Saturday, March 31, 2012

ジャン・ピエール・ジュネ監督の「アメリ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.217

なんといっても主人公のキャラクター(オドレー・トトゥ)が素晴らしい。愛くるしい瞳と白い卵のような顔、そのすんなりした体つきと喋り方、そして不器用で傷つきやすいけれど繊細で人に親切な引きこもり型の少女に、観客はどんどん魅了されていく。

このような夢見るキュートなヒロインを造形した監督の手腕も近来まれにみるもので、その奇妙に歪んだ変態的なユーモア感覚は遠い遥かな亡霊となったヌーベルヴァーグの新感覚をちょっぴり偲ばせるところもないではない。

 ヒロインを取り巻くポルノショップの男の子や八百屋の嫌味な親父にいじめられる小僧、アパルトマンの様々な住人たちもみなひと癖あって印象に残る。パリの証明写真撮影ボックスの秘密やモンマルトルの丘を舞台にしたミステリーも気が利いていて、最後は誕生したてのカップルの幸せを共に喜びたくなるような、そんなガールズ・ヴィルドゥングスロマンである。

門毎に春を告げゆく紋白蝶 蝶人

Friday, March 30, 2012

西暦2012年弥生 蝶人狂歌三昧

ある晴れた日に  第105回


電気消え信号が消え車消え星無き空に人語絶えたり

凍水に呑まれ息絶え流されて魚に喰われし人をし思ほゆ

お前なんかに頼まれたから黙祷しているんじゃないぞ鎌倉市役所

この次の大震災では大佛様は溺れてしまうでせうと皆が囁く

来るときは来るがよかろう死ぬときは死ぬがよかろう

世界中のオーケストラをネットラジオで聴きまくる雨の朝

ロンドン、パリ、ベルリン、シカゴ、ミラノ世界の名門を制覇したブエノスアイレス生まれのユダヤ人マエストロ

プッチーニのオペラ・パレットにはあんまりたくさんの絵の具が使われていないな

ああいやらしカラヤンのレガートサーカス劇場でもそのえげつなさが忘れられなくて

一寸来いと呼ばれて行けばコジュケイの家族哉

文学修業とは美女を盥回しする事と見つけたり

腐敗堕落した文藝春秋社賞なぞによりかかることなく、一頭の孤独な犀の如く己の文学路地を歩め

恋愛小説家がいるから知事小説家強欲小説家失楽園小説家もいるのだらう

性懲りもなくこいつの禍々しい三白眼を叩き売る本屋のどえらい商魂

ギョエテは詩は機会詩だというが機会がないので詩が生まれないよ
 
イスラムの文化遺産の精髄をイスラムの人が自爆させたり

小川吉川岸川佐川宮川富川日本人は川の畔で生まれました

降る雪や平成も終わりに近き朝

人寄せにアジサイ植えるあさましさ

交合をかくにんした人とパンダの恥ずかしさ

雑巾を豊岡の街で売り歩く五十一歳の聖少女よ

傲慢な玄人が謙虚な怖れを知らぬ素人の前に膝を屈する日

「君が代」は右翼的にあらず右脳的国歌とはつゆ知らざりき

右翼なら左側に気をつけよ
 
平成のすべての女性をお雛様にする川久保玲

蛙声一際大果てしなく繰り返されるくぁうごう

君は何故9月2日に消えたのか隅田川絵巻にその謎を探す

明鏡山星井寺に詣で星月井に映る名月を愛で名物力餅を食す

死んだ魚の眼を見ている死に損ないの人々

青空に向かいて微笑むイヌフグリ独りで逝きし母をぞおもふ

古を振り返ることなく歩むべし

春蘭はきっと咲いているでしょう妻と見にゆく朝比奈峠


梅開きにわかに蛙声聴こゆれば一首詠まずにおらりょうか 蝶人

Thursday, March 29, 2012

ローレンス・カスダン監督の「シルバラード」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.216


 大リーグの開幕戦が行われているのを忘れて録画した映画を観ていたら、なんとイチローが4安打もしていたのだった! 

で、見たのはどういう映画だったかというと、役者だけはケヴィン・クラインやケヴィン・コスナー、スコット・グレン、猿の惑星のリンダ・ハント、ちょっと可愛いロザンナ・アークエットなども出演する一九八五年製作の西部劇なのだが、プロットも演出もどうしようもない駄作であった。嗚呼!

昔「日曜映画劇場」というテレビ番組があって、亡き淀川長治さんが解説を務めておられたが、その大半が下らない映画ばかりなので、最大の見どころ聞き所は、それでもなお映画を熱愛する彼がどこを褒めるか。という一点にあったことをはしなくも思い出した。

思うにヨドチョウさんなら、本作品たったひとつの美点である撮影監督のキャメラワークを褒めるに違いない。ジョン・ベイリーがロケ地サンタフェで切り取った馬と風景は、近来稀にみる美しさなのであった。


春蘭はきっと咲いているでしょう妻と見にゆく朝比奈峠 蝶人

Wednesday, March 28, 2012

チューリッヒ歌劇場の「ファルスタッフ」と「道化師」を見て

♪音楽千夜一夜 第255回


ヴェルディのオペラは作曲された順番に完成度が上がると誰かが語っていたが、その最後の最高峰がシェークスピアの原作をオペラ化した「ファルスタッフ」です。

同い歳のワーグナーがアリアが無く朗唱が果てしなく続く楽劇への道を辿ってモンテヴェルディの祖源に遡行していったように、ヴェルディもまた無調を交えた詩歌朗詠音楽の世界へ帰還したのは不思議な暗号の一致であります。

指揮は私がかつてティーレマンともどももっとも期待していた若手のダニエレ・ガッティだがここのところの伸び悩みが気になります。好漢更に精進せよ。フォード夫人役のバーバラ・フリットーリは高音部が苦しいが老練な技巧でカバーしています。

レオンカヴァルロの「道化師」は主役のホセ・クーラが力演していますが、この人のは無闇に力を入れて絶叫するだけの単細胞。せめてドミンゴ並みの演技力を身に付けコキュの苦しみを全身で発散させるようにしなければシフラのリスト演奏のような評価に終わってしまうでしょう。日本人と思しき人物が演出していますが指揮同様どうということはありません。

*歌劇「ファルスタッフ」(ヴェルディ)
バーバラ・フリットーリ、エヴァ・リーバウ、イヴォンヌ・ナエフ、ユディット・シュミット、アンブロジオ・マエストリ、マッシモ・カヴァレッティほか
指揮ダニエレ・ガッティ 演出スヴェン・エリック・ベヒトロフ 収録2011年3月

