Sunday, September 30, 2012

西村雄一郎著「殉愛 原節子と小津安二郎」を読んで



照る日曇る日第542

家から歩いて10分くらいのところにこの大スタアが住んでいたので、けっしてパパラッチということではなくて散歩がてら浄妙寺まで出かけたものだったが、家内と違ってとうとうその実際のお姿を瞥見することは叶わなかった。

小学館の元編集者でかの「日本国憲法」をものした島本脩二さんも、かつてここで何日も張り込みを続けたそうだが、結局駄目だったという。

浄妙寺の隣の熊谷さんと家内は顔見知りだったが、その熊谷さんの父親が原節子の姉の連れ合いであり、戦前戦後に活躍した映画監督兼プロデューサーであり、この「永遠の処女」の処女を奪ったかもしれない、などと噂されているとは知らなかった。

その噂を信じた東宝の元社長の藤本真澄が原節子への恋を諦め、しかし彼女を経済的に庇護し続けたのみならず、パパラッチどもの特ダネ情報の公表を何度も阻止していたとは、これまたついぞ知らなかった。

そういう下世話な話が満載の実録ドキュメンタリーでもあるのだが、本書は表題のとおり、この日本映画界を代表するビッグネームが生涯にわたって貫き通したプラトニック・ラヴを巡る考察と推論であり、「麦秋」などの作品に影を落とした彼の戦争体験について具体的に言及した初めての解説書でもある。

小津の有名なロー・アングルは、正確には「ロー・ポジション、水平アングル」であることや、全作品で台詞のラスト10コマと次の台詞の冒頭の6コマの合計16コマ、3分の2秒が必ず空けられており、これが彼の映画に独特のテムポを創造したことなども、私は本書で初めて教えられた。

こういう人の娘さんならと結婚しましたいまの家内と 蝶人


Saturday, September 29, 2012

西暦2012年長月 蝶人狂歌三昧





ある晴れた日に 114 


一度だけマリア・カラスのように歌ってみたいな五七五七七で

横須賀のマクドナルドで口にした1杯100円のコーヒーの不味さよ

この期に及んで右肩上がりの成長を夢見る左前左巻きのオッサンたちよ

現世の有象無象を見下して君は最後のネアンデルタール人

われもまた2002年夏の海の点景となり終せぬ

音楽かはた雑音かこの凄まじきクマゼミの声

鎌倉のカドキホールは今日も葬儀天国も地獄も満員だろう

鎌倉では毎日毎日人が死ぬ天国も地獄も満員だろう

いつの日にか君は大成するというそれまでわれは生きておるべし

朝っぱらから小説を読んでいる極道映画を見ている横着者

掲示版に訃報が二枚八月尽

蝉が鳴くお前は去年の蝉ならず

蝉時雨行方不明者は見つからぬ

蝉時雨妻子の居らぬ一軒家

迷蝶のさして迷わず飛びゆけり

風天の虎と発する革命戯

荻と萩の区別がつかぬ男かな

秋雨やガソリンスタンド終業す

秋茄子を一袋百円の有り難さ

白露過ぎわが陰嚢の冷たさよ

今日もまた時給40円の労働に汗を流す子我が子愛しや

地の果てに斃れし君は世の光地の塩の如く今も耀く

この夏も現れ出でたる大ウナギ毎晩川を悠々と泳ぐ

こんな長さのこんなぶっといウナギでねと腕がどんどん伸びてゆく

昔阪神、次横浜、今ヤクルトという無節操者のわたしでございます

一日に一句を詠んでいるのは辞世の句を練習するため

外国では胃ろうなぞせぬと聞く死ぬときは死ぬがよかろう

たった一匹のお前のために蚊取線香もうもうと焚く

スマホで笑いfacebookで泣きtwitterで怒り狂うあなた

殺せと命じられたら躊躇いつつも殺してしまう人間とは弱き者なり

現れ出でよ周恩来のような中国人田中角栄の如き日本人

ひばりやカラスのやうに歌ってみたいなある晴れた日に

山からうみへどどししどっど死地に乗りいる四騎あり

窓を開ければマサイの戦士がライオンを狩るアフリカケニアのムパタホテルよ 

横浜の港の先に突き出たるハンマーヘッドはアートの目印


北枕でくわくわ寝ている息子かな 蝶人


Friday, September 28, 2012

「ドナルド・キーン著作集第5巻」を読んで




照る日曇る日第541

この巻では永井荷風、伊藤整、高見順、山田風太郎などの日記を縦横無尽に引用して論じた「日本人の戦争」と、キーンをはじめとする米軍日本語将校が終戦直後に取り交わした書簡集「昨日の戦地から」の2冊の書物が併録されている。

