闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.220
五味川純平の原作を映画化した第1作では、主人公梶の満州老虎嶺鉱山における苦闘を描く。満鉄調査部における机上の空論を過酷な現実に適用することになった梶(仲代達矢)は、現地の鉱山労働者のみならず、上司や同僚、部下、現場監督の抵抗と軍の介入のはざまで苦悩する。
強制労働と搾取に苦しむ工人の労働条件を緩和することによって労働力を向上させようと図る梶だったが、そこに北支から大勢の捕虜が送りこまれ、更に2割増産の命令が下され、理想主義者の梶は新婚まもない妻美千代(新珠三千代)との関係もぎくしゃくしてくるのだった。
佐田啓二・有馬稲子・淡島千景・南原伸二・山村聡などの当時の人気俳優が続々登場するが、娼婦の元締めを演じる淡島千景が妖艶で有馬稲子は陰が薄い。常に力みかえった熱演型の梶は私の苦手な役者だがこれが第1作なので我慢して見物。さすがに山村聡の演技はスケールが大きい。
論理学専門の学生部長神沢惣一郎氏大衆団交で論理が破綻 蝶人
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Tuesday, April 03, 2012
Thursday, March 01, 2012
マルセル・カミュ監督の「黒いオルフェ」を見て
闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.209
1959年にギリシャ神話の「オルフェオとエウリディーチエ」にヒントを得て製作されたブラジル版の愛の物語である。
ギリシャ神話でエウリディーチエが毒蛇に咬まれて落命したように、この映画でも薄命の美女が謎の死を遂げ、オルフェオが黄泉の国に行ってしまった愛妻を探してその名を虚しく呼ばわる挿話も引用されている。
しかしこの映画の最大の魅力は、リオのカーニバルの真っただ中に舞台を設定したことで、それによって遠い遥かな神話のなかのロマンが、第3世界の現実のなかで生々しく蘇り見事に血肉化されることになった。はかなくみまかった恋人たちの後を継ごうとする少年少女の朝のサンバで全篇の幕が閉じるのも粋なはからいである。
ただひとつ私の苦手なカルロス・ジョビンのボサノヴァが、終始ギターの弦で掻き鳴らされるのには閉口しました。
降る雪やそぞろ平成も遠き朝 蝶人
1959年にギリシャ神話の「オルフェオとエウリディーチエ」にヒントを得て製作されたブラジル版の愛の物語である。
ギリシャ神話でエウリディーチエが毒蛇に咬まれて落命したように、この映画でも薄命の美女が謎の死を遂げ、オルフェオが黄泉の国に行ってしまった愛妻を探してその名を虚しく呼ばわる挿話も引用されている。
しかしこの映画の最大の魅力は、リオのカーニバルの真っただ中に舞台を設定したことで、それによって遠い遥かな神話のなかのロマンが、第3世界の現実のなかで生々しく蘇り見事に血肉化されることになった。はかなくみまかった恋人たちの後を継ごうとする少年少女の朝のサンバで全篇の幕が閉じるのも粋なはからいである。
ただひとつ私の苦手なカルロス・ジョビンのボサノヴァが、終始ギターの弦で掻き鳴らされるのには閉口しました。
降る雪やそぞろ平成も遠き朝 蝶人
Friday, February 03, 2012
村山由佳著「放蕩記」を読んで
照る日曇る日第490回
挑発的な題名に惹かれて手に取ってみたが、いったいこの小説の主人公のどこが放蕩なのかさっぱり分からなかった。
放蕩とは広辞苑によればほしいままにふるまうこと。特に酒食に耽って品行が修まらないこと等とあるが、ヒロインは少女時代にちょっぴりレスビアンの真似をしたり、高校時代に2人のクラスメイトと先輩と致したり、大学時代に出版社勤務のリーマンとラブホテルへ行ったりするくらいで、この定義のいずれにもあてはまらない。
その後もいろんな男と寝まくったというのだが、よしんば彼女が毎晩違う男と床入りしたからといってそれを色情狂と称しても放蕩娘とは言えないだろう。それはこのヒロインンがきわめて意志強固な倫理的な志操の持ち主であり、肉欲に溺れて男を漁らざるをえないマンイーターとは鋭く一線を画しているからである。
それでも彼女は粋がって自分を放蕩娘と命名したいのかもしれないが、彼女が放蕩するのはより深く人世を知り生き抜くための方法的放蕩であって、肉が肉に溺れるほんたうの放蕩とは似て非なるものである。
