Thursday, December 31, 2009

謹賀新年

明けましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願い致します。


  谷戸ごとに虎蹲る初日かな 茫洋


虎絶えて寅のみ殖えるお正月 茫洋

Wednesday, December 30, 2009

西暦2009年師走茫洋花鳥風月歌日誌

♪ある晴れた日に 第69回


鎌倉の谷戸に眠れるホロビッツそのCDは朽ち果てにけり

エーリッヒのトラウマなかりせば聴けたであろうに「フィガロの結婚」

よみがえれクライバー、霊界の騎士像に立ちて「ドンジョバンニ」を振れ!

心より心にしみる弦の音シャンドール・ヴェーグの遺言と聴く

同じ演奏なのに何枚も買ってしまうマリアカラスのCD

あほばか指揮者と演出家よ去れ神聖なるオペラの殿堂から

隻眼隻手の主人公が健常者共をバッタバッタと切り殺す古今無双の林不忘のアイデア 

戦争は映画を殺す中山ありせば黒沢を超える名画を撮りしものを 

あら懐かし三菱がぶっこわした丸ビルがこの映画でよみがえる

丹波なる亀岡の里より出でし人応挙光秀王仁三郎

破綻せし御国の御蔵支えんと国債購いし愛国者われ

ダイエーの500m先に潜水艦浮かぶ横須賀に驚かぬ人

敗戦終戦闘争紛争アンガージュマンはありやなしや

汝エコノミーよわが憂鬱よどこまでも奥深く沈み行け 

モーツアルトはとても難しいのよと谷口先生語りき 

お母さんいま帰ったよと言える人なき年の暮れ

ヨーイ、ドン、そら走れ!しかし走れない人も数多くいて

1か月分の日経朝日が1巻きのトイレットペイパーに換わる金曜日

お父さん咲いているよと耕君が教えてくれしキンレンカの花

本物のピカソを飾る小学館ルオーを飾る新潮社

バスの中曇り硝子に一指も触れぬ大人かな

N響、有働、山田アナ、私の嫌いなNHKもいっぱいあるでよ

これはフィクションか私小説かどっちでもいいけどそれが問題だ

this is itこれがそれそのitってなんじゃらほいMr.マイケル

健ちゃんが大格闘して捕まえし巨大ウナギいまいずこ

限りなく心冷えゆくLEDブルー

中刷りの白恨めしき電車かな

大寒や柚の実絞るその心

三日月に飛行機飛んで柚湯かな

時折は笑いも漏れる7回忌



♪今宵また「ねんねぐう」と呟きて即眠りゆくしあわせなるかな 茫洋

Tuesday, December 29, 2009

MEISTER KONZERTE the master of musicを聞いて

音楽千夜一夜第104回

ドイツ・メンブラン社特製の100枚組協奏曲集を、昨日に引き続きついに聞き終わりました。

バッハ、バルトークにはじまりシューマン、シューベルト、チャイコフスキー、ヴィヴァルディ、フランツ・ワックスマンに至る250余のコンチエルトを、ゲザ・アンダ、バックハウス、グルダ、ヌヴー、リヒテル、ルビンシュタイン、ジャコブ・ザックに至る弦、管、提琴奏者が演奏しまくるという世紀の大企画が、デフレの時代にありつつも、ぬあんと1枚たったの80円とは、これを買わずにいったい何を買えばいいというのでありましょうや。

 とりわけ冒頭におかれたターリッヒ指揮リヒテルのピアノ独奏によるバッハのBWV1052の協奏曲は、ハスキル独奏によるBWV1056の演奏とともに声涙下る天下の名演奏です。加えてバックハウスとグルダのベートーヴェンの素晴らしいこと。
芸術家の真価は棺を覆うてはじめて定まるとか申しますが、このお二人のピアノをもっともっと聞きたかったと思わずにはおられませぬ。

指揮者といえばやはり何といってもフルトヴェングラー。ワルターがどうのセルがどうのとほざいてもかまいませんが、やはりクラシクの苦界においてこれほど偉大な存在はもう出ないのでしょうね。

ともかくこのシリーズの演奏、その大半がモノラル録音であるとはいえ、演奏の価値は最新デジタルステレオ録音におさおさ劣らず、いなむしろ洛陽に紙価が定まった名演奏たるがゆえに、人類の歴史が続く限りは、未来永劫にわたってそよ風にも揺るがぬ不朽の価値をもたらしておると言えるでしょう。

そういえば、たまたま今日のNHKのFMでハイフェッツのSPレコードをかけていましたが、その音色のつやつやとして色っぽいこと昨今のデジタル録音の比ではありません。デジタルのCDやブルーディスクDVDよりもアナログのレコード&テープ、LD、ビデオ、さらにそれよりも原音のライブネスに忠実なSPレコードという、まるで平成の御代に逆行するアナクロ説を唱え続けてきた超右翼兼超保守原理主義者の私ですが、流行のi-podで言葉の聞き取れない意味不明の最新音楽を「聞いた」と錯覚している人々にとっては、永遠に理解を絶する発言なのでしょうね。

少なくともCDよりもレコードの音の方が、物理的精神的に可聴世界が深いのです。


♪お父さん咲いているよと耕君が教えてくれしキンレンカの花 茫洋

Monday, December 28, 2009

Les 50 plus grands operas du monndeを聞いて

音楽千夜一夜第103回

フランスのデッカレーベルから発売されている、世界の代表的なオペラの演奏を収めた100枚組のCDセットをようやく聞き終わりました。

こんな重厚長大な代物をどうして買ったのかと尋ねられたら、1枚200円以下の安さに目がくらんだからだと答える愚かな私ですが、その内容はといえば非常に聞きごたえのある名曲の名演奏揃いでした。

No music no lifeならぬ、「音楽のない人生なんて過誤と疲労と流刑がいっぱいでっせ」という哲学者ニーチエのエピグラムを巻頭にちりばめた本全集シリーズでは、1607年にモンテヴェルディが作曲したオルフェオから始まって、1936年にフランコ・アルファーノによって作曲された「シラノ・ド・ベルジュラック」という珍曲まで、作曲年代順に並べられた50曲のオペラをよりどりみどりで聞きまくりながら過去400年の歴史をたどることができます。