*歌劇「道化師」(レオンカヴァルロ)
(ネッダ)フィオレンツァ・チェドリンス、(カニオ)ホセ・クーラ、(トニオ)カルロ・グエルフィ、(ペッペ)ボイコ・ツヴェタノフ(シルヴィオ)ガブリエル・ベルムデスほか
指揮 ステファノ・ランツァーニ  振付田尾下哲 収録2009年6月6日


蛙声一際大果てしなく繰り返されるくぁうごう 蝶人

Tuesday, March 27, 2012

バレンボイム指揮スカラ座の「ドン・ジョヴァンニ」をビデオで鑑賞する

♪音楽千夜一夜 第254回

2011年12月7日、世界の一流オケとオペラハウスを渡り歩いた舞酢吐露馬連母威武がついにミラノのスカラ座を射止め、このモーツアルトがそのお披露目となりました。なんせ大統領と首相臨席のスカラ座でイタリア国歌を振るのだから物々しい。

バレンボイムの指揮は三〇年前に巴里のシャンゼリゼ劇場でパリの管弦楽団とやったときとまったく同じぎくしゃくして不自然でとってつけたような劇伴ですが、ドンナ・アンナにアンナ・ネトレプコ、ドンナ・エルヴィーラにバルバラ・フリットリという配役が凄いので、いやがうえにも期待が盛り上がります。

才人ロバート・カーセンの演出はこの二人の裸や下着姿、とりわけ乳房の谷間をこれでもかこれでもか見せつけようとするもので、個人的にはなかなか楽しめましたが、冒頭ドン・ジョヴァンニに強姦されているはずのドンナ・アンナが快感に悶えているという演出はいくらなんでも行きすぎではないでしょうか。その忘れられない男の顔をようやく思い出すのが2幕になってからとは、なんぼなんでも遅すぎるでは。

それにしてもあれほど純情可憐だったアンナ・ネトレプコがころころ無様に肥ったこと。まるで人類ではなく子豚のような顔つきでモーツアルトのアリアをヴェルディ風に激唱する姿には驚かされました。この人に歌唱指導者はいないのでしょうかね。カラヤンなら首にしますよ。

それでも全盛期を過ぎて高音がまるで出ないバルバラ・フリットリよりははるかにましな演奏でしたが、表題役のペーター・マッテイも終始衛生無害のボンボンにしか見えず、辛うじて鑑賞に耐えたのはウエールズの快男児ブリン・ターフェルひとりという体たらく。こんなおそまつなプルミエにやんやの拍手喝采を呉れているスカラ座の観衆が阿呆に見えてしかたのないハイビジョン映像でした。

いやあモーツアルトのオペラって難しいですねえ。


配役 ドン・ジョヴァンニ:ペーター・マッテイ、ドンナ・エルヴィーラ:バルバラ・フリットリ、ドンナ・アンナ:アンナ・ネトレプコ、ドン・オッターヴィオ:ジュゼッペ・フィリアノーティ、レポレロ:ブリン・ターフェル、ツェルリーナ:アンナ・プロハスカ
マゼット:ステファン・コツァン、騎士長:クワンチュル・ユン


交合をかくにんした人とパンダの恥ずかしさ 蝶人

Monday, March 26, 2012

ちくま日本文学全集「尾崎翆」を読んで

照る日曇る日第506回


 裏日本の山村の野良仕事には、弁当を忘れても雨具が欠かせない。晴れ間を縫ってたちまち驟雨が落ちてくるからだ。そんな山陰の陰鬱な風土に逆らうように、一輪の清新な花が咲いていた。それは泥田に咲いたポップでシュールなダダの花。新吉にも、中也にも、治にも、賢治にもちょっぴり似てはいても、それは全然種属を異にする、そしてついに誰にも継承されることなく絶滅した貴種の新しさであった。

そしてこの奇跡の新しさが誕生するためには、霧深い裏日本の山村の憂鬱な曇天と冬なお温暖な太平洋ベルト地帯の晴朗の光の両方を必要とした。陰と光、田舎と都会、女と男、日本と西欧、畳とガラス、現実と詩、動物と植物たちは、試験管の内部でいくら攪拌されようともついに融合されないまま、解剖台上のミシンと蝙蝠傘の思いがけない出会いのように邂逅し、予告もなしに訣別してしまう。

 作者の脳内には、異様な磁力を有する自己物語化の天賦の才が独楽のように高速回転していて、そこから病院と薬物や兄と妹や分身と分心やこおろぎ嬢と詩人うぃりあむ・しゃあぶとチエホフとチャプリンなどが、まるで朔太郎の手品のようにガラガラポンと飛び出してくるのである。

 このような創作手法は、大正9年の「無風帯」や彼女の最後の作品とされる「神々に捧ぐる詩」では凡庸で陳腐な作物を生み、彼女の代表作とされる「第七官界彷徨」では複雑怪奇な芳臭と輝かしい才気を全方位に亘って放散している。しかし所詮これらは著者自身にも自由に出来ない哀しい精神常態から自動産出されているので、世間や文壇がその芸術的価値の上下をうんぬんするのは勝手だが、著者自身には全く関わりのないことだった。

 そしていくら暗中模索しても、この「永遠の聖少女」には、それ以上の、あるいはそれ以外の表現回路を切り開くことができなかった。それが、彼女が三九歳の若さで擱筆してから三五年の歳月を、さながら昼間に点滅する蛍のように、明るく、はかなく生きながらえた最大の理由ではなかったのか、と平成のこおろぎ男は春宵独りさみしく呟いてみたりするのだった。

雑巾を豊岡の街で売り歩く五十一歳の聖少女よ 蝶人

Sunday, March 25, 2012

英EMIの「カラヤン声楽全集1946-1984」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第253回

なんたってオペラはヘルベルト・フォン・カラヤン。そのカラヤンが指揮したオペラをこれでもか、これでもかと聴かせてくれる71枚のCDだ。小澤なんぞと違って凡庸な演奏はただの1枚もない! おまけに録音も音質も最高でしかも1枚134円の廉価盤と来る。これを買わない奴は阿呆だぜ。

 驚くのは1950年代にウィーン・フィルと録音した『魔笛』『フィガロの結婚』『コシ・ファン・トゥッテ』の完成度の高さで、後年のベルリン・フィルよりもこちらの気品と流麗さを取る人も多いだろう。

 70年から80年代の『サロメ』『ローエングリン』『ドン・カルロ』『アイーダ』『マイスタージンガー』『さまよえるオランダ人』『オテロ』『トリスタンとイゾルデ』『フィデリオ』『トロヴァトーレ』『ペレアスとメリザンド』こそカラヤン芸術の最高峰であり、これを耳にすればもう当節の吹けば飛ぶよな尻軽指揮者の風俗オペラなんぞに間違ってもブラボーと叫ばないだろうて。

