Friday, March 30, 2007

中也の終の住処

鎌倉ちょっと不思議な物語48回

中也最後の居寓となった寿福寺は、頼朝の夫人政子が栄西を開山として建てた鎌倉五山第三位の寺である。

ここは臨済宗ではもっとも早く創建された。境内(国史跡)には総門、石畳の参道、山門、宋風の柏槙、仏殿などがあり、裏山には三代将軍実朝と政子の墓と伝えるやぐらに五輪塔がある。

そして中也の家はこの寿福寺の境内にあった。境内には池があり、その鳴き声が「蛙声」1篇となった。

天は地を蓋ひ、
そして、地には偶々池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
―あれは、何を鳴いているのであらう?

その声は、空より来たり、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声は水面に走る。

私のははの家にも蛙ならぬオタマジャクシが小さな池で泳いでいる。

こうやってほんの1部を別途飼育して万が一の絶滅に備えておき、初夏になったら太刀洗の天然の水溜りに離してやるのだ。

(写真は寿福寺とその境内にある池)

中原中也と鎌倉

鎌倉ちょっと不思議な物語47回 

これからしばらく、鎌倉のなかの中原中也の足跡を辿ってみようと思う。

思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ  「頑是ない歌」

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる「汚れっちまった悲しみに…」


昭和12年(1937年)は中也最後の年であるが、この年は盧溝橋事件で日中戦争が始まった年でもある。

私はわずか30歳で亡くなった中也の不幸を思うが、彼にとって唯一のさいわいは、これに続く太平洋戦争の災厄を知らずに死んだことであろう。

昭和8年12月に結婚した中也は、四谷の花園アパートに居を構え、翌年長男文也が誕生し年末に「山羊の歌」が刊行された。

昭和10年から11年にかけて中也は当時小林秀雄が編集長を務めていた文学界や暦程、四季、をはじめほとんどの文芸誌、詩誌に数多くの作品を発表する。中也の短い生涯のもっとも輝ける年である。

しかし11年の11月に文也が病没し次男愛雅が誕生すると神経衰弱が昂じ、千葉市の中村古峡療養所に入所する。

翌12年の2月にここを無断で退院した中也は、友人の関口隆克と一緒に鎌倉の家を探す。文也の思い出のある場所に住むことに耐えられず古くからの友人の多いこの町に住もうと思ったのである。

関口の証言によると、中也は月のある夜に窓から空を見ていると、屋根の上に白蛇が横たわっていて、それが子供を殺したというので屋根に出てその蛇を踏み殺そうとしたという。

そして中也は2月27日に鎌倉の寿福寺境内に転居し、その同じ2月に「また来ん春……」を、4月に絶唱「冬の長門峡」、5月に「春日狂想」を発表するのである。

私はこれらの作品を口づさむと、どうしてもモーツアルトの晩年の歌曲「春へのあこがれ」と最後のピアノ協奏曲の、あのうらがなしいメロディーを思わないわけにはいかない。

Wednesday, March 28, 2007

あヽ無情

鎌倉ちょっと不思議な物語46回 

昨日はとても悲しい事件があった。

家内が滑川にブルドーザーが入って川床を掃除しているというので見に行くと、草も土も泥もきれいになくなりコンクリートの上を水がさらさらと流れていた。

泥の中に眠っていたカワニナは小さな魚やヤゴ(トンボの幼虫)やカメやカニなどと一緒に鉄の輪に粉砕されておそらく全滅してしまっただろう。

ここは昨年七月の日記でも書いたように天然自然のヘイケボタルが棲息する鎌倉でも数少ない場所である。

初夏ともなれば私たち夫婦だけでなく大勢の住民が橋のたもとに三々五々集い、橋の下や樹木のこずえを舞いながら点滅する微かな光をあかず鑑賞し、それがほとんど老後の唯一の楽しみであるようなカップルもいた。

昔日の栄光に比べれば微々たる数あるとはいえ、ホタルたちはおそらくここに人間が住む前の時代から棲息していたのだろう。

それがたった数時間の「お掃除」で生命の連続の歴史を絶たれる。なんともはかなく悲しいことではないか? 

河川工事の担当は藤沢にある県の土木事務所に連絡したところ急遽工事を停止してはくれたのだが、時すでに遅しで、ホタルが棲むスイートスポットは跡形もなかった。

土木事務所の担当者に怒りをぶつけたが、ただ謝るのみ。これからは事前に環境調査を行い町内会などの了解を取り付けてから作業をすると言ってはいたが、一度破壊した環境を取り戻すことは半永久的にできないだろう。

ホタルを人工的に飼育することはできるようだが、天然自然のこの場所で復活させるにはどうすればいいのだろう?

そもそも彼らはいったいどうして河川の清掃を開始したのだろう? 恐らくは期末の予算消化のための河川掃除やっつけ仕事であろう。

この川は高い堤防で囲われておりいくら増水しても氾濫の危険はない。いつのまにか土砂が堆積しそこに草や小さな木が茂ることはあってもそれが景観を美化し動植物の生態系に好ましい影響を与えることはあってもその逆はまったくない。

にもかかわらず、ブルで清掃する理由が分からない。

つい最近私は近所のおじさんがいぬふぐりの可憐な花をなんと火炎放射器で丁寧に焼いている姿を見て驚いたが、どうも日本人という奴はヘンなところで潔癖かつ奇麗好きで、雑草(そんなものは存在しないのだが)や落ち葉は邪魔者であり、不要であり、醜いものだから、きれいさっぱり片付けるという奇妙な風習があるようだ。

ちなみにこの土木事務所は、ここ数年狂ったように鎌倉の山すそを削り、強固なコンクリートの防御壁をいたるところで張り巡らせている。

地震などで傾斜地が崩落する危険があるというのだが、そのために物凄い税金を投入し、ここでも貴重な自然環境を破壊している。

環境と安全の調和を図ろうとする姿勢など、これっぽっちも見えないのは残念である。

Tuesday, March 27, 2007

石原慎太郎かく語りき

石原慎太郎かく語りき

あなたと私のアホリズム その15 

慎太郎妄言録

その1
「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババア。男は80,90でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」(週刊女性2001年11月6日号) こんなジュラ・白亜紀の遺物のようなアナクロおやじなのに、朝日や共同の調査では石原のほうが女性に浸透しているらしい。ナゼなんだ!! ひょっとして女性たちはこの妄言を忘却しているのではないか。「お年寄り」は弊害ではなく、社会の宝物だ。これを思い出せば、あの櫻井よし子だって石原支持とはよもや言いますまい。
その2
(重度の障害者について)「ああいう人ってのは人格あるのかね。」(朝日新聞朝刊1999年9月18日)

 他ならぬ障碍者を長男に持つ私にとってこれは絶対に許せない発言です。どんな障碍者だって少なくともあなたより優れた人格を所有していると断言できます。

その3
「俺はナマコとオカマは大嫌い」

 おすぎとピーコが聞いたらなんと言って怒ることか。それに第一ナマコに対しても失礼です。やたらまばたきするあなたの尊大顔こそナマコ以下の醜悪さでは?

その4
「前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったのじゃないか?」
32年前の1975年、当時72歳の美濃部都知事にこう言ったご当人はいまなんと74歳。天に唾する者はなんとやら、です。

その5
「東京では不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。大きな災害が起きた時には、騒じょう事件すら想定される」(毎日新聞」夕刊2000年4月10日)

「第三国人は差別用語なんですか。その訳をきかせてもらいたい。辞書にはっきり出ていますな」(サンケイ新聞朝刊2000年4月13日)
 
 第三国人とは、第二次大戦前および大戦中、日本の統治下にあった諸国の国民のうち、日本国内に居住した人々の俗称で、敗戦後の一時期、主として台湾出身の中国人や、朝鮮人をさしていった言葉であることは事実。しかしこの言葉が、彼らを貶める差別用語であることは、いやしくも言葉の専門家であるベテラン現役作家のあなたならよーくご存知のはず。

その6
「北京五輪は1936年のヒトラーのベルリン五輪同様」

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い? いったいどこが同様なの? あなたの頭の中はどうなってるの?

