照る日曇る日第501回
飛行機の中で昆虫網を振り回したら、架空の新種の蝶アルレキヌス・アルレキヌスなる「道化師のような蝶」が採れました。
これは本書の引用ではありませんが、例えばこーゆーよーな内容のフレーズがビシバシ登場して参ります。
普通なら我が家のムクも歯牙にもかけない変態的作品が何故か芥川賞を受賞したために、やれ安部公房の真似だとかSFの下手くそな習作、超難解理系純文学とかアホ馬鹿駄文の見本などといろんな評価が乱れ飛んで、それがかえって洛陽の紙価を高騰させているようです。
がしかし、この小説のほんとうの値打ちは、やたら肩入れして「死んでいながら生きている猫を描こうとしている画期的小説!?」などと無闇に意気込んでいる川上弘美選手よりも、著者本人がいちばんよく分かっているのではないでしょうか。まあ世間がらあらあと騒ぎたてるような代物でないことは間違いありません。
私はともかく途中で居眠りはせずに最後まで紙上に乾いた視線を晒すだけの義理は果たしましたが、これは新しい文学的感興がむくむくと湧き起こるような瞬間は、ただの一度もありませんでした。
小説に因る人世の方法的制覇を目指して夢中で書いている本ご人はきっと楽しいのでしょうが、その醍醐味は架空の新種アルレキヌス・アルレキヌスよりも、春になれば郷里の里山に優雅に舞い飛ぶ超現実種のルエホドルフィア・ジャポニカを偏愛する私のような蝶保守的古典文学マニアをてんで満足させてくれはしませんでしたね。
文体やあらすじがどうのこうのと評しても意味がないので書きませんが、この醒めた唐人の寝言のような奇妙な日本語列を反芻していると、なぜか最近は誰も聴かなくなってしまったいにしえの現代音楽のことが思い出されてきました。
実際本作品には初めて12音音楽に挑んだかのシェーンベルクの懐かしい響きが聴こえてきますし、同時に芥川賞を受賞した田中選手の作品では新ウイーン学派の無調やノイズミュージックの乱入も散見されます。先駆する中原昌也の革命的な実験作も含めて、鴎外、漱石、芥川、荷風、谷崎、太宰、三島、大江、村上の正統派に反旗を翻そうとする「平成現代文学」がおそまきながら産声を上げようとしているのでしょうか。
腐敗堕落した文藝春秋社賞なぞによりかかることなく、犀のやうに文学路地を歩め 蝶人
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