Tuesday, May 31, 2011

トマス・ピンチョン著「Ⅴ.」下巻を読んで

照る日曇る日第432回


天才か鬼才か、はたまた単なるクレージー文学小僧か? いずれにせよ弱冠27歳の青年がこのような驚天動地の世界文学を捏造するとはたいしたたまげた。次から次へと果てしなく繰り出される意味ありげでじつはなにも意味がない挿話の数々を目で追うだけでも疲れたよ。

そのうちもっとも面白かったのはマルタ島の対イスラム防衛線のエピソードで、陥落寸前に追い込まれたラ・ヴァレットと騎士団を救ったのは、魔女マラで彼女はスルタンを眠らせてその首をはね、騎士団長の夢に現れて平穏を意味する「シャローム」と挨拶をするのだが、このヘブライ語が聖ヨハネの首をはねたサロメの語源にもなったとか。しかしピンチョンがいうことだから嘘か本当かは分からない。

題名のⅤについては、これは謎の女性の名前なのか、地名なのか、それがこの物語とどうかかわっているのかもてんで分からなかった。連想ゲームが得意な超インテリの翻訳者が歴史を陰で動かしている存在などと解説しているようだが、さあどうだろうか。ともかくⅤの一字だけでここまで引っ張る著者の空想の膂力には驚嘆のほかはない。


三匹の火垂る輪舞し皐月尽 茫洋

Monday, May 30, 2011

西暦2011年皐月 茫洋狂歌三昧

♪ある晴れた日に 第92回



連休やB級映画の愉楽かな

子等揃い菖蒲湯に浸かるめでたさよ

蛇苺小さな朱と生まれけり

美女が棲む隣家に紅しチューリップ

万人を悼むがごとし万花咲く

雨の月曜日は歌なんか歌えない

パンクがわからないやつはパンクしろ!

無より生まれ無に還るまでのお戯れ

人間風情に毛虫と呼ばれる筋合いはない

砂を噛み目を瞑りこの風を抱きしめるのだ

なんでもかんでも忘れてしまうそのうち自分さえ忘れてしまう

空中に放り投げた赤ちゃんを銃剣で刺したわいと近所のKさん

母親を救わんとして声掛ける娘の顔は険しく美しく

青空に萌ゆる若葉を越えていくアオスジアゲハの幽かな憂い

ピンチョンときたらたいしたもんだ自分でも分からんホラを吹く

地上では行く場所失いしクライバー眠れわれらの記憶の底に

くたばれポリーニアルゲリッチよみがえれコルトーフランソワ 

遂に殺したヴィンラディンオバマ万歳アメリカ万歳

悪を殺すことそれがアメリカの正義あとは野と成れ山と成れ

正義とは無防備な人間を殺すことオバマ万歳アメリカ万歳

長男はわが吐きし暴言を鸚鵡返しに叫んでいるとう

配線を間違えて産まれてきた君の脳誰かつなぎ直してくれないか

傷ついた脳を持って産まれし少年をペロペロ舐めてムクよ癒せ

大口をあんぐり開けてテレビ見るこれぞ人生至上のよろこび

鶯鳴き麝香揚羽舞う朝に没したり享年六十二

この頃日本全国死ぬ人多しそろそろ自分の番かと思うよ

遠つ国より訪れることを止めし人うべないつつも憎くもあるかな

震災に遭いし老犬ものに怯え隣家の庭で朝晩に吠ゆ

あなた何してんの早く40キロ圏まで退避しなくちゃ



長男の「千の風になって」を聴いて涙が出そうになったというケアマネさんの感想文を読んで涙が出そうになった 茫洋

Sunday, May 29, 2011

小澤征爾指揮「賢い女狐の物語」を視聴して


♪音楽千夜一夜 201

オケはサイトウキネン、松本市文化会館で2008年に収録されたビデオだが、小澤の指揮は相変わらず単調だ。

いつものように音色は透明であり、音譜の前後左右をまるで神経質な植木職人のように刈り込んであるが、いつものようにリズムが2拍子の尺取り虫の突貫小僧のようであるために、ヤナーチエックの音楽に必須の粘液質な遊びもためもメリハリもない。

ために3幕4幕のクライマックスになっても管弦の咆哮と抒情の絶美の歌がマッケラス&ウイーンのようには聴こえてこないのが残念というか当然の結果になってしまう。まあ所詮はその程度の音楽家なのであろう。

しかしなんという素晴らしいオペラをヤナーチエックは書いたことか。そこには人よりも深い獣の崇高な精神世界が昂然と歌われ、その穢れなき至高の境地に善導されるかのように人獣一致・善悪一致の極楽境が宇宙の彼方から奏されるのであり、このような別次元の音楽はかつてモーツアルトとワーグナーによってしか創造されなかった。

今を去る30年以上前に日生劇場で伊藤京子が若杉弘の指揮で歌った女狐の響きいまいずこ?

雨の月曜日は歌なんかを歌えない 茫洋

Saturday, May 28, 2011

小津安二郎監督の「東京物語」を視聴して

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.125

血のつながっている子よりもつながっていない義理の子のほうがよく親に尽くすという話は昔からよくあるが、そんなありふれた世間話を野田東梧の脚本で前者を杉村春子が、後者を原節子が演じると映画史上不朽の名作になってしまうところが小津安二郎監督のメガフォンのすごいところだ。

もちろん物語の主人公は笠智衆と東山千栄子の老夫婦なのだが、実際にこの東京ならぬ尾道物語のねっこの部分を駆動しているのは善玉二人の女優の張力関係なのである。特に凄いのは悪玉杉村春子の憎たらしい演技で、それが自分勝手であざとければあざといほど善玉原節子の孝行娘振りが強調されるという相関仕掛けになっているけれど、あくまでも悪玉あっての善玉であり、その逆ではないところに杉村春子の素晴らしさがある。


尾道から出発した老夫婦が、東京に住む子供たちを訪ねて再び尾道に帰ると妻が危篤になり、今度は子供たちが尾道にやって来て葬儀を営むという往復運動の中で、揺れ動く家族の姿形がおのずと浮き彫りになっていくこの映画の主役は、じつはそれらの登場人物を外側から内包している居住空間であり、彼らが立ち去った無人の部屋をしばらく映し出している厚田雄春のキャメラは、私たちが生きていることのよろこびとかなしみとはかなさを、しばらくの間じっとかみしめていて、この哀切がとりもなおさず小津の映画と人世への愛であった。


NHKによってなされた新しいデジタルマスター版で視聴したが、いままで聞こえなかった声が聞きとれ、いままで見えなかった陰影が見えるようになった。素晴らしい!

