ある丹波の老人の話(12)
当時の養蚕は、蚕は在来の小石丸で虫も小そうてそう飼いにくいもんではありまへんでした。(注=小石丸は現在でも皇居内で天皇が飼育している希少品種)
ところが私の養蚕教師時代は温暖育が析衷育に進んでかなり改良されてきてはおりましたが、やはり昔ながらの乾燥第一主義で、桑は刻んでおったうえに温度を加えられますから蚕は萎縮して食欲をそそらない。
その結果蚕はいつも腹を減らしておりましたから失敗が多く、定石通りにやっても蚕が腐ってしもうたりする。
それで養蚕教師は逃げ出したり、大失敗して首をくくったりで、なかなか楽な勤めではありまへんでした。
私は自分の勘で温度の調節を測り、これが桑の萎縮をうまく防いでくれたんで、一度も失敗しませんでした。
まあ、私がどうのこうのではのうて、波多野翁に率いられた京都府の養蚕は全国的にも断然頭角を抜いたもんでした。
しかもただ技術的に秀でていたのみならず、人間としての心構えも他の府県の人々とは明らかに違っておったと思います。
私などもいま振り返ると、もし波多野翁とめぐり合っておらなかんだら、きっと人生の大きな回り道をして、果たしてどんな人間になっておったか自分でも分かりまへん。
(第二話養蚕教師 終)
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