モーツアルトでは「ドン・ジョヴァンニ」、「後宮からの脱出」、「フィガロの結婚」、「魔笛」、ヴェルディでは「リゴレット」、「オテロ」、「椿姫」、「トロヴァトーレ」、「仮面舞踏会」、プッチーニは「トゥーランドット」、「トスカ」、「マノンレスコー」、「蝶々夫人」、「ラ・ボエーム」といった按配で主要作品を網羅していますが、カタラーニの「ワリー」やマスネーの「タイース」、レオンカバッロの「道化師」、ラベルの「子供と魔法」、さらにはシェーンベルクの「期待」、ベルクの「ヴォツエック」といった現代曲もきちんと押さえられています。
44歳の若さで亡くなったエットーレ・バスティアーニのバリトンをヴェルディ作品でどっさり楽しめるのもこのアンソロジーの魅力のひとつでしょう。


♪中刷りの白恨めしき電車かな 茫洋

Sunday, December 27, 2009

大野和士指揮モネ王立劇場管で「さまよえるオランダ人」を視聴する

音楽千夜一夜第102回

これは05年12月20日のベルギー・モネ劇場での公演をライブ収録したもの。CGを得意とするギー・カシアスとかいう男が演出を担当していますが特にどうということはなし。

オランダ人をエグルス・シリンズ、ヒロインのゼンタをアニヤ・カンペ、エリックをトルステン・ケルル、ターラントをアルフレッド・ライトナーという聞いたこともない布陣ですが、これまた特にどうということなし。

大野の指揮は例によって全曲を背伸びして見通したうえで、知的に組み立て、抑えるところは冷静に、燃え上がるところはエネルギッシュにという風に、めりはりをつけた演奏でしたが、だからといって見者の心拍が激変して世界観が変わるというようなこともなしで、まあこれが欧州の通常の平均的なオペラ公演といえばいえるのでしょうが、典型的なルーチンワークといって過言ではないでしょう。

好漢大野はすでにモネ劇場のシェフを辞して、去年からフランスのリヨンの国立歌劇場の首席に赴任していますが、このようなゆるい演奏を続けていると、あの小澤や大植英次のような下らないワーグナー指揮者に転落する危険がいっぱいです。

ここ数日夜の9時になると、09年夏のバイロイト音楽祭のライブ録音を放送していますが、ティーレマンが振ったワーグナーの「指輪」のエキサイティングな演奏などをぜひ参考にしてほしいものです。


バスの中曇り硝子に一指も触れぬ大人かな 茫洋

Saturday, December 26, 2009

ジェームス・ジョイス著「若い藝術家の肖像」を読んで

照る日曇る日第319回

アイルランドの貧しい家庭に生まれた本書の主人公スチ-ブン・ディーダラスは、幼い時から厳格な宗教教育を受け、神と共に歩む聖職者の道を選ぶことまで考えましたが、やや長じて宗教団体が経営するカレッジに入るや一転して涜神とまではいかずとも高歌放吟、芸術三昧の世界に邁進します。

われかくして二〇世紀文藝の旗手となれり。めでたし、めでたしという退屈な回顧録か。昨日のガルシア・マルケスの自叙伝に比べるとずいぶん貧弱な内容だなあ、と思って読み終わったのですが、訳者である丸谷才一氏は、「これはそんな生易しい本ではないぞよ」とのたまいます。

まずこの本の「若い藝術家の肖像」という題名からして世界中の学者が、昔からああでもない、こうでもないという議論の種になっていて、これは単なる伝記であるどころか一種の創作的自叙伝であり、本書の主人公スチ-ブン・ディーダラスは、つとにギリシア神話に出てくるダイダロスの息子イカルスに擬せられており、偉大なる作家は、父や教会との大いなる葛藤を経て、ある若者が、それとは知らずに天高く飛翔しようとするところを象徴的に描いたのだそうです。せれどもこの若者は太陽の熱で翼を焼かれて墜落するという不幸な運命をまぬかれ、めでたく本書の続編である「ユリシーズ」に副主人公として登場することになるのです。


ああ無知とは恐ろしい。さすがインテリゲンチャンのご高説はひとあじもふた味も違うなあと思いつつ、ざっと再読してみたのですが、そんなことは枝葉末節もいいところ。いつの時代も、高踏的かつ衒学的な暇人の能書きはいっさい物事の本質とは無関係なのです。やはり本書はジェームス・ジョイスその人の前半生そのものの叙述ではないとしても、本物の芸術家になろうとしたある若者の精神の最深部の履歴の実録をありのままにつづった命懸けのドキュメントに他なりません。

とりわけ読者の心に衝撃を与えるのは、若き魂に激しく迫る神のあららかな声でしょう。七つの大罪を犯して地獄に落とされた罪びとに科せられ、未来永劫続く肉体的精神的苦痛の描写の微に入り細にわたる凄まじさは、ダンテの「神曲」をしのぐほどリアルで痛苦なものがあり、もしもそれが単なる威嚇や恫喝ではなく「本当のほんと」のことならば、不信心なこの私も即入信せねばならぬと思わせるほどの迫力です。

当時この若き芸術家がどれほど真剣に神と信仰の問題と格闘していたかをまざまざと示すこの本は、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」と並ぶ不朽の青春の書と評すべきでしょう。

♪本物のピカソを飾る小学館ルオーを飾る新潮社 茫洋

Friday, December 25, 2009

G.ガルシア=マルケス著「生きて、語り伝える」を読んで

照る日曇る日第318回

「予告された殺人の記録」「百年の孤独」などで有名なコロンビア生まれの作家マルケスの自伝です。本書では彼がさまざまな著書で伝説化した祖父母、父母の来歴とともに、彼自身の少年時代から作家兼新聞記者として徐々に頭角を現していく青年時代までの「生きて」きた波乱万丈の思い出を、初めて彼の口で「語り伝えて」います。

 著者は冒頭のエピグラフで、「人の生涯とは、人が何を生きたかよりも、何を記憶しているか、どのように記憶して語るかである」、と語っているのですが、この言葉こそ、本書が彼にとって持つ大いなる意味と意義を何よりも雄弁に物語っているようです。