前者は以前ここで紹介したことがあるので別途ご笑読して頂くとして、後者では戦勝国の軍人として中国や日本の人心風土混乱の状況を冷静に観察する元アメリカ人の著者の、歯に衣着せぬ「非文学的発言」が聞かれて興味深い。

とりわけ青島で親しくなった紳士的な日本軍将兵が無辜の中国人を斬に処したのみならずその肝臓を取り出して食したという情報に接し、周章狼狽するくだりが飛び出したのには驚いた。

著者は悩んだ末にその将校に尋問を行って有罪の確証をつかみ、結局事態の収拾を当局の手に委ねる。ほとんど著者の親友同然であったその将校は、その後恐らくB級戦犯として絞首刑になったと思われるが、このような戦争中の敵に対する殺戮の責任をどうとらえるかは、今も昔も難しい。

当時の中国戦線で、二等兵である私が、下士官から「スパイ容疑の現地人を刺殺せよ」と命じられたら、恐らく拒否することは出来なかっただろう。そしてその種の同じ「罪」を犯しても、その責任の追及が勝者と敗者の側に因って根本的に異なるという不条理は、もはや運命の悪戯という他はない。


殺せと命じられたら躊躇いつつも殺してしまう人間とは弱き者なり 蝶人


*「日本人の戦争」余滴

Thursday, September 27, 2012

ジョン・ウー監督の「レッドクリフ前後編」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.318319

後漢末期の紀元208年、大軍を催した魏の曹操に対して、少数精鋭の蜀の劉備と呉の孫権の連合軍が長江の赤壁で激突した故事を「男たちの挽歌」のジョン・ウーが演出した超大作である。

あらすじはどうでもよろしいが、「三国志演義」や史実ともかなり違うお話になっている。

ともかく水陸両方にわたってともかく弓矢や鉄砲や火の玉が雨あられのように飛び交い、武装した戦士たちがどんどん死んでいく。関羽や張飛などの超人的個人技がソロ演奏のようにフューチャーされるシーンも漫画的に楽しめるし、スーパー大活劇戦闘大スペクタクルを、これでもか、これでもかと最新デジタル3D技術を駆使して繰り広げてくれるので文句なしに面白い。大河や広原で戦闘シーンではそうとう大勢のエキストラが死亡したのではないだろうか。

これらのチャンチャンバラバラは、蜀の劉備の軍師諸葛亮孔明と呉の孫権に仕える周瑜の合従連衡工作に伴う友情とライヴァル意識を軸に展開されるが、なんといっても周瑜の妻を演じる林志玲が愛らしく、結局この映画は彼女の美貌を顕彰するために製作されたようなものである。


現れ出でよ周恩来のような中国人田中角栄の如き日本人 蝶人


Wednesday, September 26, 2012

マイケル・カコヤニス監督の「その男ゾルバ」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.317


原題はただの「ギリシア人ゾルバ」。この映画を見て驚いたのは、クレタ島の住民の余所者と仲間内の異端者に対する恐るべき敵意と反感であった。

彼らは外部から訪れた我らが主人公(アラン・ベイツ)が島一番の美女(イレーヌ・パパス)と恋に落ちて一夜を共にしたと知るや、(まるでヨハネ伝第8章に出てくるような光景!)、全員で石を投げつけ、あまつさえ(まるで子羊をほふるように)ナイフで喉を切り殺してしまうのであるが、かつての華やかな古代文明をになった末裔たちがこんな野蛮な振舞いを実際に行っていたのであろうか?