万人を悼むがごとく万花咲く 茫洋

Friday, May 27, 2011

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第43回

bowyow megalomania theater vol.1


さらに頭蓋異常、眼球突出、視力障碍、重度知的障碍を併せ持つクルーゾン病の大本三郎、精神機能低下、興奮性、衝動性、不随意運動、痙攣等のハンチントン病患者の塩田安子も、

「はあーい!」

と明るく皆にあいさつしながら不思議なお家の裏側、すなわち警官隊が包囲しているススキヶ原の反対側の杉山から入ってきました。

脳の局所的収縮で知的障碍で痙攣発作持ちで半身麻痺で血管腫持ちでなおかつ原因不明のスタージ・ウエバー病の金丸信子もいました。

常染色体異常が優性遺伝して発達障碍、痙攣、皮脂腺腫を引き起こす結節硬化症の柴田はつみも傍にいました。

重度の知的障碍で肥胖症で視力障碍で奇形で性器不全でなおかつローランス・ムーン症候群の佐々木誠もいました。小頭症で今年百歳になる西山きん、ダウン症の東山ぎんもいましたし、結節性硬化症の皇太郎も続いています。みんな岳や洋子や文枝たちの仲間です。

おお、なんという喜び! そしてなんという壮観だったことでしょう! 星の子学園へ急行したのぶいっちゃんとひとはるちゃんが、カナー氏症候群、知的障碍、染色体異常、精神遅滞、発達障碍その他その他あらゆる心身の障碍を持った百五十名の園生全員を引き連れて不思議なお家に戻って来たのです。


空中に放り投げた赤ちゃんを銃剣で刺しましたわいと近所のKさん 茫洋

Thursday, May 26, 2011

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第42回

bowyow megalomania theater vol.1


まわりは星の子学園の仲間たちでいっぱいです。およそ百人はいたでしょうか。いや、もっとです。身体や精神に欠陥のある子供たちばかりです。

ロイシン、イソロイシンの過剰排出、ケト酸尿、尿の楓糖臭、重度知的障碍、痙攣、筋剛直などを主な症状とする常染色体異常の楓糖病の平山美樹がいました。

血中フェニール・ピルビン酸排出、中・重度知的障碍、痙攣、色素欠乏の常染色体異常が原因で起こるフェニールケルトン尿症の山川リンダがいました。

ガラクトーゼ尿中排出、発達障碍、新生児重症黄疸、肝肥大、筋緊張低下、白内障等の複合障碍を持つガラクトース血症の紀宮英明もいました。神経細胞にグルコ・セレブロシドの蓄積、心身発育遅滞、肝脾肥大、筋剛直、麻痺等の症状を呈するゴーシエ病の三田一平もいました。

硫酸ゴンドリイチンおよびペパリチン尿中排出、重度知的障碍、運動不安、肝脾肥大、角膜混濁、矮小体躯のハーラー症候群を呈する芥川竜もいました。それから脳中のスフィンゴミエリン増加、知的障碍、肝脾肥大、網膜異常、アテトーゼ、筋剛直、行動不安などをひき起こすニーマン・ピック病の小松崎登もいました。

リポイド沈着、精神機能低下、痙攣、麻痺、網膜異常、視力障碍といった複合障碍を持つ清水菊枝も一緒です。



砂を噛み目を瞑りこの空虚を抱きしめるのだ 茫洋

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第41回


bowyow megalomania theater vol.1

二人、三人、四人と、殺意に満ちた警官たちが次々にバリケードを飛び越えて僕たちのとりでの内部に侵入してきました。

血に飢えた体格の良い男たちは、僕と文枝と洋子の上から見境なく警棒を力任せに打ちおろし、僕たちの頭も顔も身体のあちこちもたちまち傷だかけになり、あまりの痛さにうめきながらあたりを転がりまわっていました。

と、その時でした。

かさにかかって僕たちの全身をめった打ちにしていた黒い男たちが、あちこちでバタバタと倒れ、口から血ヘドを吐いて地面にたたきつけられました。見ると手に手に木切れや鉄棒を持った少年少女たちが歓声をあげながら警官を撲っています。

「やれ! やれ! 徹底的にぶちのめせ!」

と喚きながら特別攻撃隊の警官のお腹の上で跳躍しているのは、まぎれもなくのぶいっちゃんでした。ほとはるちゃんは、と見れば、洋子と文枝に襲いかかっていた警官の首にロープをぐるぐる巻きにして両足を肩口にあてて、えんやこら、えんやこら、どっこいせ、と掛け声をかけながら、両手で力いっぱい引っ張っています。

その警官は、とうとう口から舌を出して息絶えました。

なんでもかんでも忘れてしまうそのうち自分さえ忘れてしまう 茫洋

Tuesday, May 24, 2011

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第40回

bowyow megalomania theater vol.1


「ズン!」

と鈍い音がして、ジャイアント馬場はずってんどおとあおむけにひっくり返り、額の真中から真っ赤な血潮が薔薇の泉のようにこんこんと噴き上げるのを上目づかいに見上げてからすぐに息絶えました。

公平君が次に襲いかかって来る警官にピストルの銃口を向けるより早く、警官の振りかざしたカシの木のこん棒が公平のうすっぺらな額をざっくりとふたつに打ち砕き、ざくろのような傷口を午後三時の陽光にぎざぎざにさらしながら、公平も朱に染まってバリケードの内側にどおと倒れてしまいました。

僕と文枝と洋子が落ちてくる体を支えようと必死で抱きとめた時には、すでに公平君はこの世の人ではありませんでした。


五月晴れ何事かなさむと年毎に思う 茫洋

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第39回

bowyow megalomania theater vol.1


公平君は「全員僕のまわりに集まれ」と鋭い声で命令を発して、たった一挺しかないピストルをバリケードの最前線のカシの木の上に、射的屋さんへ行った時にするように右ひじに乗せて、三三五五雨あられのように押し寄せてくる黒服の男たちの一人に狙いをつけました。