11人家族の長男として南米の貧乏国の貧乏所帯に生まれた著者が、どのような家庭環境で生育し、どのような教育を受け、どのような数奇な体験を経てみずからを偉大な作家として彫琢していったかを、私たちは本書によってつぶさに知ることができます。

ボゴタ大学の法学部の学生でありながら新聞社で雑文書きのアルバイトをしていた22歳の時、彼は母親とともに実家を尋ねます。
そして1948年4月9日、彼は自由党の英雄ガイタン暗殺にはじまるボゴタの市街戦に若き日のフィデルカストロと共に遭遇し、命からがら逃げ回ります。三十万人以上の犠牲者を出した陰惨なテロルと内戦の悲劇を身をもって体験したのです。

恐らく、前者のたった2日間の旅が、彼を一族の壮大な過去の記憶のなかで再生させ、血と憎悪にまみれた醜悪な現実の只中にしか人間の実存はないという後者での発見が、彼を作家ガルシア=マルケスにしたのではないでしょうか。


 彼の文学と音楽には密接なつながりがあるようです。バルトークの「ピアノ協奏曲第3番」を聞きまくりなから、6作目の長編小説「族長の秋」を執筆していた著者は、そのことをあるカタルニア人の音楽家から指摘され、さらにノーベル文学賞の授賞式でも、なぜかこの曲が会場に流されて驚愕したそうですが、私たちはここでも文学と音楽の親和関係を確かめることができます。

「人生がどの方向に進んでいるのかを示しているような幻想を与えてくれるものであれば食器洗い機の中のお皿とナイフ、フォークまで音を出すものはすべてが音楽である」というジョン・ケージ流の哲学を持つ著者は、ゆったりとしたエピソードにはショパンのノクターン、幸せな午後の場面にはブラームスの六重奏という風に、さまざまなバックグラウンド・ミュージックをメキシコシティの書斎で流しながら、本書の続巻の著述に励んでいるようです。

 ♪「族長の秋」を彩るバルトーク奇跡のシンクロニシティにマルケス驚く 茫洋

Wednesday, December 23, 2009

プッチーニのオペラ映画「ラ・ボエーム」を視聴する

音楽千夜一夜第101回

昨日に続いてのプッチーニですが、今日のは1896年に作曲された代表作の「ラ・ボエーム」です。1889年の「エドガー」とは別人のように洗練された技法で、男女の別れを切々と歌い上げます。

「ラ・ボエーム」といっても、これはロバート・ドーンヘルムが映画化したもの。いまウイーンで人気のド・ビリー指揮バイエルン放響をバックに、ミミをネトレプコ、ロドルフォをビリャソンという超人気コンビがスタジオ録音した音声に、特設セットでの映像をコラージュした代物なので、ライブ公演と同日に談じるわけにはいきませんが、なかなか楽しめます。

 しかしこの「ラ・ボエーム」を見ていていつも思うのは、3幕のダンフェール門外の悲しい別れの理由。ミミの病気がひどくなったから、自分がいては回復の妨げになるので別れる、とロドルフォはほざきますが、大好きな女が死にかけているなら、普通の男なら最後までケアをするのではないでしょうか。

それなのに、やれ「寒い冬にひとり切りは耐えられない」、とか「せめて花が咲く春に別れたい」とか口々に「意気寂しがっている」のがちゃんちゃらおかしく聞こえます。まあ雪降るここで一回別れておかなきゃ4幕の愁嘆場が生きてこないからだということは分かるのですが、それにしても人間の心理としておかしいといつも疑問に思うところです。

ところでネトレプコ嬢は、ザルツブルクをコケにしたりして、世界中でひっぱりだこの人気のようですが、私は歴史に残るほどの歌手とはとうてい思えません。無色透明で小奇麗な歌い口ではあるけれど、まるで出来合いの機械仕掛けのお人形が口パクで歌っているよう。結局は真の個性がないのです。少なくとも私の趣味ではありません。

♪メリークリスマス!この年夏日本で死んだテレサ・ストラータス恋し 茫洋

Tuesday, December 22, 2009

プッチーニのオペラ「エドガー」を視聴する

音楽千夜一夜第100回

偉大なオペラ作曲家の知られざる「名作」をはじめてビデオで見ましたら、私が持っているCD(イヴ・カラー指揮ニューヨーク・オペラ管の演奏)とは違って4幕物だったのでちょっとびっくりでした。レナータ・スコットがヒロインのフィデーリアを、ベルゴンツイが表題役を歌ったこのCDはハッピーエンドで終わる3幕物でしたが、ヨラム・ダビッド指揮トリノ・レージョ劇場管によるこの演奏は、突如ヒロインが敵役に殺されてしまう悲劇で終わってしまったからです。

このオペラの主人公エドガーは、友人フランクの清純な妹フィデーリアを愛していたのですが、ジプシー娘(最近ではロマと称するようだが余計なお世話)の官能的な魅力にひきずられ(この辺はカルメンに似ている)、同じ娼婦を恋していたフランクをナイフで傷つけたままアーモンドの花咲く村から逃亡します。(1幕)

しかし恋多き野生の女との酒池肉林生活に贅沢にも厭き厭きしたエドガーは、2幕で友人フランクが率いる軍隊に飛び込み志願し、祖国防衛戦争で死んでしまいます。(この辺のでたとこ勝負の筋書きがおもしろい)

ところがどっこいエドガーは、ぬなあんと生きていた!?(この辺のでたらめな展開には誰もが呆然としてついていけなくなる)そうして彼は坊主に身をやつして己の棺桶の傍でフィデーリアが涙を流したり、ジプシー娘が嘘泣きしたりするのを逐一観察しているのですが、3幕の最後でフィクションを明かし、性悪女を放逐して初恋のカルピスの味の処女の胸へと帰ってゆく。メデタシ、メデタシ1巻の終というのがCDでした。

ところが去年の夏イタリアのトリノで行われた公演ではこのあと序幕と同じコーラスで始まる4幕の幕が開き、せっかく結ばれたはずのカップルの絆をジプシー女の鋭いナイフが永久に切り裂きます。仕合わせ転じて凶となる悲しい道行に、場内は涙、涙、また涙の幕切れでした。