もしもそうならとんでもない話であるし、事実無根ならこの映画の描き方に対してきちんと提訴するべきだろう。

それにしてももしこれが実話で、おのれが愛した美しい未亡人が村人に虐殺される現場に居合わせた物語の主人公が、何もしないで傍観していたならこれこそ天人絶対に許されない行為だと思う。

そしてこの哀れな未亡人役を演じるアラン・ベイツとともに比類ない人物造型を示すのはフランスから村に漂着した元踊り子のリラ・ケロドヴァ、そして表題ゾルバ役のギリシア人を演ずるアンソニークインで、特に後者の人間マグマのごとき不滅の存在感はさながら「最後のネアンデタール人」のようだ。


現世の有象無象を見下して君は最後のネアンデタール人 蝶人

Tuesday, September 25, 2012

フランソワ・トリュフォー監督の「大人は判ってくれない」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.316

原題は「LES QUATRE CENTS COUPSで、これはギヨーム・アポリネールの「一万一千本の鞭」(Les Onze Mille Verges)をトリュフォーが「引用」したものだと思われるが、トリュフォーが、少年時代の自分が400回の殴打」を受けたと言いたがっているのに、それを「大人は判ってくれない」などとしたり顔で勝手に代弁するのは間違いである。よく映画を見れば「判る」が、彼はそんなことを言いたかったのではない。

ゴダールの「À bout de souffle」を「勝手にしやがれ」などと強引に改変したり、坂本九が歌う「上を向いて歩こう」を「SUKIYAKI」などに変えてしまう人間が、私は大嫌いである。

それはともかく、トリュフォーも酷い親に育てられたものだ。長じてこういう自伝的映画を撮ったわけだが、不思議なことにそこにひとかけらの憎しみも混ざっていないことに驚くとともに涙する。トリュフォーの美脚フェチは有名だが、それは母親へ複雑意識と結びついていたんだね。

有名なラストの長回しは何回見ても感動的だ。海に向かって走っていた主人公をロングで捕えていたキャメラが回りこんで無表情な少年の顔を突然クローズアップして静止するのだが、この瞬間に観客は主人公に向き合わされ、それが映画ではなく自分たちの問題でもあることに気付かされる。映画によって巻き込まれたと感じた瞬間に映画が終わってしまう。

その後トリュフォーはたくさんの映画を撮ったが、これが一番の傑作かもしれないな。


鎌倉では毎日毎日人が死ぬ天国も地獄も満員だろう 蝶人

Monday, September 24, 2012

山田洋次監督の「男はつらいよ」第1作を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.315


 ここでいきなり画面に乱入してくる寅次郎は怒れる侠客であり後年の円熟して謙虚で穏やかな寅さんの姿ではない。妹の見合い結婚をぶち壊す乱暴狼藉は、ほとんど狂気の沙汰である。

私はここで寅次郎の姿を借りて原作者の血肉の奥底に潜む幸福で平和的な市民生活、学歴があり高収入で豊かな生活を享受している人間に対する嫉妬と羨望と憎悪ということを思う。

そしてこの己の頭上に神々しくそびえる富裕階級に対する理由なき軽蔑と拒絶こそが、今も昔も原初的な革命への衝動を準備するのである。

けれども20年振りに懐かしい故郷に戻った道楽息子は次第に温和な小市民と化し、みずからの存在理由をどんどん喪失してゆくのだが、その都度ぎりぎりの土壇場で負け戦の現場を逃走し、そのことによって革命児としてのみずからを鍛え直すのであった。

風天の虎と発する革命戯 蝶人

Sunday, September 23, 2012

私と短詩形文学




バガテルop159


近代俳句の元祖はやはり正岡子規であろう。その流れを継いだのが正統派の高濱虚子と異端派の河東碧梧桐で、俳句の未来はやはり今でも後者の流れの中にある。

なにが客観写生だ。なにが花鳥諷詠だ。写生よりも、むしろ射精せよ。もっとロックせよ! もっとパンクせよ!

それにしても、「季語」というやつが問題だ。旧暦ならともかく新暦の時制の元でこれにこだわり、これを義務付けるのは愚かなこと。かえって発句の本心を取り逃がす結果になる。だから私は言う。くたばれ季語。

季語を義務付けた俳句や連歌を作ろうとするとおのずと空疎な技巧に傾き、無季の俳句や口語短歌を吐きだすときに、私の心はおのずから解放される。

季語は短詩の中でいわば明喩の役割を果たしている。明喩は隠喩に比べて低級であるなどと吉本隆明のように決めつけるつもりはないが、それが詩の強度を補強している代わりに意味の重層性を損なっていることは確かである。

俳句はショパン、短歌はモザールの音楽作りに似ている。前者は単細胞にして核心は一つ、後者は複合細胞からなり、その核心は二つある。短歌作りの要点は鶯のように歌いながら、その二つの点を「うまく」結ぶことである。