僕と洋子と文枝は恐怖でガタガタ震えながら、公平君の後ろで三人で抱き合って泣いていました。こわいおー、こわいおー、死んじゃうよー、と言いながら文枝はジャージャーおしっこを漏らしました。白いパンツがみるみる水浸しになってゆくのを、僕と洋子は息を呑んでみつめていました。

やがて、黒服に白い肩ひもを掛け、左手に警棒、右手に拳銃を握り締めた一〇名の特別攻撃隊が全速力でバリケードの正面に向かって駆け昇ってきました。

公平君は、それを見るとバリケードの上にすっくと立ち上がり、一番先頭のジャイアント馬場が僕たちからわずか三メートルの距離まで迫った時に、顔の真ん中めがけて引き金を引きました。


母親を救わんとして声掛ける娘の顔は険しく美しく 茫洋

Monday, May 23, 2011

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第38回

bowyow megalomania theater vol.1

先頭に立って右手に拳銃を掲げたジャイアント馬場みたいな大男が、右手でハンドトーキーをとりあげて大声で怒鳴りました。
「お前たちはもはや完全に包囲されている。すみやかに武器を捨ててそこから出てきなさい!」
晩秋の静けさをいっきに破るスピーカーからのだみ声に驚いて、ケヤキの上のブッポウソーと杉の木の上のカラスとモミジの樹上で眠っていたジョウビタキがあわてて空高く飛び出していきました。

僕は一瞬、それらの鳥たちになりたい、と思いましたが、そう思っただけで卑怯者になったような気がして、「くそおー」と声に出して立ちあがりました。

くそおー、来るなら来てみろ。お前ら、みんな皆殺しにしてやる!

と大声で怒鳴っている自分が、自分で信じられないのですが、しかし自分は確かにそれらの言葉を警官たちに向かって喚いたのです。

ジャイアント馬場がスピーカーを投げ捨て、ピストルを大空めがけて1発発射すると、それを合図に数百人の警官隊が不思議なお家まがけて一斉に突撃してきました。



この頃日本全国死ぬ人多しそろそろ自分の番かと思う 茫洋

Saturday, May 21, 2011

拝啓 日野原重明様

バガテルop135

昨日、朝日新聞の日曜日の「be」の連載コラム「99歳私の証、あるがままに行く」で、「病名のつけ方を見直そう」という記事を拝読いたしました。

そのおもな内容は、「認知症」はよく意味がわからない病名なので、英米がすでにそうしているように、この病気を最初に研究したドイツの精神病医アルツハイマー博士の名前をとって「アルツハイマー病」にしたらどうかという提案で、私も大賛成です。

ところがこれに続けてあなたは「ただ自閉症というネーミングだけは現状のままでいい。自閉症は周囲の人とのコミュニケーションがとれず孤立した生活をし、義務教育を受けるにも支障がある病気!で、このような子供に対しては音楽療法が効果的であるということが実証されている」などと述べておられますが、ここには聖路加国際病院の理事長ともおもえぬ誤解と謬見が含まれています。

まず自閉症は風邪やガンやエイズのような病気ではありません。この自閉症は「発達障害」のひとつで、その原因は「生まれながらの脳の機能の障害」にある、というのが最近の世界の医療関係者や研究者の定説になっています。
自閉症児・者はおそらくは脳のどこかに微細な損傷があるために中枢神経系のネットワークに不具合が生じ、そのために「周囲の人とのコミュニケーションがとりにくく」なるのです。

また「孤立した生活」をしているとありますが、別に好んでそうなっているのではなく、心の中では他人とコミュニケートしたくてたまらないのに、悲しいかなそれが物理的・機能的にできないわけですから、健常者が彼らを「自閉的である」などと勝手に決め付けるのは考えものです。事実まったく非自閉的で明るく元気で活発な自閉症児者もたくさんいるのです。

自閉症は、100人に0.9人程の発症率といわれ、人や物との変わった関わり方をしたり、大人や同年代の子どもとのコミュニケーションがうまくとれなかったり、興味や関心が非常に偏っており、同じことを繰り返したがる特徴をもっていますが、もっと重要なことは一人ひとりその障碍の特徴が違う、ということで、そこにこのいまだ治療法のない重篤な障碍への対応が一筋縄ではいかない難しさがあります。

あなたは「義務教育を受けるにも支障があり、このような子供に対しては音楽療法が効果的である」などと述べておられますが、義務教育を受けている自閉症の子供も大勢おりますし、音楽療法なんか全然効果がない子供のほうが圧倒的に多いのです。

 最後に自閉症という名前についてですが、このネーミングは次のような理由で良くありません。1つは先ほど説明しましたように、実際はネアカで元気な子供が多いのにネクラで引きこもりのように誤解されてしまうこと。第2に、この障碍の本質が「器質」の損傷ではなく、「情緒」の障碍や「病気」であるかのように誤解されてしまうこと。第3に「自閉的」イコール「自閉症」と勘違いされてしまう危険があることです。

そのような問題があるこの障碍の名前を、私は30年以上前からこの症状の最初の発見者であるアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学のレオ・カナー氏の名前にちなんで「カナー氏症候群」と改名するよう日本自閉症協会にも提案し続けてきましたが、残念ながらまだ実現をみておりません。

どうか日野原重明氏におかれましてもこの厄介な障碍についてさらに理解を深めていただくとともに、この際聖路加国際病院において「カナー氏症候群専門科」を新設していただけたら、不肖あまでうすの喜びこれにすぎるはありません。
敬具

*ご参考までに http://www.autism.or.jp/


軽々と青葉若葉を超えてゆくアオスジアゲハの秘かな哀しみ 茫洋

Friday, May 20, 2011

ケータイ紛失余話

バガテルop134

五月晴れの昨日、横須賀の歯医者さんの帰りに軍港の傍の公園に咲く満開の薔薇を夢中になって撮影しているうちにバカチョン携帯を失くしてしまった。こんな下らない文明の利器のおかげで我等の生活はまっとうなユマニテとクルチュールを紛失してしまった。持つことの意義は限りなくゼロに近いが、持たないと仕事を受けられないから仕方なく持ち歩いているのだが、こいつを紛失するのはこれで四度目だろうか。二度は拾ってもらえたが、三度目はついに帰還しなかった。

昨日は、はじめのうちは落としたとは気づかなかったから、また溝板通りに戻って歯医者さんに尋ねたり、バスの運転手さんに聞いたりしたがいっこうに出てこない。仕方がないので横須賀駅前の交番に行ったが誰もいないので、京急バスの駅前詰め所に届け、ついでに細君に「余の携帯に電話するよう」に公衆電話から頼んで、横須賀線に乗って帰宅したら、なんと「拾った方から自宅に電話がった」というので、おお日本人も捨てたものではないなと私は小躍りして喜んだ。

ヤッホー! ホットラララ! ヤッホー!

