♪ある晴れた日に 第92回
連休やB級映画の愉楽かな
子等揃い菖蒲湯に浸かるめでたさよ
蛇苺小さな朱と生まれけり
美女が棲む隣家に紅しチューリップ
万人を悼むがごとし万花咲く
雨の月曜日は歌なんか歌えない
パンクがわからないやつはパンクしろ!
無より生まれ無に還るまでのお戯れ
人間風情に毛虫と呼ばれる筋合いはない
砂を噛み目を瞑りこの風を抱きしめるのだ
なんでもかんでも忘れてしまうそのうち自分さえ忘れてしまう
空中に放り投げた赤ちゃんを銃剣で刺したわいと近所のKさん
母親を救わんとして声掛ける娘の顔は険しく美しく
青空に萌ゆる若葉を越えていくアオスジアゲハの幽かな憂い
ピンチョンときたらたいしたもんだ自分でも分からんホラを吹く
地上では行く場所失いしクライバー眠れわれらの記憶の底に
くたばれポリーニアルゲリッチよみがえれコルトーフランソワ
遂に殺したヴィンラディンオバマ万歳アメリカ万歳
悪を殺すことそれがアメリカの正義あとは野と成れ山と成れ
正義とは無防備な人間を殺すことオバマ万歳アメリカ万歳
長男はわが吐きし暴言を鸚鵡返しに叫んでいるとう
配線を間違えて産まれてきた君の脳誰かつなぎ直してくれないか
傷ついた脳を持って産まれし少年をペロペロ舐めてムクよ癒せ
大口をあんぐり開けてテレビ見るこれぞ人生至上のよろこび
鶯鳴き麝香揚羽舞う朝に没したり享年六十二
この頃日本全国死ぬ人多しそろそろ自分の番かと思うよ
遠つ国より訪れることを止めし人うべないつつも憎くもあるかな
震災に遭いし老犬ものに怯え隣家の庭で朝晩に吠ゆ
あなた何してんの早く40キロ圏まで退避しなくちゃ
長男の「千の風になって」を聴いて涙が出そうになったというケアマネさんの感想文を読んで涙が出そうになった 茫洋
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Monday, May 30, 2011
Monday, April 25, 2011
「田村隆一全集」第3巻を読んで
照る日曇る日 第426回&ある晴れた日に第89回
深い海の底で、もう一度桜を見たいねという声がした。
朝はコーヒーとトースト、昼は「笑っていいとも」を見ながら生協の関西風キツネうどん、夜は肉じゃがとご飯とみそ汁とデザートにイチゴを食べて、の寅さんの映画を一本見てからお風呂に入り、「いろいろあったけど、今日もなんとか一日終わったね」などと言いながら、親子三人枕を並べて朝の七時までぐっすり寝ていたかったという声も確かに聞こえた。
私には今日もいろいろあってそれなりに楽しかったが、そのいろいろが突然無くなる日が誰にも訪れると改めて知った。
しかし波一つない海岸には大きく傾いた一本の松の木だけがしきりにそよいでいるだけ。神の不在は、いつまでも続くのであるか。やはりこの世には神も仏もないのであろう。
四月は残酷な季節。太陽が宙天に達した頃、カワナゴの大群が少女たちの黒髪の林を潜り抜けていく。
憂いつつタンポポの道歩みたり 茫洋
深い海の底で、もう一度桜を見たいねという声がした。
朝はコーヒーとトースト、昼は「笑っていいとも」を見ながら生協の関西風キツネうどん、夜は肉じゃがとご飯とみそ汁とデザートにイチゴを食べて、の寅さんの映画を一本見てからお風呂に入り、「いろいろあったけど、今日もなんとか一日終わったね」などと言いながら、親子三人枕を並べて朝の七時までぐっすり寝ていたかったという声も確かに聞こえた。
私には今日もいろいろあってそれなりに楽しかったが、そのいろいろが突然無くなる日が誰にも訪れると改めて知った。
しかし波一つない海岸には大きく傾いた一本の松の木だけがしきりにそよいでいるだけ。神の不在は、いつまでも続くのであるか。やはりこの世には神も仏もないのであろう。
四月は残酷な季節。太陽が宙天に達した頃、カワナゴの大群が少女たちの黒髪の林を潜り抜けていく。
憂いつつタンポポの道歩みたり 茫洋
Saturday, October 02, 2010
ステファヌ・マラルメ全集第1巻を読んで
照る日曇る日 第377回
