Sunday, August 29, 2010

西暦2010年葉月茫洋花鳥風月人情紙風船

♪ある晴れた日に 第79回


ニイニイ油カナカナ鳴き揃うたり文月尽

その茗荷も少し大きくしてから食らうべし

飛蝗共が喰うたる紫蘇を食らうかな

空高く青に溶け入る二羽のシロチョウ

二五歳 子規も明治も若かった

栗の木の木下闇抜けて大ウナギ見にゆく

名月やウナギは踊る滑川

三日月や雌雄を決する大ウナギ

まいにち三浦スイカむさぼり食らう快楽

逗子ゞと音だけ聞こえる花火かな

揚羽孵化し天青咲きぬ葉月辛丑 


夏の夜グルベローヴァのベルヴェットヴォイスに酔いしれて

新橋で袖刷り合いし今野雄二ひとり縊れし夏の夜かな

本当のことをいえば我は砕けこの世も裂けるべし

たとえ世界が滅ぶとも我のみは生きるぞと一億の民

待ち待ちて今年咲きける天青の空の蒼よりなお青き藍

瓦葺の平屋を見れば心安らぐわれは昭和のおのこなりけり

超高層の億ションペントハウスに住むという男の自慢を白々と聞く

マーメードの刺青したる右腕を窓から出しつつ運転する男

二度までも太平洋に投げ出され根岸氏は鱶に喰われざりき

なにゆえによきひとさきにゆくならむむらさきいろのあじさいさくひに

いつなにがおこるかわからぬよのなかやなにとぞぶじにいきおおせたし

一生に一度は誰もが叫ぶ言葉アプレヌ・ル・デルージュ!

ママ、ママア!自分の妻を母と呼んでいる隣のご主人

戦争だけが平和をもたらすと哲人カント喝破せり 

鶴ならで「鳩の恩返し」たあ驚いた臭せえ仲だぜ小鳩兄弟

ツイッタアにうつつをぬかす馬鹿ものの脳味噌の底で腐りゆく蛆

食を断ち甲冑を纏い木乃伊となりし武蔵かな

とくすでに永遠界に属すべし午前に撮りし朝顔の写真

君とゆく海水浴は一六回今年の夏もやがて逝くめり

ハスの葉を光にかざし見つめをる息子の最後の夏休みかな

健ちゃんが逃がしてやりし大ウナギ今宵も躍るよ滑川の淵

陰険な漁師どもの罠逃れ滑川に帰還せしウナギの王よ




家守棲む家に寝そべるうれしさよ 茫洋

Saturday, August 28, 2010

夏は逝く

夏は逝く

ある晴れた日に 第78回


沖合からやって来た土用波が百千のヨットを次々に倒すと、海面すれすれに浮上してきたゴンズイが歓声を上げた。

伊豆大島の上空でゼフィルスが裳裾をからげたので、大仏を見下ろしていた雷神が小太鼓を連打した。

コートジボアールからやって来た青年の双眼がビキニからはみだした巨乳にくぎ付けになったので、由比ヶ浜監視所のてっぺんの烏が阿呆阿呆と叫んだ。


今年16回目の海水浴を終えた少年は、お父さん、浮輪をつぶしてくださいな、とつぶやいて萎れたハスの葉に顔をうずめた。


ちょうどその頃、
66年前に撃沈されたはずの駆逐艦は、相模湾の海底からゆっくり身を起こそうとしていた。



君とゆく海水浴は16回今年の夏もやがて逝くめり 茫洋

Friday, August 27, 2010

柄谷行人著「世界史の構造」を読んで

柄谷行人著「世界史の構造」を読んで

照る日曇る日 第366回


世界史の構造を、後期マルクスが資本論で規定した生産様式ではなく、初期マルクスが規定した交換(交通)様式で定義しなおすことによって危殆に瀕した世界を救済しようとする哲学者の絶望的でもあり最後の希望でもあるような知的営為です。

著者は経済的下部構造としての4つの交換様式=1)互酬、2)略取と再配分、3)商品交換4)互酬の高次元の回復、のそれぞれに対応する歴史的派生態を、1)ネーション2)国家3)資本4)新規構成体と位置付け、しかし実際の社会構成体は、こうした様々な交換様式の複合体として存在していると説きます。
現在の資本性社会では商品交換が支配的な交換様式ですが、他の交換様式も消滅することなく「資本=ネーション=国家」という複雑な結合体として存続しているというわけです。(←ここらへんは難解そのものなので、直接本書にあたってくださいな)

ではこの複雑怪奇な複合体をどうやって揚棄するか。どうやって現代のリヴァイアサンをやっつけるか。

そういういわば最新版の階級闘争のためのアイデアも、上記の交換様式という視点から導き出されます。

すなわち旧来の革命論は労働者の生産現場で世界同時革命を起こして資本家階級を打倒しようという夢想的なものでしたが、資本主義が高度に確立されればされるほどそんな無謀な企ては不可能になってしまいました。

しかし考えてみれば労働者の別名は消費者に他なりません。理論武装した消費者が、生産点以外の流通過程で異議申し立てやボイコット等を行えば、資本主義の牙城は多少は揺らぐ、のではなかろうか。のみならず資本が利潤追求のために犯す様々な行き過ぎを是正し、地域通貨や信用システム、協同組合運動の展開によって非資本性的な経済をみずから創造することができるのではなかろうか、という緩い見通しが披歴されたりします。


このように「資本=ネーション=国家」が三位一体となった現代国家を最終戦争の危機から救うために、著者はカントが唱えた世界共和国=諸国家連邦構想を高く評価し、その現実的組織としての国連の活動に人類史のはつかな希望をゆだねようとします。

著者によれば、カントはたんに戦争の不在としての永久平和を夢想したのではなく、諸国民のいっさいの敵意を終わらせ、国家の廃棄を目的とした「段階としての諸国家連邦」を唱えたのです。ほんとうはホッブス以上の人間性悪説に立つカントは、過渡的な諸国家連邦では国家間の対立や戦争を抑止することはできないことを熟知していました。

平和を希求しつつも国家間の利害が対立する。その結果として生じた戦争だけが諸国民に永久平和の決意を再確認させ、そのプロセスの繰り返しによる「血の学習=自然の狡知」だけが諸国家連邦の絆を強固し、国家廃絶の理想に接近させることができる、というカントのシニカルな予測が正しいとすれば、私たちはまだまだ多くの戦争を潜り抜けることなしには世界共和国の夢を実現できないということになりそうです。

絶対平和を射程に据えた思想家の冷酷なリアリズムに肝を冷やされた真夏の読書でした。


戦争だけが平和をもたらすと哲人カント喝破せり 茫洋

Thursday, August 26, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第23回

bowyow megalomania theater vol.1


食べ終わったあと、みんなでたき火の周りで踊りました。

もうすでに陽は落ち、とっぷりと暮れ、まわりの山々は黒い影絵のように沈み込み、一番星が南西の空にぴかぴか光っています。勢いよく燃えるたき火の日がパチパチとはぜるのを眺めていると、それだけで心が満たされてくるようでした。