その7
「フランス語は数を勘定できない言葉だから、国際語として失格しているもの、むべなるかなという気がする」(毎日新聞朝刊2004年10月20日)

明確でないものはフランス語ではない。とフランスの知識人は自国の言語を格別誇りに思っている。数字を勘定できないのにガロワはどうしてフランスの天才数学者になれたの?
おふらんすの学者たちは、あなたのことを軽蔑し、激しく怒っておるぞ。
 ああ、どこまで続くか慎太郎妄言録……

まあそんなこんなで、来る3月30日(金)夕刻、新宿西口に怒れる女性たちが総決起して、「ババア発言知事NO! 女性行動」を開催するそうです。

Monday, March 26, 2007

ある丹波の老人の話(15)

第三話 貧乏物語その2

 私はありもしない金をはたいて牛肉をこうて親類の人々に集まってもらって相談に乗ってもらいましたが、叔父の一人は「おじじやおばばいうもんは縁のうすいもんじゃ。きょうだいとか嫁の親元とかで心配してもらいなはれ」などといって、結局構ってくれる者は一人もなく、かえってこんなことをしたのが仇となって督促はますますきびしゅうなり、ついに一部の債権者から財産を差し押さえられ、福知山からなんとかいう執達吏がやってきて、家財道具、畳、建具にいたるまで封印をつけてしまいよりました。

ところがこの執達吏は情け心のある人で「私は職務上やむをえずこんなことをやるが、あんたにはまことにお気の毒なことや」と、父の借金のために苦しんでいる私に思いやりのことばをかけてくれました。

これこそ鬼のおやだまはか、と恐れおののいていた執達吏にやさしく慰められたんは地獄で仏におうたほどうれしかったもんでした。

 しかしこんな惨めな身の上になってしもうた私は、もう到底故郷では生きてはいけんと思いました。

そうや、愛媛県に行こう! あそこでは蚕業界に多少は私の名前も売れているし、青野氏のような有力な知人もある。松山市には渡辺旅館という泊まりつけの宿屋もあるから、私たち夫婦をひと月くらいなら泊めてくれるやろう。その間に養蚕界にでも就職できるかもしれん。たぶんなんとかなるやろう…。

私は妻にもそんな話をして、夫婦で夜逃げをする決心をしました。

Sunday, March 25, 2007

天気のいい音楽

♪音楽千夜一夜 第16回 

音楽評論家の片山杜秀氏が「レコード芸術」2月号に映画監督小津安二郎と斉藤高順の関係について書いている。

斉藤は小津作品のうち「東京物語」「早春」「東京暮色」「彼岸花」「浮草」「秋日和」「秋刀魚の味」の7作の音楽を担当していて、“フェリーニとロータ、ゴジラと伊福部、トリュフォーとドルリュに匹敵する”名コンビであった。

私は長らく小津映画の唯一最大の欠点は、その映像と無関係であまりにも楽天的なジンタ調の映画音楽にある、と考えてきたが、最近いや、かえってそのことがいやがうえにも小津の映像の深さを伝えているのではないかと思うようになったが、片山氏の論考はそのことをもっと掘り下げて考えていた。

また私は、これまで斉藤高順という人を無名に近い音楽家と勝手に想像していたのだが、それはとんでもない間違いであった。

斉藤は「海ゆかば」の信時潔の弟子で海軍軍楽隊に入り昭和47年には航空自衛隊航空音楽隊の隊長に就任、昭和51年には旧陸軍軍楽隊とつながりが深い警視庁音楽隊の隊長を務めるのである。いわばマーチやポルカの権威であった。

ここで映画の話に戻るが、そもそもサイレント映画には無声の画面を活性化するこのにぎやかな音楽が必須の味付けであった。

ところがトーキーが導入されると、同時録音の映像は脚本のドラマ性を表現し、登場人物の感情の起伏を十分に伝えるようになり、音楽は映像の内部に深く入り込んで、そのドラマツルギーをいっそう劇的に強調するようになる。

しかしトーキー時代に入ってもサイレント時代の映画作法、つまり映像だけがドラマツルギーを支え、音楽はそのドラマの枠外で映像を活性化する「劇伴」としてのみ機能することを望んだ小津は、自由で個性的な音楽作りを許さなかった。

片山氏は、そこにマーチやポルカの権威である斉藤の存在理由があったというのである。

私にとって小津映画のもっとも小津的な瞬間、

それは斉藤高順の軽やかな音楽が流れ、主人公の原節子が、専務役の佐野周二または佐分利信または山村聡または笠智衆を訪ねてくる、正午前の穏やかな日差しが当たっている丸の内のビルジングのロングショットに他ならない。

小津が願ったのは「いつも天気のいい音楽」であり、斉藤だけがその粗雑なようでいて深い思想が込められた注文に応えることができたのであった。

光と影

あなたと私のアホリズム その14

3月23日の日経の朝刊に、理化学研究所が人とマウスに共通する自閉症の遺伝子を発見したという記事が出ていた。

理研では対人関係や言語に障碍などを起こす自閉症と関連の深い遺伝子を発見、この遺伝子が欠損するマウスで自閉症に似た症状が現れたという。

これまで「自閉症の人間における遺伝子の発現異常」は3件見つかっていたが、「マウスと人間で共通する自閉症の遺伝子」が見つかったのは今回が初めてだという。

この研究は理研の古市貞一チームリーダーらが担当したもので、彼らは神経の栄養物質「BDNF」の分泌を調節する遺伝子「CADPS2」に着目。この遺伝子を欠損したマウスの行動を調べると体内時計の異常など自閉症の特徴的な症状が現れた。

そこで自閉症者の「CADPS2」を調べたところ異常が発見された。彼らは今後は「CADPS2」や「BDNF」を標的とする治療薬の開発などを検討するというのである。

これは自閉症者の長男を持つ私にとって30年ぶりの朗報であった。

現在でこそ自閉症は脳の器質障害、中枢神経系の機能障害としてひろく認知されるようになったが、一昔前は情緒障碍だとか、根暗の引きこもりだとか、精神病だとか、母親の育児方法の誤り(母源病)だとか、はては砂糖の摂り過ぎだとか、虚説迷妄が入り乱れて収拾がつかなかったものである。

当時、私たち自閉症の親は様々な病院を訪ねてこの難病の治療を捜し求めたのだが、どこへ行っても薬も対策案もなく途方に暮れたものだ。

溝の穴や水道の水やくるくる動くものなどある特定の事物や行為に固執する症児の行動を、矯正するのか(行動療法)、放置するのか(受容療法)についても学会の意見がまっぷたつに分かれ、親たちを戸惑わせた。

特に弊害が大きかった、と私が個人的に思うのは、神奈川県戸塚ドリームランド近辺にあった国立の某子ども自閉症医療センターである。

ここに勤務していた小児自閉症専門の担当医師は、いま振り返ればじつに時代遅れで、現在ではもっとも非科学的な母源病説を声高に唱え、「お母さん、この病気の原因はあなたの育て方が悪かったからです!」などと偉そうに抜かしていた。

あれからおよそ30年、理研の遅々とした、しかし障碍の本質に迫る科学的な研究成果を、あの自称自閉症専門家どもは、いったいどんな顔つきで読んだのだろうか?

私はしたり顔で中世さながらの「魔女狩り」ごっこを演じていたあの医師たちを、いまなおどうしても許せないのである。

Friday, March 23, 2007

♪ある晴れた日に(3)

♪ある晴れた日に(3)

