照る日曇る日 第362回
ナボコフといえば「ロリータ」しか知らなかったが、これは回想も小説もロシア、ソヴィエトの社会思想史も味噌も糞もなにもかも詰め込んだ一大ごった煮大河長編である。
いちおう主人公はいて、随所で帝政末期の社会思想家チエルヌイシェコフスキーの思い出話や交友録をやらかすが、全編の中での位置づけは読めども読めども霧の中、はたしてこの難破船はどこへ行くのやらと首をかしげているうちに600ページの終わりに到達してしまうというげに奇妙奇天烈な読み物なり。
文中ゲルツエンやドストエフスキーやツルゲーネフやレーニンの話まででてくるので文学趣味やらロシア好きの人にはお薦めできるが、さてそれでは作者はいったいなにをいいたいのかと考えてみるも、その答えは吹きすさぶロシアの憂愁の風の中にしかないのだ。
よって、このけったいな文学的アマルガムを、苦し紛れにロシア風味のプルーストとかジョイスとレッテルを貼る自称ヒョーロンカがいても不思議ではないだろう。
そんな迷走小説のなかで私が惹きつけられたのは、作者の2代続きの蝶への偏愛であり、人類よりも鱗翅目を好む私は、ロシアのシロチョウの渡りや、少年の肩に止まるタテハチョウについての素晴らしい記述にうっとりと耳を傾けたことだった。
例えば第2章の次のような文章を読んでほしい。
「青い空を移動する細長い帯は雲かと思うとじつは何百万ものシロチョウの群れで、丘を越えてやわらかに滑らかに昇っていったかと思うと、今度は谷の中に沈んでいき、たまたま別の黄色いチョウの雲に出会うことがあっても、ためらうことなくその中に入り込んでみずからの白を汚すことなく先へ先へと漂っていき、夜が近づくと思い思いの木々に止まり、木々は朝までそのまま雪を振りかけたようになる。そしてシロチョウたちは、また飛び立って旅を続けるのだった。」
普通の作家ならこれで文を閉じるだろう。しかしこれに続けて、
「でも、どこに向かって? 何のために? その問いに対する答えは自然によってまだきちんと語られてはいない。」
と書いてしまうところが、いかにもナボコフだと思うのである。
空高く青に溶け入る2羽のシロチョウ 茫洋
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