照る日曇る日 第365回
今度は同じ作者による戯曲の遺作です。
築地警察の特高刑事たちによって虐殺された小林多喜二が主人公です。築地には電通と歌舞伎座と都立中央図書館とマガジンハウスがあったので、その前をよく行き来していましたが、「成程ここが多喜二をなぶり殺しにした警察署か。それで入口がどこか不気味で暗いのか」と思いつつしばし立ち止まり、門番のおまわりさんを得意の三白眼でにらみつけたりしたものです。
そのおぞましい、身の毛もよだつ拷問シーンが出てきたらどうしよう、と心配していたのですが杞憂でに終わり、そこはなぜかはスマートに避けてあったので、「さすが井上よのう」という気持ちと、肩透かしされて物足らない気持ちの両方が読み終えたあとから押し寄せてきました。
帝国戦時暗黒時代の残酷で血なまぐさい生の現場はすでに歴史的事実であるとしてパスし、あえて括弧に入れてその周縁を喜劇的に劇化することによって、括弧に封じ込められた真実を一人一人の観客に想像させ、現代に呼び出そうとする作者一流の手法は、同じ作者の遺著『一週間』でも採用されていましたが、この洗練された?方法が反対方向に作用して、あたかも「括弧の内部には何もなかった」ような印象に陥る弊害があることも事実です。
例えば、お尋ね者の多喜二に何度も肉薄しながら結局逮捕できず、敵でありながら多喜二のシンパのような奇妙な役割を与えられている2人の刑事のありようは、「不思議」と「意外」の域を通り越して、「現実無視」のそしりをまぬかれないのではないでしょうか?
かつての歌声運動最盛期の共産党ではあるまいし、敵と味方がやたら声を揃えて和風オペレッタを歌いまくり、劇と現実のドラマツルギーを抒情と詠嘆のオブラートにまぶして予定調和的にフェイドアウトさせようとしているのも、少しく安易な演劇作法ではないでしょうか?
いくら官憲による多喜二虐殺事件をソフィスティケートしても、虐殺は虐殺であり、けっして「組曲」などに音楽的に転化されるやわな性格のものではありません。
「二度と『蟹工船』のような小説を書けないようにしてしまえと右の人差し指を折られた多喜二。体の20か所を錐で刺された多喜二」などと登場人物に語らせてよしとするのではなく、その鮮血淋漓の修羅場を舞台にかけて欲しかったと思うのは、私だけなのでしょうか。
もしも今は亡き作者が、真夏の夜に甦ってそのような改訂版をこの世に贈ってくれたなら、私のように極端に暴力と苦痛と出血に弱く、今朝右翼から拷問されれば超右翼天皇制支持のファシストへ、夕べに左翼から拷問されればただちに極左冒険主義テロリストへとまるで時計の振り子のように寝返るであろう、臆病で無思想で「命あってのモノだね主義者」も、もっと根性を入れて観劇できると思うのですが。
ツイッタアにうつつをぬかす馬鹿ものの脳味噌の底で腐りゆく蛆 茫洋
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