公平君は文枝の手を取ってワルツを踊りました。のぶいっちゃんとひとはるちゃんは、火のまわりを交互に飛びあがり、かいくぐり、飛び、はね、狂ったように逆立ちし、叫び、また踊りました。

いつの間にか洋子が座り込んでいた僕の両手を引っ張って立ちあがらせ、ぴったりと身体を寄せてきました。やわらかい髪が僕の頬をそっとかすめたとき、僕の頭の中はぼおっとなって何が何だか分からなくなりました。洋子ちゃんはとてもいい匂いがしました。

わたし、岳君が大好きよ。

と、洋子は囁きました。暗闇の中、僕の耳元で小さな空気が甘く動きました。

大好きよ。

もう一度囁きながら、洋子はやわらかな太腿を僕の腰にぴったりくっつけてきたので僕はあえぎました。洋子の頬も胸も腹も僕の頬と胸と腹に強く押し付けられてきたので、僕は息ができなくなって、いつの間にか銀のような星があちこちでまたたいている夜空を見上げていました。

どこかでオオカミがウオー、ウオーと三日月に向かって吠えていました。

僕は幸福でした。



逗子ゞと音だけ聞こえる花火かな 茫洋

Wednesday, August 25, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第22回

bowyow megalomania theater vol.1

それからみんなで、食料を調達する計画を立てました。

今はまだ秋だから木の実も拾えるけれど、すぐに冬がやって来ます。計画的に食べ物を集めて飢え死にしないで年を越せるようにしよう。こういうのを、いえにあればけにもるいいをくさまくらたびにしあればしいのはにもる、というんだよ、とリーダーの公平君が言いました。

ふだん家や星の子で食べているカレーやハンバーグほど立派なメニューではないけれど、こうやって自分たちで野山で採ってきた食料を自分たちで料理して食べると、そっちのほうがむしろおいしいのでした。

周りにはすぐにぶん殴る長島のような先生やうるさい親も嫌いな奴もいないので、格別おいしいのでした。

のぶいっちゃんがものすごく太いイタドリの皮をむきながら頭から食べていると真ん中辺から小さなヤマカガシが出てきたのでびっくりしてみんなに見せるとヤマカガシも驚いて逃げ出そうとしましたのでのぶいっちゃんはしばらくヤマカガシを首に巻いて遊んでいましたがそれにも飽きたのでヤマカガシをガマの茶色の穂先が高くそびえているきれいな水たまりに投げ捨てるとヤマカガシはよろこんでガマの根っこに逃げて行きました。


とくすでに永遠界に属すべし午前に撮りし朝顔の写真 茫洋

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第21回

bowyow megalomania theater vol.1



「当分の間、この不思議なお家で生活しよう」

とリーダー役の吉本公平君が言いだしたので、みんなも
「そうだ、そうだ、そうしよう、それがいい」
と口々に言い、そうすることに決まりました。

ごはんを食べないと死んでしまうので、栗と柿を食べた後全員でふたてに別れて食料を探しに出発しました。

森の奥から冷たい風が吹いて来て深い森の匂いが鼻を刺し、はらわたまで沁みました。

僕はのぶいっちゃんとひとはるちゃんの兄弟と3人組になって、不思議なお家の裏山に登りました。シイ、ドングリ、クリの実やイタドリ、ミョウガ、柿を両手で抱えきれないくらいいっぱい取りました。

クワの実を食べながら帰ってきました。青い鼻汁をずるずる流すのぶいっちゃんの口の中は真っ赤でした。

公平君と洋子と文枝もドングリやシイの実をたくさん持って帰りました。シイタケやヤマイモやマツタケや色々なキノコもありました。

「大戦果だあ!」

とのぶいっちゃんとひとはるちゃんは、青白い鼻汁を合計4本垂れながしながら叫びました。



陰険な漁師どもの罠逃れ滑川に帰還せしウナギの王よ 茫洋

Monday, August 23, 2010

井上ひさし著「組曲虐殺」を読んで

照る日曇る日 第365回

今度は同じ作者による戯曲の遺作です。

築地警察の特高刑事たちによって虐殺された小林多喜二が主人公です。築地には電通と歌舞伎座と都立中央図書館とマガジンハウスがあったので、その前をよく行き来していましたが、「成程ここが多喜二をなぶり殺しにした警察署か。それで入口がどこか不気味で暗いのか」と思いつつしばし立ち止まり、門番のおまわりさんを得意の三白眼でにらみつけたりしたものです。

そのおぞましい、身の毛もよだつ拷問シーンが出てきたらどうしよう、と心配していたのですが杞憂でに終わり、そこはなぜかはスマートに避けてあったので、「さすが井上よのう」という気持ちと、肩透かしされて物足らない気持ちの両方が読み終えたあとから押し寄せてきました。

帝国戦時暗黒時代の残酷で血なまぐさい生の現場はすでに歴史的事実であるとしてパスし、あえて括弧に入れてその周縁を喜劇的に劇化することによって、括弧に封じ込められた真実を一人一人の観客に想像させ、現代に呼び出そうとする作者一流の手法は、同じ作者の遺著『一週間』でも採用されていましたが、この洗練された?方法が反対方向に作用して、あたかも「括弧の内部には何もなかった」ような印象に陥る弊害があることも事実です。

例えば、お尋ね者の多喜二に何度も肉薄しながら結局逮捕できず、敵でありながら多喜二のシンパのような奇妙な役割を与えられている2人の刑事のありようは、「不思議」と「意外」の域を通り越して、「現実無視」のそしりをまぬかれないのではないでしょうか?

かつての歌声運動最盛期の共産党ではあるまいし、敵と味方がやたら声を揃えて和風オペレッタを歌いまくり、劇と現実のドラマツルギーを抒情と詠嘆のオブラートにまぶして予定調和的にフェイドアウトさせようとしているのも、少しく安易な演劇作法ではないでしょうか?

いくら官憲による多喜二虐殺事件をソフィスティケートしても、虐殺は虐殺であり、けっして「組曲」などに音楽的に転化されるやわな性格のものではありません。

「二度と『蟹工船』のような小説を書けないようにしてしまえと右の人差し指を折られた多喜二。体の20か所を錐で刺された多喜二」などと登場人物に語らせてよしとするのではなく、その鮮血淋漓の修羅場を舞台にかけて欲しかったと思うのは、私だけなのでしょうか。

もしも今は亡き作者が、真夏の夜に甦ってそのような改訂版をこの世に贈ってくれたなら、私のように極端に暴力と苦痛と出血に弱く、今朝右翼から拷問されれば超右翼天皇制支持のファシストへ、夕べに左翼から拷問されればただちに極左冒険主義テロリストへとまるで時計の振り子のように寝返るであろう、臆病で無思想で「命あってのモノだね主義者」も、もっと根性を入れて観劇できると思うのですが。


