Monday, August 23, 2010

井上ひさし著「一週間」を読んで

照る日曇る日 第364回

本書は偉大なる演劇作家井上ひさし氏の最期を飾るにふさわしい長編小説です。

腰巻のコピーをそのまま引用すると、「昭和二十一年早春、満州の黒河で極東赤軍の捕虜となった小松修吉は、ハバロフスクの捕虜収容所に移送される。脱走に失敗した元軍医・入江一郎の手記をまとめるよう命じられた小松は、若き日のレーニンの手紙を入江から密かに手に入れる。それは、レーニンの裏切りと革命の堕落を明らかにする、爆弾のような手紙だった……」というような内容です。

たしかに梗概としてはその通りなのでしょうが、それではこの本の魅力が伝わらない。本書のいちばんの面白さは、作者がそういうちょっと気のきいたプロットを用いて戦争の生み出す残酷なまでの悲劇を見事にえぐり出した点にあるのではなく、たとえば「一週間」という表題を一瞥した一読者が、

「こいつはロシア物の小説だから、きっと♪日曜日に市場に出かけ糸と麻を買って来た。テュリャテュリャテュリャリャーというロシア民謡に関係があるに違いない」

とにらんだとすれば、はたせるかな作者は、弾圧や玉砕やツンドラや収容所内部の抗争や強制労働や皇軍上層部の腐敗と堕落や撲殺や拷問や陰惨なテロルや飢え死にや日ソ中立条約違反やヤルタ会談や冷戦の開始や極東裁判や二重スパイや革命家レーニンの裏切り問題等々を肌理細かに取り上げつつも、つねに裏声で♪テュリャテュリャテュリャリャーとハミングしていることなのです。

レーニン→スターリン独裁制と英雄的かつ漫談的に戦う日本軍兵士の七日間の出来事を♪テュリャテュリャテュリャリャーと鼻歌交じりにでっちあげ、あくまでも史実に寄り添うふりをしつつ、史実全体をこけにするこのドンキホーテ的な超楽天主義&夢想主義、現実が絶望的であればあるほどそこに希望を見出す強靭で頑固でどんくさい魯迅主義こそ、この作家の真骨頂と言わなければなりません。

それにしてもこの素晴らしい才能の持ち主が、かつての細君に対して殴るけるの暴行を加えたにもかかわらず、反省の一言もなく泉下の人になりおおせたとは、実に不可解にして不愉快な話です。


待ち待ちて今年咲きける天青の空の蒼よりなお青き藍 茫洋

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