プッチーニとしてはまだ若書きのオペラ2作目ですから、後年の旋律のきらめきはまだ暁天の星ですが、フィデーリアの悲しみのアリアなど盛り上がると、嘆かいはユヤーン、ユアーンと天まで昇り、イタリアのローカルオケが泣かせに泣かせ、観客ののんどはまるでイワシのようです。

4幕のもの静かなデユエットの伴奏では、緻密であるべきアンサンブルが突然ガタガタになるなど、あちこちに破綻もありましたが、まあこういうのがオペラの醍醐味なのでしょう。とにもかくにもおはなしが面白い、まるで歌舞伎のように楽しめるオペラでした。出演は以下のごとし。

エドガー ホセ・クーラ フィデーリア  アマリルリ・ニッツァ ティグラーナ   ユリア・ゲルツェワ フランク  マルコ・ヴラトーニャ グアルティエーロ カルロ・チーニ トリノ・レージョ劇場合唱団 トリノ・レージョ劇場トリノ・ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院児童合唱団 ヨラム・ダヴィド 指揮 トリノ・レージョ劇場管弦楽団 演 出 ロレンツォ・マリアーニ
(2008年6月25日 トリノ・レージョ劇場ライブ)

♪斬ったり張ったりちゃんちやんばらばらこれぞイタリア歌舞伎の醍醐味なるぞ 茫洋

Monday, December 21, 2009

梟が鳴く森で 第14回

bowyow megalomania theater vol.1


「普通の人、(普通の人の定義もキチンとしている訳じゃないけど)、普通の人ならそれこそ先天的に獲得している「状況の認知」「自他の関係の把握」「社会性の認識」といった知的ネットワークが、自閉症児者にはあらかじめ失われている。少しはつながっているにしても、そのネットワーク相互の配線は、そこここで断ち切られている。部品と部品、パーツとパーツ、脳機能と身体機能のすべてを統合するネットワークの弱さが、自閉症と言われる障碍の本質です。

だから自閉症の人っていい意味でも悪い意味でも「ゆるい人」。岳君もとってもゆるいんだけど、彼の脳の中のあちこちでほころびかけているニューロンの線と線を1本1本修復したり、回路のつながりを良くするために外部からいろんな刺激を与えたりすれば、少しずつ人並みになっていけると思うよ。

要するにリハビリだなあ。例えばプールで泳いだり、運動したり、ピアノをひいて脳のいろんな部位を活性化したり、電車ばっかりじゃなくて動物とか植物とか違うジャンルのことに徐々に関心を広げてゆくとか、お料理や図画工作をして手先をこまかく動かして逆に脳に対して刺激を与えていく……」

S先生は、ここでパイプをくわえて紫の煙をゆっくりと昼下がりの応接間に吐き出しました。部屋の中ではリヒヤルト・ワーグナーの舞台神聖祝祭劇「パルシファル」第3幕の聖金曜日の音楽が静かに流れていました。


♪破綻せし御国の御蔵支えんと国債需めし愛国者われ 茫洋

Sunday, December 20, 2009

梟が鳴く森で 第13回

bowyow megalomania theater vol.1

「例えばおたくの岳ちゃん、いや岳君の場合も高校生になるのに毎日JRの路線図ばかり書いていて、山手線の旧型103系や新型の205系のことが気になって気になって仕方がない。

普通というと変だけど、普通の人は、毎日多種多様な関心事が自由自在に頭の中を飛び交って、そのテーマにあわせて自分自身の意識や存在を変化させてゆけるのですが、岳ちゃん、いや失礼、岳君のような自閉症の人は、その自由とバラエティが少ない。生まれつきの脳の障碍が、その自由とバラエティを奪っているのでしょう。本当は素晴らしい素質が眠っているかも知れないのに……。本当は社会や他人たちにコミットしたくてたまらないのに、その手段が失われている。そういう症状、そういう不幸……

 自閉症は、幻覚や妄想をともなわないから、精神病や精神分裂病(統合失調症)でもない。脳の中枢神経機能の障碍といっても、手足や五体は健全なのだから、要するに人間を人間として成立させるための部品、つまりパーツですな、パーツはぜんぶ完璧にそろってる。目も、耳も、手も、足も、脳そのものも部品としてはきちんと組みあがっている。だけど、それらのパーツを普通の社会人、生活者、健常者としてちゃんと作動させるために必要な、なんというか「統合のシステム」に不具合があるんですな。

例えば100メートル競走でスタートラインに立ったとする。普通の人は、今日が運動会で、いま自分は3コースに位置していて、他の5人のライバルとスピード競争をするんだ、という認識が備わっていて、そのために全身全霊をあげて自分の身体メカニズムを駆使しようとするんだけれど、多くの自閉症児者には、いま僕が言ったような「条件付け」ができない。

つまり、運動会とは何なのか、隣の人はなぜしゃがんでいるのか、競争とかゲームとは何なのか、なぜ自分は走れと言われているのかがほとんど分からない。自分自身とその自分をとりまく状況が分かっていないと、いくら五体満足でも、「ヨーイ、ドン、そら走れ!」という風にならない訳です。運動会という一種の社会性を持ったステージの上に立つ自分という位置づけができていないと、何のために走るのかという納得ができないわけ。


♪ヨーイ、ドン、そら走れ!しかし走れない人も数多くいて 茫洋

Saturday, December 19, 2009

山中貞雄監督「丹下左膳余話 百万両の壺」を見る

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.22

夭折した山中貞雄の現存するたった3本のうちの1本がこれ。昭和10年1935年製作の時代劇ですが、監督本人がこの映画をてんで時代劇とは思っていないために生まれるおもいがけない表現世界の自由闊達さ、天衣無縫さがこの映画の最大の魅力です。

時代劇を時代劇として撮るリアリズムは次第にわが国の映画作法の主流となりますが、黎明期のこの頃は、まだそういう判で押したような文体がスタンダードなものではなかったことをうかがわせます。

若き監督の常識にとらわれない自在な発想と懐の広さから飛び出してくるユーモアとウイット、軽妙な会話と物語の快調なテンポがいかにも素敵で、現代人にも通じる喜怒哀楽のひとつひとつが思いがけず胸に迫ってくるようです。