ツイッタアにうつつをぬかす馬鹿ものの脳味噌の底で腐りゆく蛆 茫洋

井上ひさし著「一週間」を読んで

照る日曇る日 第364回

本書は偉大なる演劇作家井上ひさし氏の最期を飾るにふさわしい長編小説です。

腰巻のコピーをそのまま引用すると、「昭和二十一年早春、満州の黒河で極東赤軍の捕虜となった小松修吉は、ハバロフスクの捕虜収容所に移送される。脱走に失敗した元軍医・入江一郎の手記をまとめるよう命じられた小松は、若き日のレーニンの手紙を入江から密かに手に入れる。それは、レーニンの裏切りと革命の堕落を明らかにする、爆弾のような手紙だった……」というような内容です。

たしかに梗概としてはその通りなのでしょうが、それではこの本の魅力が伝わらない。本書のいちばんの面白さは、作者がそういうちょっと気のきいたプロットを用いて戦争の生み出す残酷なまでの悲劇を見事にえぐり出した点にあるのではなく、たとえば「一週間」という表題を一瞥した一読者が、

「こいつはロシア物の小説だから、きっと♪日曜日に市場に出かけ糸と麻を買って来た。テュリャテュリャテュリャリャーというロシア民謡に関係があるに違いない」

とにらんだとすれば、はたせるかな作者は、弾圧や玉砕やツンドラや収容所内部の抗争や強制労働や皇軍上層部の腐敗と堕落や撲殺や拷問や陰惨なテロルや飢え死にや日ソ中立条約違反やヤルタ会談や冷戦の開始や極東裁判や二重スパイや革命家レーニンの裏切り問題等々を肌理細かに取り上げつつも、つねに裏声で♪テュリャテュリャテュリャリャーとハミングしていることなのです。

レーニン→スターリン独裁制と英雄的かつ漫談的に戦う日本軍兵士の七日間の出来事を♪テュリャテュリャテュリャリャーと鼻歌交じりにでっちあげ、あくまでも史実に寄り添うふりをしつつ、史実全体をこけにするこのドンキホーテ的な超楽天主義&夢想主義、現実が絶望的であればあるほどそこに希望を見出す強靭で頑固でどんくさい魯迅主義こそ、この作家の真骨頂と言わなければなりません。

それにしてもこの素晴らしい才能の持ち主が、かつての細君に対して殴るけるの暴行を加えたにもかかわらず、反省の一言もなく泉下の人になりおおせたとは、実に不可解にして不愉快な話です。


待ち待ちて今年咲きける天青の空の蒼よりなお青き藍 茫洋

Sunday, August 22, 2010

真夏の夜のオオウナギ 後日譚

鎌倉ちょっと不思議な物語第226回&バガテルop131
栗の木の木下闇抜けて大ウナギ見にゆく 茫洋


昨夜2個の仕掛けが撤去された滑川を訪れた私は、何回見直してもウナギの姿が見られないのでがっかりして橋のたもとを立ち去ろうとした。

その時、息を切らして駆けつける背の低い中年の男性の姿があった。この人物には見覚えがある。私の家の近所に住んでいる植木屋のKさん推定55歳で前夜のKさんの弟である。

縮のシャツとステテコをはいたKさんは食い入るように川面を見つめている。「いくら探してももういませんよ。昨夜ヤナを仕掛けた人たちが全部捕まえてしまったんだから」
と私が教えると、Kさんは私の顔を見て

「ところがね、ヤナは空っぽだったそうだ」

と言ったので、私はびっくりすると同時に、

「さすがは滑川のオオウナギ、やるもんだね」
とひそかに舌を巻いたのだった

「ウナギも馬鹿じゃない。危険を察知して上流に逃げたんだ。しかし今はウナギの産卵期でね。1匹のオオウナギのオスがいるところには何匹かのメスウナギが必ずいるんです。よーし、こうしちゃいられん。カーバイドの手配をしなくちゃ」

「エッ、爆弾を川に投げ込むんじゃないでしょうね?」

「とんでもない。カーバイドランプで川を照らすと、魚はみんな寄ってくる。そいつを一網打尽にするんですよ」

と言い捨てて、Kさんは脱兎のごとく家にとって返した。

きっとこれから新兵器のアセチレンガスを入手して、巨大ウナギを自分のものししようとするのでしょう。

新居に引っ越したばかりのKさんですが、急な病気で細君を亡くされたばかり。前夜Kさんの兄さんが、

「おいらは身内に不幸があったばっかりだから殺生はしたくない」

と言っていたのはそのことだったのですが、弟のKさんはその弔い合戦を、罪もないウナギに対して仕掛けようとするのでしょうか。

一難去ってまた一難。私はオオウナギたちの身の安全を祈りつつとぼとぼと家路をたどったことでした。


三日月や雌雄を決する大ウナギ 茫洋

Saturday, August 21, 2010

真夏の夜のオオウナギ 後篇

鎌倉ちょっと不思議な物語第225回&バガテルop130


息子が都会に去った翌日からも、私は夜になると例の小川にいそいそと足を運んでいた。

1メートル超の大ウナギは相変わらず健在で、毎晩見事な反転と跳躍を見せてくれるが、昨夜は30センチに満たない小ウナギもその近くで泳いでいた。どうやらこの界隈はかなりの数のウナギが棲息しているらしい。

ふと見ると2,3人の中年男がワイワイ騒いでいる。
やはり私と同じようにウナギ見物に来たのかと思っていたら、そうではない。あれを捕まえようとひそひそ相談しているのである。

聞くともなく耳を傾けていると、最近滑川の水がきれいになったので、アユが遡上するようになり、そのアユを追ってウナギが海から上るようになったらしい。ハヤはよく見かけるがアユまで棲んでいるとはしらなんだ。

なんでも今年はこの近所では5匹のウナギが目撃され、前夜までにそのうちすでに3匹は捕獲された。残っているのはこのオオウナギを含めた2匹である。よって一刻も早くこの伝説の大ウナギをつかまえたい、と焦り逸っているのであった。

よく見ればそのうちの一人はすでにヤナを持っている。こいつにミミズをしかけて流れに伏せておけば間違いなく仕掛けにかかるであろう、と地元はえぬきのおやじさんが、ヤナを持った若い衆に教えを垂れている。

「俺はこないだ親戚で不幸があったから、今夜は殺生したくねええんだ。でもあんたにはやり方を教えてやるよ。ヤナなんかより橋の上から糸を垂らして直接釣ればいいんだよ。すぐにとびついてくるよ」
と自信ありげに語っているのは、町内会の役員のKさん65歳だ。

「でも、餌がないんや。餌はどうしたらええんや」

と大阪弁で喚いているのは、神社の麓に住んでいる新参者のAさん推定40歳だ。こいつはオオウナギをモノにしたいという欲望で目が血走っていた。

「それじやあ、これからオイラが懐中電灯を持ってくるから、一緒に餌のミミズを獲りに行こう。オイラも付き合ってやるよ」
と言った後で、Kさんがつぶやいた。

「でも、あいつ、なんだかうれしそうに泳いでいるじゃないか。このままにしといてもいいんじゃないか……」

そうだよね。君はよくわかってるじゃないか。
それにいくら天然自然の国産大ウナギでも、あれくらい大きくなった奴は食べても全然美味くないからね……。

さてその翌日、まだ大ウナギの饗宴は続いているのかしら、と恐る恐る滑川に足を運んだら、ウナギなんぞ大も、中も、小すら影も形もなかった。

その代わりに立派なヤナが2か所に仕掛けられていたので、きっと半月間にわたって孤高の五風十雨居士の疲れた心を慰藉してくれた本渓流今季最後のウナギたちは、悲しいかな一網打尽にされてしまったのあらう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。