 特に最近のN響のストラッキンのコンサートで絶叫していたアホ馬鹿男に、この超弩級セットを薦めたい。


世界中のオーケストラをネットラジオで聴きまくる雨の朝 蝶人

Saturday, March 24, 2012

英EMIの「カラヤン管弦楽全集1946-1984」を聴いて

♪音楽千夜一夜 第252回

これはヘルベルト・フォン・カラヤンが、英国のEMIに録音したすべての管弦楽曲を87枚のCDに収めたもの。戦後まもなくの1946年のウィーン・フィルとのモノラル録音「アイネ・クライネ」を皮切りに、名プロデューサー、ウオルター・レッグと組んだフィルハーモニア管弦楽団との録音、そしてフルトヴェングラーの跡を継いだベルリン・フィルとの数十年に及ぶ膨大な記録であるが、これがたった9570円で手に入るとは!

フィルハーモニア管弦楽団による最初のベートーヴェン全集などは後年のものに比べるとトスカニーニ流のコンブリオが感じられるが、肝心の音がウィーン・フィルに比べると粗削りで大いに流麗さに欠ける。フィルハーモニアとの代表曲は、ワルトトイフェルのスケーターズ・ワルツのようなチャーミングな小品集ではないだろうか。

長年にわたる練習台であったフィルハーモニア管を捨ててベルリン・フィルと組んだブラームスやチャイコフスキーやリヒアルト・シュトラウス、そしてワーグナーの膨大な録音は、年を経るごとにレガートの度が強く、表情が陰影と官能に富み、音の味付けが濃厚になっていく。

カラヤンの後継者となったアバドやラトルがその余りにも強烈な臭さを捨てて蒸留水のように淡い味付けに走ったのもむべなるかな。しかして1984年の最後のEMI録音はムターのヴァイオリン独奏によるヴィヴァルディの「四季」であるが、これほどバロックと縁遠い解釈も少ないだろう。


ああいやらしカラヤンのレガートサーカス劇場でもそのえげつなさが忘れられなくて
 蝶人

Friday, March 23, 2012

日経広告研究所編「基礎から学べる広告の総合講座2012」を読んで

照る日曇る日第505回

これは毎年夏に開催されるセミナーの内容を採録した、非常に面白くて為になる宣伝広告販促のガイドブックです。

本邦を代表する研究者や代理店、企業の専門家、実践家たちがカテゴリー別に続々登場、テレビ、新聞、雑誌、ネットなどのメディア論や最新のPR戦略等についての簡にして要を得たガイダンスをしてくれるので、これ1冊を毎年読んでいれば必要にして充分な知識と最新情報を手に入れることができます。

今回特に興味深かったのは女性誌で驚異的な躍進を遂げる宝島社のマーケティング本部長の桜田圭子氏と同社の年に一度の新聞広告を企画してきたコピーライターの前田知巳氏の話で、彼等のレクチャーを聞くほどに、元新左翼活動家社長に率いられたこの不思議な新興勢力が、なぜ売上327億と出版業界の第4位、13のファッション雑誌の売上合計毎月500万部でシェアが音羽グループや一ツ橋グループを蹴散らして業界トップの26.6%に達したのか、その理由がなるほどなあと頷けます。

雑誌を売るべきモノととらえ直し、神聖にして冒すべからざる編集長の特権的職分を打ち破り、編集会議に経営者営業販売担当を参加させ、一番誌を創造するかという共同作業を開始し、全誌に付録を付けたり、その付録内容を書棚で見えるように「上から12センチ」表紙レイアウトに統一したり、価格弾力性理論を適用した強行値下げ作戦で部数を3倍に増やしたりするやり方は、これまで大手老舗が考えたことすらない革命的な素人流ふぁっちょん雑誌マーケティング手法でした。

瀕死の講談社、光文社、小学館、集英社、マガジンハウス等の悪戦苦闘を尻目に、今世紀後半はさだめし宝島社の独奏が続くことでありましょう。

傲慢な玄人が怖れを知らぬ素人の前に膝を屈する日 蝶人

Thursday, March 22, 2012

鎌倉高徳院裏の「故早乙女貢邸」を訪ねて

茫洋物見遊山記第82回&鎌倉ちょっと不思議な物語第261回

鎌倉文学館が主催する文学散歩に着いて行ったら、大佛様の裏手の閑静な住宅街に連れて行かれました。大佛を見下ろす鬱蒼としたこの裏山のどこかに昔小林秀雄が住んでいたのでしょう。

その細道をどんどん歩いていると、「会」と云う字の旧漢字を記した白い旗が掲げられていました。ずいぶん大きなお屋敷ですが、みんながその門の中にどんどん入って行くと「ようこそいらっしゃいました」と丁重に挨拶されて、この豪華な洋館の主は平成20年に亡くなられた早乙女貢という作家であると説明されました。

私は読んだこともないのですが、この人はなんでも会津藩ゆかりの歴史小説などを書いた有名人で、だから家の前に藩旗が翻っていたのでしょう。

関係者の方が故人の人柄と業績についてお話をされた後で、私たちは三三五五彼の書斎や居室や書庫や広大な庭園まで隅から隅まで拝見させていただきました。聞けばこの豪邸のほかにも都心に2つもマンションを所有されていたとか。作家と言えば貧乏人とばかり思い込んでいた私にとって、それはちょっとしたカルチャーショックでありました。

 ひととおり見学が終わってから、司会者の方が「なにか質問はありませんか」とおっしゃったので、私は「東京大空襲関係の御本が無かったようですが」と尋ねてみようかと思ったのですが、それも面倒臭くなってやめてしまいました。ところが、これが大正解。帰宅して調べてみたら、それは早乙女違いのあかの他人でした。沈黙は金、とはよく言ったものであります。


この次の大震災では大佛様は溺れてしまうでせうと皆が囁く 蝶人

Wednesday, March 21, 2012

鎌倉国宝館で「ひな人形」を見る

茫洋物見遊山記第81回&鎌倉ちょっと不思議な物語第260回 &ふぁっちょん幻論第69回


年年歳歳花相似 年年歳歳人不同。あれからもう1年が経ったのですね。

私は今年もまた、春近い朝、鶴岡八幡宮の片隅にある国宝館のひな人形を見物に行きました。享保時代に製作された大きなうりざね顔、引目鉤鼻の享保雛をはじめ、江戸、明治、大正時代につくられ大家、名家、旧家に大切に保存されていた内裏雛や御殿飾り、雛段飾り、立雛、衣装人形、御所人形などが目も綾に陳列され、この一隅だけは早くも春爛漫の雰囲気です。

