照る日曇る日 第363回
剣豪宮本武蔵を新しい視点から対象化した興味深い小説です。
細川家の剣術指南役に雇用された武蔵は、先任者の佐々木小次郎と船島(後の巌流島)で対決しますが、細川家では徳川家の政教分離方針によるキリシタン切り捨て政策がお家騒動と同時に進行しており、ほんらい武道家の練習試合であったはずの両雄の対決は真剣勝負に格上げされ、武蔵に敗れたキリシタンの小次郎は、その直後に家臣たちによって殺害されたというのです。
小次郎は秘剣「ツバメ返し」で有名ですが、武蔵は彼の武器である「物干し竿」の長さを4尺3寸と想定し、これをわずかに上回る4尺6寸の軽快な木刀を自作します。
作者の測定によればその木刀の重量比は小次郎の真剣に対して1対0.45であり、両者が同等の力、同等の回転駆動力(トルク)で振った場合、武器が同じ背格好の相手の脳天に達する時間は、小次郎0.1秒、武蔵0.082秒になることが計算でき、その科学的!な仮説を実践したことが武蔵の勝利に結びついたと作者は説くのです。
ここら辺は、作者の「秀吉による信長本能寺謀略説」と同様、あるいは梅原猛氏の古代史観と同様に、実際にはかなりの程度うさんくさいものですが、既存の俗塵にまみれた旧説を新しい知見を駆使して根本的に見直そうとするその意欲に、多くの読者はいささかの感銘を受けることでしょう。
小次郎を葬ったあとも武蔵は、孤高の剣士として、武人として、下手くそな絵画師!として各地を放浪しながら活躍を続けます。
かの大坂冬の陣では真田信繁の参謀として、夏の陣では徳川方の助っ人として、また天草四郎の島原の乱では小笠原軍の一員として相変わらず血なまぐさい争闘の現場にかけつけようとするのですが元和偃武の戦国の世の終焉と共に、この希代の武闘家にも穏やかな黄昏が訪れ、一代の思想書「五輪書」を書き上げた武蔵は、肥後細川家の庇護の元に正和2(1313)年5月、全身に甲冑を身につけたまま人間臭い一生を全うするのです。
そしてそんな「最後の侍」宮本武蔵の、これまであまり知られていなかった多彩な活動を、大胆な想像を交えながらいきいきと描きだしたところに、本書の価値があると思われます。
食を断ち甲冑を纏い木乃伊となりし武蔵かな 茫洋
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