言語にとって美など存在しない。我々が人間の大脳前頭葉の内部で言語の美醜を感知するだけの話だ。

俳句も短歌も、その本質は歌である。世間には歌を忘れた歌だけ氾濫している。歌を忘れたカナリアも、歌いたくなればどんな歌を歌ってもよろしい。が、歌いたくないときは、口を閉じよ。

マリア・カラスや美空ひばりは、歌いたくないときには歌わなかった。と、私は確信している。われわれもそうすべきだ。


ひばりやカラスのやうに歌ってみたいなある晴れた日に 蝶人


Saturday, September 22, 2012

「古井由吉自撰作品四」を読んで



照る日曇る日第540


その日、下駄屋の息子の僕は下駄ばきだった。出町柳から八瀬まで叡山電鉄で行き、そこから叡山ロープウエイに乗って終点で降りた。降りたのは僕たち四人だけだった。

時刻はまだ早く、午前九時くらいだった。駅の目の前にお化け屋敷があり、学生アルバイトが盛んに客引きをしていた。僕たちは別にお化け屋敷に登るつもりは毛頭なかったのだが、急ぐ旅でもなし、ちょっと寄って行こうかということになった。

入口の手前で五,六人の学生が立ち話をしていたが、呼び込みの学生が、「さあお客さんだよ。早く持ち場についた、ついた」と声をかけると、吸いさしの煙草をその場に投げ捨てて三三五五屋敷の内部に入っていった。

最初の部屋に入った途端、ヒュードロドロという音が聞こえたので、僕はたまらず「わあ!」と叫んで入口まで全速力で引き返すと、だいぶ前まで進んでいた友人たちも仕方なく戻ってきた。

それから態勢を整え直した僕たちは根本中堂に集結し、口々にラアラアと叫びながら切り立った断崖絶壁から坂本めがけて四匹のましらのように突進し、数時間かけて琵琶湖畔に呆然と立ち尽くしていたのだが、そこで遭遇した様々な物の毛や奇怪な想念などについては本巻に収録された「山躁賦」を参照してもらいたい。

茫々数十年、青春の門に立った洟垂れ小僧たちがその後いかなる運命を辿ったかについては、誰も知らない。

山からうみへどどししどっど死地に乗りいる四騎あり 蝶人

Friday, September 21, 2012

「2012年夏のルツエルン音楽祭」を視聴して



♪音楽千夜一夜 281

 指揮者クラウディオ・アバドの人格を慕って多くの楽人が参加して妙音を奏でるこのフェスティバルでは、ベートーヴェンの劇音楽「エグモント」とモザールの遺曲「レクイエム」が演奏された。

 前者ではセルの名演には及ばないにしても、朗詠のブルーノ・ガンツのお陰でまずまずの好演がもたらされたが、バイヤー版(第11曲の「聖なるかな」のみレヴィン版)で演奏された後者ではいささかの問題があった。

 第5曲までは無難な経過を示していたアバドだったが、第6曲のへ長調レコルダーレの冒頭でチエロの入りに明確なテンポの指示を怠り、あろうことか奏者の恣意にまかせてしまった。

 激しく動揺し、顔を見合わせながら2挺のチエロがおずおず奏ではじめたこの中途半端なアンダンテ4分の3拍子が、この曲および第7曲のラクリモーサ以降の演奏に与えた悪影響はまさに致命的で、スエーデン放送合唱団の熱演にもかかわらず普段のマエストロらしからぬ凡庸な出来に終わってしまったのは誠に残念な仕儀であった。

好漢アバドに望みたいのはもういちど師匠カール・ベームによる同曲の「正しい」テンポを改めて確認し、次回の演奏に備えてもらいたいという一事である。

NHK-BSに因るこの日の録画には、やはり本年4月にアーノンクールがロイヤル・コンセルトヘボウ管を指揮したベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」ニ長調のライブも添えられていたが、冒頭のキリエや終曲のアニエス・デイのテンポがまったく異常な遅さで、それがこの鬼面人を驚かせることだけを生きがいにしている奇怪な音楽家のいびつな姿を物語っていた。アーノンクールには、もういちどクレンペラーの「ミサソレ」の録音に謙虚に耳を傾けることを望みたい。


音楽かはた雑音かこの凄まじきクマゼミの声 蝶人

Thursday, September 20, 2012

シドニー・ポラック監督の「愛と哀しみの果て」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.314


原題の「Out of Africa」にこのような紋切り型の愚劣な邦題をつける映画会社の神経を疑うが、広大なアフリカの原野に流れるモーツアルトの音楽が印象的である。

