ある丹波の老人の話(12)
第三話 貧乏物語
私の母はよい母でした。しかし父は、善人ではありましたが、大ざっぱでだらしがない人でした。
大酒というほどではありませんでしたが、酒好きで、芸者などをあげて派手に飲み、女道楽もなかなかのもんでいつもどっかに隠し女がおったようです。
母は真面目に店を守って商売に精を出しとりましたが、父の金遣いが荒いために、家計はだんだん不如意になり、借金はかさむ一方でした。
私は自分が養蚕教師で得た給料は全部母に渡しておりました。母はありがたがって、いつも押し頂いてよろこんでおりました。それで私もできるだけ倹約して一文でも多く母に渡そうと心掛けておりました。
その頃、菓子といえば金平糖でしたが、私はその金平糖を一度も買ったことはなく、時々中白の砂糖を買ってきて指先につけて少しずつねぶり、ひどくくたびれたときなどは、砂糖湯をして飲むのがたったひとつの贅沢で、半キロほど買うてきては長い間たのしんだもんでした。
けれども私がそんなに頑張って家に入れるお金は、盆仕入れの足しや借金の利払いにつかわれて、はじめのうちは相当家計の助けにもなったようですが、借金がかさむにつれて焼け石に水ほどの効き目しかないようになりました。
私は明治三十七年に妻菊枝(昭和十七年に病死)を迎えましたが、それから五年後には母が亡くなりました。その前年妹を舞鶴に嫁がせるとき、一人娘だというので分に過ぎたこしらえをしてやった無理算段なども家計に響いて、母の死後は家中に火の車が舞ったのでした。
やけになった父の乱行はいっそうつのり、はては芸者を連れて隠岐の島へ逃げるといいだしました。困ったことだと思いましたが、私の言うことなど聞いてくれる父ではなし、止めても仕方がないと思って、いよいよ出立の時には舞鶴まで送っていきました。
その頃は舞鶴から隠岐通いの汽船があったんですが、父はそれに乗りました。父はその時五十八歳でしたが、それまで隠岐には二、三度行ったことがありました。この島は日本海の潮風に吹かれるので目の細かい良質の桐があるんです。
父はそれを買い込んで下駄材ばかりでなく琴材として京都方面に売って儲けたことがありました。ですからまんざら当てもなしに行ったわけでもなく、父としては隠岐の島で一旗上げるつもりやったんですが……
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