母上を偲ぶ歌 


天ざかる鄙の里にて侘びし人 八十路を過ぎてひとり逝きたり

日曜は聖なる神をほめ誉えん 母は高音我等は低音

教会の日曜の朝の奏楽の 前奏無(な)みして歌い給えり

陽炎のひかりあまねき洗面台 声を殺さず泣かれし朝あり

千両万両億両すべて植木に咲かせしが 金持ちになれんと笑い給いき

白魚の如(ごと)美しき指なりき その白魚をついに握らず

そのかみのいまわの夜の苦しさに引きちぎられし髪の黒さよ

うつ伏せに倒れ伏したる母君の右手にありし黄楊の櫛かな

Thursday, March 22, 2007

♪いぬふぐりの花

遥かな昔、遠い所で 第8回


本日母五周忌につき母上の詠み給いし歌再録

 
1994年4月
散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花
    
1995年4月
いぬふぐり むれさく土手を たづね来ぬ
 小さく青き 星にあいたく
                   
1992年5月
五月晴れ さみどり匂う 竹林を
ぬうように行く JR奈良線

なだらかに 丘に梅林 拡がりて
五月晴れの 奈良線をゆく

直哉邸すぎ 娘と共に
ささやきのこみちとう 春日野を行く

突然に バンビの親子に 出会いたり
こみちをぬけし 春日参道

1992年7月
くちなしの 一輪ひらき かぐわしき
かをりただよう 梅雨の晴れ間に

梅雨空に くちなし一輪 ひらきそめ
家いっぱいに かおりみちをり

15,6年前の古いノートより
いずれも京都への山陰線の車中にて

色づける 田のあぜみちの まんじゅしゃげ
つらなりて咲く 炎のいろに

あかあかと 師走の陽あび 山里の
 小さき柿の 枝に残れる

山あひの 木々にかかれる 藤つるの
 短き花房 たわわに咲ける

谷あひに ひそと咲きたる 桐の花
 そのうすむらさきを このましと見る

うちつづく 雑草おごれる 休耕田
 背高き尾花 むらがりて咲く

刈り取りし 穂束つみし 縁先の
 日かげに白き 霜の残れる

PKO法案
あまたの血 流されて得し 平和なれば
 次の世代に つがれゆきたし

もじずりの 花がすんだら 刈るといふ
 娘のやさしさに ふれたるおもひ

うっすらと 空白む頃 小雀たち
 樫の木にむれ さえずりはじむ

1992年8月娘達帰る
子らを乗せ 坂のぼり行く 車の灯
 やがて消え行き ただ我一人

かづかづの 想い出ひめし 秋海棠
 蕾色づく 頃となりたり

万葉植物園にて棉の実を求む
棉の花 葉につつまれて 今日咲きぬ
 待ち待ちいしが ゆかしく咲きぬ

いねがたき 夜はつづけど 夜の白み
 日毎におそく 秋も間近し

なかざりし くまぜみの声 しきりなり
 夏の終はりを つぐる如くに

わが庭の ほたるぶくろ 今さかり
 鎌倉に見し そのほたるぶくろ

花折ると 手かけし枝より 雨がえる
 我が手にうつり 驚かされぬる

なすすべも なければ胸の ふさがりて
 只祈るのみ 孫の不登校

1992年11月
もみじ葉の 命のかぎり 赤々と
 秋の陽をうけ かがやきて散る

おさなき日 祖父と訪ひし 古き門
 想い出と共に こわされてゆく

老祖父と 共にくぐりし 古き門            
 想い出と共に こわされてゆく

1992年12月
暮れやすき 師走の夕べ 家中(いえじゅう)の
 あかりともして 心たらわん

築山の 千両の実の 色づきぬ
 種子より育てし ななとせを経て

手折らんと してはまよいぬ 千両の
 はじめてつけし あかき実なれば

師走月 ましろき綿に つつまれて
 ようやく棉の 実はじけそむ   「棉」は綿の木、「綿」は棉に咲く花

母の里 綿くり機をば 商いぬと
 聞けばなつかし 白き棉の実

1993年1月 病院にて
陽ささねど 四尾の峰は 姿見せ
 今日のひとひは 晴れとなるらし

由良川の 散歩帰りに 摘みてこし
 孫の手にせる いぬふぐりの花

みんなみの 窓辺の床に 横たわり
 ひねもす雲の かぎろいを見つ

七十年 過ごせし街の 拡がりを
 初めて北より ひた眺めをり

今ひとたび あたえられし 我が命
 無駄にはすまじと 思う比頃

1993年2月
大雪の 降りたる朝なり 軒下に
 雀のさえずり 聞きてうれしも

次々と おとないくれし 子等の顔
 やがては涙の 中に浮かびぬ

くちなしの うつむき匂う そのさがを
 ゆかしと思ふ ともしと思ふ
                    「ともし」は面白いの意。
十両、千両、万両  花つける
 我庭にまた 億両植うるよ

命得て ふたたび迎ふる あらたまの
 年の始めを ことほぎまつる

おさな去り こころうつろに 夜も過ぎて
 くちなし匂う 朝を迎うる

炎天の 暑さ待たるる 長き梅雨
            

1993年9月
弟と 思いしきみの 訃を知りぬ
 おとないくれし 日もまだあさきに

拡がれる しだの葉かげに ひそと咲く
 花を見つけぬ 紫つゆくさ

拡がれる しだの葉かげに 見出しぬ
 ひそやかに咲く むらさきつゆくさ

水ひきの花枯れ 虫の音もさみし
 ふじばかま咲き 秋深まりぬ

ニトロ持ち ポカリスエット コーヒーあめ
 袋につめて 彼岸まゐりに

久々に 野辺を歩めば 生き生きと
野菊の花が 吾(あ)を迎うるよ

うめもどき たねまきてより いくとしか
 枝もたわわに 赤き実つけぬ

露地裏に 幼子の声 ひびきいて
 心はずむよ おとろうる身も

戸をくれば きんもくせいの ふと匂ふ
 目には見えねど 梢に咲けるか

秋たけて ほととぎす花 ひらきそめ
 もみじ散りしく 庭のかたえに

なき人を 惜しむように 秋時雨

村雨は 淋しきものよ 身にしみて
 秋の草花 色もすがれぬ

実らねど  なんてんの葉も  あかろみて

病みし身も 次第にいえて 友とゆく
 秋の丹波路 楽しかりけり

山かひに まだ刈りとらぬ 田もありて
 きびしき秋の みのりを思ふ

いのちみち 着物の山に つつまれし
まさ子の君は 生き生きとして      雅子さんご成婚?

カレンダー 最後のページに なりしとき
 いよよますます かなしかりける

虫の音も たえだえとなり もみじばも
 色あせはてて 庭にちりしく

深き朝霧の中、11月27日 長男立ち寄る
ふりかえり 手をふる車 遠ざかり
 やがては深く 霧がつつみぬ
            
1994年4月
散りばめる 星のごとくに 若草の
 野辺に咲きたる いぬふぐりの花

この春の 最後の桜に 会いたくて
 上野の坂を のぼり行くなり

春あらし 過ぎてかた木の 一せいに
 きほい立つごと 芽ふきいでたり

1994年5月
浄瑠璃寺に このましと見し 十二ひとえ
 今坪庭に 花さかりなり

うす暗き 浄瑠璃寺の かたすみに
 ひそと咲きたる じゅうにひとえ

あらし去り 葉桜となる 藤山を
 惜しみつつ眺む 街の広場に

級会(クラスかい) 不参加ときめて こぞをちとしの
 アルバムくりぬ 友の顔かほ        「をちとし」は一昨年の意

萌えいづる 小さきいのち いとほしく
 同じ野草の 小鉢ふえゆく

藤山を めぐりて登る 桜道
 ふかきみどりに つつまれて消ゆ

登校を こばみしふたとせ ながかりき
 時も忘れぬ 今となりては

学校は とてもたのしと 生き生きと
 孫は語りぬ はずむ声にて

円高の百円を切ると ニュース流る
 白秋の詩をよむ 深夜便にて      「深夜便」はNHKラジオ番組

水無月祭
老ゆるとは かくなるものか みなつきの
 はじける花火 床に聞くのみ       「水無月祭」は郷里の夏祭り  

もゆる夏 つづけどゆうべ 吹く風に
 小さき秋の 気配感じぬ

打ちつづく 炎暑に耐えて 秋海棠
 背低きままに つぼみつけたり

衛星も はた関空も かかわりなし
 狂える夏を 如何に過すや         

草花の たね取り終えて 我が庭は
 冬の気配 色濃くなりぬ

つたなくて うたにならねば みそひともじ
ただつづるのみ おもいのままに   

七十年 生きて気づけば 形なき
蓄えとして 言葉ありけり

Wednesday, March 21, 2007

黒川紀章の挑戦

勝手に東京建築観光・第7回

建物と緑を切り分ける直線を避け、膨らんだガラス壁が波打つ…。

東京ミッドタウンの国立新美術館を設計した黒川紀章選手が、今度は都知事選に立候補した。

あの安藤忠雄選手とつるんでオリンピック大建築計画を打ち出したあほばか東京都知事、石原慎太郎に一矢報いようとでもいうのであろうか? 

いやあ老いてますますお盛んなことである。

さて建築家、黒川紀章の特質は、時流を見極め、それに乗じることが実に機敏であるということである。

現在安藤忠雄、隈研吾など多くの建築家がエコロジーと建築をにわかに結び付けようとしているが、黒川選手は、とっくの昔に彼のエコシティ構想によって河南省都鄭州市都市計画国際設計コンペで1等になった実績を誇る。

鄭州は北京から南西600kmの黄河流域の150万人古都であるが、山手線内側の倍以上の規模1万5000haを再開発し、旧市街に新都心を造っている。

800hの人口湖「龍湖」など緑と水が都心と融合する。そのコンセプトは、「生態回廊」と称するもので、各地域間に河川を巡らせて水上交通を盛んにし、岸辺には公園を作る。さらに一部の高層ビルを除いて高度15mに制限するなど、自然との共生をめざす大規模都市全体計画にすでに取り組んでいるのである。

表参道ヒルズひとつ作るのに保存と再生、住民と森ビルの合間でノーアイデアに陥ってしばし立ち往生した安藤選手なんか、ちゃんちゃらおかしくって、というところだろうか。

しかし時流に敏な建築家黒川紀章の原点は、やはり1972年に銀座8丁目に完成した集合住宅「中銀カプセルタワー」であろう。(写真)

すべての家具や設備を1つの箱に出来合いのパッケージとしてユニット化し、2本の鉄筋コンクリートのシャフトにボルトで接続したプレハブ住宅は、黒川と私が大嫌いな建築家、菊竹清訓が考案したメタボリズム=新陳代謝主義という思想に基づいて設計されたといわれている。

人間の体は60兆個の細胞でできており、その細胞は1秒ごとに1000万個が死滅して新しい細胞に生まれ変わっている。この有様をミクロで観察すると、人間は2ヶ月余りでまったく新しい存在に再生していることになる。

そこで時々刻々と変化する社会や時代に合わせ、まるで生物のように建築や都市を変化させよう、とするのがメタボリズム的な建築哲学、だそうだ。

しかし現地に立ってつくづくこのマンションを眺めていてもあまりメタボルな感じは沸いてはこない。むしろ黒川選手が本当に影響を受け、参考にしたのは、「現代のレ
オナルドダヴィンチ」といわれたバックミンスターフラー(R.BuckminsterFuller1895-1983)ではなかったろうか?