健ちゃんが逃がしてやりし大ウナギ今宵も躍るよ滑川の淵 茫洋

Thursday, August 19, 2010

真夏の夜にウナギは踊る 前篇

鎌倉ちょっと不思議な物語第224回&バガテルop129

 
毎日毎晩暑いですな。私の家は夏でも涼しい風が吹くので、クーラーなんて35年間無用の利器であったが、さすがに来年は1台くらいあってもいいかな、と思わせるに足る今年の暑さである。

そんなある夜、私は暑気払いに散歩に出たと思いねえ。で、なにげなく滑川を見下ろしたら大きな魚がウネウネ蠢いているので驚いた。蛇かと思ったがそうではなく50センチくらいの大きさのウナギでした。鎌倉名物の大ウナギに再会したのである。

そいつは月の光に身をくねらせながら、上流から下流へ、下流からまた上流へとおよそ10メーターの距離をいかにも楽しげに行ったり来たりしている。まるで手足のないダンサーのやうだ。

そういえば以前ここから200メートルほど上流で、私の息子が石の下で昼寝していた巨大なウナギを両手で捕まえたことがあった。

しかしその時は、彼はそいつを1メートル上の道端に放り投げる余力も道具もなく、そのまま下流に逃がしてやった。もしかしたら、そいつがおよそ10年振りにお礼参りに戻ってきたのではなかろうか、とはじめは思ったのだが、そうではなかった。

10年前のはまるでオオサンショウウオそっくりのずんぐり型であったのに対して、今回の奴はもっと長身で頭部はスマートなので、おそらくは別人、いな別ウナギであろう。

30分くらい見物してから帰宅したが、久しぶりに天然ウナギの雄姿に接してとてもうれしかった。

その翌日の夜、これまた久しぶりに(あの大ウナギを獲った)息子が帰省したので、一緒に滑川の橋の上から見下ろすと前夜のうなぎより大きな1メートル超の大ウナギがゆうゆうと遊弋しているではないか。

と見る間にそいつは岩肌をぬらりと縫って下流のウロ目指して猛烈なスピードで泳いでいく。

と、あろうことか、そこで待ち構えていたのはもう一匹の昨夜の大ウナギであった。

彼奴らの雌雄のほどは不明であるが、これほど巨大な2匹のウナギが、こんな小さく狭い川のど真ん中で遭遇するとは、それこそ真夏の夜の夢ではなかろうか。

上限の月がおぼろにけぶる鄙の里で、私たち親子はいつまでも彼らの交歓を眺めていたのであった。


名月やオオウナギ踊る滑川 茫洋

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第20回

bowyow megalomania theater vol.1


11月2日 晴

朝起きたらものすごく濃い色をしたムラサキシジミが強い風に翅をあおられながら杉林の片隅からワッとどよめくように飛び出して、例の不思議なお家の左わきをチョロチョロ音を立てて流れている小川の方へと上下さかさまになって舞い落ちていきました。

のぶいっちゃんとひとはるちゃんがいつの間にか山の奥へわけ入って持ち帰ってきた栗のと熟した柿を、洋子と文枝が用意したフキの葉の上にのせて、みんなで朝ごはんを食べました。

レンガを積んで簡単なイロリをつくって枯れた草や木を並べ、その上に栗の実をたくさん並べ、公平が持ってきたマッチで火をつけると、栗の実はパチパチと音を立てて弾けました。

炭のようにまっ黒になった栗の外皮を歯で抉りあけてかみやぶると、中から甘い黄色い果実がホロホロと現れ出ました。

みんなで分け合って食べました。柿はまだ少し渋かったのですけれど、みんなお腹が減っていたので、気にしないでぜんぶ食べちゃいました。
ハスの葉を光にかざし見つめをる息子の最後の夏休みかな 茫洋

Wednesday, August 18, 2010

加藤廣著「求天記」を読んで

照る日曇る日 第363回

剣豪宮本武蔵を新しい視点から対象化した興味深い小説です。

細川家の剣術指南役に雇用された武蔵は、先任者の佐々木小次郎と船島(後の巌流島)で対決しますが、細川家では徳川家の政教分離方針によるキリシタン切り捨て政策がお家騒動と同時に進行しており、ほんらい武道家の練習試合であったはずの両雄の対決は真剣勝負に格上げされ、武蔵に敗れたキリシタンの小次郎は、その直後に家臣たちによって殺害されたというのです。

小次郎は秘剣「ツバメ返し」で有名ですが、武蔵は彼の武器である「物干し竿」の長さを4尺3寸と想定し、これをわずかに上回る4尺6寸の軽快な木刀を自作します。

作者の測定によればその木刀の重量比は小次郎の真剣に対して1対0.45であり、両者が同等の力、同等の回転駆動力(トルク)で振った場合、武器が同じ背格好の相手の脳天に達する時間は、小次郎0.1秒、武蔵0.082秒になることが計算でき、その科学的!な仮説を実践したことが武蔵の勝利に結びついたと作者は説くのです。

ここら辺は、作者の「秀吉による信長本能寺謀略説」と同様、あるいは梅原猛氏の古代史観と同様に、実際にはかなりの程度うさんくさいものですが、既存の俗塵にまみれた旧説を新しい知見を駆使して根本的に見直そうとするその意欲に、多くの読者はいささかの感銘を受けることでしょう。

小次郎を葬ったあとも武蔵は、孤高の剣士として、武人として、下手くそな絵画師!として各地を放浪しながら活躍を続けます。

かの大坂冬の陣では真田信繁の参謀として、夏の陣では徳川方の助っ人として、また天草四郎の島原の乱では小笠原軍の一員として相変わらず血なまぐさい争闘の現場にかけつけようとするのですが元和偃武の戦国の世の終焉と共に、この希代の武闘家にも穏やかな黄昏が訪れ、一代の思想書「五輪書」を書き上げた武蔵は、肥後細川家の庇護の元に正和2(1313)年5月、全身に甲冑を身につけたまま人間臭い一生を全うするのです。

そしてそんな「最後の侍」宮本武蔵の、これまであまり知られていなかった多彩な活動を、大胆な想像を交えながらいきいきと描きだしたところに、本書の価値があると思われます。


食を断ち甲冑を纏い木乃伊となりし武蔵かな 茫洋

Tuesday, August 17, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第19回

bowyow megalomania theater vol.1


丘の上にはとても大きなモミジの木が冬も間近だというのに深紅の葉を広げて、沈みゆく夕陽を全身に浴びながら黄金色の双頭の鷲のように輝いておりました。

この高さ10メートル、直径2メートル、樹齢300年になんなんとする巨木の下に、傾きかかった廃屋がありました。風雨に打たれた茅葺の屋根の下には板張りの六畳間がひとつ。これはいったい何十年、いや何百年前に建てられた小屋なのでしょうか?