昨年も触れましたが、平安時代以降本邦では(右大臣より左大臣のほうが偉かったように)、身分地位が上位の者は左側(向かって右)に立つという伝統と風習があったために、この会場の人形はいずれも男雛が左(向かって右)に、女雛が左(向かって右)側に並んで立っています。

ところが昭和三年一九二八年、昭和天皇即位の折にそれが左右逆転したのはいかなる事情があったのでしょうか。恐らくは西洋から来日した貴賓との会見や接待の折に不都合が生じる惧れがあったために古来伝統の作法を急遽曲げてしまったのでしょうが、どうしてこういう問題に過剰反応する右翼や国家主義者たちが反対しなかったのか不可解です。ここでは礼儀作法という名目に潜む西洋と神国ニッポンの存在理由が問われていたのですから。

それにしても昭和天皇の顰に右に倣って、それ以降の人形業界や日本人が西洋流のレイアウトに盲従してしまったことこそ大問題だと思うのですが、そうゆー下らない話よりも今年のパリコレで話題を呼んだコムデギャルソンの少女風のワンンピースの発想の原点は、縄文巻頭衣ではなく「お雛様」にあるとにらんでいるのですが。


*本展は鎌倉国宝館で4月1日までひめやかに開催中

        
平成のすべての女性をお雛様にする川久保玲 蝶人

Tuesday, March 20, 2012

県立近代美術館鎌倉で「藤牧義夫回顧展」を見る

茫洋物見遊山記第80回&鎌倉ちょっと不思議な物語第259回


1935年9月、新進芸術家として各方面からの期待を集めていた弱冠24歳の藤牧義夫が失踪してから76年が経過した今、神奈川県立近代美術館でモダン都市の光と影と題する生誕100周年の回顧展が開催されています。

 群馬県館林に生まれた藤牧は少年期から絵の才能を発揮し、16歳で上京してから主に隅田川流域周辺に住んで独学で習得した木版画の制作にいそしみました。

彼が素描や木版に刻んだビルや街路や橋や河は、他の誰にも似ない大胆なフォルムとコントラスト、そして繊細でモダンな造形感覚で震災後に復興した30年代の都市東京の光と影をあざやかに凝縮しています。

会場には彼の個性的な版画と共に最長16メートルにも及ぶ隅田川流域を短時間でスケッチした「白描絵巻」が出店されていましたが、これを歩行者の速度でゆっくりと流れる巨大スクリーンで眺めていると、その余りにも生き生きとした即興的な筆致に接して、在りし日の作家の眼差しが蘇ってくるような錯覚にとらわれました。

夭折か、はたまた永久行方不明か? 謎の芸術家の足跡は、いまなお激しく追慕されています。

*同展は来る3月25日まで寂しく開催中。


君は何故9月2日に消えたのか隅田川絵巻にその謎を探す 蝶人

Monday, March 19, 2012

鎌倉地獄谷成就院付近を歩く

茫洋物見遊山記第79回&鎌倉ちょっと不思議な物語第258回

 春は名のみ。梅はようやくにして咲いたが桜はまだ河津桜だけというこの時期、東京に出かける元気はないので、地元で長く地獄谷と呼ばれた辺をちょっと散歩しようということになりました。

早朝江の電の極楽寺駅を折りたる時ならぬ人だかり。今週の木曜日に終了するフジテレビのドラマのロケを行っていました。鎌倉の市役所に勤務する中井貴一がきょんきょんと熟年の恋をするというお話で、そのタイトルはP.K.ディックの有名なSF小説「最後から二番目の真実」からの無断のパクリです。

長男が「風のガーデン」にも出演したガブさん役の中井貴一の熱烈なファンなので、わたしが早速写真を撮ろうとしたら、無意味に肥ったプロダクション・マネージャーがすっと飛んで来て「駄目駄目」というので、諦めて極楽寺に向かいました。

極楽寺を出てもまだ本番のカメラは回らず、プロマネが声をからして車や通行人を停めたりしています。その間およそ五〇人の俳優やスタッフや警官や駅員は辛抱強く待機したまま。映画でもテレビでも九割は待機時間が続くのです。

観光客目当ての鎌倉市と視聴率目当ての民放が結託した大政翼賛番組を冷ややかな視線で突き放しながら、極楽寺の近所にある成就院に向かいました。毎年梅雨時になると商魂たくましい住職が石段のまわりに植えたアジサイを見物するために各地から観光客が押しかける成就院ですが、この時期には人影もまばらです。

この坂の上のお寺は、承久元年1219年に3代執権北条泰時が都から高僧を招いて創建されましたが、新田義貞が鎌倉に攻め込んで稲村ケ崎のアサリを踏みつぶした元弘3年の戦火で焼亡し、再建されたのは江戸時代です。境内には弘法大師像や八角堂等がありますが、そんなことより境内を過ぎて見下ろす由比ヶ浜の眺望が素晴らしい。

麓の星月井の傍には同院が管理する虚空蔵堂があり、奈良時代に行基が奉ったと称される秘佛虚空蔵菩薩が安置されているので創建はこちらの方が古いのでしょう。

    鎌倉は井あり梅あり星月夜 子規

人寄せにアジサイ植えるあさましさ 蝶人

明鏡山星井寺に詣で星月井に映る名月を愛で名物力餅を食す 蝶人

Sunday, March 18, 2012

小澤征爾指揮ウイーンの「マノン・レスコー」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第251回

まだこの指揮者が元気だった05年6月13、17日のライヴ演奏です。舞台を現在のアミアン、パリ、ルアーブル、ニューオリンズに移し、モデルやカメラマン、ウインドウディスプレーなどのファッション性を大胆に取り入れた才人ロバート・カーセンの演出はなかなか面白いのですが、最後のルイジアナの無人の荒野でヒロインが息絶える第4幕が華やかな第1幕と同じ空間構成になっているのはちと解せない。

小澤の指揮はやはりオペラの本質に無知な人らしく例に因って神経質な交響的劇伴で、原曲の叙情と浪漫をいたずらに妨げているが、かといってそのダメージは致命的なところまでには至らず、それなりにプッチーニの音楽を護持してなんとかかんとか終盤までなだれ込んでいるが、問題は表題役のバーバラ・ハーヴェマンだ。