「最少のもので最大の効果を」、「グローバルに考え、ローカルに行動しよう」と唱え「宇宙船地球号」というコンセプトを創案したこの米国の建築家・数学者は、「最小の資源で最大の容積を確保できるフラードーム」の発明者でもあった。

東京ドームや木下サーカスのテントの下のオートバイ激走鉄球、さらにはフラーレンの構造にも似たそれは球体であったが、実はバックミンスターフラーは50年代からシンプルで機能的な矩形のプレハブワンルームの設計も世界にさきがけて取り組んでいた。

それを黒川選手が器用にパクッて日本流にアレンジしたものが、この中銀マンションではなかったかと、私は勝手に想像しているのだが……。

しかしモダンリビングの1典型として一世を風靡し、かつて私がこよなく愛したカプセルホテルの原器となったこの名建築も、寄る年波には勝てず、上下水の工事や補修にもはや対応できないという理由でまもなく取り壊されるそうだ。

Tuesday, March 20, 2007

勝手に東京建築観光・第6回

木挽町の歌舞伎座のすぐ近所に、改造社の本社ビルを見つけた。

屋上の少建築物を含めると5階建ての鉄筋コンクリート造りで昭和通に面して由緒ありげに立っている。とりわけ窓枠のリリーフの仕上げが美しい。

この近辺は歌舞伎座をはじめ米軍の空襲でほとんど焼失したが、奇跡的に往時の面影を残しているのである。また、ほんらいは右側の菓子屋「銀座日の出」も改造社が使用していたものと思われる。

改造社書店といえば雑誌「改造」で余りにも有名である。以下面倒くさいのでウイキペディアの記述を大幅に引用しよう。

「改造」は社会主義的な評論を多く掲げた大正、昭和にかけての代表的総合誌で1919年(大正8年)に山本実彦の改造社から刊行された。小説なども掲載していたが、労働問題、社会問題の記事で売れ行きを伸ばした。

当時はロシア革命が起こり、日本の知識人も社会問題や社会主義的な思想に関心を寄せるようになった時期であり、キリスト教社会主義者の賀川豊彦マルクス主義者の河上肇山川均などの論文を掲載して、好評を博した。(ちなみに「死線を越えて」の社会思想実践家、賀川豊彦氏は、私が少年の頃我が家を何回か来訪され、その大宅壮一に似た風貌をいまもありありと思い出すことができる。)

また「改造」は、小説では志賀直哉「暗夜行路」を連載した。先行する総合雑誌として『中央公論』があったが、より急進的な『改造』に押されるほどになったのである。

改造社の山本社長は、1922年にかのアインシュタイン日本に招聘、さらに1926年には『現代日本文学全集』を1冊1円で発売し、いわゆる「円本ブーム」を巻き起こし、1929年、岩波文庫に対抗して改造文庫を発刊するなどまさに昭和出版界の風雲児の名をほしいままにしたのであった。

しかし第二次世界大戦中の1942年、掲載した論文が共産主義的であるとして弾圧を受け(横浜事件)、1944年に廃刊となる。(この横浜事件は現在も最高裁での再審と無実宣言を遺族が請求中)

「改造」は終戦後の1946年に復刊するが、その経営は思わしくなく、労働争議のすえ、ついに1955年に廃刊となった。

しかしその本拠地は、依然として平成の御世に赫赫として現存している。

ただし現在の建物の所有者は山本家とは無関係。いまは単なる書籍販売業を営み、1階は小売、上層部は書籍販売営業に使われているそうだ。

Monday, March 19, 2007

債鬼たち

債鬼たち

ある丹波の老人の話(14)

父を送って舞鶴から帰ってきた夜、入り口の戸を荒々しく叩いて起こす人がおりました。

町の信用組合の幹部が提灯を下げて立っていました。
父が逃げたということを早くも聞きつけたとみえて「信用組合からいっぱい借りておる借金をいったい君はどうするんじゃい!」とかみつくような強談判です。

職務に忠実な幹部の言い分にはまったく文句は言えない立場ですが、ズケズケといじめられるのは骨身にこたえました。

それだけではありません。翌日から毎日毎日我が家の門に迫る債鬼は、それこそひきもきらずです。

なにしろ父は、借りられるだけの人から借りだれるだけの金を借りまくっていたのです。その金額は三、四千円くらいでしたが五円、十円の小口もあって後に私が次々に払って戻ってきた借用証書が大きな支那カバンいっぱい分もあり今も保存しているくらいやから債権者の数は大変なもんでした。

なかには札付きの高利貸もいて、それが入れ替わり立ち代りやってきて、私を締木にかけるんです。

泣くにも泣けない私はただありのままに、「父の借金だからといって踏み倒す考えは毛頭ありません。何とかしてお返しする覚悟ではありますが、今どうするわけにもまいりません。どうかお返しできるときまでご猶予をお願い致します」

と、判で押したような言い訳を何度も何度も畳に額をこすりつけて繰り返すよりほかに手も足も出ませんでした。
(第三話 貧乏物語その2)

Sunday, March 18, 2007

ある丹波の老人の話(12)

ある丹波の老人の話(12)

第三話 貧乏物語

私の母はよい母でした。しかし父は、善人ではありましたが、大ざっぱでだらしがない人でした。

大酒というほどではありませんでしたが、酒好きで、芸者などをあげて派手に飲み、女道楽もなかなかのもんでいつもどっかに隠し女がおったようです。

母は真面目に店を守って商売に精を出しとりましたが、父の金遣いが荒いために、家計はだんだん不如意になり、借金はかさむ一方でした。

私は自分が養蚕教師で得た給料は全部母に渡しておりました。母はありがたがって、いつも押し頂いてよろこんでおりました。それで私もできるだけ倹約して一文でも多く母に渡そうと心掛けておりました。

その頃、菓子といえば金平糖でしたが、私はその金平糖を一度も買ったことはなく、時々中白の砂糖を買ってきて指先につけて少しずつねぶり、ひどくくたびれたときなどは、砂糖湯をして飲むのがたったひとつの贅沢で、半キロほど買うてきては長い間たのしんだもんでした。

けれども私がそんなに頑張って家に入れるお金は、盆仕入れの足しや借金の利払いにつかわれて、はじめのうちは相当家計の助けにもなったようですが、借金がかさむにつれて焼け石に水ほどの効き目しかないようになりました。

私は明治三十七年に妻菊枝(昭和十七年に病死)を迎えましたが、それから五年後には母が亡くなりました。その前年妹を舞鶴に嫁がせるとき、一人娘だというので分に過ぎたこしらえをしてやった無理算段なども家計に響いて、母の死後は家中に火の車が舞ったのでした。

やけになった父の乱行はいっそうつのり、はては芸者を連れて隠岐の島へ逃げるといいだしました。困ったことだと思いましたが、私の言うことなど聞いてくれる父ではなし、止めても仕方がないと思って、いよいよ出立の時には舞鶴まで送っていきました。

その頃は舞鶴から隠岐通いの汽船があったんですが、父はそれに乗りました。父はその時五十八歳でしたが、それまで隠岐には二、三度行ったことがありました。この島は日本海の潮風に吹かれるので目の細かい良質の桐があるんです。

父はそれを買い込んで下駄材ばかりでなく琴材として京都方面に売って儲けたことがありました。ですからまんざら当てもなしに行ったわけでもなく、父としては隠岐の島で一旗上げるつもりやったんですが……

格闘場化するコンサート会場

格闘場化するコンサート会場

♪音楽千夜一夜 第15回 

今日は日曜日。いまNHKのFMでベルニーニの歌劇「清教徒」を放送しています。
今年の1月6日ニューヨークのメトロポリタン・オペラの公演で、指揮はパトリック・サマーズ、主役のエルヴィーラをいま話題のソプラノ、アンナ・ネトレプコが歌っていますがさっぱり面白くない。

指揮はかなり酷い。やはりメトはオペラの乗りを熟知しているジェームズ・レバインが振らないとダメ。それにいくら美貌か知らないがビジュアルの支援なしで聴くネトレプコの歌唱もあまり良くない。これからあの「狂乱の場」があるわけですが、果たしてうまく乗り切れるのか不安です。

ああ、それなのにメトの聴衆は拍手喝采してる。
でもあそこのお客はニューヨークフィルと同様ほとんどが観光客相手だし、NYのクラシック愛好家も耳がアバウト。なんでもかんでもわあわあきゃあきゃあブラボー!ブラボー!だ。 まあ勝手に騒いでろ。

ベルニーニなら、2、3年前に廉価版ブリリアントから出たオペラ10枚組の中の超ベテラン、リチャード・ボニング指揮ベリーニ劇場管弦楽団(イタリアの超ローカルオケ)の演奏のほうが何十倍も素晴らしい。

「ノルマ」こそ入ってないが、「夢遊病の女」「カピュレッティとモンティッチ」など全5作品が入って3600円とお買い得です。同じブリリアントからドニゼッッテイの10枚組みも出ています。

ところでNYはともかくとして、最近東京のクラシックファンが過激化しているらしいですぜ。いきなり他のお客に殴りかかったりするらしい。そんな低級な喧嘩騒ぎがしばしが起こるので、オーケストラは演奏どころじゃないんだって。おおこわ。ここでも世も末でげす。