ここでは丹下左膳(大河内伝次郎)と射的屋の女主人、道場主の馬鹿殿(沢村国太郎)とその細君という2つのカップルが登場して物語を動かしていくのですが、そのいずれにおいても男性は女性に完全に操縦されるお人よしである点もほかの時代劇には見られない特徴です。

林不忘原作・伊藤大輔監督の丹下左膳ものではニヒルな殺し屋として描き出されていた大河内伝次郎のイメージを、正反対の魅力的な喜劇役者として完膚無きまでに塗り替えたところに山中の独創と才気を感じます。

それにしても共演者の大半が天命を全うしたというのに、山中一人が28歳の若さで中国大陸で果てたとは、歴史の皮肉を嘆じないわけにはいきません。


♪隻眼隻手の主人公が健常者共をバッタバッタと切り殺す古今無双の林不忘のアイデア 茫洋


♪戦争は映画を殺す山中ありせば黒沢を超える名画を撮りしものを 茫洋

Friday, December 18, 2009

お母さん。いま帰ったよ。

バガテルop117


歳月怒涛のごとく来たり、突風のごとく去りゆく。あっと言う間に今年が終わり、すぐに来年がやって来るようです。そのことを、昨日訪れた某住宅改造会社のカレンダーが教えてくれました。

さて、毎年特定の芸術家を選び、彼が書き残した和洋の数字でカレンダーをつくるこの会社のアイデアは秀逸で、昨年度の夏目漱石編を、私は12カ月とっくりと楽しむことができました。

2010年度は、なんと宮沢賢治編の登場です。「お母さん。いま帰ったよ。」というのがこのカレンダーの表題になっているのですが、それは賢治の「銀河鉄道の夜」から採られたワンフレーズ。第3章の「家」でジョバンニがちょうど帰宅したときの言葉ですが、それが私の胸にいきなり飛び込んできました。彼の自筆の丸い字の跡をじっと見つめていると、この不世出の詩人宗教家の姿が生き生きとよみがえってくるようです。

またこのカレンダーには、「雨ニモマケズ」や「永訣の朝」の自筆原稿、妹クニの娘のイラストや動物のスケッチなども掲載されており、四季折々に彼と彼の生涯を回想することができます。


お母さんいま帰ったよと言える人なき年の暮れ 茫洋

Thursday, December 17, 2009

梟が鳴く森で 第12回

9月25日

今日は大好きな横浜線に乗って東神奈川で降りて「小児療育センター」へ行きました。そして、脳波をとりました。脳波のギザギザの線を指差しながら、S先生は、ここいら辺がちょいとゆるいんだとね、と、仰いました。
中脳の辺りに僕のウイークポイントがあるそうです。そのウイークポイントのせいで、僕は周囲の状況がよくのみこめず、社会的な発達がかなり遅れているそうです。

S先生は、仰いました。「自閉症というと、自ら閉じこもる病気と誤解されて、オタクの人たちと一緒にされてしまいがちだけど、全然違う。大体からして自閉症は病気じゃないんです。脳の中枢神経系が生まれながらに損なわれているために、いろんなかたちで引き起こされる発達障碍です。しかも心因性じゃなくて、器質の障碍。先天性の身体因を持って生まれた一種の欠損児、欠陥児が自閉症児なんです。だから、自閉症の原因は、ひと頃マスコミでさわがれた「心の病気」とか「カギっ子」のせいではない。まして「母源病」とか親の養育方法の誤りに起因するものじゃあ全然ないんだな。」

 しゃべりながら次第に興奮してきたS先生は、ここでお父さんとお母さんの質問に答えながらまた自閉症について語り始めました。

「そうですねえ、この障碍は2歳半ごろまでに代表的な症状が出そろいますねえ。例えば、それまでにちょっと出始めていた言葉が出なくなっちゃって、会話なんかほとんどできないこと。それからキャッチボールがうまくできない「運動の障碍」もある。さらに「同一性への固執」といって、水道からチョロチョロ流れる水とか、ドブの穴、扇風機やかざぐるまのようなぐるぐる回るものなどに四六時ちゅうこだわる子もいます。あんな何の変哲もないものに、まるで魅入られたように引きつけられるんですね。
あとは遊びができない。例えば汽車ポッポなら汽車ポッポを道具として使って、友達と一緒に遊ぶというようなことが全然できない。汽車ポッポの特定の一部、ぐるぐる回る車輪とかエントツの穴にしか興味がない子もいます。それを僕たちは「遊びの常同性」とか「行動のパターン化」とか呼んでいますが、ともかく非常に狭い限定された形でしか遊べないし、社会性を持った行動ができないことが多い。もちろん年齢とともにだんだん進歩する子もいるし、いろんな面で健常者のレベルに近づいていく子どももいますが、その反対に発達がとまっちゃう子もいるようです」


限りなく心冷えゆくLEDブルー 茫洋

Wednesday, December 16, 2009

梟が鳴く森で 第11回

9月24日

おばあちゃんと一緒に、谷口さんちへピアノのお稽古に行きました。

谷口さんはお母さんの友だちで、とても親切なおばさんです。僕のような人間があんなに難しい楽器をひけるようになるとは絶対に思っていなかったはずです。僕が5歳で、おばあちゃんが60歳で、お母さんが35歳で、空くんが3歳のときにみんなそろって谷口家にピアノを習いに行ったのですが、いまでも続いているのは70歳のおばあちゃんと僕だけです。

おばあちゃんは、早くバイエルを終えて、フォスターの「草競馬」や「庭の千草」や「夏の思い出」などを自由自在にひけるようになるのが夢です。♪オオドゥダアデエ~

僕は、もうバイエルを終って、ハノンに入って、いまではブルグミュラーの「おしゃべり」や「無邪気」とかバッハの「メヌエット」をひいています。シューマンの「楽しき農夫」はなんとかひけますが、おなじシューマンの「最初のそんしつ」は難しいです。

脳のいかれたお前がどうしてピアノをひけるようになったのかねえ。俺はいくら頑張ってもバイエルの77番までしか進めなかったのにねえ、とお父さんはあきれ顔ですが、本当は僕にモーツアルトをひいてほしいのです。岳のやつがケッヘル475のニ短調幻想曲をひいてくれたら、俺はそれを聞きながら死んでもいいや、と言っていたのを僕は知っているからです。