貧乏学生デ・グリューを操る魔性の女、のはずなのに、そういう容貌には程遠い謹厳実直なキャラクターを晒し続けるものだから、せっかくニール・シコフが熱演しているのに、ラストの野垂れ死に至っても全然悲しくない。勝手に死ね、という風に思えてしまうのだ。誰が決めた配役かしらないが完全なミスキャストだった。

ちなみに終幕では後の「ラ・ボエーム」「トスカ」の愁嘆場に似たアリアが登場するのが興味深い。プッチーニの手持ちのレシピはそれほど数多いものではなかったので、色々なオペラで同じようなメロディを器用に使い回していたことが分かりますね。

プッチーニのオペラ・パレットにはあんまりたくさんの絵の具が使われていない 蝶人

Saturday, March 17, 2012

パール・バック著「つなみ」を読んで

照る日曇る日第504回


パール・バックといえば「大地」を書いたノーベル賞作家ですが、かつて本邦に滞在した折、海辺の丘の中腹の小さな家屋に滞在したんだそうです。

そしてある夏の日に津波がやって来て浜辺の漁村が流され、その貴重な体験をもとにして書いたのがこの童話である、と女史自身が前書きで述べていますから、ほんとうの話なのでしょう。

物語はちょっと海彦山彦に似ていて、切り立つ火山の斜面の農家に住むキノと浜辺の漁村に住むジヤという二人の少年が主人公です。貧しいながらも平和な暮らしを楽しんでいたその村に、ある日大惨事が起こります。山も海も数日前から異変を告げていたので村人たちは思い思いに避難していたのですが、とうとう海の向こうから大津波が押し寄せ、ジヤの家族は、村のすべての漁師の家もろとも海の藻屑になってしまったのです。

たった一人生き延びたジヤは、それからはキノの家族の一員として成長するのですが、ある日キノの両親に、キノの妹セツと共に浜に降りて二人で漁師の暮らしを始めたいと決意を語ります。

間もなく完成した新婚の二人の新居は、それまでの漁師たちの家とは違って窓が海に向かって開かれていました。恐ろしい海はまたいつの日か牙をむいて、村人たちに襲いかかることでしょう。しかし若い二人はそれを承知の上で津波の再来に備えながら、ふたたび元の暮らしを再開する決意を固めたのでした。

ここには童話の体裁を取りながらも、女史が実際に見聞し、感銘を受けた鴨長明以来変わることのない私たちの自然観、人世観、死生観が感動的に描き出されています。


    来るときは来るがよかろう死ぬときは死ぬがよかろう 蝶人

Friday, March 16, 2012

川西政明著「新・日本文壇史第七巻」を読んで

照る日曇る日第503回

「戦後文学の誕生」という副題がついた本巻では、太宰治、埴谷雄高、大岡昇平、福永武彦、金石範、金時鐘、野間宏の人生と作品を取り扱っている。

 太宰の巻では、彼の妻美知子宛ての遺書「あなたをきらいになったから死ぬのでは無いのです、小説を書くのがいやになったから死ぬのです」が引用されているが、ここには彼の山崎富栄との心中事件の本質が偽らずに記されていると思われる。

昭和5年11月28日、太宰は鎌倉の小動神社裏海岸で田部あつみと心中を図ったが、その実相とこの事件を元にして彼が創作した虚構とを子細に付き合わせ、この虚実皮膜の間に太宰文学成立の原点があると喝破する著者の眼は鋭い。

 5年間かけて埴谷雄高の生原稿を削除・訂正された箇所を含めて通読した著者に因る「死霊」の要約と解説も無類に面白いが、病で生活に窮し、執筆の存続が危ぶまれたこの記念碑的大著の完成を、本多秋五をはじめとする貧乏な戦後文学派の面々が、前後六回に亘ってカンパして救助したという美談にはいささか感動したな。

 ところで私は大岡昇平の「レイテ戦記」よりも通俗恋愛小説「花影」の大の愛読者なのであるが、著者はこの小説のヒロインの実在のモデルであり、昭和33年に服毒自殺した美貌の銀座のママ、坂本睦子の数奇な運命についても執拗に追究している。

晩年の直木三十五に凌辱され、その衝撃から自虐的になっていった睦子は、菊池寛の囲い者になる。それを小林秀雄が奪って結婚を迫るが、彼女はオリンピックの十種競技の選手に走り、次いで坂口安吾、河上徹太郎に身をゆだねる。そしてその徹太郎から睦子を奪ったのが大岡昇平だった。当時の文学者たちは一人の伝説的なミューズをめぐって奇怪な愛の争奪戦を繰り広げていたようだ。

文壇の裏面を鋭く抉る本シリーズはますます面白く、元虚人のアホ馬鹿監督以上の絶好調が続いている。

文学修業とは美女を盥回しする事と見つけたり 蝶人

Wednesday, March 14, 2012

木下恵介監督の「楢山節考」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.214

深沢七郎の原作を木下恵介が1958年に最初に映画化した作品である。

むかし極貧にあえぐ山村では、口減らしのために70歳になればいくら頑健で歯が丈夫でも村の果てにある楢山に捨てられ、哀しくも残酷な最期の時を迎えさだめにあったのだ。
落葉した楢の樹海の向こうには、白い遺骨やしゃれこうべが散在し、岩山の頂きには烏が隙をうかがっている。やがて雪が降り始めた雪が老婆の肩にうずたかく積もって行くのだが、主演の田中絹代が石臼で歯をぶち折るシーンは鬼気迫るものがある。

それを思い、これを思えば、いかに国土と精神がいかに疲弊荒廃しようとも、3度3度の食事ができ、柔らかな布団で安眠できる平成の御代の有り難さが心から身にしみる映画である。

 田中絹代という人は顔容は地味だが、声に独特の個性があった。昔陋屋を訪ねてくれたジャック・ドワイヨン&ジェーン・バーキン夫妻を、かつて彼女が住んでいた鎌倉山の山椒洞に案内し、妻と四人で懐石料理を食したことがあった。茫々三〇有余年、遠く富士山を望む風光絶佳の一大文化遺産を買い上げて跡形も無く破壊したのみならず、日仏映画人
結ぶ我が家のささやかなえにしをも踏みにじった無法者は、すでに逗子に豪邸を所有するMMという金満強欲の芸能人であった。

凍水に呑まれ息絶え流されて魚に喰われし人をし思ほゆ 蝶人

Tuesday, March 13, 2012

喜劇映画「トッツィー」と「ミセス・ダウト」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.213

前者は1982年にダスティン・ホフマン主演でシドニー・ポラックが、後者は1993年にロビン・ウイリアムズ主演でクリス・コロンバスが監督した上質のコメディ映画である。