なんでも隣の客がチラシをめくる物音や体臭などにいらだって暴力行為に及ぶんだそうです。確かに私もその気持ちは分る。演奏中に楽譜をめくるやつ、座席の下にもぐりこんで携帯に出るやつ、舞台の上のオケや指揮者の写真を撮るやつ、一緒に来たおばはん同士でぺちゃくちゃおしゃべりするやつ、安香水の匂いを撒き散らすやつ、お弁当を食べ始めるやつ、鼻でなく口で呼吸するのでフガフガたいそううるさいやつ、もうコンサートホールはあほばか基地外、吉外、気狂い、気違いばかりでござんす。

それが嫌さに私は東京でのコンサート通いをやめて10年以上たちまする。
でもそうか。嫌な奴をいきなりぶん殴り、髪の毛をつかんで引きずり回すという直接行動暴力委員会という手法があったのか。
そんならこれから私も完全武装して、火炎放射器で嫌な聴衆を退治しながら「夢遊病の女」でも聴こうかな。

Saturday, March 17, 2007

レイモンド・カーヴァー著「水と水が出会うところ」を読む

降っても照っても 第3回


僕は小川と、それが奏でる音楽が好きだ。
小川になる前の、湿原や草地を縫って流れる
細い水流が好きだ。

と、開始される表題作の「水と水が出会うところ」という詩は、河が海と合流する広い河口の素晴らしさについて歌われている。

永代橋の近くの会社に勤めていた私は、会社の仕事や人間関係に疲れて屈託が生まれると、よく隅田川のほとりに佇んで、水と水が出会うところを眺めたものだ。

大川の流れは意外に奇麗だった。

汽水の上澄みには人間共の苦労を知らないボラやフグやハゼなどの魚たちが、楽しそうに、踊るようにして泳いでいる姿を、私はあかず眺めた。

そして洲崎を超えて遠く佃、月島方面を見やると、東京湾の上空にほの白い雲が浮かんでいるのだった。

平明でシンプルなスタイルの中にいつも確かな声、人間の肉声が聞こえてくる。それがカーヴァーの詩だと思う。ホイットマンとヘングウエイを足して2で割った感じだ。

例えば「怖い」という詩では、

家の前にパトカーが停まるのを目にするのが怖い。
夜の眠りに落ちるのが怖い。
眠れないのが怖い。
過去が起き上がってくるのが怖い。
現在が飛び去っていくのが怖い…

と、続き、

愛せなくなることが、十分に愛せなくなることが怖い。
私の愛するものが、私の愛する人たちにとってこのさき命取りになることが怖い。
死が怖い。
長く生き過ぎることが怖い。
死が怖い。
これはもう言ったね。
 
で、終る。

何気なく書かれているようだが、ものすごい技巧を尽くした労作だ。(なお、言い忘れたがこれらはすべて村上春樹氏の翻訳である)

この「○○が怖い」というスタイルの発見もなかなかだが、その設定に従って全部で24の怖いを並べ、最後に24番目の答えをリピートして終る。

凄いとしか言いようがない。

しかし余りにも超絶技巧なので、わずかに感銘が薄れるのが唯一の欠点であるとは言えようか。

Thursday, March 15, 2007

ある丹波の老人の話(12)

ある丹波の老人の話(12)

当時の養蚕は、蚕は在来の小石丸で虫も小そうてそう飼いにくいもんではありまへんでした。(注=小石丸は現在でも皇居内で天皇が飼育している希少品種)

ところが私の養蚕教師時代は温暖育が析衷育に進んでかなり改良されてきてはおりましたが、やはり昔ながらの乾燥第一主義で、桑は刻んでおったうえに温度を加えられますから蚕は萎縮して食欲をそそらない。

その結果蚕はいつも腹を減らしておりましたから失敗が多く、定石通りにやっても蚕が腐ってしもうたりする。

それで養蚕教師は逃げ出したり、大失敗して首をくくったりで、なかなか楽な勤めではありまへんでした。

私は自分の勘で温度の調節を測り、これが桑の萎縮をうまく防いでくれたんで、一度も失敗しませんでした。

まあ、私がどうのこうのではのうて、波多野翁に率いられた京都府の養蚕は全国的にも断然頭角を抜いたもんでした。

しかもただ技術的に秀でていたのみならず、人間としての心構えも他の府県の人々とは明らかに違っておったと思います。

私などもいま振り返ると、もし波多野翁とめぐり合っておらなかんだら、きっと人生の大きな回り道をして、果たしてどんな人間になっておったか自分でも分かりまへん。

(第二話養蚕教師 終)

Wednesday, March 14, 2007

森安孝夫著「シルクロードと唐帝国」(興亡の世界史5巻)を読む

降っても照っても 第2回

現在の地球上の人種は、約20万年前にアフリカで原人から進化したただ一人の新人「イヴ」が先祖。その後モンゴロイド、コーカソイド、ニグロイドの3集団に分化するが人種は1つで優劣はない。文字通り、人類は皆兄弟なのである。

人種差別に人類学的根拠はなく、単なる心の問題といえる。また「民族」なる日本語はは明治時代の造語でこれに該当する外国語はない。あえて定義すれば、言語が同じで風俗・習慣や歴史を共有し、同一民族に所属しているという意識を持つ人々の集団である。

人種と言語はまったく無関係である。民族は文化的分類、国民は1つの国家の成員を指す政治的分類であり、「1民族1国家」は大いなる幻想。偉大なアジアの文明から目を逸らし近代欧米文明こそ人類共通の理想であるとする明治以降の西欧中心史観は誤った自虐史観である、と著者は説く。

日本がアジアの一員であるにもかかわらず、アジアに優越感を抱くようになるのが明治時代からであるように、欧州人がアジアに対して優越感を持つようになるのが18世紀の武力進出からである。

17世紀までは圧倒的にアジアに全盛時代であった。その後退期はオスマン帝国が神聖ローマ帝国を脅かす第2次ウイーン包囲に失敗した1683年以後のことである。

1000年史単位で見た世界史では、欧米の覇権などほんの一瞬の夢に過ぎない。むしろ真の文明の繁栄はソグド、匈奴、ウイグル、モンゴル、西域など隣接遊牧諸民族を取り込んで華麗な文化の華を咲かせた多民族国家唐帝国にあった。文明の源泉はソグド人に象徴されえる中央ユーラシアにある。
例えば、ソグド人がもたらしたソグド文字がそのままウイグル文字になり、そのウイグル文字が13世紀にモンゴル文字になり、さらにそれが16世紀末から17世紀はじめに少し改良されて満州文字になった。それゆえ中央ユーラシア国家の清朝にさえソグド文化は受け継がれた。漢民族はあくまで中国人の多数派にすぎない。

また3000年ほど前に中央ユーラシアの大草原に出現した騎馬民族が乗馬と騎射にもっとも便利なように改良した胡服こそがのちの洋服(スーツ)で、これが全世界に広がった。洋服にベルトとブーツがつき物なのもやはり騎馬遊牧民に由来する。

7-9世紀の唐では西域音楽が大流行した。百戯繚乱の唐には儒教の礼楽思想の影響を受けた雅楽、漢代以来の伝統芸術音楽の俗楽、胡楽、散楽、軍楽があった。

胡楽は西域をはじめシルクロード全域から入った外来音楽一般を指し、その中心が西域音楽で管楽器、弦楽器、打楽器のすべてが和フル編成で演奏される声的大管弦楽団であった。一方、当時の欧州では単旋律の教会音楽しか存在しなかった。もってその先進性を想像することができよう。

参考
世界史の8段階
1) 農業革命(第一次)1万1000年前より
2) 4大文明の登場(第2次農業革命)5500年前
3) 鉄器革命(遅れて第3次農業革命)4000年前
4) 遊牧騎馬民族の登場 3000年前
5) 火薬革命と海路によるグローバル化 500年前
6) 産業革命と鉄道(外燃機関)200年前
7) 自動車と航空機(内燃機関)100年前

太陽のごとく生きよう

あなたと私のアホリズム その13

太陽のごとく生きよう! と、高らかに校訓でうたうのは、あの有名な堀越高校である。

これほどアバウトで、能天気で、よく考えると意味不明なスローガンを堂々と掲げる学校は恐らく世界中でこのHORIKOSIだけだろう。

この学校は昔から芸能人に人気があり、越路吹雪、掘ちえみ、松田聖子、松たか子、石田ひかり、サトエリ、石原真理子、深田恭子、加藤あい、SMAPの稲垣吾郎、草彅剛などの人気タレントや俳優をいまも輩出している。

しかしもっとも「太陽ごとく生きよう」の校訓にふさわしい偉大な卒業生は、やはり“分かっちゃいるけどやめられないスーダラ男”の植木等氏であろう。

本日めでたく卒業される皆さんも、ぜひこの天才的無責任男を見習って、太陽のように明るく生きてほしい。

ただしあまり太陽に近づきすぎて、イカルスのように燃え尽きたり、なにか勘違いして、“太陽にほえ”たりしないようにくれぐれも注意してください。 

Monday, March 12, 2007

日本一の養蚕教師!?

