ある丹波の老人の話(9)第二話養蚕教師(3)
その頃、よく養蚕集談会というのが開催され、その道の大家連中がやって来て指導を行っておりました。
私は青二才ながら、西原で体験した修正温暖育なる手法を引っさげて、大家の先生方が説かれる定石的飼育法を机上論として排撃し、おめず臆せずやり合って彼らをタジタジとさせたらしく、梅原良之助君や出原新太郎君などの旧友と昔話をすると、「君は若いときから一風変わった鼻息の荒い男やった」とよくいわれたもんでした。
それはともかく、私は明治四十二年にはやはり波多野さんの推薦で愛媛県に行くことになりました。
愛媛県では、古くからの特産品の藍が舶来の化学染料に押されてダメになってしもうたんで、藍畑を桑畑に変えて養蚕を奨励したんですが、それがさっぱりうまく行かず、毎年のように失敗しておった。
同郷出身の養蚕技師の西村弥吉氏がすっかりてこずって、京都府に対して実力のある技術者の派遣を乞うたんで、それに対して波多野さんのお眼鏡で五、六人選ばれたうちの最年少が私でした。
しかも私が行った所は周桑郡庄内村というて村長の青野岩平氏は蚕業熱心家で、県会議員もしているという声望並びなき人でした。
私は西村弥吉氏から、「庄内村の養蚕が毎年失敗続きで、もしも今年ここをうまいことやらんかったら愛媛県の養蚕業の前途も危ういんじゃ」という話をコンコンと聞かされたので、「もうどうでも京都府の養蚕業の名誉にかけて、この絶体絶命の危機を救わんと男が立たん」ちゅうことになってしまいました。
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