マラルメの全詩集の邦訳といえば岩波文庫からでている鈴木信太郎訳が有名ですが、こちらは筑摩から出た松室、菅野、清水、阿部、渡辺氏の新訳です。なにせフランスの高踏派・象徴派の泰斗による超難解な詩ばかりなので、意味を取ることも解釈をすることも一筋縄ではいきません。例の「海の微風」の出だしの「肉体は悲し。万巻の書は読まれたり」のところを見ると「ああ肉体は悲しい、それに私はすべての書物を読んでしまった」となっているのでこの現代的な翻訳のやり方が分かるというものです。
一読して興味深かったのは「エロディアード」という舞台詩です。これはバイロンなどによって淫蕩な狂女として解釈されたサロメといううら若い乙女の精神を、手あかにまみれた通念を洗い流して、本来の処女エロディアードとして位置づけようとする試みで、エロディアードとその侍女による対話詩劇として構成されています。
マラルメがワーグナーとの交友を通じて音楽に親しみ、詩と音楽の親和性に強い関心を寄せたことはヴァレリーなどによっても証言されていますが、マラルメの「半獣神の午後」などを読むと、その調べのなかにすでにドビュッシーによって音化された「牧神の午後への前奏曲」が鳴っているようにも思えます。
さて本巻に収められたもっとも注目すべきは詩作品は言うまでもなく「賽の一振り」でしょう。人生と芸術の本質が「賽の一振り」のような偶然性によって支配されているがゆえにその偶然性から逸脱しようと絶望的な遁走を試みた詩人は、ここに詩の定型を大きく逸脱したフレームを構築し、旧来の詩集のレイアウト、デザイン、文字の大きさと余白の常識を打破した新しいメディアでもある詩的宇宙を創造することに成功したのでした。
見開き2ぺージを一単位として構成された詩編「賽の一振り」は、いわば「絵のない絵本」、「詩で綴られた創世記」であり、「賽の一振り」によって果てしない航海に乗り出した詩人の前に、前人未踏のめくるめく映像と高鳴る音楽が次々に繰り広げられるのです。
雲去領寂もう鳴かぬか蝉 茫洋
マラルメの全詩集の邦訳といえば岩波文庫からでている鈴木信太郎訳が有名ですが、こちらは筑摩から出た松室、菅野、清水、阿部、渡辺氏の新訳です。なにせフランスの高踏派・象徴派の泰斗による超難解な詩ばかりなので、意味を取ることも解釈をすることも一筋縄ではいきません。例の「海の微風」の出だしの「肉体は悲し。万巻の書は読まれたり」のところを見ると「ああ肉体は悲しい、それに私はすべての書物を読んでしまった」となっているのでこの現代的な翻訳のやり方が分かるというものです。
一読して興味深かったのは「エロディアード」という舞台詩です。これはバイロンなどによって淫蕩な狂女として解釈されたサロメといううら若い乙女の精神を、手あかにまみれた通念を洗い流して、本来の処女エロディアードとして位置づけようとする試みで、エロディアードとその侍女による対話詩劇として構成されています。
マラルメがワーグナーとの交友を通じて音楽に親しみ、詩と音楽の親和性に強い関心を寄せたことはヴァレリーなどによっても証言されていますが、マラルメの「半獣神の午後」などを読むと、その調べのなかにすでにドビュッシーによって音化された「牧神の午後への前奏曲」が鳴っているようにも思えます。
さて本巻に収められたもっとも注目すべきは詩作品は言うまでもなく「賽の一振り」でしょう。人生と芸術の本質が「賽の一振り」のような偶然性によって支配されているがゆえにその偶然性から逸脱しようと絶望的な遁走を試みた詩人は、ここに詩の定型を大きく逸脱したフレームを構築し、旧来の詩集のレイアウト、デザイン、文字の大きさと余白の常識を打破した新しいメディアでもある詩的宇宙を創造することに成功したのでした。
見開き2ぺージを一単位として構成された詩編「賽の一振り」は、いわば「絵のない絵本」、「詩で綴られた創世記」であり、「賽の一振り」によって果てしない航海に乗り出した詩人の前に、前人未踏のめくるめく映像と高鳴る音楽が次々に繰り広げられるのです。
雲去領寂もう鳴かぬか蝉 茫洋
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