これが大方の外国なら、西欧先進国であろうと、貧しい発展途上国であろうとまず戻ってはこないだろう。今回の震災の例を挙げるまでもなく、わが臣民の道義はまだまだ廃れてはいないのである。その有り難さと素晴らしさ改めて身にしみて感じるとともに、それが五度目に私がこいつを紛失する日までなんとかもちこたえてくれることを心から祈ったことだった。


山笑うケイタイ戻りしうれしさよ 茫洋

トマス・ピンチョン著「Ⅴ.」上巻を読んで


照る日曇る日第431

おそらくは最初にプロットの組織図を前後左右、上下にB2の鉛筆で方眼紙に摸写するのだ。

時代はいつ? 1955年、あるいは1922年その他その他。

場所はどこ? ヴージニアの軍港ノーフォーク、NYのタイムズスクエアの地下5メートル、アレクサンドリアからカイロの砂漠、フィレンツエのウフィッツ美術館、南西アフリカ保護領のヴァルムバード地区、その他その他なんでもこい。

登場人物は? 探究者ハーバード・ステンシル、木偶の坊ベニー・プロフェイン、その他その他なんでもよし。

そこでなにが起こるの? マンハッタンの地下水道のワニ退治、ボッティチェリの「ヴィーナス誕生」の盗難、1904年事件の真相の究明、SМの快楽ごっこと暗号解読、その他その他なんでもあり。

で、Ⅴってなに? 地名? 人物? 暗号? さっぱり分からん。いつものように謎は謎を呼んで、複雑怪奇な下巻へと続く……。

ピンチョンときたらたいしたもんだ自分でも訳の分からんホラを吹く 茫洋

Thursday, May 19, 2011

天皇の歴史04「天皇と中世の武家」を読んで

照る日曇る日第430回

前半の「鎌倉幕府と天皇」は河内祥輔氏、後半の「古典としての天皇」は新田一郎氏の担当。

桓武天皇の死後、平安時代の摂関期には平治の乱など全部で4つの不安定期があったようで、それらを「朝廷・幕府体制」を基調とした皇室の「正統」争いとして年代別に分析していく河内氏の解説は理路整然としているだけでなく1901年の菅原道真の失脚と、平治の乱との本質が朝廷の再建運動であると喝破したり、頼朝の蜂起の前ぶれとなった以仁王の敗走の真因が、アジールとして逃げ込んだ園城寺に源頼政を迎え入れたことにあると指摘するなど、随所に新たな知見を盛り込んでエキサイテイングだ。

ところが南北朝の後醍醐天皇を経て足利氏の室町幕府、応仁の乱を担当する後半の新田氏の論考は、いくら読んでも論旨が曖昧模糊としており、肝心の日本語の表現が拙劣で、粗野で、滋味に乏しく、読者である一般大衆により分かりやすく魅力的な文章を書いてやろうというサービス精神も皆無である。

しかし東大の教授だというこの学者は、果たして自分で自分が書いた内容を理解できているのだろうか? 甚だ疑問だ。それにいくら歴史の専門家とはいえ、こんな醜い日本語を書き散らしていいはずがない。本書の前半部の著者の爪の垢でも飲んで一日も早く基本的な教養を身につけてほしいものである。こんな人物に執筆させた出版社も猛省せよ。これまでの著者の中のワーストワンだ。


蛇苺小さな朱と生まれけり 茫洋

Tuesday, May 17, 2011

カルロス・クライバーの1991年のウィーン・フィル演奏会ヴィデオを見て

♪音楽千夜一夜 第199夜


これはモーツアルトのハ長調K.425とブラームスのニ長調Op.73の2つの交響曲が楽友協会ホールで演奏されたもので、1993年にレーザーディスクで発売されましたが、現在はDⅤDになっています。

リンツの第1楽章ではクライバーの動きが緩慢であまりやる気がなく、見ているほうが心配になりますが、第2、第3楽章になると徐々にエンジンがかかります。この曲は弦と管が同じ旋律を交互に繰り返す箇所が多いのですが、マエストロはその都度当事者にこのメロディをよく聴くように指示しているのが印象的で、両翼にヴァイオリンを配置した楽器編成がその楽想と演奏効果を高めています。第三楽章ハ長調四分の三拍子のメヌエットを聴いているとさながら天国にある思いです。

クライバーのモーツアルト録音はあと変ロ長調K.319を残すのみで、おそらく生前に完璧にレパートリーに入れていたはずの主要交響曲とオペラを聴けなかったことは残念無念の一語に尽きます。

さてプログラム後半のブラームスになると顔つきも意気ごみも指揮振りも全盛時代を彷彿とさせるダイナミックな指揮振りに圧倒されます。しかし第一楽章アレグロ・ノン・トロッポ、第二楽章アダージョ・ノン・トロッポ、第三楽章アレグレット・グラチオーソまでは金管楽器の咆哮などはいっさい聴かれず、例えば第三楽章でチエロのピッチカートに乗ってオーボエが独奏する箇所などさきほどのリンツと同工異曲の管と弦の協奏、掛け合いがオケの腕の見せ所となりますが、クライバーの指揮はこの両者に対する強弱のコントラストのつけかたが非常にデリケイトなのです。

他の凡庸な指揮者、例えば小澤征爾が同じウィーン・フィルを指揮した同じ二番シンフォニーの同じ箇所では四分の四拍子を四分の二拍子くらいの前傾姿勢で慌ただしく振っているために、ブラームスの総譜を輪切りにした音楽の内部構造、その極度に内省的なハーモニーの美しさなどは急行列車に黙殺された礫岩のように置いてけぼりにされ、そんなに急いでどこ行くのという外面的な勢いだけの内容空疎なブラームスに堕すのですが、緩徐楽章のピアニッシモの超絶的な美しさをここまで深掘りしてみせたマエストロは、他にチエリビダッケあるのみ。フルトベングラーもクレンペラーもカラヤンもバーンスタインも、これほど恐るべきニ長調は演奏できませんでした。