本作では関西弁で饒舌に自己表現する主人公の母親が登場して大活躍するが、どこの家庭でも母と娘とはまあこんな関係だろう。そう大騒ぎして書きこむほどのことはない。花村萬月ばりの波乱万丈の放蕩記を期待したのに、出てきたのは世間でよくある母娘の葛藤話。これを平凡な文体で延々と書き連ねられると読むほうもうんざりしてくる。こんな作家がよく直木賞をもらったものだ。
鬼は外福は内!無限の闇に投げました 蝶人
挑発的な題名に惹かれて手に取ってみたが、いったいこの小説の主人公のどこが放蕩なのかさっぱり分からなかった。
放蕩とは広辞苑によればほしいままにふるまうこと。特に酒食に耽って品行が修まらないこと等とあるが、ヒロインは少女時代にちょっぴりレスビアンの真似をしたり、高校時代に2人のクラスメイトと先輩と致したり、大学時代に出版社勤務のリーマンとラブホテルへ行ったりするくらいで、この定義のいずれにもあてはまらない。
その後もいろんな男と寝まくったというのだが、よしんば彼女が毎晩違う男と床入りしたからといってそれを色情狂と称しても放蕩娘とは言えないだろう。それはこのヒロインンがきわめて意志強固な倫理的な志操の持ち主であり、肉欲に溺れて男を漁らざるをえないマンイーターとは鋭く一線を画しているからである。
それでも彼女は粋がって自分を放蕩娘と命名したいのかもしれないが、彼女が放蕩するのはより深く人世を知り生き抜くための方法的放蕩であって、肉が肉に溺れるほんたうの放蕩とは似て非なるものである。
本作では関西弁で饒舌に自己表現する主人公の母親が登場して大活躍するが、どこの家庭でも母と娘とはまあこんな関係だろう。そう大騒ぎして書きこむほどのことはない。花村萬月ばりの波乱万丈の放蕩記を期待したのに、出てきたのは世間でよくある母娘の葛藤話。これを平凡な文体で延々と書き連ねられると読むほうもうんざりしてくる。こんな作家がよく直木賞をもらったものだ。
鬼は外福は内!無限の闇に投げました 蝶人
Sunday, January 08, 2012
梶村啓二著「野いばら」を読んで
照る日曇る日第482回
これは日経新聞が公募したコンテストで見事グランプリを獲得した小説です。選者の中に縄田なんとかというひじょうにいかがわしいひょーろん家がいるので眉つばで読みだしたのですが、いまどき珍しい史実とロマンを表題の香り高い植物に結実させた秀作でした。なるほどこれならゆうに賞金1千万円に値する作物です。
私はよく知らなかったのですが、世の中には種子の遺伝子情報を売買する種苗産業が国際的なМ&Aを繰り広げていて、たとえば韓国では1990年代に財政破たんした際にキムチ用の固有の白菜、大根の遺伝子情報を持つ種苗会社が欧米系の種苗コングロマリットに買収されてしまったそうですが、そんなこととはつゆ知らず私たちはキムチを美味しく頂いているわけです。
沈黙の遺伝子帝国とも言われるそんな日本の種苗会社に勤務する商社マンが、偶然英国の田舎で日本風の庭園に出会い、庭園の女主人から手渡された150年前の先祖の古びた手記を開くと、そこに登場するのはアーネスト・サトウを思わせる英国の外交官と彼に日本語を教授する謎の美しい大和撫子……。幕末の動乱を舞台にした海を越えた激しく、そして清らかな恋の物語のはじまりです。
結局恋する2人には哀しい結末が待っているのですが、そのロマンスを折に触れて彩るのが本作のタイトルにもなった日本原産の野いばら(野薔薇)。春にはむせるような甘美な芳香と共に白く小さな無数の花弁を付け、秋には深紅の果実を付けるこの美しい植物は、ちょうどこのころに欧米に移植され、後にさまざまな交配を経て今日私たちが薔薇としてめでる華麗な飛躍を遂げるのですが、著者はそんな歴史的事実を踏まえつつ、いわばつぼみの時代の花と人間と国家の象徴としてこの海を渡った植物をいとおしく描写しています。
2人の主人公が囁いたように、あらゆる植物の中で小輪の野薔薇ほど美しいものはない。
それが毎年拙宅の壺庭の上に崖から咲き下る可憐な花をうっとり眺めている私たち夫婦の実感でもあります。
野薔薇咲く崖下の家に棲みにけり 蝶人
異国に咲きはかなく散った燃える恋百五十年後も匂いは失せず 蝶人
これは日経新聞が公募したコンテストで見事グランプリを獲得した小説です。選者の中に縄田なんとかというひじょうにいかがわしいひょーろん家がいるので眉つばで読みだしたのですが、いまどき珍しい史実とロマンを表題の香り高い植物に結実させた秀作でした。なるほどこれならゆうに賞金1千万円に値する作物です。
私はよく知らなかったのですが、世の中には種子の遺伝子情報を売買する種苗産業が国際的なМ&Aを繰り広げていて、たとえば韓国では1990年代に財政破たんした際にキムチ用の固有の白菜、大根の遺伝子情報を持つ種苗会社が欧米系の種苗コングロマリットに買収されてしまったそうですが、そんなこととはつゆ知らず私たちはキムチを美味しく頂いているわけです。