ある丹波の老人の話(11)第二話養蚕教師(5)

青野氏は金もあり、羽振りもよく、その庇護の下で仕事をする私はとても楽でした。

村の人たちも私のいうことをよく聞いてくれたんで、すべて思い通りにやることができました。

愛媛県が作ってくれたという稚蚕飼育場での共同飼育も好成績でしたし、それを各家庭に移したあとも、私は昼夜を問わず家々を駆け回って指導したので、最後までうまく行って一軒の落脱もなく、庄内村始まって以来の上出来だったので村の人たちは大喜びでした。

私だけでなく、京都府から行った教師のところはみんな成績がよく、繭の鑑定にかけても愛媛県の技術者よりはるかに優れていたので、あちこち引っ張りまわされ、京都府の蚕業のために大いに気を吐いたもんでした。

繭は入札で売られたが、庄内村の繭はその平均価格が愛媛一の最高値やったそうです。

あとで聞いた話では、青野家の人が、

「今まで入れ替わり立ち代り養蚕の先生がやって来たが、皆相当の年配でヒゲなどはやして威張っていた。人柄が下品で行儀が悪く、蚕飼いもさっぱり下手くそで一度もろくな繭が取れたことはなく、損ばかりさせられた。ところが今度京都から来た先生は子ども上がりの若造で、これがなにをやるか、と頼りなかったが、どうしてどうしてお行儀が良くて熱心で、謡曲も上手だし、お茶の心得もある。蚕飼いも前の先生方とはまったく違って上手にやってもらったから、ウンと儲けさせてもらった」

と言うておったそうです。

それから特に所望されて、あと二年立て続けに、都合三年この村へ通ったんですが、一度も失敗せず、年々非常に感謝され、記念品として沈金塗りの大鯛の立派なものをもろおたり、「○○先生記念桑園」と書いた大きな標柱を立てた桑畑までできました。

その後私は兵庫県の関ノ宮、大谷、船井郡の上和知、大倉、何鹿の奥上林、物部などへそれぞれ二、三年ずつくらい行って、私の養蚕教師生活は大正七年まで続きました。

船井郡に行ったとき、養蚕組合書記の加舎亀太郎君から、「君には日本一の養蚕教師給料を差し上げる」というて渡してもろうたお金が、たしか百八十円やったと記憶しとります。

♪ある晴れた日に(2)

奥上林小学校の暗い廊下の突き当たりでも、崩壊した渚ホテルの半分砂に埋もれた客室の片隅でも、水深4500メートルのウナギの稚魚が遊んでいるグアム海溝でも、私は絶えず誰かに追われていた。

「で、その施設、いつ倒産するの?」と誰かが私に話しかけたが、私は答えられなかった。

「グループホームを救うために、どうしてフラダンス教室を運営しなきゃいけないの?」と、別の誰かが問いかけたが、私には答えられなかった。

逃げていった半島の岬には小さな港があって、ペルリ提督の頃から停泊している高速巡洋艦に怒涛の波が叩きつけていた。

黒い雲が渦巻いている上空には大ガラスが舞い、艦橋には、異様に長い耳と巨大な耳たぶをぶらさげた布袋艦長が、エイハブのように格好をつけて立っていた。

「おい、布袋。清川病院の脳外科医のアルバイトは時給8万だが、お前の障害者自立法案のお陰でおいらの息子は時給40円だ。どうしてくれる!」

と私は叫んだが、布袋艦長はそっぽを向いて、いやいやをしながら腐れ金玉のような耳袋を、ぶらんぶらんと振り回し、

♪腐っても鯛、おいらには誇りがある ♪風に揺られてブーラブラ

というチョウシッパズレの歌を歌い始めたそのとき、

「もう時間がない。人生は無か有か? いますぐ答えよ。有か、それとも、未来永劫悉皆皆無か、いったいどっちだ、どっちなんだ!」

と、かの大カラスが咆哮した。

私は懸命に考えた。

しかし、どうしても私は答えられなかった。

そうしてこいつはいつもの夢だろう。夢に違いないと考えていた……。

Saturday, March 10, 2007

歓待されて

ある丹波の老人の話(10)第二話養蚕教師(4)

私は青野氏の家に泊めてもろうたんですが、私にあてがわれた部屋も、夜具や布団ももったいないほど立派なもんでした。

私はかねて波多野さんから教えられた通りに、枕には自分の手ぬぐい、掛け布団の襟には風呂敷をあてがって寝ました。

青野家には凝った茶室もあって、鐘を打って客を招き入れるような本式の茶室が設けられており、私も来客がある都度招かれました。

さいわい私は妹がお茶の稽古をやっとったときに、いつもお客さんになとったもんやから、茶の飲み方だけは心得ておりました。落ち着き払って形のごとくやったんで恥はかいまへんでした。

また青野氏は謡曲が好きでした。

ところがそれがまったくの「下手の横好き」というやつで、同族の青野浩輔さんと奥座敷で毎晩のようにうなるんですが、どっちも兄たりがたく、弟たりがたく、聞いておっても肩が凝ってくるようなもんでした。

私も少し謡をやると知った青野氏から招かれて、強いられるがままに小謡を一番うたったら、「これはたいしたものだ」ということになって、蚕の先生は承知の上でやっておることですが、とうとう謡の先生に祭り上げられてしまいました。

ところが青野氏は観世流、私は宝生流なんで、観世の謡い本を見ながら宝生をうたうのを、観世の人がせっせと習うというおかしなことになってしまいましたが、それでもなんとかお相手をしてそれなりに楽しいひと時を過ごしたもんでした。

こんなことから私は青野氏一家、一門の人々と親しくなり、信用されるようになりました。

Friday, March 09, 2007

養蚕教師、愛媛へ行く

ある丹波の老人の話(9)第二話養蚕教師(3)

 その頃、よく養蚕集談会というのが開催され、その道の大家連中がやって来て指導を行っておりました。

私は青二才ながら、西原で体験した修正温暖育なる手法を引っさげて、大家の先生方が説かれる定石的飼育法を机上論として排撃し、おめず臆せずやり合って彼らをタジタジとさせたらしく、梅原良之助君や出原新太郎君などの旧友と昔話をすると、「君は若いときから一風変わった鼻息の荒い男やった」とよくいわれたもんでした。

それはともかく、私は明治四十二年にはやはり波多野さんの推薦で愛媛県に行くことになりました。

愛媛県では、古くからの特産品の藍が舶来の化学染料に押されてダメになってしもうたんで、藍畑を桑畑に変えて養蚕を奨励したんですが、それがさっぱりうまく行かず、毎年のように失敗しておった。

同郷出身の養蚕技師の西村弥吉氏がすっかりてこずって、京都府に対して実力のある技術者の派遣を乞うたんで、それに対して波多野さんのお眼鏡で五、六人選ばれたうちの最年少が私でした。

しかも私が行った所は周桑郡庄内村というて村長の青野岩平氏は蚕業熱心家で、県会議員もしているという声望並びなき人でした。

私は西村弥吉氏から、「庄内村の養蚕が毎年失敗続きで、もしも今年ここをうまいことやらんかったら愛媛県の養蚕業の前途も危ういんじゃ」という話をコンコンと聞かされたので、「もうどうでも京都府の養蚕業の名誉にかけて、この絶体絶命の危機を救わんと男が立たん」ちゅうことになってしまいました。

安岡章太郎著「カーライルの家」を読む

降っても照っても 第1回

いつのまにか80歳を超えてしまった第3の新人、安岡章太郎の最新作がこれだ。

前半は小林秀雄にまつわる思い出話の「危うい記憶」、後半はタイトルと同名の「カーライルの家」だが、それぞれにとぼけた味わいを随所にかもし出していて絶品である。

前半の小林秀雄ばなしは面白い。

特に中原中也からぶんどったスリムで「かなり美人」の長谷川泰子と同棲した小林が、彼女の潔癖症に悩まされて突如奈良の志賀直哉の家に転がり込んでいくあたりの細かい描写はじつに興味深い。

眼前に老青二人の文学者の姿形がありありと浮かんでくる。

その文を書いている安岡の語りは、まるで志賀直哉の生き写しのようにも、小林秀雄にも思えるときがあった。

まるで青森のイタコです。霊媒心霊エッセイでげす。

私は昔父と一緒に小林が大本教の1000畳敷きの大本みろく殿で1席やったのを聴いたことがあるが、それも完全に落語であった。

小林が落語名人なら、安岡も新型落語で対抗しようとしている。

安岡が小林と共に旧ソ連に旅行した話も面白い。

ここにはあの有名な「ネヴァ河を見に行く」の裏話が出てきます。漱石も、白鳥も、内村鑑三も、出てきます。

表題作の最後は、志ん朝、小さんか円朝の名人落語のようなオチがついている。

カーライルが書き上げたばかりの「フランス革命史」の生原稿を、ジョン・ステュアート・ミル夫人がぜんぶストーブの火付けにくべたなんていい文学ネタだと思いませんか? 