今は人の住む気配もなくしんと静まり返っています。そうして何千何万という小さなベニシジミの形をしたモミジの葉っぱが、この不思議な家の上に音もなくハラハラ、ハラハラと紅い小雪のように降りしきっているのでした。

古い家の前には、これまたいつの時代に建てられたか分からない小さな苔むした墓標が2つ立っていました。

文枝と洋子は早速小川の水を園から持ってきた水筒に入れたのに小菊をいっぱい挿してお墓の前に置き、深く一礼しました。
するとその時、遠くの方でどこかのお寺の鐘がゴオーン、ゴオーンと幽かに鳴り響いたのでした。

その晩僕たちはこの人里離れた山奥のこわれかけたあばらやに寝泊まりすることにしました。



いつなにがおこるかわからぬよのなかやなにとぞぶじにいきおおせたし 茫洋

Monday, August 16, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第18回

bowyow megalomania theater vol.1


森の中は静かでした。

森の中は静かでした。

時折上空をワシやトンビがゆっくり旋回して、クヌギの木をあちこち忙しく飛び回るリスをぎょろりと鋭い目でにらみましたが、さすがにここまで降りてこようとはしませんでした。

タヌキには森の木陰で何回も出会いましたが、ちょっと目を合わせると、おいら何も見なかったよ、誰にも会わなかったよ、というように視線をすっとはずして常緑のアオキがいっぱい茂った草むらへへろへろと消えていくのでした。

丸まると太ってヨタヨタと歩いて行くそのタヌキの後を追って、脳性麻痺の吉本公平と筋ジスの塩川洋子、知恵遅れの小川文枝、ダウン症の小和田信一と脳微細損傷の武田仁治、それに低級自閉症で知恵遅れの僕は、ふうらりぶうらりまるでふうてんのように山の奥の奥の奥へと踏み込んで行きました。

ふたつの小さな山に挟まれた谷間の真ん中に、小さな川が流れておりました。川の中には、青空とその青空を流れ行く綿雲が映っていました。

いちめんの小菊で囲まれたその小川を左手に見はるかしながら、ススキやヨシが生い茂る湿地をずんずん進んでいくと、道はだんだん急勾配になり、そこからおよそ100メートルほど登ったところに小高い丘がありました。


新橋で袖擦り合いし今野雄二ひとり縊れし夏の夜かな 茫洋

Sunday, August 15, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第17回

bowyow megalomania theater vol.1

僕たちは裏山の頂上を過ぎて、星の子学園の反対側の斜面をゆっくりと降りてゆきました。

うっそうと茂った森の中には、ナラ、クヌギ、ブナ、クリ、クスノキなどの高い木がそびえていました。

僕は公平君とのぶいっちゃんとひとはるちゃんと文枝と洋子と一緒にドングリとシイノミをいっぱいとりました。ドングリを食べるとオシになるとおばあちゃんから聞いていたので、ドングリは食べないでシイノミをお腹がいっぱいになるまで食べました。

僕はシイノミを食べた後、まだドングリを食べたくなりました。すると公平君が言いました。

僕たちはもう立派なショーガイシャなんだから、もし僕たちがドングリを食べてオシになって二重にショーガイシャになったっておんなじことじゃないか。ああ、お腹が減って来た。さあドングリをどんどん食べよう。もっとじゃんじゃん喰おう。じゃんじゃんドングリを食ってショーガイシャになろう。ショーガイシャ足すショーガイシャ足すショーガイシャ、イコール地上最強のショーガイシャ同盟になって長島たちケンジョーシャたちを見返してやろうぜっ!

公平君はそう怒鳴ってドングリをビシバシ食べ始めたので、僕ものぶいっちゃんとひとはるちゃんと文枝と洋子もみんなみんな地上最強のショーガイシャになるためにドングリの実をぜんぶ食べてしまいました。


瓦葺の平屋を見れば心安らぐわれは昭和のおのこなりけり 茫洋

Friday, August 13, 2010

2つのオペラでエディタ・グルベローヴァを聞く

♪音楽千夜一夜 第157夜


1983年のミュンヘン、1992年のベネチア、2つの都市の2つのオペラハウスにおける名ソプラノの歌唱を聞きました。

前者は全盛時代のサバリッシュがバイエルンの国立歌劇場管弦楽団を指揮したモザールの「魔笛」、後者はカルロ・リッチがフェニーチエ座のオケを振った「トラビアータ」のいずれもライブです。

「魔笛」の夜の女王はたった2つのアリアしかありませんが、これぞ極めつけの名曲の名演奏。グルベローヴァはまるでヴェルベットのように滑らかで濡れた声でこの難曲を苦もなく歌ってのけます。(もっともたった1音符だけ刻み損なうのですが、寡瑾も芸の味とでも評すべきもの。)作曲家がこめたすべての音楽が正確無比に、温情を込めて歌い抜くのです。同じソプラノとはいえパミーナを歌ったルチア・ポップとは天地の懸隔があると言わねばなりません。

ほぼベームのテンポで開始したサバリッシュは、老練アウグスト・エヴァーディングの演出を得てオーソドックスな劇伴に徹しています。この人はやはりオペラがいちばんマシです。

その「魔笛」からおよそ10年経ったトラビアータでも、グルベローヴァのビロードの音色はあい変わらずいぶし銀のような輝きを見せ、帝政時代の高等娼婦の悲劇を存分に歌いきっています。

そかしヴィオレッタがグルベローヴァ、アルフレードがシコフのコンビは、彼らがカルロス・クラーバーの棒で歌ったときとはまるで別の音楽になってしまっているのが残念で、指揮者の1流と3流の差を如実に見せつけられますが、グルベローヴァの声だけは相変わらず魅力的で、どんな下手くそな指揮者でも構わないからいついつまでも聴き惚れていたいと思わせるに充分な宝石のようなものを備えているのでした。



夏の夜グルベローヴァのベルヴェットヴォイスに酔いしれて 茫洋

Thursday, August 12, 2010

ナボコフの「賜物」を読んで

照る日曇る日 第362回

ナボコフといえば「ロリータ」しか知らなかったが、これは回想も小説もロシア、ソヴィエトの社会思想史も味噌も糞もなにもかも詰め込んだ一大ごった煮大河長編である。

いちおう主人公はいて、随所で帝政末期の社会思想家チエルヌイシェコフスキーの思い出話や交友録をやらかすが、全編の中での位置づけは読めども読めども霧の中、はたしてこの難破船はどこへ行くのやらと首をかしげているうちに600ページの終わりに到達してしまうというげに奇妙奇天烈な読み物なり。

文中ゲルツエンやドストエフスキーやツルゲーネフやレーニンの話まででてくるので文学趣味やらロシア好きの人にはお薦めできるが、さてそれでは作者はいったいなにをいいたいのかと考えてみるも、その答えは吹きすさぶロシアの憂愁の風の中にしかないのだ。