しかしさしものウィーン・フィルも最終楽章のアレグロ・コン・スピリートに突入するとすでに疲労困憊の極に達しており、獅子奮迅のクライバーが鬼神も啼けとばかりにコーダの絶叫を命じても、笛吹けど踊らずのポンポコリンの狸たち!
ああついに世界一、二を争うトップオーケストラも、天才指揮者の脳裏で鳴り響いている前人未踏のブラームスの大歓喜を現前できず、無情にも終局を迎えるのでした。

従ってこのブラームスの演奏は、彼らが実際に音にできた音楽によってではなく、むしろ演奏しようとして果たせなかった未聞の音、不可能の音楽の暗示によって偉大とされるべき演奏と評すべきでしょう。


遠つ国より訪れることを止めし人うべないつつも憎くもあるかな 茫洋

Sunday, May 15, 2011

ダニス・タノヴィッチ監督の「ノーマンズ・ランド」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.124

1992年~95年のボスニア紛争をテーマにした戦争映画。ボスニア、セルビア両軍が対峙する塹壕の中で起こった小さくて大きな事件を描く。

今となってはどちらがどう悪くて起こった戦争なのかもはや誰も論じようとはしないが、ともかく人間の憎悪が戦争を引き起こし、いったん起こってしまえば、それは戦争の論理に従って自動的な敵対と機械的な殺戮行為が連鎖する。

この映画では本来は友好的な隣人であったはずの兵士たちが、おのれの人倫の最低の鞍部で相手を非人間化し、殺戮し、抹殺しようとしておのれも1個の野獣と化すありさまをじっくりと見据えている。

負傷して横たわっている間に敵の地雷を仕掛けられた兵士は、立ちあがったり、身動きしただけで五体が吹き飛んでしまう。それを知った両軍と国連軍の兵士、さらにはテレビ局の取材チームなどが不運な兵士の命を救おうと奔走するのだが、結局は万策尽き果てて無人地帯の現場から退去してしまう。

背中に爆破装置をつけられたまま無為に死を待つしかない人間とは、ほかならぬ我々自身のことではないだろうか。

被災地より連れて来られし隣家の犬来る朝ごとにわんわんと鳴く 茫洋

Saturday, May 14, 2011

林望の「謹訳源氏物語五」を読んで

照る日曇る日第429回

庇護者の源氏や朝廷の名だたるイケメンたちから愛を乞われた内大臣の隠し子玉鬘だったが、結局は髭もじゃのださいオッサンの手中に墜ち、こんなはずではなかったと後悔するのだがもはや後の祭り。あっという間に赤子を孕ませられてしまう。若い娘は昔からよくある蹉跌をまたしても繰り返してしまうのだった。

昔といえば紫式部の平安時代においても現代よりは昔の文物の方がはるかに優れていたと振りかえられるのであるが、では大陸と朝鮮半島から渡来した平城京の時代のヒトモノカルチュアがどれほど国風文化の藤原時代に勝っていたのかははなはだ疑問である。

しかし紫式部は、例えば源氏が六条院で主宰した香合わせにおいても、前代の到来物の香木の馨の深さには当代の新品なぞ物の数ではないと源氏と共に断言しているから、まあそれはそうかもしれない。法隆寺の蘭奢侍は後代の義政や信長が切り取って珍重したと伝えられる伝説の香木だが、その原産地はベトナム、タイ、インドなどの諸説が入り乱れているそうだ。

本巻の「梅枝」では、沈香でこさえた箱の硝子細工の容器の中に、「黒丸」と「梅花」という銘の二つの薫香が登場するが、おそらくこれは道長の時代につたえられた銘木であっただろう。わたしも源氏や紫の上や明石と夢の中で同席して、その芳香に酔いしれてみたいものだ。

子等揃い菖蒲湯に浸かるめでたさよ 茫洋

Friday, May 13, 2011

カルロス・クライバーのドキュメンタリー「目的地なきシュプール」を見て

♪音楽千夜一夜 第198夜

今宵もクライバーのドキュメンタリーを視聴しました。昨年オーストリアで製作されたばかりの「Traces to Nowhere」という原題の映像で、エリック・シュルツという人が演出して不世出の天才指揮者の軌跡を辿ります。

出演はブリギッテ・ファスベンダー、ミヒャエル・ギーレン、オットー・シェンク、マンフレート・ホーニク、プラシド・ドミンゴ、アレクサンダー・ヴェルナーなどの指揮者や歌手や演出家、評伝作家のほかに、南ドイツ放響のフルートやピッコロ奏者、メイクの女性、さらにこれまでいっさいマスコミに顔を出さなかった彼の実姉ヴェロニカ・クラーバーが特別出演して「死ぬまで彼は寂しい男の子でした」と語るとき、アルスの御業によりて天界と人界をサーカスの綱渡りのようにつないだ天使の本質に、一筋の微光が差すようです。

ここでも素晴らしいのは南ドイツ放響との「こうもり」のリハーサル風景で、楽員に対して音楽のために全身全霊を捧げることを求め、バトンを天に向け、「まだ見ぬ音を勝ち取るために戦ってください」「8分音符にニコチンを浸してください」などと訴える若き日のクライバーの姿が胸を打ちます。

やがて守旧派の奏者を心服させたマエストロは歌いに歌い、いまや音楽と音楽家は完全にひとつに溶けあって、この世ならぬ至上の時、法悦の時へと参入していく……。さてこれまでいったい他のどの指揮者が、このような音楽の奇跡を成し遂げたと云うのでしょうか。

無数のオペラと交響曲、管弦楽曲とオペレッタを自家薬籠中に収めていたにもかかわらず、父を尊敬するあまりエーリッヒが録音したか楽譜を残していた曲以外は演奏しようとしなかったクライバー。その父を超える技術と感性を持っていたにもかかわらず、常に父に引け目を感じていたクライバー。

父と並ぶ完璧さを求めようとするあまり、とうとう演奏が無限の苦行と化してしまったこの悲劇の天才は、短すぎた彼の生涯に終止符を打つために、愛する妻スタンカが眠るスロベニアへと死の逃避を敢行したのでした。