でも僕はまだモーツアルトをひいてあげません。モーツアルトはとても難しいのよ、と谷口先生は仰っています。僕も同感です。せめてクラウディオ・アラウくらいの年齢になってからモーツアルトはひいてみたいとかんがえています。


   ♪モーツアルトはとても難しいのよと谷口先生語りき 茫洋

Tuesday, December 15, 2009

ポール・オースター著「ガラスの街」を読んで

照る日曇る日第317回

アメリカの人気作家の処女小説を柴田元幸氏の翻訳で読みました。この推理小説仕立ての物語は、以下のような特徴を持っているようです。

1)本文の英語はいざしらず、文章が春の小川のようにすいすい流れ、物語の推進力と話柄の転換が自在であり、作者は卓抜な構成力を持っていること。

2)なんと作者と同名の探偵と小説家が登場して、作中で重要な役割を果たすこと。

3)推理小説としては破綻しているが、推理小説という形式をとった純文学小説としては成功を収めていること。あるいは推理小説という形式の必然性を持った純文学小説であること。

4)登場人物に仮託して、作者は新しい言語の創造と人類の再統合を夢見ていること。また「ドンキホーテ」という小説の成立と作者セルバンテスの関係についてユニークな考察を行っていること。

5)事件の真相はまったく解明されず、読者は唐突に放り出された地点が物語の結末になるのだが、その不条理な感覚こそが作者の狙いであること。

最後にこの小説のとても印象的な箇所を引用しておきましょう。

「それはit is raining 、it is nightと言うときitが指すものに似ている。そのitが何を指すのか、クインはこれまでずっとわかったためしがなかった。あるがままの物たちの全般的状況とでもいうか。世界がさまざまな出来事が生じる、その土台であるところの物事があるという状態。それ以上具体的には言えない。でもそもそも、自分は具体的なものなど探し求めていないのかもしれない。」

ふむ。なるほど。しかしもっと気になるのはマイケル・ジャクソンのthis is itです。「さあ、いよいよだぜー」などというアメリカ口語を用いながら、いったい何がitで何がthisだと、はたしてこの希代の踊亡者にはわかっていたのでしょうか。


♪this is itこれがそれそのitってなんじゃらほいMr.マイケル 茫洋

Monday, December 14, 2009

金原ひとみ著「憂鬱たち」を読んで

照る日曇る日第316回


なんらかの理由で強烈なストレスをこうむり、強迫神経症ではないかと自分を疑っている若い女性、神田憂が、この物語の主人公です。

我々ならば別段気にも留めない日常茶飯事に対して、彼女はきわめて敏感に、過剰に反応し、喜怒哀楽が激しいのです。とりわけ諸事万端に対して「憂鬱」を感じてしまいます。

この本を読みながら、私は昔勤めていた会社の田村君という人のことをはしなくも思い出しました。田村君は仕事が行き詰まるといつも天井を向いて、「憂鬱のうつ!」と怒鳴って己の心身の内部に生じたやり場のない感情を外部に発散させていました。
田村君の隣に座っている上司の長谷部さんも同様にストレスを抱えていたようで、行き詰まった時には、「ヌルヌルの蛇があー!ヌルヌルの蛇があー!」と何度も抑揚をつけて清元節のように怒鳴り、隣の人事課の人たちをびっくりさせていましたから、この「ヌルヌルの蛇」が田村君の「憂鬱のうつ!」に連動した可能性はおおいにあります。 

このような会社や会社員は、昔も今も日本全国いたるところに存在しているでしょうし、そう考えればこの小説の主人公がおかれている状況についてもたやすく感情移入することができます。そう、いまや神田憂的症状は、きわめてトレンディーなのです。

しかしこの小説の主人公が、いとも簡単に陰部が濡れてしまう、と告白しているのはかなり問題です。街のそこかしこで出会う男性を見れば、その男と変態セックスしている自分を想像してあそこがうずいて困ってしまう、というのはきっと性的に満たされないなにかがあるに違いありません。

それなのに彼女はなかなか精神科に行こうとはしない。今日こそは行こう、行こうと思って自宅を出るのですが、たとえば秋葉原のラオックスへ行って店員のウスイ君からデンマを買ってしまったり、ベンツの座席でいやらしい中年男にまたがって顔面騎乗したり、その気もないのにインダストリアル・ピアッシングをしてしまったり、あろうことか耳鼻科へ行ってしまったりしている。

これでは病状はますます悪化するほかありません。こんな性的妄想満載ポルノ小説を書いている暇があったら、一刻も早く精神科へ行くべきでしょうね。冗談はともかく、見事な技巧を駆使して構築された自我探求小説です。



 ♪これはフィクションか私小説かどっちでもいいけどそれが問題だ 茫洋

滑川の生物調査

滑川の生物調査

鎌倉ちょっと不思議な物語第209回
近所の滑川に散歩に行きましたら、神奈川県の委嘱を受けた河川調査会社の2名のスタッフが、川岸にどっかり座りこんで、すくい取った川の水をにらんでいました。聞けば神奈川県のすべての河川の生物調査をしているというのです。

お弁当箱2つ分くらいの大きさのアルミの箱を、川のあちこち、とりわけ岸辺の魚なんかがいそうなところにグイとつっこんで、そこに入った生き物を調べて、フィールドノートに書き込んでいくという、胸がわくわくするような素敵な仕事です。

2人のうち年配の方に、「なにがいましたか?」と興味津々で尋ねると、「ヤゴがいっぱいいますよ」とニコニコ顔で答えてくれました。きっと大学の理学部とか農学部、水産大学などを卒業した人なのでしょうが、ほんとうは私はこういう仕事を職業にしたかったのです。

「どうしてこんな寒い冬にわざわざ調べているんですか?」と尋ねると、
「もちろん夏も調査しましたが、冬場の方が魚も生き物も川床の地面にもぐりこんでいるから効率がいいんですよ」という返事。なるほどと得心しました。

次に「カワニナはどうですか?」と聞いてみましたが、「見当たらない」という返事。鎌倉はこの秋に大きな台風に襲われ滑川の上流から由比ヶ浜の河口まで2度ほど急流があるとあらゆるものを押し流しましたから、これから数年は天然鎌倉産のヘイケボタルは見られないかもしれません。