よって、このけったいな文学的アマルガムを、苦し紛れにロシア風味のプルーストとかジョイスとレッテルを貼る自称ヒョーロンカがいても不思議ではないだろう。

そんな迷走小説のなかで私が惹きつけられたのは、作者の2代続きの蝶への偏愛であり、人類よりも鱗翅目を好む私は、ロシアのシロチョウの渡りや、少年の肩に止まるタテハチョウについての素晴らしい記述にうっとりと耳を傾けたことだった。

例えば第2章の次のような文章を読んでほしい。

「青い空を移動する細長い帯は雲かと思うとじつは何百万ものシロチョウの群れで、丘を越えてやわらかに滑らかに昇っていったかと思うと、今度は谷の中に沈んでいき、たまたま別の黄色いチョウの雲に出会うことがあっても、ためらうことなくその中に入り込んでみずからの白を汚すことなく先へ先へと漂っていき、夜が近づくと思い思いの木々に止まり、木々は朝までそのまま雪を振りかけたようになる。そしてシロチョウたちは、また飛び立って旅を続けるのだった。」

普通の作家ならこれで文を閉じるだろう。しかしこれに続けて、

「でも、どこに向かって? 何のために? その問いに対する答えは自然によってまだきちんと語られてはいない。」
と書いてしまうところが、いかにもナボコフだと思うのである。


空高く青に溶け入る2羽のシロチョウ 茫洋

山本薩夫監督「白い巨塔」を見ながら

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.35



 この映画、昔たしか一度は見た記憶があるのですが、つらつら見物しながら、結局覚えていたのはこのユニークな題名と、ラストの「財前教授の大回診」の場面だけであったことが分かりました。
 浪速大学医学部のビルなんて、ロングショットで見れば全然巨塔ではないのですが、もうこのタイトルだけでベストセラーが予測されるような素晴らしいネーミングを、山崎豊子さんはしたわけです。

 それからかっこいい「財前教授の大回診」はなにかに似ているなと思っていたのですが、それは花魁道中そのものなのですね。この映画の音楽は池野成ですが、芥川也寸志の「赤穂浪士」の音楽をつけるともっと映えるのではないかと思いつきましたよ。

 やはり橋本忍の脚本がよい。役者は田宮二郎もさることながら小沢栄太郎と石山健次郎、小川真由美が圧倒的によい。加藤嘉一、田村高広もよい。この映画を見れば昔はめっぽういい役者がごろごろしていたことがよく分かります。

 名脇役を存分に使いこなすことができた山本薩夫は、まことに幸せな監督でした。


本当のことをいえば我は砕けこの世も裂けるべし 茫洋

Tuesday, August 10, 2010

劇団「円」の「死んでみたら死ぬのもなかなか四谷怪談―恨―」を見物して

茫洋物見遊山記第36回



猛烈な暑さが一段落した夏の日の夜に「四谷怪談」を見物しました。

鶴屋南北や落語の四谷怪談ではなく、韓国の演劇作家、ハン・テスクが書き下ろし、パク・ロミが主演し、森新太郎が演出する劇団「円」の「死んでみたら死ぬのもなかなか四谷怪談―恨―」です。

ご存知のように鶴屋南北原作の四谷怪談は、非業の死を遂げて亡霊となったお岩が、夫を恨み、祟ってとり殺す怨霊復讐譚ですが、その原作を自由に翻案した本作では、その復讐の凄まじさが一通りではない。

夫を自ら刃にかけ、(鶴屋南北はお岩が自刃する)、夫をそそのかした5人の武士達をとらえて穴に閉じ込め、上から砂を注いで窒息死させ、あまつさえ明治政府の警察官に顔面騎乗してこれも圧殺してしまいます。

前半部で夫や姑にいびられ、これでもか、これでもかと不条理なDⅤ被害に堪えていた可哀想な女性が、劇薬と共に万斛の恨みを呑んで自死して怨霊となってからは、「さあ、これで私は本当の自由を得たんだよ」と叫び、一転して、おのれの加害者一同に徹底的に復讐する。そのサヂスチックな快感を嬉々として演じるパク・ロミの壮絶な妖艶美こそ、本作の最大の見どころといえましょう。

「死んでみたら死ぬのもなかなか」なのでしょうが、女の恨みはかくまで深い。しかし本邦の女の恨みはここまで深くはないかもしれない。それは100年前に日本帝国に併合された韓国の、100年経っても尽きることのない怨嗟の底しれぬ深さをはしなくもしのばせてくれるようでした。

全編を和太鼓、パーカッションで支えるレナード衛藤の音響が、どこかサムルノリの音楽を連想させるのもおつな趣向です。


恨むなら死ぬまで恨め日本人 茫洋

Monday, August 09, 2010

グラモフォンの「マーラー全集」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第156夜


没後100周年を記念して陸続とリリースされているマーラーの18枚組の全集です。

交響曲関連では1番がクーベリック、2番メータ、3番ハイティンク、4番ブーレーズ、5番バーンスタイン、6番アバド、7番シノーポリ、8番ショルティ、9番カラヤン、10番シャイイー、大地の歌ジュリーニという豪華絢爛なラインアップ。

ちなみに小澤ボストンは1番第2楽章のオリジナル「花の章」のみのご出演と、さすがプロフェッショナルな音楽屋ドイツグラモフォンはよくお分かり。適材適所の打順ではないでせうか。

 どんどん続けて聞いていると、最近の私の好き嫌いがはっきりしてきます。
「いいな」と思うのはクーベリック、アバド、シノーポリ、シャイイー、ジュリーニなどで、熱血バーンスタインや今回の目玉であるカラヤンの再録ライブなども意外なことにあまり心に残りません。おめえさん、なにをそんなに力んでいるのだ、ていう感じでげす。

 かつてメータがウイーンフィルと入れた2番を聞くと、「未完の大器」なぞといわれたこのインド人の最高の演奏が75年2月のこのライブであることにいささかの感慨もわいてきます。俗に指揮者は歳をとればとるほど良い演奏をすると言われていますが、メータと小沢がその例外であることだけは間違いないようです。

 しかし交響曲より面白いのはやはり歌曲の名曲で、とくにシャイイー&ベルリン放響による初期のカンタータ「嘆きの歌」とアバド&べリンフィルの「少年の角笛の魔法」は、ずしりとした聞きごたえがありました。

マーメードの刺青したる右腕を窓から出しつつ運転する男 茫洋

Sunday, August 08, 2010

「シャンドス・レーベル発足30周年記念30CDセット」を聴いて

「シャンドス・レーベル発足30周年記念30CDセット」を聴いて


♪音楽千夜一夜 第155夜


もう市場からは消えて久しい一枚当たり130円の超廉価の当盤は、1979年に英国の名門インディーズレーベルが発売した限定版30枚組のCDです。

やはりお国ものということで中心はパーセル、ウオルトン、バックス、ディーリアス、エルガー、ホルスト、ヴォーンウイリアムズなどの英国勢の音楽を、パロット指揮タバナープレイヤー、マリナー指揮ASMF、ブライデン・トンプソン指揮のアルスターso、リチャード・ヒコックス指揮ボーンマス響、ギブソン指揮スコットランド響などが楽しげに演奏しています。