以前鑑賞した時はてっきり二三番のピアノ協奏曲だと思っていたのだが、そうではなくてシフの演奏によるトルコ行進曲やジャック・ブライマーによるクラリネット協奏曲などであることが分かった。人の、否私の記憶なぞあてにならないものである。

メリル・ストリープはひたすら美しく、ロバート・レッドフォードはひたすらカッコ良く、やがてヒーローはケニアの大空に消え、ヒロインはコーヒー農園を畳んで故国デンマークに帰るのだが、一等強烈な印象を与えるのはアフリカの大自然の素晴らしい光景であろう。

この映画を見ながら私は、若くして不慮の事故で死んだ作家の景山民夫さんのことを思い出した。彼も私も障碍のある子を持つ身で、同病相哀れむではないがお互いの苦労を語り合っていると、当時アフリカのケニアにホテルを造ったばかりの編集者の小黒一三さんが、「んなものアフリカに来れば一発で治ってしまうさ」と彼一流の言い方で慰めてくれたことがあった。

わたくしの長男のカナー氏症候群の原因は「病気」ではなく、脳の先天的な機能障害である。残念ながら最新医学による手術や薬品でもいまだ治療することは叶わないのであるが、その時アフリカの生んだ天才的画家ムパタの名を冠したそのホテルの窓を開け、サバンナを疾走するキリンとライオンの姿に呆然としている彼の姿がふと脳裏を過ぎったことだった。 


窓を開ければマサイの戦士がライオンを狩るアフリカケニアのムパタホテルよ 蝶人

*本日の特別付録は、この映画の原作「アフリカの日々」の書評です。



Wednesday, September 19, 2012

ロン・ハワード監督の「バックドラフト」を見て




闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.313

あの9.11を想起させるようなアメリカの消防士の活躍と悲劇をロン・ハワードが「コクーン」における凡庸な演出とはひとあじ違う冴えを見せて力強く描いている。

この映画を見ると消防士の闘いがどのようなものであるか、判ったような気になって来る。優れた消防士は、悪魔のような生き物である「炎」の動向を窺い、その爆発の危険を鋭く察知し、それが空気の中に潜んでいる間に飛び込んで消火・救命を敢行する職人芸の持ち主なのである。そこでは炎は不倶戴天の宿敵であると同時に、彼らを魅了する伴侶でもあり、そこから炎への愛に満ちた対話との戯れが生まれたりもするのである。

不慮の死で斃れた父親の跡を継いで消防士になった兄弟の屈折する感情とラストの大爆発&アクションシーンが見ものである。


今日もまた時給40円の労働に汗を流す子我が子愛しや 蝶人

Tuesday, September 18, 2012

ロン・ハワード監督の「コクーン」「コクーン2」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.311312


宇宙の彼方から地球のアメリカのフロリダになんたら星人がやって来て、海底に残された彼らの同族を救助しようとする。

その同胞は岩石で包まれた繭(コクーン)の内部に入っているのだが、このコクーンが保管されたプールで泳いだ死に損ないの老人たちがまるで若者のように奇跡的によみがえる、てな妙な噺で、ここでは宇宙人が回春剤として機能していることになる。

やっさもっさ色々あった挙句に、老人たちは、なんたら星人の招待に応じて永遠不滅の青春と不老不死を願いつつ宇宙の彼方に旅立っていくのでしたあ。

おらおめでたや。しかしほんとにそんな異郷で極楽生活をエンジョイできるのかしらね。

その後この映画の続編を見てしまったが、5年後に旅立った老人たちが地球に帰還してやっさもっさする噺だった。

なんたら遊星では極楽不死の生活をエンジョイできるが、地球で楽しみや孫たちとの共生は諦めざるをえない。さあ、どっちを取るかという選択をこもごも強いられるのだったが、遠い将来においてこういう悩みが現実のものになるかもしれない。人類が他者に対して賢明に振舞い良い子にしていればだが。