無口な若い方のスタッフがすくっている辺りを指差して、「ほら、そこのところに巨大なウナギがいて、うちの健ちゃんが両手でつかまえたんですよ」と私が自慢すると、

「ウナギはいますよ。この川は汽水性だから、ウナギもハヤもモズクガニも巻貝もみんな海から上がってくるんです。いくら台風がやってきても大丈夫。」と、その童顔のおじさんが教えてくれました。

私が「サケを見かけませんでしたか?」と聞くと、「滑川では見ないですね。もともと産卵もしていない川に、そんな魚が上がってくると困ったことになりますな」と最近のサケ逆上遡上現象を憂いていました。

 「横浜や川崎は高度成長期に一度河川は死んだんです。死んだ河川を無理矢理復活させたので、最近はすこし良くなった。そこへ行くと鎌倉の川はとてもきれいで生物も豊かですね」という調査おじさんの言葉を聞いて、その貴重な自然環境を大切にしなければと思ったことでした。


♪健ちゃんが大格闘して捕まえし巨大ウナギいまいずこ 茫洋

Saturday, December 12, 2009

渡辺保著「江戸演劇史 上」を読んで

照る日曇る日第315回

近世の演劇、能・狂言・歌舞伎を論ずるためには、その淵源をなした中世の演劇の歴史にさかのぼる必要があるということで、本書は慶長3年1598年8月18日の秀吉の死から書き始められています。

信長、秀吉、家康という3人の独裁者は、3人3様に能や風流踊を愛したわけですが、徳川政権が確立するに及んで、能楽は民衆の手から奪われ、官許式楽として奉られて武家の権威と格式の内部空間に囲い込まれて芸術生命を枯渇していきます。また狂言も古典劇化したのに、歌舞伎と浄瑠璃はなぜか世につれて生き延び、「時分の花」を咲かせ続けることに成功しました。ここに江戸演劇の勘所があると著者は強調しています。

出雲のお国が初めて京の都で「歌舞伎踊」を踊ったのは慶長5年7月1日、ここから現在の歌舞伎につながる芸能の歴史が始まりました。
京の女歌舞伎、遊女歌舞伎が各地へ下るなかで、寛永元年1624年には江戸に猿若座ができ、有名な江戸三座をはじめ京、大坂を合わせた「三都の櫓」は、不況や幕府による政治的弾圧(若衆歌舞伎の禁止や小屋取り壊し、所替の強要など)、人形浄瑠璃の隆盛といった外部的要因のみならず、江島生島事件、団十郎刺殺事件のような規律の乱れや芸術的未成熟などの内部要因によって何度も大きく揺らいできました。

しかしそれらの崩壊の危機をそのつど救ったのは、古浄瑠璃以来の伝統の力とライバルである人形浄瑠璃の創造性、そしてその時々の民衆の潜在ニーズを大胆不敵に取り込んだ座主や作者や役者の進取の精神でした。

元禄時代における竹本座の開場と竹田出雲、竹本義太夫、歌舞伎作者近松門左衛門の黄金コンビが歌舞伎に与えた影響はつとに有名ですが、以後宝永、正徳、享保、宝暦と時代が下がるにつれて団十郎、藤十郎、沢之丞、海老蔵、宗十郎、富十郎、菊之丞、幸四郎、歌右衛門などの名優がひきもきらず登場し、近松亡き後の合作者、竹田小出雲、並木宗輔、近松半二、並木正三、千柳などの優れた脚本家、薩摩浄雲、杉山丹後掾、宮古路豊後掾以降の名人音楽家たちの活躍によって、「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」などの名作が陸続と登場するのです。

本書の白眉は、疑いもなく江戸という都市と時代と芝居を、「桜花の幻想」というキーワードで鮮やかに関連づけた第六章の「満開の桜の下で」しょう。
それは「仮名手本忠臣蔵」が完成した寛延元年1748年の翌年に吉原に植えられた夜桜見物のにぎわいの描写にはじまるのですが、やがて江戸の市中を埋め尽くした桜花幻想は、舞台の劇場空間をも美しい魔物のように覆い尽くし、ついに「京鹿子娘道成寺」を踊る続ける女形のトップスター富十郎の上にも、はらはらと舞い落ちるのです。

「この格段の美しさは、さながら舞台に咲く桜の花を思わせる美しさである。ほかの多くの花と違って桜は一輪二輪の花ではない。一本の枝に無数に咲く。その枝が集まって一本の樹となり、その樹がさらに集まって桜の林となり、全山桜となり、ついには花の雲になる。この桜の不思議な美しさが「京鹿子」の構成によく似ている」

と著者は述べていますが、この魅力的な歌舞伎踊の本質をじつにうまくとらえていると思います。

♪ひたすらに踊りてやまぬ歌右衛門その手のうえにも桜降りしく 茫洋

梟が鳴く森で 第10回

9月23日

今日お父さんが外国人を家へ連れてきました。ジェーン・バーキンさんというきれいな女優さんとそのご主人で映画監督のジャック・ドワイヨンさんです。
ふたりはとっても仲が良くてうらやましいほどでした。僕もあんなきれいな女の人と結婚したいなあ、と思いました。

ジェーンさんは、まるで小鳥がさえずっているような不思議な言葉でずーっとしゃべりっぱなしでした。
お父さんからあとで聞いた話では、ジェーンさんのお友達の映画監督のウッデイさんという人は、ニューヨークというところに15人くらいの子どもと一緒に住んでいて、その子供というのは全部ウッデイさんの実際の子どもではないひとばかりで、その中にはベトナム戦争という大戦争でみなしごになった子どもや、僕と同じような子どももいるそうです。
お父さんは、それって、とってもすごいことなんだぞお、と教えてくれました。

ジェーンさんは、お母さんからスキヤキをどっさりごちそうになって帰るとき、僕のホッペにチュ!とキスしてくれましたが、そのときとってもいい匂いがしました。
お父さんの話では、あれはシャネルのエゴイストという名前の香水のせいなんだそうです。

エゴイストってどういう意味?と僕が尋ねると、自分勝手な奴だよ。そういう人間になったら人間終わりだよ、とお父さんがまた教えてくれました。
僕のお母さんはエゴイストではありません。生協のちふれです。

ジェーンとドワイヨンさんは、玄関口で、オ・ルボワールと言いました。
オ・ルボワールとは、フランス語でさよならという意味だそうです。そして、もう一度会おうね、という意味だそうです。

オ・ルボワール・ジェーン!
オ・ルボワール・ジャック!