沈黙の遺伝子帝国とも言われるそんな日本の種苗会社に勤務する商社マンが、偶然英国の田舎で日本風の庭園に出会い、庭園の女主人から手渡された150年前の先祖の古びた手記を開くと、そこに登場するのはアーネスト・サトウを思わせる英国の外交官と彼に日本語を教授する謎の美しい大和撫子……。幕末の動乱を舞台にした海を越えた激しく、そして清らかな恋の物語のはじまりです。
結局恋する2人には哀しい結末が待っているのですが、そのロマンスを折に触れて彩るのが本作のタイトルにもなった日本原産の野いばら(野薔薇)。春にはむせるような甘美な芳香と共に白く小さな無数の花弁を付け、秋には深紅の果実を付けるこの美しい植物は、ちょうどこのころに欧米に移植され、後にさまざまな交配を経て今日私たちが薔薇としてめでる華麗な飛躍を遂げるのですが、著者はそんな歴史的事実を踏まえつつ、いわばつぼみの時代の花と人間と国家の象徴としてこの海を渡った植物をいとおしく描写しています。
2人の主人公が囁いたように、あらゆる植物の中で小輪の野薔薇ほど美しいものはない。
それが毎年拙宅の壺庭の上に崖から咲き下る可憐な花をうっとり眺めている私たち夫婦の実感でもあります。
野薔薇咲く崖下の家に棲みにけり 蝶人
異国に咲きはかなく散った燃える恋百五十年後も匂いは失せず 蝶人
Saturday, December 24, 2011
よしもとばなな著「スウィート・ヒアアフター」
照る日曇る日第476回
震災で亡くなった大勢の無辜の民を悼むために、この作家がみずからも亡き人の在ます世界に沈入して懐かしい人たちとの交わりを深めようとするのは善い事であるし、それは小説家だけに許された特権かもしれない。
京都に住むアーチストとヒロインが乗った車は上賀茂に帰宅する途中で交通事故に遭いあっけなくこの世をみまかる。フリーダ・カーロのように腹に鉄棒を喰らった彼女だけは一命を取り留め、最大の不幸と絶望の中から再生を試みようとするのだが、もしかすると彼女も彼と一緒に死んだのかもしれないし、生きていながら2つの世界を往還する霊魂の背負子のような存在なのかもしれない。
著者がそういう霊界の存在に寛容な人物であることは事実なのだろうが、ここで書かれているような生者死者を超越した父母未生以前の世界を、私は断固否定しようとはいまでは思わない。しかもそれは往々にして私に周辺でも実際に起こっているのだから、なおさらのことだ。
人世は死ねば終りではなく、あの世でかれらも私たちの身内も生きており、その気になればいつでも会って話してなぐさめあう事が出来るという考え方は、私たちにいわば2層倍のおおいなる精神の自由をもたらす。だからガリガリの無神論者たちも霊的なるものの存在を完全には否定したがらないのであろう。
けれども30年以上も前に同じ京都の比叡山ドライブウエイから谷底に転落した知人がたまたま車体頑強なボルボに乗っていたために九死に一生を得たことも知っておく必要があるのだろう。
午前二時また玄関の鐘が鳴る 蝶人
震災で亡くなった大勢の無辜の民を悼むために、この作家がみずからも亡き人の在ます世界に沈入して懐かしい人たちとの交わりを深めようとするのは善い事であるし、それは小説家だけに許された特権かもしれない。
京都に住むアーチストとヒロインが乗った車は上賀茂に帰宅する途中で交通事故に遭いあっけなくこの世をみまかる。フリーダ・カーロのように腹に鉄棒を喰らった彼女だけは一命を取り留め、最大の不幸と絶望の中から再生を試みようとするのだが、もしかすると彼女も彼と一緒に死んだのかもしれないし、生きていながら2つの世界を往還する霊魂の背負子のような存在なのかもしれない。
著者がそういう霊界の存在に寛容な人物であることは事実なのだろうが、ここで書かれているような生者死者を超越した父母未生以前の世界を、私は断固否定しようとはいまでは思わない。しかもそれは往々にして私に周辺でも実際に起こっているのだから、なおさらのことだ。
人世は死ねば終りではなく、あの世でかれらも私たちの身内も生きており、その気になればいつでも会って話してなぐさめあう事が出来るという考え方は、私たちにいわば2層倍のおおいなる精神の自由をもたらす。だからガリガリの無神論者たちも霊的なるものの存在を完全には否定したがらないのであろう。
けれども30年以上も前に同じ京都の比叡山ドライブウエイから谷底に転落した知人がたまたま車体頑強なボルボに乗っていたために九死に一生を得たことも知っておく必要があるのだろう。
午前二時また玄関の鐘が鳴る 蝶人
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