この映画はバハマで撮影されているのにもかかわらず、この天国的なリゾートの素晴らしさがてんでロケに活かされていない。ロン・ハワードってあんまり才能のない監督だな。


一度だけマリア・カラスのように歌ってみたいな五七五七七で 蝶人

Monday, September 17, 2012

ピエトロ・ジェルミ監督の「鉄道員」を見て



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.310


1956年にカルロ・ポンティが製作したイタリア映画の名作である。

頑固一徹の鉄道員とその妻、いずれも問題を抱える長男と長女。そんな家族を終始つなぎとめているのは随分年下の末子で、実際この映画の主人公は、天使のような少年サンドロのあどけない微笑である。 

社会主義もネオレアリズモもどうでもいいけれど、私はこのエドアルド・ネヴォラの汚れなき笑顔を見るたびに、あの有名な堀越高校の「太陽のごとく生きよう」という校訓を思い出すのである。

 ルイザ・デラ・ノーチェの慈母のごとき温顔も素敵だが、何度見てもため息が出るのは長女役を演じるシルヴァ・コシナの美貌で、私がこの映画を見るのはおもにそのためなのである。

カルロ・ルスティッケリの主題歌も素晴らしく、ことにサウンドトラック入りのエンデイングは、人世の哀歓をにじませる傑作中の傑作だと思う。


荻と萩の区別がつかぬ男かな 蝶人

Sunday, September 16, 2012

降旗康雄監督の「鉄道員(ぽっぽや)」を見て


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.309


降旗監督と木村大作、そして主演の高倉健の組み合わせはつねに妙に男子的であり、重厚長大にして鈍重であり、軽妙さとスマートさに欠け、例えば小津作品には流れている普通さや自然さが皆無であり、あまりにも日本的な湿度が高すぎるので、見ていて嫌になることが多い。

この作品でもそれは共通しているが、最後のクライマックスがあまりにも激烈なので、その涙、涙また涙の衝撃があらゆる七難を覆い隠して劇的な感動を与える。浅田次郎は本当に隅に置けない作家だ。

広末涼子は儲け役だが、あれではまるで痴呆のようで到底演技とはいえないし、こういう題材にうってつけのはずの大竹しのぶも随分控え目な演技だ。坂本龍一の主題歌は彼ならもっと出来る筈だが、いろいろ試行錯誤してこの線でまとめたのだろう。

この人の音楽は、どれも頭で考えた音楽なので良い作品であってもそれが気になるので自他ともに愉しめないのが最大の欠点。武満にもそういうところがある。なお坂本の娘美雨の歌唱はお母さんと違って絶望的に下手くそである。

音楽ついでにいうと、全体を通じて高倉健の妻だった江利チエミの持ち歌「テネシーワルツ」が頻出するがこれはどういう次第だったんだろう。


迷蝶のさして迷わず飛びゆけり 蝶人

Saturday, September 15, 2012

穴澤賢著・竹脇麻衣絵「明日もいっしょにおきようね」を読んで




照る日曇る日第539


もうこれで仕事が1カ月以上来ないので、気分を変えようと普段は読まない絵本を手にとってみた。

ある保健所で実際にあったという「でかお」という名前の捨て猫を巡るお話だが、こんなことが実際に起こるのか!というなかなかに感動的な物語であった。

いちおう犬でも猫でもどんどん捨ててしまう驕れるアホ馬鹿日本人に対する警告の書というスタイルになってはいるが、そんなことより、これはこの実話をごみ箱の中から探し出してきた作者たちのお手柄なのである。

とりわけ最後のページに添えられた「「明日もいっしょにおきようね」という一文こそ、プロの仕事といえよう。

そういえば2002年の2月に亡くなった我が家の愛犬ムクを最後に看取ったのは、1匹の名も無い茶色の猫だった。彼だか彼女だか分からないが、この野良猫は死に掛けのムクちゃんの犬小屋の中に同棲して星降る零下の寒夜をお互いに温め合い、食事を共にし最期の日々を生きたのだった。


いつの日にか君は大成するというそれまでわれは生きておるべし 蝶人

Friday, September 14, 2012

「古井由吉自撰作品5」を読んで




照る日曇る日第538

本巻ではいずれも福武書店から1983年に刊行された「槿」と1986年刊の「眉雨」の2冊の単行本を収録しているが、前者の方がはるかに読みでがあった。

 読みでがあると書いたものの、そこで2段組307頁にもまたがって延々と果てしも無く牛の涎のごとく書きつらねてあるのは、中年の男性の主人公杉尾と、同じく中年の女性、井出伊子、萱島國子、行きつけのバアの女将をめぐる精神と肉体の相姦関係、異様なまでの蝮の絡み合いである。