地上では行く場所失いしクライバー眠れわれらの記憶の底に 茫洋

カルロス・クライバーのドキュメンタリー「ロスト・トゥー・ザ・ワールド」を見て

♪音楽千夜一夜 第197夜


惜しまれつつ瞑目した史上最高の指揮者の一人の生涯の軌跡を関係者の証言で辿った音楽ドキュメンタリー。証言者のなかには、それにバイエルンのオペラでの凡庸な同僚サバリッシュなども登場してちょっと辛口のコメントを吐くが、それでも彼は神経質なクライバーを終始擁護し激励した人だった。

リッカルド・ムーティやミヒャエル・ギーレン、オットー・シェンクなどの証言者の大半が、彼を「神が地上に遣わした音楽の天使」などと大仰に褒め称えているが、それがあながち誇大な表現であるとも言い切れない奇跡的な演奏を、実際に彼は一九八六年の人見講堂におけるベートーヴェンの七番の第四楽章などで繰り広げた。

そしてその真価は、このドキュメンタリーの通奏低音のようにして流れている八〇年代のバイロイト音楽祭における「トリスタンとイゾルデ」のリハーサル映像においてまざまざと映し出されている。とりわけ終曲の「愛の死」のクライマックスを見よ! 誰もが頭が空っぽになり、肌に粟が生じてくるようなエクスタシーの現前は、いかにもこの不世出の指揮者の独壇場で、このような芸術の高みに登った音楽家はそう多くはなかっただろう、と思わせる素晴らしさと物凄さである。

このような演奏を可能にしたのは、彼の頭の中で鳴る音楽の独創性と、それを現実の音に置き換えていく彼の練習の際の言葉の力であることは明白で、リハーサルで彼が繰りだす卓抜な比喩の誘導によってオーケストラの音楽がどんどん変わっていくありさまを、私たちはこのドキュメンタリーにおいても再確認することができる。

しかしそれはいつもうまくいくとは限らないのであって、ウィーン・フィルとベートーヴェンの四番のリハーサルを行っているとき、「この箇所はテレーズ、テレーズと歌ってください」という彼の指示を、第二バイオリンの心ない奏者たちは、「いやマリー、マリーでいいのでは」などとあざ笑い、あえて無視しようとする。

激高したクライバーは、懸命に引き留めるコンマスのヘッツエルの手を振り払って、そのまま空港に直行してミュンヘンに帰ってしまうのだが、彼は毎日帰りの飛行機の予約を入れていたそうだ。

といった塩梅で、クライバーのファンならずとも見どころ満載のドキュメンタリーである。原題は「I am lost to the world」で、これはマーラーのリュッケルト歌曲集の中の「私はこの世に忘れられ」からの引用であろう。音楽にあまりにも高い完成度を求めたためにもはや普通の演奏に甘んじることができず、急速に指揮台から遠ざかっていった晩年の天才指揮者の孤独を象徴するようなタイトルではある。


あなた何してんの早く30キロ圏まで退避しなくちゃ 茫洋

Wednesday, May 11, 2011

フリードリッヒ・グルダの「DOCUMENTS盤10枚組」を聴いて


♪音楽千夜一夜 197

グルダはかつて三馬鹿ならぬウイーンピアノ界の三羽烏の一羽と呼ばれていたが、どうして3羽はカラスなのだろう? 他の二羽はデムスとパドラスコダであるが、私は昔は最後の烏を一等愛していて彼がオイストラフと入れたベートーヴェンのソナタなぞを愛聴していた。

いっぽうグルダの音楽世界はいまの指揮者でいうとアーノンクールかブーレーズのような訳の分からぬ暗黒物質があって長らく放置していたが、ここに収められたモザールの二四番目の協奏曲をマルケビッチ指揮リアス放響の援護の元で匍匐前進した演奏やベーム&ウイーンフィルの伴奏で流麗に弾き鳴らしたベートーヴェンの一番を聴いてみると、彼がいかにこれらの音楽を愛していたかが如実にうかがえて心が弾む。

またグルダ選手は、私の嫌いなショパンや私の好きなドビュッシーやラベルも演奏しているが、これらは到底サンソン・フランソワの酔っ払い演奏の足元にも及ばない糞真面目な代物である。

彼は私がもっと嫌いなジャズ、それも下手馬のジャズもどきをいつもレパートリーに入れて古典ナンバーと一緒のプログラムを組んでいた。このアンソロジーの最後もAT BIRDLANDというタイトルのジャズ演奏になっているが、例によって退屈極まりない演奏で、黒田なんとかという音楽評論家がグルダのジャズを絶賛する提灯記事を見かけるたびに、ひそかにこの阿呆めと呟いていた昔日を、所謂一つの遠い目玉で思い出したことだった。

くたばれポリーニよみがえれコルトーフランソワ 茫洋

Tuesday, May 10, 2011

METによるロッシーニのオペラ「アルミーダ」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第196夜

もうロッシーニもルネ・フレミングもこりごりだ、と思っていたのに、2010年5月1日に上演されたこの演奏はだんだん良く鳴る法華の太鼓、最後はかなりの竜頭蛇尾ですが、もうもう見あきたセビリアの理髪師よりよっぽど新鮮で見ごたえがありました。

フレミングの歌唱は長大なアリアを息切れもせず、ロッシーニ独特の旋律に巧みなフィオリトゥーラをつけくわえて素晴らしい。彼女の本命のリヒアルト・シュトラウスなんかよりよっぽどこっちがいい。十字軍の騎士ローレンス・ブラウンリーを魔法と色香で牛耳り歌も演技も乗りに乗っていました。
リッカルド・フリッツアの指揮は良くないが女流演出家メアリー・ジマーマンは音楽を壊さない中庸の壺を外さずまずまずの出来。1817年の初演以来のこんな楽しい出しものを享楽できるNYの観客は幸せですね。


パンクがわからないやつはパンクしろ! 茫洋

Monday, May 09, 2011

文化学園服飾博物館にて「ヨーロピアン・モード展」を見る

茫洋物見遊山記第58 回&ふぁっちょん幻論第63回


これぞ欧州200年モードの決定版。18世紀のロココ時代から、モーツアルトの時代のローブ・ア・ラ・フランセーズ、19世紀の英国のデイドレス、20世紀前半のイブニングドレスを経て、1969年のマリークワントのエプロンドレスまで全時代の女性のファッションを一堂の元に俯瞰できます。