しかしてその共通点は、いずれも主演男優が女装して中年のおばさん役を好演していることで、異性に扮した芸達者な2人のその語り口やヘアメイク、衣装取り替えのどたばた劇は見る者を抱腹絶倒させずにはおかない。とりわけ同じレストランで家族と社長にダブルブッキングしてしまったロビン・ウイリアムズの悪戦苦闘ぶりには思わず手に汗を握らされる。

2番目の共通点は、いずれも主役の男性が恋する2人の女性ジェシカ・ラングとサリー・フィールドへの思いを女性に扮することでしか伝えられないことで、この矛盾がそれぞれのドラマの牽引力になっているのである。

正体がばれた後のラストはいずれも心が晴れるハッピーエンディングとなり、さわやかな観劇感に浸ることができるでありましょう。


古を振り返ることなく歩むべし 蝶人

Monday, March 12, 2012

ベルリン・フィルのデジタルコンサートを視聴して

♪音楽千夜一夜 第250回

最近は世界中のオーケストラがインターネットを通じて彼等の演奏をライヴ中継しているが、その白眉はやはりベルリン・フィルのそれだろう。しばらく前から始まったこの放送は1年間邦貨15000円程度で過去の膨大なアルヒーフを含めて自由に視聴することができるのであるが、さきごろ48時間無料のサービスがあったので、これ幸いとあれこれ視聴してみた。

まずは現在のシェフであるサイモン・ラトルのマーラーの交響曲をほぼ全部聴いてみたが、彼が以前英国のバーミンガム市響と入れた演奏と基本的には同じ解釈で、オケの性能が格段に上がっている点を差し引けばどうということはない。中途半端、前途茫洋とはこのことだろう。

ブラームスの交響曲ではかつてのカラヤン時代を彷彿させる重厚な低音を鳴らせていたが、こういう奏法では到底ライヴァルのティーレマンに敵う訳がない。内田光子とのベートーヴェンの協奏曲でも、彼女の妙に神経過敏な音楽づくりに引っ張り回されている無惨なていたらくであり、この人はまたしても大きな低迷期に突入したのではないだろうか。

一方ベルリンを卒業してルツエルンなどで自由に音楽を楽しんでいるクラウディオ・アバドのマーラーでオケの鳴り方からしてラトルとは大人と子供ほども違うのは、いかにスコアを読みこんでいるかの差が出るのだろう。絶品はアバドの棒でポリーニが弾いたモーツアルトの17番の協奏曲。小さな3つの楽章を持つ短い曲だが、私たちが自分の人世を生きるときに感受するささやかな喜びと深い悲しみをば、これほどいきいきと晴朗に唄い尽くした演奏も稀だろう。ラトルなんて青二才は、はなから勝負にならない。

所も同じフィルハーモニーで日本時間今月11日の7時から行われた早稲田大学交響楽団の演奏会もライヴで視聴しました。曲目はリヒアルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」「ティル・オイレンシュピーゲル」がメインで、かねて私が高く評価するこのアマチュアオケは、かの腐敗堕落したN響を凌ぐ立派な技術と音楽性を示していたが、残念ながら交通整理のメトロノームの役割しか果たせない凡庸な棒のせいで、その真価を発揮できずに終わっていた。

せっかくの晴れの舞台で、どうしてこんな素人同然のファルスタッフ風の指揮者を登用するのかと不可解なり。それから昔ながらの和楽器を叩くジャパネスク風の人気取り曲や鈍感リズムの「ベルリンの風」などで観衆に媚を売るのも恥ずかしさの極み。こういう旧来の陋習は、それがいくら震災追悼記念演奏にしてもいい加減にやめてほしいものである。


外国でのアンコールといえば外山のラプソディチせめて武満にしてくれえ 蝶人

Sunday, March 11, 2012

リナルド・アレッサンドリーニ指揮スカラ座の「オルフェオ」を視聴して

♪音楽千夜一夜 第249回

モンティヴェルディの「オルフェオ」は生まれたてのオペラということでアリアはただの1曲もなく、全篇にわたって詠唱が延々と続くのだが、これはまたなんと美しくも雄弁な神話語りであろうか。

リナルド・アレッサンドリーニによって率いられた古楽器オケ伴に乗って好ましい喉を響かせてくれる表題役のゲオルク・ニールも素晴らしいが、なにより見事なのは簡素にして精神的な深さを鮮やかに描出し尽くしたロバート・ウィルソンの演出。青い夜空と黒い木立を背景に繰り広げられる楽人オルフェオの地獄めぐりと妻探しの道行を、これ以上ない晴朗な美しさで表現してしまった。

これはかつて天才ポネルがチューリッヒで全盛時代のアーノンクールと達成した至高の世界に追い付き、凌駕さえするほどの出来栄えであり、近来まれな映像記録として推薦できる。2009年9月の収録で画質録音とも最高である。


お前なんかに頼まれたから黙祷しているんじゃないぞ鎌倉市役所 蝶人

Saturday, March 10, 2012

バレンボイム指揮スカラ座「ワルキューレ」を見て

♪音楽千夜一夜 第248回

東洋の一視聴者の声を聴き届けたのか、二〇一〇年一二月七日に上演されたワーグナーの「指輪」の第二作ですが、指揮者も出演者も圧倒的な名演を繰り広げています。

第一幕ではウオータンの双子の兄妹が敵役のフンディングが寝入った隙に愛し合い、サイモン・オニールにおけるジークムンデ役のサイモン・オニールとジークリンデ役のワルトラウト・マイアが熱唱しますが、ここまでは序の口。

2幕のワルキューレたちの乱舞も楽しめますが、とりわけ感動的なのは第三幕のヴオータン(ヴィタリー・コワリョフ)と愛娘ブリュンヒルデ(ニナ・シュテンメ)の最後の別れの場でありまして、ここでのギー・カシアスの歌舞伎的な演出と親娘の演技とスカラ座の嗚咽するような劇伴は、涙なしには見ることも聴くこともできません。

さすがのワルトラウト・マイアにも声の衰えが隠せず、最上の配役とはいえなかったにもかかわらず、ワーグナーの楽劇の素晴らしさをとことん賞味することができました。これこそがミラノスカラ座の真骨頂というべきでしょう。(2010年12月7日収録)


電気消え信号が消え車消え星無き空に人語絶えたり 蝶人

Friday, March 09, 2012

バレンボイム指揮スカラ座「ラインの黄金」を見て

♪音楽千夜一夜 第246回

ロンドンやパリで振っていた頃はピアニスト上がりの新進気鋭のごんたくれ指揮者だったのに、あれよあれよという間にシカゴ響、ベルリン国立響、ウエスト・イースタン・ディヴァン管を手中に収めたと思ったら最近はミラノ座で押しも押されぬシェフとなり年齢を感じさせない大車輪の活躍を続行しているバレンボイムのワーグナーである。