かくして嘘かほんとか分らないような風流文学譚は、薄明の闇に消ゆる。

Wednesday, March 07, 2007

「人生の歩き方」

「人生の歩き方」

あなたと私のアホリズム その12

本さへあればテレビは要らない。とりわけ民放などなくてもいっこうに構わないと思っている私です。

時々見るのはNHKのニュースと映画とドキュメンタリーくらい。

それでも本当にいいなと思える番組はあまりないのですが、最近始まった「人生の歩き方」というトーク番組はなかなかよいです。

第1回は漫画家・歌手の池田理代子さんを黒田アナが、昨夜から始まった第2回は映画監督新藤兼人さんを小野アナがインタビューしています。

ときおり回顧的な記録映像がインサートされますが基本的には主人公のこれまでの人生の歩みをじっくりと聞く番組です。

池田さんという漫画家についてはあのベルバラの作者というくらいしか知らなかった私ですが、彼女の自由で情熱的な生き方をご本人の口からとくとうかがい、静かな感銘を受けました。

特に中年になってから志したソプラノ歌手の恩師である東さんの壮絶な死に方を語ったくだりは、涙なしには聞けませんでした。

また昨夜の新藤監督が亡き母の思い出をこれまた涙ながらに語ったときには、寅さん大好きの小野アナも一緒に泣いておりましたね。

泣くからいい番組と言っているのではありませんよ。

その人の真実に迫り、その人が人生の真実を真面目に語るから、いまどき珍しくいい番組だといっているのです。

ここでは主人公が自分の人生をどこまで開示するか、は、アナウンサーの知性と勇気にかかっているので、そういう意味でも真剣勝負の番組だと思います。

世の中のテレビ番組の大半が、異常なことを異常に表現しようと狂奔する中で、「人生の歩き方」は、普通のことを普通に表現しようと試みている。

それがこの番組の価値を高めているようです。
(毎週水曜日午後10時25分から50分まで)

戦争に行ったつもりで

ある丹波の老人の話(8)第二話養蚕教師(2)


翌年は、波多野さんの推薦で西原へ行きました。

西原いうとこはどういうものか毎年蚕が不作で、上野源吉という伝習所の先生までした熟練第一の教師の指導も失敗し、おまけになけなしの繭を糸屋にごっそり買い叩かれて弱りきっておりました。

そんなところへ行ってしくじったら波多野さんにも申し訳ないし、西原をいよいよ困窮に陥れてしまう、と私は案じましたが、思いなおして、

「よし! 戦争に行ったつもりで命懸けでやろう」

と心に誓いました。というのもおりしもちょうどそのころ日露戦争の真っ最中やったんです。

そこで毎日城丹講習所へ通って見学し、諸先生方にも尋ねて研究し、ともかく最善を尽くしました。

私は当時温暖育による失敗が多いことを知り、いろいろ考えた挙句、給温のために一つの炉に使う燃料を二分して二つの炉で焚き、廊下にも火鉢を置くようにして温度の調整と均一化をはかりました。

これがよかったとみえて西原での飼育は見事に成功し久しぶりに上作という結果が出たんです。

私はその後も二年続けて西原に行きましたが、三年連続で上作だったので、あれほど疲弊しておった西原も完全に立ち直りました。

西原の農家にはいままで絶えて見ることのなかった清々しい畳み敷きの部屋ができ、柱には文明開化の象徴である柱時計が時を刻んでいるという光景があちこちで見かけられるようになりました。

このように元気に農村で活動を続けておった私でしたが、二十一の徴兵検査で肺浸潤といわれ、父が心配したんで私はそれまで勤めておった「郡是」を辞め、養蚕教師に専念しようと心に決めたんでした。

Monday, March 05, 2007

第二話 養蚕教師

ある丹波の老人の話(7)

私の家は、A町の目抜き通りで履物屋を営み、郊外に桑園を持ち、当時流行の養蚕もやっとりました。

そんな関係から丹波地方の蚕糸業の元締めで「郡是」(現在のグンゼ)の創立者であった波多野鶴吉翁とは懇意でごわして、私も子どものときから目をかけてもらっとりました。

私が小学校を出て十六のとき、波多野さんは自分が所長をしていた京都府高等養蚕伝習所(その後城丹蚕業講習所と改称)へ私を入所させろと父に説き、「年齢が二つ足らんが、それはなんとでもなるから」というてしきりに勧められるので、その熱意に押されてそこに入ることになりました。

生徒は大半がはたちくらい、中には二十六、七の人もいて、私一人がまだ子どもでした。

そこを卒業してから一と春、A町の養蚕巡回教師をしましたが、その後、そろばんが上手になるというのでその頃地租改正で忙しかった税務署につとめ、十八の年にはそのそろばんの腕前を買われて「郡是」に入り、事務所勤めが始まりました。

明治三十四、五年当時のこの地方では、個人が勝手に小額の切手を発行して、それがなんでかしらんけど貨幣同様に流通しておったんです。いまはやりの地域通貨ちゅうやつでしょうかね。

波多野さんの「郡是」でもこれを発行しておったので、私は切手作りで非常に忙しかったことを覚えとります。

春の養蚕期は「郡是」も休みなので、私は在勤中も毎年巡回教師に出ました。

十九のときに佐賀村の小貝に行ったんですが、その年は晩霜でひどい桑不足になり、由良川が真っ白になるほど誰も彼もが蚕を流しました。

しゃあけんど私は蚕を捨てさせず、急いで家に戻って父に説き、金つもりをさせて桑を買わせました。

こんなことにかけたら父はうまいものです。四方を走りまわって上手に桑を買いあさり、荷車に積んでドンドン小貝に運び込み、小貝は1匹も蚕を捨てずに無事に育ったんです。

おまけに上作の繭高とあって養蚕家はホクホク顔で大喜び。

私も思わぬ手柄をたてて、「若いけど、なかなかやるもんじゃ」ということになりました。

Sunday, March 04, 2007

鎌響ファミリーコンサートを聴く

♪音楽千夜一夜 第14回

昨日鎌倉芸術館で開催されたこのコンサートは、1年間のイタリア留学から帰国した古谷誠一が指揮して、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」序曲を皮切りに、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」から5曲の抜粋、休憩を挟んでヨハン・シュトラウス2世の「ヴェネツイアの1夜」序曲、テノールの水船桂太郎を迎えてリゴレットの「女心の歌」、「誰も寝てはならぬ」「帰れソレントへ」など、最後にチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」という分かったような訳が分らないプログラムで開催された。

いちばん良かったのは冒頭のロッシーニ。まるでヴィクトリオ・グイを思わせる名演に、これが日本のオケ、日本人の指揮者かと耳を疑うほどの素晴らしい出来栄えであった。

イタリアには小さな町のも必ず歌劇場とそのオーケストラがあるが、まるでそんなローカルオケのように個性豊かで、しかもノリのよい演奏を楽しむことができた。
この指揮者はイタリア物のオペラのこつを体得しているようだ。

しかしながらプログラムが進むにつれて彼の指揮は精彩と切れ味を欠き、最後のチャイコフスキーなどは選曲の悪さも手伝ってあまり褒めた仕上がりではなかった。

コンサートの多くが、「はじめは処女のごとく、終わりは脱兎の如し」という終わり方をするのに、これはまたとても珍しいパターンであった。

しかし拾い物はテノールの水船。そのどこまでも透明で、明るく、伸びやかな声は素晴らしい。これでもう一匙の個性がスパイスされたら国内有数のテノールに成長するのではあるまいか。

大半の歌手と違って音程がほとんど狂わない点も素晴らしい。
何度でも繰り返すが、音程が狂っても許せる歌手は美空ひばりとマリア・カラスしかいない。しかもひばりはカラスと違って、「わざと音程をはずす」から超凄い。空前絶でげす。

3大テノールなんて威張っていても、音程については、ディ・ステファノほどではないが、パバロッテイもカレーラスも若いときから結構酷かった。

残る一人のドミンゴが推挙して国際舞台に押し出したとかいうソプラノの森麻季ちゃんも、容姿はともかく(おしゃれなドレスの谷間に乳間を強調)音程のみならず歌そのものが良くない。

いったい彼女のどこを聴いて、どこのどいつが「日本が生んだ国際的歌手」などとめちゃくちゃなレッテルを貼っているのだろう? 

もしかしてオペラ音痴の小澤大先生? まさか?

話が鎌響からどんどん離れてしまうが、最近のクラシック業界は完全に狂っている。

ともかく技巧や音楽性は二の次三の次で、「ルックス第1」いな「写真うつり第1」の、まるでタレントかモデルまがいの若い女性の売り出しに血道をあげている。

三流音楽家でも美人ならOK、一流でも不美人ならCDデビューできない。最悪の事態です。

という?ことで、今回もいろいろ楽しめたファミリーコンサートだった。

しかし冒頭でどうしてあの美しい鎌倉市歌の演奏を行わなかったのか? またどうして相変わらずぎゃあぎゃあと泣き喚く乳幼児の入場を許しているのか? まったく不可解である。

そもそも乳幼児というのは、人間ではなく、サルやネコやイノシシと同じ範疇の動物である。規律と自制が不可能で自然に生きている天然動物である。(おお、人生でもっとも自由で美しい時代よ!) 