特に興味深いのは1910年代の曲線的有機的アールヌーボーが1920年代に突如アールデコの直線的鋭角的モダンへのルビコン渡河的に豹変するところ。服飾史におけるアールヌーボー時代は1900~1910年、アールデコ時代は1910~1920年というわずか2decadesで区分されるそうですが、胸は豊満に、ウエストはぎゅっと絞り、横から見ると大きなS字型フィットアンドフレアが、ウエストを絞らないシンプルなミニドレスへと180度、いやそれ以上の路線転換を遂げる。これほど短期間に女性の服飾のありようが激変したことは古今未曾有だったのではないでしょうか。そしてこの構造改革の延長線上に、シャネルのあの見事なビジネスウイメンズスーツが誕生したのです。

また先日の英国ロイヤルウエディングの記憶もわれらの耳目に新しいところですが、本展の歴代ウエディングドレスの特別展示も見ごたえあり。来たる6月11日まで開催中です。(日曜祭日は休み)


傷ついた脳を持って産まれし少年をペロペロ舐めてムクよ癒せ 茫洋

Sunday, May 08, 2011

ジュリアン・ジャロルド監督の「キンキーブーツ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.123


2005年製作の英国映画です。監督はジュリアン・ジャロルド、俳優もなんたらかんたらちという未知の人たちですが、ノーザンプトンに実在する老舗靴メーカーが生き残りを賭けてニッチの女男靴マーケットへの転身を図り、ミラノコレクションで大成功するという話自体が多少面白い。

しかしおかまがショー用に履く超セクシーなブーツなんていくらニッチにしても需要なんてあるのだろうかと心配になってしまう私はリーマン時代の悪夢をまだどこかで引きずっている弱虫商売人なのに違いない。

この映画の主人公ジョエル・エリーカーンは幸いにも成功するが、きっと今頃は破綻して泣きをみているのではないだろうか?


配線を間違えて産まれてきた君の脳誰かつなぎ直してくれないか 茫洋

Saturday, May 07, 2011

「田村隆一全集」第5巻を読んで

照る日曇る日第428回&ある晴れた日に第91回

鎌倉村の小学校の前に小さな文房具屋さんがあって、その隣には樹齢百年は優に越えた巨大なユリノキ、別名ハンテンボクがそびえているが、小学校の校庭の中にも大きな樹木がそびえていて当時この学校に通っていたうちの次男坊が毎日授業そっちのけでましらのようにてっぺんまでするすると登り、仏様が眠っている姿に見える衣張山を頭を真下にして眺めれば、ヤビジラミ、ヘビイチゴ、ホタリカズラ、ジゴクノカマノフタ、キツネノボタンの花々の上をキタテハ、アカタテハ、キチョウ、モンシロチョウ、ジャコウアゲハが乱れ飛ぶよ。

W・H・オーデンの顰に倣って隆一さんは善は悪を想像することができるが、悪は悪を想像することができないといわれるが、それなら私は、世界は日本を想像することができるが、日本は世界を想像することができない、仏教はキリスト教を想像することができるが、キリスト教は仏教を想像することができないといいたい。

鶯鳴き麝香揚羽舞う朝に没したり享年六十二 茫洋

Friday, May 06, 2011

鎌倉国宝館にて「鎌倉の至宝展」を見る

茫洋物見遊山記第57 回&鎌倉ちょっと不思議な物語第240回

 なんでも平成21年から2年間にわたって修理されていた建長寺につたわる中国元朝の「白衣観音図」が今回の目玉のようですが、私がいちばん面白かったのは近所の光触寺の所蔵にかかる「頬焼阿弥陀縁起」の巻きものでした。

 無実の人の罪咎を肩代わりならぬ頬代わりして傷を被った阿弥陀如来の尊い所業に感じ入った女性が新たに比企が谷に岩蔵寺を建て、本尊に運慶作のこの頬焼阿弥陀を迎え入れるまでの物語が写実的なタッチと美しい色彩で彩られた名品で、これが重要文化財に指定されているのは当然のことでしょう。

 ちなみに現在十二所に所在する岩蔵山光触寺は、鎌倉時代に一遍上人によって開かれたと伝えられている名刹ですが、当初は比企が谷にあったのでしょうか。しかし「鎌倉廃寺事典」にこの寺は載せられていないので、「鎌倉こども風土記」の記述の誤りであるとも考えられます。

この問題については、朝な夕なにこのあたりを散歩しておられる光触寺の住職さんに、いつか直接うかがってみることにしたいと存じます。

*なお本展は来る5月29日まで開催中です。


正義とは無防備な人間を殺すことオバマ万歳アメリカ万歳 茫洋

Thursday, May 05, 2011

METによるトマ作曲のオペラ「ハムレット」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第195夜


 2010年3月27日にNYのメトロポリタン歌劇場で開催されたこれまで聴いたこともないオペラでしたが、基本的にはシェークスピアの原作をベースにしたお話で、主役のハムレット役のサイモン・キーンリーサイドとオフェリア役のマルリース・ペテルセン、脇役のクローディアス王のジェームズ・モリスとガートルード王妃役のジェニファー・ラーモアが健闘して、思いがけぬ拾いものをしたような気がしました。

 指揮のルイ・ラングレという若い人も頼りなさそうな顔つきですが、それなりの劇伴を見せて、パトルシェ・コリエとモーシュ・ライザーの簡素な演出ともどもトマの音楽とドラマの劇性を力強く表現していました。アンブロワーズ・トマなどといっても誰も知らないフランス19世紀後半の音楽家ですが、これほど素晴らしいメロディを歌わせる人とは! もっと知られていい人物でしょう。

 とりわけ第4幕のオフィーリアの狂乱の場は観客の胸を締め付けるような音楽で、これを美貌のペテルセンが紅涙をしぼるようにけなげに演じて見事でした。第5幕の墓場から終幕にかけてはキーンリーサイドの独壇場で、恋人の死に涙を流したり、レアティーズと決闘して血まみれになったり、亡父の亡霊に激励されて悪い叔父さんのクローディアス王を刺し殺したり、と大活躍。最後にオフェリアの亡きがらの傍で息絶えるラストではメトの観衆の拍手喝采を呼んでいました。