全曲を視聴し終えての感想は彼の緩急自在の劇伴であり特に劇的なクライマックスづくりのうまさであるが、それをブルックナーでは失敗してもワーグナーの長丁場で巧みに繰り出していくのだからやはり並の指揮者ではない。

しかしワーグナーの指輪の前夜祭にあたる本曲では、冒頭の星雲状態の暗騒音の神秘感が命なのに、この序奏はあまりにも無機的かつ音符直訳態であり、いくら後半追い上げても遅すぎる。私淑するフルトベングラーのそれをもう一度謙虚に聴き直して、一から出直してもらいたいものだ。ルネ・パーペの演奏、ギー・カシアスの演出もいまひとつ精彩を欠く。

出演 ルネ・パーペ, ヤン・ブッフヴァルト, マルコ・イェンチュ, シュテファン・リューガマー, ヨハネス・マルティン・クレンツレ等(2010年5月26日収録)

ロンドン、パリ、ベルリン、シカゴ、ミラノ世界の名門を制覇したブエノスアイレス生まれのユダヤ人マエストロ 蝶人

Thursday, March 08, 2012

森本恭正著「西洋音楽論」を読んで

照る日曇る日第502回&♪音楽千夜一夜 第247回


クラシックに狂気を聴け、という副題が付いているのだが、全体をつうじてこの人がいったい何を言いたいのかさっぱり分からなかった。

この人がライブやCDを聴くと演奏を聴くと、欧州人の音楽はアフタービートで、日本人は前拍なので邦人演奏家のものはすぐに分かると豪語するのであるが、ほんまかいな。

楽聖ベートーヴェンはほとんどの作品をアフタービートで書いたが第9交響曲の終楽章だけはオン・ザ・ビートで書いたとか、同曲の同楽章の冒頭で「おお友よ、このような音ではなく」とバスが歌い出す直前のオーケストラの強奏で不協和音が鳴り響くのは、「このような非整数の倍音によるノイズ音楽を諸君は受け入れるのか? いやそうじゃないだろ?」と語りかけているのだという著者の推論は、どちらかというと誇大妄想の類ではないだろうか。

しかし「君が代」は世界で唯一戦争を放棄している国家にふさわしく、ヨーロッパの旋律で作られていない(右翼的ではなく)右脳的な国歌であり、いくら軍隊に強いてもこの行進曲では歩けない反戦的な国歌であるという指摘はなかなか興味深いものがあった。


「君が代」は右翼的にあらず右脳的国歌とはつゆ知らざりき 蝶人

Wednesday, March 07, 2012

是枝裕和監督の「ワンダフルライフ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.212

何も知らずに見物し始めたのだが、中陰の状態にある死者に対して「あなたの一番大切な思い出をセレクトしてください。それを映像化してあげますから、それを見てから成仏してください」というサービスを提供する団体の映画だった。

しかし私は、一番大切な思い出なるものをあえて発掘する骨董趣味を持たないし、よしやそれがあったとしても後生大事にそれを胸中に懐いて黄泉の国に赴こうとする気持ちもない。

まして他人のその思い出をのぞき込んだり、ああだこうだと比較対象する興味も持ち合わせていないので、終始冷たい視線でこの才走った監督の映像をつらつら眺めていたのだが、最後まで見終わってもついにどうということはなかったな。

されど世の中には、じつにけったいなことを考え、それをわざわざ映画などにする変態的な暇人がいるものであることよ。と言っては身も蓋もないので、せめて本作には谷啓や由利徹の死の直前の演技が瞥見できるのが望外の奇貨である、と言い添えておこうか。


一寸来いと呼ばれて行けばコジュケイの家族哉 蝶人

Tuesday, March 06, 2012

円城 塔著「道化師の蝶」を読んで

照る日曇る日第501回

 飛行機の中で昆虫網を振り回したら、架空の新種の蝶アルレキヌス・アルレキヌスなる「道化師のような蝶」が採れました。

これは本書の引用ではありませんが、例えばこーゆーよーな内容のフレーズがビシバシ登場して参ります。

普通なら我が家のムクも歯牙にもかけない変態的作品が何故か芥川賞を受賞したために、やれ安部公房の真似だとかSFの下手くそな習作、超難解理系純文学とかアホ馬鹿駄文の見本などといろんな評価が乱れ飛んで、それがかえって洛陽の紙価を高騰させているようです。

がしかし、この小説のほんとうの値打ちは、やたら肩入れして「死んでいながら生きている猫を描こうとしている画期的小説!?」などと無闇に意気込んでいる川上弘美選手よりも、著者本人がいちばんよく分かっているのではないでしょうか。まあ世間がらあらあと騒ぎたてるような代物でないことは間違いありません。

私はともかく途中で居眠りはせずに最後まで紙上に乾いた視線を晒すだけの義理は果たしましたが、これは新しい文学的感興がむくむくと湧き起こるような瞬間は、ただの一度もありませんでした。

小説に因る人世の方法的制覇を目指して夢中で書いている本ご人はきっと楽しいのでしょうが、その醍醐味は架空の新種アルレキヌス・アルレキヌスよりも、春になれば郷里の里山に優雅に舞い飛ぶ超現実種のルエホドルフィア・ジャポニカを偏愛する私のような蝶保守的古典文学マニアをてんで満足させてくれはしませんでしたね。

文体やあらすじがどうのこうのと評しても意味がないので書きませんが、この醒めた唐人の寝言のような奇妙な日本語列を反芻していると、なぜか最近は誰も聴かなくなってしまったいにしえの現代音楽のことが思い出されてきました。

実際本作品には初めて12音音楽に挑んだかのシェーンベルクの懐かしい響きが聴こえてきますし、同時に芥川賞を受賞した田中選手の作品では新ウイーン学派の無調やノイズミュージックの乱入も散見されます。先駆する中原昌也の革命的な実験作も含めて、鴎外、漱石、芥川、荷風、谷崎、太宰、三島、大江、村上の正統派に反旗を翻そうとする「平成現代文学」がおそまきながら産声を上げようとしているのでしょうか。


腐敗堕落した文藝春秋社賞なぞによりかかることなく、犀のやうに文学路地を歩め 蝶人

Monday, March 05, 2012

北杜夫著「巴里茫々」を読んで

照る日曇る日第500回


どくとるマンボウ氏の落ち穂拾い2作です。

「巴里茫々」では著者が夢の中で仏蘭西語など全然知らないのに、仏蘭西の国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌ったというくだりが出てきます。それはそれで面白いのだが、改めてこの歌詞を読んでみると物凄い内容であります。

♪圧政者どもよ、身震いするがいい! お前ら裏切り者共もだ。
あらゆる陣営の恥さらし! 恐れるがいい! お前らの反逆計画は最後には報いを受けるのだ!

