成瀬巳喜男がいち早く造型してみせたこの令嬢風アプレゲールの自由奔放さはいま見ても新鮮で、小林桂樹をのぞくすべての定評ある出演者の存在感を食ってしまっている。

最後に注目すべきは成瀬の演出が驚くほど小津に酷似していること。成瀬は小津のような長回しをせずに早いカット割を繰り返すところだけは違うが、原節子と二本柳寛が並んで上野の博物館をそぞろ歩くシーンなどは瓜二つであった。

柳腰の雌を狙いし雄ウナギ噛み合いしまま水面を超えたり 蝶人