照る日曇る日第503回
「戦後文学の誕生」という副題がついた本巻では、太宰治、埴谷雄高、大岡昇平、福永武彦、金石範、金時鐘、野間宏の人生と作品を取り扱っている。
太宰の巻では、彼の妻美知子宛ての遺書「あなたをきらいになったから死ぬのでは無いのです、小説を書くのがいやになったから死ぬのです」が引用されているが、ここには彼の山崎富栄との心中事件の本質が偽らずに記されていると思われる。
昭和5年11月28日、太宰は鎌倉の小動神社裏海岸で田部あつみと心中を図ったが、その実相とこの事件を元にして彼が創作した虚構とを子細に付き合わせ、この虚実皮膜の間に太宰文学成立の原点があると喝破する著者の眼は鋭い。
5年間かけて埴谷雄高の生原稿を削除・訂正された箇所を含めて通読した著者に因る「死霊」の要約と解説も無類に面白いが、病で生活に窮し、執筆の存続が危ぶまれたこの記念碑的大著の完成を、本多秋五をはじめとする貧乏な戦後文学派の面々が、前後六回に亘ってカンパして救助したという美談にはいささか感動したな。
ところで私は大岡昇平の「レイテ戦記」よりも通俗恋愛小説「花影」の大の愛読者なのであるが、著者はこの小説のヒロインの実在のモデルであり、昭和33年に服毒自殺した美貌の銀座のママ、坂本睦子の数奇な運命についても執拗に追究している。
晩年の直木三十五に凌辱され、その衝撃から自虐的になっていった睦子は、菊池寛の囲い者になる。それを小林秀雄が奪って結婚を迫るが、彼女はオリンピックの十種競技の選手に走り、次いで坂口安吾、河上徹太郎に身をゆだねる。そしてその徹太郎から睦子を奪ったのが大岡昇平だった。当時の文学者たちは一人の伝説的なミューズをめぐって奇怪な愛の争奪戦を繰り広げていたようだ。
文壇の裏面を鋭く抉る本シリーズはますます面白く、元虚人のアホ馬鹿監督以上の絶好調が続いている。
文学修業とは美女を盥回しする事と見つけたり 蝶人
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