Sunday, September 23, 2012

私と短詩形文学




バガテルop159


近代俳句の元祖はやはり正岡子規であろう。その流れを継いだのが正統派の高濱虚子と異端派の河東碧梧桐で、俳句の未来はやはり今でも後者の流れの中にある。

なにが客観写生だ。なにが花鳥諷詠だ。写生よりも、むしろ射精せよ。もっとロックせよ! もっとパンクせよ!

それにしても、「季語」というやつが問題だ。旧暦ならともかく新暦の時制の元でこれにこだわり、これを義務付けるのは愚かなこと。かえって発句の本心を取り逃がす結果になる。だから私は言う。くたばれ季語。

季語を義務付けた俳句や連歌を作ろうとするとおのずと空疎な技巧に傾き、無季の俳句や口語短歌を吐きだすときに、私の心はおのずから解放される。

季語は短詩の中でいわば明喩の役割を果たしている。明喩は隠喩に比べて低級であるなどと吉本隆明のように決めつけるつもりはないが、それが詩の強度を補強している代わりに意味の重層性を損なっていることは確かである。

俳句はショパン、短歌はモザールの音楽作りに似ている。前者は単細胞にして核心は一つ、後者は複合細胞からなり、その核心は二つある。短歌作りの要点は鶯のように歌いながら、その二つの点を「うまく」結ぶことである。

言語にとって美など存在しない。我々が人間の大脳前頭葉の内部で言語の美醜を感知するだけの話だ。

俳句も短歌も、その本質は歌である。世間には歌を忘れた歌だけ氾濫している。歌を忘れたカナリアも、歌いたくなればどんな歌を歌ってもよろしい。が、歌いたくないときは、口を閉じよ。

マリア・カラスや美空ひばりは、歌いたくないときには歌わなかった。と、私は確信している。われわれもそうすべきだ。


ひばりやカラスのやうに歌ってみたいなある晴れた日に 蝶人


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