そのうちの極めつけは先月の14日に84歳でなくなったチャールズ・マッケラス響がデンマーク国立響を指揮したヤナーチエックの「グラゴル・ミサ」とコダーイの「ハンガリー詩編」でありましょう。同梱されたナイジェルケネディのリサイタル、マリスヤンソンス指揮オスロフィルのチャイコフスキーの5番交響曲を凌駕するあまりにも見事な演奏です。

マッケラスはこの2人の作曲家のスペシャリストですが、筆者がもっとも評価しているのは他ならぬモーツアルトの演奏で、彼が米テラークに遺した交響曲集ほど典雅さとモダンさを両立させている演奏は稀でしょう。ワルターやセルやベームやバーンスタインに一瞬といえども倦んだことにある方はクレンペラーと同様に死に前に一度は耳にしておくべき珠玉の名盤と確言できませう。



二度までも太平洋に投げ出され根岸氏は鱶に喰われざりき 茫洋

Saturday, August 07, 2010

遠藤利國著「明治廿 五年九月の ほととぎす」を読んで

照る日曇る日 第361回

まずこの本の題名が面白い。ちょっと破格だが五・七・五になっていてそんなところにも作者の遊び心が隠されているような気がする。

明治二五年には正岡子規は漱石、露伴などと共にとって二五歳。漢文の素読によって遺伝子注入された江戸時代の国学文化を背骨に埋めながら、ご一新によって列島に洪水のように押し寄せた欧米の数理合理主義哲学と欧化政策の余沢にあずかろうと脳髄と手足を欣喜雀躍させていた。明治という時代も、その時代を起動させた逸材たちもおしなべて若かった。

そんな時代と知的開拓者の水準器を若冠二五歳の短詩形文学者に措定し、子規をリトマス試験紙として日本近代のあけぼのを総覧しようとする著者の試みは、タイトルの趣向以上に興味深く、それなりの成果を収めている。

著者は子規二五歳の「獺祭書屋日記」(をテキストに、若き文学者の鋭敏な目に映じた明治二五年から二八年に至る日本の政治、経済、社会、文藝のエッセンスを次々に論じ来たり、かつ論じ去るのであるが、例えば超然内閣と民党の海軍増強予算をめぐる対立など、はしなくも平成の御代の政界混乱とも重畳していることが諒解され、いと面白いのである。

子規は第二芸術、第三芸術として巷で軽んじられていた俳句や和歌の旧態依然たるチョンノマ世界をこんぽん的に革命した人物として知られているが、その最大の武器となったのが江戸時代の有名無名の俳人歌人の作品の研究である。

講談社から出ている浩瀚な子規全集を通読した人ならだれでも知っていることだが、膨大な古歌、古句を渉猟してその無尽蔵ともいうべき膨大なデータベースを脳内に私蔵していた子規だからこそ、縦軸に古今東西の俳句、横軸に明治二五年の政争を交差させた1日1句の切れ味鋭い俳句時事評を即日即夜に陸続と大量生産することができたのである。

私たちは本書に接することによって、明治の新文学者、新しい日本語としての写生文、あるいは明治という新時代そのものがいかに誕生したか、について漠とした知見を得るだろう。

それにしても二五歳全盛期の子規は恐るべき健脚の持ち主であり、たった一日で九里三六キロの遠距離をなんと高下駄ばきで踏破している。
そのような巨大な肉体的エネルギーの持ち主が、その後わずか数年で根岸の里の一帖の畳に拘束され、高熱と激痛の晩年をすごさなければならなかったとは、なんと痛ましい悲劇だろうか。


二五歳 子規も明治も若かった 茫洋

Friday, August 06, 2010

カラヤン指揮ウイーンフィルで「ドン・ジョヴァンニ」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第154夜


 1987年ザルツブルク音楽祭におけるライヴをLDで視聴しました。カラヤンは交響曲や管弦楽曲では問題があるが、ほとんどのオペラの演奏の大半は素晴らしい。それは彼が歌手の声をよく知って彼らの最上の歌わせ方を心得た伴奏をしているからでしょう。

マエストロの晩年のこのモーツアルトでもその特性はぞんぶんに生かされ、とくにドンナ・アンナのアンナ・トモワ=シントウと ツェルリーナのキャスリーン・バトルの歌唱は素晴らしい。不調のドンナ・エルヴィーラ役のユリア・ヴァラディでさえ難アリアをなんとか歌いおおせ聴衆の拍手を頂戴できるのもひとえにカラヤン御大の適切なテンポの設定によるのです。

演出はどんな場合でも安心してみていられるベテランのミヒャエル・ハンペ。冒頭でドン・ジョヴァンニに犯されたドンナ・アンナが、暴漢を憎んで右手にナイフを握りしめつつも左手でその男の右肩を抱いてしまう箇所などにその真髄が表れていますが、広大なザルツブルクの劇場空間をたっぷり使ってきわめて巧みな場面転換を見せています。
とりわけ終幕のドン・ジョヴァンニの地獄落ちの美術セットは宇宙的な光景を招来させて見事。これでこそ悪の帝王と人知を超えた天帝との対決のスケールが表現できるのです。

しかしモーツアルトがこのオペラをウイーンで再演したとき、第2幕の最後の6重唱はカットされ、音楽はドン・ジョヴァンニの地獄落ちで突然停止しました。保守反動の街ウイーンとヨーゼフ2世へのモーツアルトの命懸けの抵抗です。

映画「アマデウス」でもそのシーンは再現されていましたが、それでこそ絶対の自由を志向する反逆児の権力への拒否が活かされる。
「ノン! ノン! ノン!」とペトロのように3度否認した音楽は突然空中分解し、強烈な不協和音をまきちらしながらその場で急停止します。

その瞬間に訪れたものは恐るべき沈黙。そしてそこにのっぺらぼうのようにひろがった神も世界も無い空虚な時空の裂け目を正視できたものはひとりもいないでしょう。反逆児を呑みこんだ天界もまた即死したのです。神も人も無き無間地獄を見せる。それがこの天才のとほうもない仕掛けでした。

 よく気をつけてみれば、(女声はともかく)このオペラの男性の歌い手でテノールはまことに地味な役柄のドン・オッターヴィオただ一人しかいません。しかし管弦楽も低弦が強調されて異様に分厚い。「ドン・ジョヴァンニ」は、生きとし生ける者が地べたを這いずり、のたうちまわり、死から始まって地獄で終わる重々しいドラマであるがゆえに、かつて同じ音楽祭で上演されたフルトヴェングラーのライブを凌ぐ演奏は稀なのです。
モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』全曲キャスト ドン・ジョヴァンニ:サミュエル・レイミー ドンナ・アンナ:アンナ・トモワ=シントウ ドン・オッターヴィオ:エスタ・ヴィンベルイ 騎士長:パータ・プルチュラーゼ ドンナ・エルヴィーラ:ユリア・ヴァラディ レポレロ:フェルッチョ・フルラネット マゼット:アレクサンダー・マルタ ツェルリーナ:キャスリーン・バトル ウィーン国立歌劇場合唱団  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(コンマス ゲルハルト・ヘッツェル) ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮) 
演出:ミヒャエル・ハンペ 映像監督:クラウス・ヴィラー 収録:1987年 ザルツブルク音楽祭[ライヴ] 収録時間:189分