 なんでもメトではおよそ1世紀ぶりの再演らしいのですが、原作とはまた違った魅力のあるオペラで、もっとあちこちで上演すれば人気がでるのではないでしょうか。


大口をあんぐり開けてテレビ見るこれぞ人生至上のよろこび 茫洋

Wednesday, May 04, 2011

高橋源一郎著「さよなら、ニッポン」を読んで

照る日曇る日 第427回

かつて夏目漱石はその文学論の中で「およそ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは認識的要素、fは情緒的要素なり」という有名な定義からあの快刀乱麻の独断と偏見を開始し、かの泰斗小西甚一は雅と俗のキーワードであの膨大な日本文藝史を道半ばまで大展開し、伊藤整と瀬沼茂樹の衣鉢を継いだ川西政明は文壇というフレームを通じて過去の文学の棚卸を試みようとしているが、我らがタカハシゲンチャンの文学史の特色は、そのいずれの道も選ぼうとはしない。

彼はそもそもの出発点において偉大なる御両所のような立派な前提と仮説を立ちあげず、文壇妄想などとはまったく無縁な場所から、とぼとぼと歩きはじめている。

なんのことはない徒手空拳でこの複雑怪奇な現代文学の最先端に立ち向かって気のきいたセリフのひとつやふたつを言うてやろうじゃないか、という無手勝流の姿勢がいっそ潔く、またそれゆえに新鮮無比な収穫をもたらしているといえよう。それは音楽でたとえるなら、はじめてチエット・ベーカーを聴いたときのような気持ちだ。

ここでは漱石や甚一や政明があざやかに駆使して既存の文学を整序した(はずの)要素還元主義処方は退けられ、そのかわりに中原昌也や綿矢りさ、岡田利規などの得体の知れない非文学的文学、新しい無の文学、悪魔が生成した胎児のような文学、生も死もないような透明な文学、父母未生以前の文学のようなものたちの、「蠢きなう」に対する直情的洞察とどうしようもない共感が即興的に奏でられている。

明治33年の英国で文学の本質を究めるために古今東西の小説を読むことは「血を血で洗うがごとし」と喝破し、哲学や心理学の研究にいそしんだムク犬の如き文豪の轍をあえて踏み、火中の栗を飛んで火にいる虫の如く拾おうとするゲンチャンの、そこが新しく、そこが赤子のように無防備だが、その成果は目覚ましいものがある。

さよなら、古い文学! 君の、まだ死なないまなこでぢかに確認せられよ。


長男はわが吐きし暴言を鸚鵡返しに叫んでいるとう 茫洋

Tuesday, May 03, 2011

東博にて「写楽展」を見る

茫洋物見遊山記第56回

総数160点を超える東洲斎写楽の作品を一堂に集めた、これぞ空前にして恐らくは絶後であろう展覧会を見物してきました。
作品の大きさに対して会場の空間が広すぎるという問題はありますが、黄金週間いな大震災に見舞われた本年度一番の眼福であることは間違いのない至福のひとときではありました。

そこで初めて気づいたのは、東洲斎写楽を生んだ江戸絵画界の豊饒さと連続性です。2代目坂東三津五郎の役者絵などが写楽の他に歌川豊国と勝川春英の作品と並べて展示されていましたが、それらの3点はほぼ同工異曲で技術的にも完成度からも優劣をつけがたい水準に達しており、ひとり写楽のみが群を抜いて孤立していたわけではないことを雄弁に物語っていました。おそらく他の2名の絵師が写楽を名乗ることは、いともたやすきわざであったことでしょう。

さはさりながら、寛永6年の初頭から開始された写楽10ヶ月の疾風怒濤の進撃に目をやると、これら同時代のライヴァルたちにはない存在感は圧倒的で、私は彼の大胆な構図や光彩陸離とした表情の奪取、被写体の人間性の内奥に肉薄する鋭い筆致、複雑で微妙な柄や色彩の選定に驚嘆せずにはいられませんでした。

その強烈な個性は、とりわけ彼が得意とした当代一流の歌舞伎役者の大首絵において面目躍如としており、その独創的な芸術の価値は、首絵創始者の喜多川歌麿をはるかに凌駕するものがありました。

サリエリのオペラはモーツアルトそれに非常に似ていますが、しかし全然モーツアルトではない。凡才は限りなく天才に追随できるけれどもついに天才ではない。これと似た事情が、音楽だけでなく絵画の世界でもあることが本展の鑑賞をつうじて理解することができたというのはざわざわここに吐露する迄もない凡庸な感想でしたな。


無より生まれ無に還るまでのお戯れ 茫洋

Monday, May 02, 2011

根岸吉太郎監督の「探偵物語」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.122


1983年に角川春樹が「遠雷」の根岸監督、脚本の鎌田敏夫、主演に薬師丸ひろ子。松田優作を起用して制作した赤川次郎原作の探偵ごっこラブムービー。

音楽の松本隆や加藤和彦、大滝詠一を含めて当時のタレントを総動員した観のある作品だが、ラストの空港の別れに至るまでの展開がまどろしく普通の観客なら10分で席を立つに違いない出来栄えになっている。

では見どころはどこかというと松田優作が別れた妻秋川リサと、やくざの財津一郎が親分の情婦中村晃子と情を通じる時の嬌声の録音。考えてみれば根岸吉太郎は日活ロマンポルノの名匠で、それが傑作「ひとひらの雪」の艶麗な濡れ場演出を生みだしたのだった。

薬師丸ひろ子などの女優が着ている肩パッド入りのジャケットやバブル時代のヘアスタイルが一抹の哀愁を誘う。


震災に遭いし老犬わけもなく隣家の庭で朝晩に吠ゆ 茫洋

ギイ・ハミルトン監督の「地中海殺人事件」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.121

前作が興行的に成功したからでしょうか、1982年にまたしてもアガサ・クリスティ原作の同工異曲の観光探偵映画が制作されました。しかもピーター・ユスチノフ扮するポアロやジェーン・バーキンなどが本作にも登場してじつにわざとらしい演技を見せつけていて迷惑です。

今回もまた思いがけない犯人の出現に驚きあきれた私ですが、原作と違って映画では推理の元になる情報が後出しジャンンケンになったりするので、厳密な予想が難しい。それよりも風光明媚な地中海の光景を目で慈しむ種類の映画だと思います。

あとは登場人物がまとう多種多様なファッションですが、この点では今回のアンソニー・パウエルよりも「ナイル殺人事件」のコニー・ウイルスのほうが数等洗練されていました。

美女が棲む隣家に紅しチューリップ 茫洋