照る日曇る日第536回
これはなんでも「自伝的小説」らしいが、自伝にしては小説的過ぎて?全部が嘘かとも疑われるし、小説にしては文章が緩すぎてまるで素人のようで戸惑う。自伝と小説の2つの要素を恣意的にアマルガムにしているために作品に芯が無く、一個の読み物としての主体性が希薄であると感じられる。
同じ「自伝的小説」でもトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人々」ではこういう不安や不安定はさらさら感じないから、おそらくその原因は、著者の枠組みの設定と文体・文章の吟味が甘いのだろう。後者については渡辺淳一や塩野七生と共通するものがあるが、この2人はあれほど酷い文章を書いても構造自体はきっちりしている。
そのことは、著者の文章と著者が本書で引用している死刑囚の迫真の文を比べてみるとよく分かる。著者は自分の人世に決定的な影響を受けたこの出会いから多くのものを学んだと告白しているが、文体の深さと重さと鋭さについてはまるで無関心だったらしい。
しかし先祖の韓国や韓国人とのつながりなどや、妻とは別の女性との間に出来た息子の自殺やゲーテの故地への訪問記など、文想が乗って来ると精気がみなぎる。出来不出来の差が激しいバレンボイムの演奏のようだ。
われもまた2012年夏の海の点景となり終せぬ 蝶人
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