そんな時空に楽しく生きてる動物を無理矢理何匹も引っ張ってきて、コンサート会場に放し飼いにし、人間だけに鑑賞可能な精妙な音楽を強制的に聞かせる必要があるのだろうか?

あるとすればわが子はモーツアルトだと勝手に錯覚している親馬鹿ちゃんりん茹で小豆のエゴだけでしょう。

どうして鎌響が、動物が人類に変成する小学生以上の入場に限定しないのか、ま、そのお、ひじょーに理解に苦しむものであるわいな。

Saturday, March 03, 2007

ある丹波の老人の話(6)

さて観音さんのお導きで奇跡的に眼病を克服した母でしたが、それから八年ほど経った頃、胆石病で大わずらいをしました。胆石特有の激しい腹痛がたびたび起こって、ひどく苦しみ、からだは見る影もなくやせ衰えてしまいました。

医者の薬も効き目がなく、またしても起こるさしこみに耐える力もありません。気の毒に母はいまや死を待つばかりの有様となってしまったのです。

このときも私は眼病克服を観音さんにお祈りしたんとおんなじように、

「私の命を三年縮めて母を病苦から救い、あと3年の寿命を母に授けてください」

と、今度は母の信仰する生まれ在所の稲荷さんと讃岐の金比羅さんに毎朝頭から三杯の水をかけて祈りに祈りました。

このときの主治医はまだうら若い長沢先生でした。先生は、

「これは手術をして胆のうを切り取ってしまうよりほかに仕方がない。私がやりましょう」

とおっしゃって、おそらくまだ一度も試みたことのない胆のう摘出という大手術を、衰弱し切っている患者に対して敢行し、ものの見事に成功させてしまいました。

こうして母は胆石の病苦をからくも脱して、またしても健康を回復して、四十九歳まで生きることができたんでした。

そしてこの二度の体験、とりわけ12歳の折の体験は、「真心をこめた祈りは必ず神仏に容れられる」という信念を私に植え付けたんでした。

どうやらこれが子供心に強く焼き付けられて後年の信仰の芽生えとなったようです。

私はつねに神仏の存在を認め、これを敬い、これを畏れるようになりました。

のちにキリスト教に入信した私が、はなはだ至らないながら、現在ひたすら神さんを求めて祈りと感謝の明け暮れを送っとれるんは、この少年の日の苦難から萌え出た信仰の小さな芽生えが、雨露の恵みを受けて、枯れたりしぼんだりすることのう育った賜物であります。

旧約聖書ヘブル書第11章1節に「それ信仰は望むところを確信し、見ぬものを真実とするなり」という聖句があります。

古来これこそが信仰の定義といわれておる有名なことばでありますが、私が十二歳のときの体験は、信仰というにはあまりにも幼稚なもんであったとしても、この聖句の一端に触れたもんやと思い、このような機縁を恵んでくださった主と母に深く感謝しております。

(第1話「母の眼病」終)

断腸寝日記

生きていくためには食わねばならず、食うためには働かねばならず、働くためには世間様から仕事を頂戴しなければならない。

仕事を頂くためには普段から己の技能に磨きをかけ、たまにはくらいあんとに腰を低くかがめて、慣れないお世辞のひとつやふたつはかまさなければならぬ。これが当たりきな生活者の基本だろう。

そういう次第で渡世の浮き沈みを楽しんでいる私だが、昨日はちょっぴり失敗してしまいました。

午後から中野坂上のT大でのおつとめが終って、「やれやれこれで懐かしの我が家に帰れるわい」と思いつつ新宿駅のホームでが来るのを待っていた。

そいつがなかなか来ないので、携帯を取り出して1417を押すと、家人からの午後4時の留守録が入っているではないか。

「B社のO氏が自宅に電話してきたので、外出していて8時ごろには戻ると返事したら、また電話しますといっていた。たぶん仕事の依頼だと思うから、折り返し連絡してみたら」という内容であった。

この会社は主に週末の木曜か金曜日に発注することが多い。時計を見るとすでに7時だ。急いでO氏に電話をかける。

「あまでうすさん、どうかしましたか? え、電話? ああそうそう、4時ごろにお電話したんですが、お帰りが8時になるということなので、仕事は別のライターさんに頼んじゃいました。残念でしたね。どもわざわざお電話ありがとうございました。んじゃあ、バイビー」

しまった。やっぱりオイラに発注があったんだ。

家人の電話の直後にO氏にコールバックすれば、即お仕事がいただけたに違いない。おお、なんということだ。これで1か月分の稼ぎが吹っ飛んじまった! 大失敗だ。

しかし、待てよ。私は4時にはT大にいて、携帯もポケットに入っていた。どうしてその時私の着メロのエルガーの「愛の挨拶」が鳴らなかったのであろう? 

まさか、またしてもいつの間にやら伝言メモに切り替わっていたのでは? 顔色を変えながら私が携帯を取り出して調べてみると、やはりそのまさかであった。

この19世紀製の携帯には伝言メモという機能があって、たまさかどこかのボタンに触れると自動的に普通の留守電を停止して、どこか別なところにメッセージを録音してしまうのである。

このあほばか機能のお陰で、私は新潮社のE誌のS編集長をはじめ、各方面に何回迷惑をかけたことだろう。

それなのにまたしてもやってしまった。やはりおらっちのようなアナログ人間は、携帯のようなデジタル機器なんか使うなということだろうな。

と、がっくり落ち込みながら、満員の湘南新宿ラインに揺られ揺られて帰宅した私でありました。
                           
人生、晴れの日もあれば、曇りの日も、雨の日もありますね。 ハイ、おしまい。

Thursday, March 01, 2007

ある丹波の老人の話(5)

前回までのあらすじ
母親の眼病を治すために、京都の病院にやってきた主人公は、病院長主催の回復祈祷会に出席する。そして人の情のありがたさに泣き、「これほど熱意のこもった大勢の祈りは、きっと観音さんに通じてきっとごりやくがいただけるやろう」と、なにやらひどく元気づけられたのだった。


このご祈祷のあとで、郷里の綾部から父が来よりました。

そして、このとき、老院長はんは、父に向かって、「ひとつ一か八かの治療をやってみよ思うんやが」というて父の承諾を求め、その治療が行われましたんや。

その治療ちゅうんは、なんのことない注射器の針を目尻の少し上のあたりに差し込んで、ぎょうさん血を採ったんですわ。どす黒い血いが、ぶっとい注射器にいっぱい採れました。

その翌日のことでした。いつものように私が母を便所に連れて行くとき、病室から明るいところへ出た途端、母は私の肩から手を離して

「これ、畳のフチやないか? これ、障子の桟やないか?」

というて、畳を撫でたり、障子に触ったりし始めました。

「ああ、目が見える! 源や! わしは目が見え出した! うれしいことじゃ! もったいないことや!」

と、まるで気違いのように大きな声を出し、変な身振りで二度も三度も躍り上がるのでした。

それから畳の上に身を投げ出し、手のひらをいそがしゅうこすり合わせて、観音様や院長様にありったけの感謝のことばを並べあげるのでした。

この騒ぎに病院中の人たちが集まってきました。

みんな百万遍の数珠を回してくれた人たちです。母の目が見えるようになったと聞いて、誰も彼も自分のことのようによろこび、言い合わせたように一同その場にひれ伏して観音さんに奉謝の祈りを捧げ、祝福のことばが雨のようにわたしたち母子のうえに降り注いできました。

母の眼は、それからぐんぐんよくなり、おおかた元通りになり、それからの生活に差支えがないくらいの視力を取り戻すことができたんです。

私はこのときにお陰を受けた観音さんや親切にしてもろうた大勢の方々のご恩は、絶対に生涯忘れることはできまへん。

十二坊の病院はいまはもうありまへん。あの辺はもうすっかり変わってしもうて、いまでは相当の繁華街になっとりますが、観音様は少し位置は変わってしまいましたが通りに面していまでも立っておられます。

その後成人してから、私はこの近所にネクタイ工場を建てたりして、いろいろご縁が深い土地なんです。現在はクリスチャンの私ですけど、今でも通りすがりには少しくらい回り道しても観音様にお参りしとります。

馬場冶右エ門さんは舞鶴辺の人と聞いとりましたが、森という所がどうしても分らんかった。

ところが去年ある人から東舞鶴の森ノ宮町が昔は森ゆうとったちゅう話をきいたんで、さっそく行ってみましたら、お宮の出口に馬場という豪家があった。

訪ねてみたら当主の亀吉さんがおられて、「祖父が冶右エ門で、あなたがた母子の話もよお聞かされておりました」とのこと。私は後日改めて手土産を携えて再び馬場家をおとずれ、仏前に手を合わせて旧恩に深く感謝を捧げたことでした。

しゃあけんどただ越前の人とだけ聞いとった川合おえんさんの住所はとうとう分りまへんでした。