 そこでは主人公に犯されたことがあると主張する者や、実際に犯されてしまう者が登場するのだが、それであるかといってこの本はポルノ小説などでは断じてなく、人世に悩める男女がこの難しい世の中にあってなんとか破綻寸前の彼らの生き方を立て直そうと真摯に努力している点で、むしろ際立って倫理的な特色を示しているのである。

 しかしながら、この全篇に臭い立つ成熟し切った女性の隠微な肉欲と饐えた体臭はいったいなんだろう。次から次に押し寄せる女軍の霊肉一体の攻勢を避けようともせずに真正面から受け止めてしっかと立つ主人公こそ、現代に生きる中年男の理想であろう。

 それにしても、この家の根方にがっつり巣食うているはずの主人公の山の神についてほとんど叙述が無いのは摩訶不思議だ。

横須賀のマクドナルドで口にした1杯100円のコーヒーの不味さよ 蝶人


Thursday, September 13, 2012

横浜新・港区ハンマーヘッド・スタジオを訪ねてみませんか?




茫洋物見遊山記92

猛暑を冒して横浜赤レンガ倉庫の近くの新港ピアに最近出来た「ハンマーヘッド・スタジオ新・港区」を見物してきました。埠頭の先端には船荷を積み下ろしするハンマーヘッド・クレーンが実際に取りつけてあるのでこの命名がなされたようです。

この広大な平屋には横浜市文化観光局の委託を受けてNPO法人BankART1929・新港ピア活用協議会が運営するブースがたくさんあり、そこには青山目黒ギャラリーなど50組150名を超えるアーティストや建築家、デザイナーたちがこれから2年間限定入居し、多種多様な創作活動を行ったり、各種イヴェント、コラボレーションを展開してゆくそうです。

この注目すべき実験工房は、一般の人々を対象に来たる16日日曜日まで特別限定公開されていまので、横浜みなとみらい地区見物を兼ねて足を運んでみてはいかがでしょう。


 横浜の港の先に突き出たるハンマーヘッドはアートの目印 蝶人


◎横浜新・港区ハンマーヘッドスタジオ限定公開9月7~16日 
   http://shinminatoku.bankart1929.com/download/5050yokohama.pdf 
   http://shinminatoku.bankart1929.com/download/2012openstudio.pdf 
   http://www.facebook.com/HammerHeadStudio 

Wednesday, September 12, 2012

エクサン・プロバンス音楽祭の「フィガロの結婚」を視聴して




♪音楽千夜一夜 280

2012年夏の南仏エクサン・プロバンス音楽祭の録画でモーツアルトの「フィガロの結婚」を見ました。7月12日の夜、お馴染み大司教館中庭の収録だが画質はともかく音質はあまり良くない。

カイル・ケテルセンがフィガロを、パトリシア・プティボンがスザンナを歌ったが、可も無く不可も無い歌唱。レザール・フロリサンの合唱もまずまずだったが、ル・セルクル・ドゥ・ラルモニという小編成の古楽オケを率いたジェレミー・ロレールという若い指揮者がまるでスケーターワルツのように序曲を走らせて喜んでいる。テンポはエーリッヒ・クライバーと大体同じだが、そこにはモーツアルト特有の音楽の喜びなぞ微塵も漂わない。

「モーツアルト指揮のモーツアルト知らず」は、例えば小澤征爾とかウエルザー・メストとか準メルクルとかダニエル・ハーディングとかあまた存在しているが、彼らはうわべの演奏効果を気にしながら楽譜をひたすら機械的に音化しているだけで、楽譜に内在する意味がまったく理解できず、よって汲み上げることもできないのだろう。

リシャール・ブリュネルの演出は1幕になぜか書庫を持ってきてぐるぐるぶん回したり、4幕大詰めではいくつもの東屋を目まぐるしくぶん回したりする。実は後者はリブレットに忠実たらんとしているのだが、見物しているほうはなんのことだかさっぱりわからずただ混乱困惑するのみ。指揮者ともども若気の至りをさらけだしててんとして恥じていない。

かくもモーツアルトの本質からほど遠い演奏を久しぶりに耳にした。私などはテレビの放送視聴だからよいものの、わざわざ現地に足を運びこんな酷い代物を押しつけられる観客の気持はいかばかりだろう。


蝉時雨妻子の居らぬ一軒家  蝶人