飛蝗共が喰うたる紫蘇を食らうかな 茫洋

Thursday, August 05, 2010

山本薩夫監督「不毛地帯」を見ながら

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.34

「金環触」と同じ監督の作品ですが、今度は山崎豊子の原作の前半部を仲代達矢と陸軍時代の戦友役の丹波哲郎が熱演します。

最後に熱血漢の丹波が鉄道自殺して主人公が悲涙に暮れるところなぞはおもわずほろりときますが、しかし待てよ。
そもそもシベリア帰りの主人公が、大阪のえげつない成りあがり商社に志願して、自衛隊の次期戦闘機の商談に加担していくことになったそもそもの動機がさっぱりわかりまへん。

旧軍隊はもうこりごりだから平和第一主義の民間企業を目指すというのは分かるが、多くの部下たちをいろんな会社にシュウショクさせた凄腕にくせに、他ならぬ自分をなりふり構わぬごきぶり商社に売り込むその料簡がまことに茫洋呆然だ。

そんなに繊維取引をやりたかったなら本町や丼池筋の小さな繊維問屋にでも潜り込めば良かった。それができなかったということは、まだ第日本帝国陸軍の超エリートという権威と地位のおおいさの幻影にしっかりとりつかれていたのでせう。

どうもこの元大本営参謀は、戦争中も戦後になってもその身の振り方にいかがわしいところが感じられ、たかが映画の中の役どころとはいえ、こういう悲劇を生みだす源泉は隗自身にありと言わざるを得ません。

新興商社の社長が元大本営参謀をどのように利用するかが分からずにリクルートしてくるようなあまったれ小僧だからこそ、大本営はあまったれた空想的で非現実的な作戦しか企画立案できなかったのです。

もちろん私は映画に文句をつけるというより、この映画の主人公壱岐正のモデルとされる瀬島隆三という人の生き方にいちゃもんをつけているのですが、この映画は敗戦で結局なにも学ばなかった兵士は、敗戦後にもふたたび同じように世界と人倫に対して過ちを犯すという不変の真理を3時間にわたって汗水たらして物語っているのだと思います。

かつて誰かさんがいみじくも語ったように、歴史は繰り返すのです。一度は悲劇として、二度目は茶番として。


その茗荷も少し大きくしてから食らうべし 茫洋

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第16回

bowyow megalomania theater vol.1

11月1日 晴

けさ、のぶいっちゃんとひとはるちゃんが僕のところへやってきて、
「おい、岳。今からおれたちどっか遠いところへ逃げよう。公平も文枝も洋子も一緒だ。」
と言いましたので、僕とのぶいっちゃんとひとはるちゃんと公平君も文枝と洋子は6人組になって運動場の鉄棒のところにいっぺん集まってから星の子学園の裏山に登りました。

登りながら逃げました。

おととい台風がやってきて大雨が降ったので道はぬかるんでいました。
文枝が転んでスカートが泥だらけになったので、みんなでふいてやりました。

裏山のてっぺんのところから星の子学園を見下ろすと、ちょうど午前中の仕事が終わってみんなが作業室から出てくるのがよく見えました。

考二と敏が晴美にちょっかいを出したら、長島先生に怒られてぶん殴られてベソをかいている姿もはっきり見えました。

「岳、もう星の子なんか行かなくてもいいんだよ」
とひとはるちゃんがやさしくささやいたので、僕はほんとうにうれしくなりました。

ばんざーい! ばんざーい!


まいにち三浦スイカむさぼり食らう快楽 茫洋

Tuesday, August 03, 2010

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第15回

bowyow megalomania theater vol.1


10月31日

逆。其んな事、したら、汚れちゃうよ。

もっと広げなさい。岳君、那須先生に。圭君。圭君。

1月、2月、3月、4月、5月、6月、7月、8月、9月、10月、11月、12月。

お父さんに見せて、貰いなさい。岳君。

此れ。御願いします。

チャンと遣るから。今日、遣らないから。又遣ります。

ああ、頭が痛い。頭が痛いおう。割れそうだおう!



たとえ世界が滅ぶとも我のみは生きるぞと1億の民草 茫洋

Monday, August 02, 2010

山本薩夫監督「金環触」を見る

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.33

1975年製作の大映映画を、夏の夜長を居眠りしながら見るともなく眺めておりました。

まずは九頭竜ダム落札事件をモデルに、保守政党の総裁選挙に端を発した汚職事件を描いた石川達三の原作を見事に劇化した田坂啓の脚本がよくできています。
ために山本の演出の切れ味が冴えわたる。池田、佐藤政権時代の自民党政治の内幕が、まるで赤塚不二夫の漫画のように面白可笑しく描かれていてあきさせないのです。

そして腐敗堕落した政財界とマスコミ、土建会社の面々を演じる役者たちのなんと絢爛豪華なことよ。

とくに凄いのは前歯をむき出しにしてあほばか面を画面いっぱいに全開する希代の詐欺師森脇将光を演じる宇野重吉その人です。マッチポンプ代議士田中彰治役の三国連太郎を凌ぐ存在感をみなぎらせて秀逸。冷徹な官房長官黒金泰美役の仲代達矢を完全に喰ってしまっている。とりわけ田中彰治が森脇を接待するキャバレーの色と欲のシーンはこの70年代を代表する映画のハイライトといえるでしょう。

ぎらぎらと野心と欲望をむき出しにする怪しき男どもが暗黒界にうごめくとき、男優陣の陰に隠れている池田首相夫人の京マチ子や森脇の女中村玉緒、大塚道子、長谷川待子、鹿島建設が黒金に提供した安田道代、夏純子などの女優陣があたかも金環触の外輪のように妖しく輝く。

これは政治と汚職に材を借りた男と女の真夏の夜の供宴映画ではないでしょうか。


超高層の億ションペントハウスに住むという男の自慢を白々と聞く 茫洋

梟が鳴く森で 第2部たたかい 第14回

bowyow megalomania theater vol.1

10月30日

また台風がやって来ました。台風20号と21号です。

その前の19号は僕のウチの屋のカワラをぜんぶぶっとばしてゆきました。

こんどの20号と21号が、お隣とそのお隣も家ごとぜんぶぶっとばしていったら超おもしろいです。

台風が2つ3つばかりじゃなく、20も30もいっぺんにやって来て日本全国ぶっとばしていったらゆかい痛快です。

日本も世界も大あらしになって、大水になって、人もけものも生き物がすべてあっぷあっぷになっちゃって、のぶいっちゃんとほとはるちゃんと公平君とケイスケと雄二と洋子と麻衣と文枝とかおる子と僕とみんな一緒に大きな大きな船に乗って世界中が沈没していくのを眺めてみたいです。


一生に一度は誰もが叫ぶ言葉アプレヌ・ル・デルージュ! 茫洋