そして、
♪この残虐な奴らは皆、情け容赦なく、自分の母親の胸を引き裂くのだ!

と来るのですからね。

著者はそのあまりにも軍国主義的で勇壮という野蛮な内容に辟易してとうとう歌うのをやめてしまうと、隣にいた仏蘭西人から「このジャップの小鼠め!」と罵られます。

されど本邦でもそのうち「君が代」を歌わないでいると、同じように泣く子も黙る大阪の禿童市長から「この非国民め!」と罵られたうえに、全員牢屋に入れられるようになるでしょう。桑原桑原。

もうひとつの「カラコルムふたたび」は名作「白きたおやかな峰」に出てきたヒマラヤの村を再訪し、懐かしい案内人と再会するほろ苦い話です。


ギョエテは詩は機会詩だというが機会がないので詩が生まれないよ 蝶人

Sunday, March 04, 2012

田中慎弥著「共喰い」を読んで

照る日曇る日第499回

この人の作品を初めて読んだが、褒めるとすれば、なんといっても語り口に強烈な陰影があるのがよい、ということになるんだろう。何を書いても奇妙なエグさと野蛮さがそこはかとなくどぶの臭いのように立ち上っているぜ。

次に題名の「共喰い」だが、これはヤクザな父親と17歳のヤクザな主人公が同じ女と「共喰い」するとも、汚染された河口の淡水と海の水とが混淆して共喰いするとも、その濁水を川底に棲息する巨大ウナギとそれを釣る父親が「共喰い」ならぬ共呑みしている状況を指すのであろうよ。

17歳といえば女を見なくとも、花を見ても蝶を見てもペニスがおったつ季節であり、そこから派生する欲情や焦燥や攪乱を、作者はおのが自家生理中のものとして巧みに描き出しているな。

んでもって、その文章はかなり日本語の文法を無視した強引な省略と接合の離れ業で成り立っており、この作家は平成の井原西鶴を思わせる独特の文体で、このたびの芥川賞をかっさらったのである。パチパチ。

あと、セックス中の殴る蹴るとか締めるとか、義手の女が突然何の必然性もないのに、出刃包丁を持っていけない男を追っかける等のあざといプロットは、全部これ江崎グリコの取って付けたるおまけ也。この作者、小沢以上の剛腕の持ち主ではあるが、「共には喰えない」ごんたくれである。


性懲りもなくこいつの禍々しい三白眼を叩き売る本屋のどえらい商魂 蝶人

Saturday, March 03, 2012

マイク・ニコルズ監督の「ワーキング・ガール」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.211&勝手に建築観光第48回&ふぁっちょん幻論第68回


1988年公開のアメリカ・キャリアウーマン格闘物語であります。

メラニー・グリフィス扮する低学歴のウオール街のオフィスガールが、上司のシガニー・ウイーバーの陰謀をハリソン・フォードと結託して打ち破り鼻をあかすという他愛もないサクセウスストーリーだが、この頃はまだ国や個人の未来の成長への夢があったことに驚かされる。

ドラマの内容はともかく、今は亡き世界貿易センタービルの威容や、バブルが沸騰するアメリカの女性のビジネス環境とファッション&ライフスタイルを懐かしく回顧することができる。

メラニー・グリフィスなどの一般職は、ど派手なメイク、クジャクが羽をおっぴろげたようなカーリーヘア、肩パッドの入ったビッグシルエットのジャケットという出で立ちだが、一流大学出役のシガニー・ウイーバーはショートヘア、シンプルなアルマーニ風スーツでびっしっと決めているのが興味深い。

 また世界貿易センタービルは、インド・イスラム建築を代表するタージ・マハール寺院の立柱にインスパイアーされた日系アメリカ人ミノル・ヤマサキによって設計されたが、その名建築が、この映画が撮影された5年後に狂信的なイスラム教徒のよって爆破された。アジアの知性がアングロサクソンに注ぎ込んだイスラムの叡智が、同じイスラムの憎悪に燃える血に因って解体されたことは、もっと興味深い歴史の皮肉である。


イスラムの文化遺産の末裔をイスラムびとが自爆させたり 蝶人

Friday, March 02, 2012

ジェームズ・ブルックス監督の「恋愛小説家」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.210


流行作家のジャック・ニコルソンが行きつけのレストランのウエイトレス、ヘレン・ハントと『As Good as It Gets』になるという典型的なハリウッドのファッキンアホ馬鹿映画だ。

ハントは確かにちょっと可愛い女優だがこんな演技でアカデミー賞とはちゃんちゃらおかしい。ジェームズ・ブルックスなどという3流の監督の手にかかるとジャック・ニコルソンのような名優ですら気持ちの悪いただのオッサンに変身してしまうのである。ブリュッセウ・グリフォンとかいうちんけなあほ犬もただただウザッタイだけ。

だいたい恋愛小説を書く作家はいても、恋愛小説家など世の中に1人もいないし、こんな奇妙な日本語もまた存在しない。

それなのに、私はこの下らない映画を、それと知らずに2回も見てしまった。おお、なんという人世の無駄だったことか!


恋愛小説家がいるから知事小説家強欲小説家失楽園小説家もいるのだらう 蝶人

Thursday, March 01, 2012

マルセル・カミュ監督の「黒いオルフェ」を見て

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.209


1959年にギリシャ神話の「オルフェオとエウリディーチエ」にヒントを得て製作されたブラジル版の愛の物語である。

ギリシャ神話でエウリディーチエが毒蛇に咬まれて落命したように、この映画でも薄命の美女が謎の死を遂げ、オルフェオが黄泉の国に行ってしまった愛妻を探してその名を虚しく呼ばわる挿話も引用されている。
しかしこの映画の最大の魅力は、リオのカーニバルの真っただ中に舞台を設定したことで、それによって遠い遥かな神話のなかのロマンが、第3世界の現実のなかで生々しく蘇り見事に血肉化されることになった。はかなくみまかった恋人たちの後を継ごうとする少年少女の朝のサンバで全篇の幕が閉じるのも粋なはからいである。

ただひとつ私の苦手なカルロス・ジョビンのボサノヴァが、終始ギターの弦で掻き鳴らされるのには閉口しました。


降る雪やそぞろ平成も遠き朝 蝶人