と言いながら、僕はこの人たちにもう一度会えるだろうか、会えたらいいな、と思っていました。

♪鎌倉の谷戸に眠れるホロビッツそのCDは朽ち果てにけり

Thursday, December 10, 2009

吉田秀和著「之を楽しむ者に如かず」を読む

照る日曇る日第314回&♪音楽千夜一夜第99回

覚えず「読む」と書きましたが、活字を読みながら、音楽が流れてくるような文章を、この達人は書くのであります。それはこの人が音楽評論家であって、だからこの人の文章が、音楽に触れているから、というそんな下らない理由だけではなくて、――非音楽的な文章を書く音楽評論家は多い――この人の文が音符のようにつづられ実際に音が鳴り響くような気がしてくることすらあるから、やはり文章を書くということはすごいことなんだと思い知らされるのですね。

例えばブダペスト弦楽四重奏団が1951年に入れたラズモフスキー第1番ト長調。ロベール・カサドシュのモーツアルトのK467の協奏曲、シャンドール・ヴェーグがカメラータ・アカデミカと死ぬ前に録音したモーツアルトのディヴェルティメントとセレナーデ。シモン・ゴールドベルクとラド・ルプーによるモーツアルトのヴァイオリンソナタ、グルダのピアノソナタと協奏曲、――もちろんモーツアルトの、ね――。クルト・ザンデルリングとドレスデン・シュターツカペレによるベートーヴェンの8番、その他その他の名曲の名指揮者による名演奏を、吉田翁は利休が茶器のひとつひとつをいとおしみつつなでるように愛でている。

私たち読者は、ほれほれ、もうその旋律が、その和音が、耳の前や後ろでかすかに鳴り響いているというのに、之を聴かずにおらりょうか、となるのです。

これらのうちで吉田翁がもっとも称揚されていると私が勝手に推察するのは、シャンドール・ヴェーグが晩年にザルツブルグで録音したモーツアルトです。独カプリッチョ盤――現在タワレコやHMV通販で超格安にて販売中、これを聴かずに死ねるか的超名盤中の名盤――に収められたディヴェルティメントとセレナーデの全曲を、私も吉田翁に勧められるまでもなくつとに愛聴しています。
翁が仰るように、「楷書の端然とした筆遣いだが、ちっとも堅苦しくないきれいな音で弾いている。(中略)これらの曲特有のあの苦さ、陰影の深い暗さの表出の点でも間然するところがない」。

ところで本書p450によれば、吉田翁は最晩年のヴェーグを水戸室内管に招聘したところ快諾してくれたので、楽しみに待っていたところ突然の訃報を聞いてショックを受けられ、「痛恨の極みとは、こういうことを言うのだろう」と書かれていますが、その気持ちはよく分かります。

蛇足ながら、私がこれまでに聴いたベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の最高の録音は70年代半ばのヴェーグ四重奏団の演奏(仏Valois盤)で、同じヴェーグQtの旧録も素晴らしかったが、アルバンベルクQtの2度の録音(DVDを入れると3度ですが)など足元にも寄せ付けない名演奏です。
 

♪心より心にしみる弦の音シャンドール・ヴェーグの遺言と聴く 茫洋

Wednesday, December 09, 2009

松本清張原作・堀川弘通監督「黒の画集」を見る

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.21



生誕100年記念とかいうことで松本清張原作の映画「黒の画集」をテレビで放映していました。

東京の丸ビルの4階にある中堅テキスタイル企業の庶務課長が主人公です。浮気している部下のOLのアパートの近所で顔見知りの保険外交員に挨拶する。ところがその男に殺人の容疑がかけられ、課長の証言がなければ有罪になってしまう。

しかし証言すれば不倫が公にされて、順風満帆だった人生が破滅してしまうかも知れない。というプロットがまさに清張一流の形で、物語は途中のしばしのアダージオをはさみながら、ラストの一大カタストロフめがけて急流をいっさんに下るようにアレグロで展開します。

脚本は黒沢作品もよくてがけた橋本忍ですが、物語の話者を主人公にしたのは疑問。悲劇の構造をもっと客観的に浮き彫りする手法がほかにあったはずです。
監督はベテラン堀川弘通で万事そつがない。小林桂樹がどつぼにはまったサラリーマン課長を力演していますが、それもむべなるかな。この映画が製作された1960年の40年後には、このポストが社長への近道となる出世コースとなるのです。

それはともかく、小林桂樹の愛人に扮した原知佐子の小悪魔的な演技を筆頭に、その妻に扮した中北千枝子、保険外交員役の平田昭彦、刑事役の西村晃などの脇役陣が比類なく充実していて見事。半世紀前の日本映画には、つまらない映画でさえもどこか記憶に値する独特の存在感がありました。

別にこの映画や、平成の御代の最新の映画がすべてつまらない、というわけではありませんが。


♪あら懐かし三菱がぶっこわした丸ビルがこの映画でよみがえる 茫洋

Tuesday, December 08, 2009

「三井家のきものと下絵」展を見る

茫洋物見遊山記第7回&ふぁっちょん幻論第54回


新宿の文化学園服飾博物館では、「三井家のきものと下絵」展が12日まで開催されています。

三井家は、江戸時代の日本橋で越後屋呉服店を開店し、本邦最大規模の呉服小売店として大繁盛しました。維新後は三越などを中核とする財閥を形成しわが国の資本主義の発展と拡大を担ってきた名家ゆえに、歴代の和装品の数々を所蔵していましたが、その収蔵品の一部が現在この博物館の重要なコレクションとなっているわけです。

今回の展示会では、安土桃山時代以降、江戸、明治に至る様々な着物と下絵合わせて70余点が紹介されています。
それらを通覧して分かるのは、安土桃山時代の内掛けの衣装デザインの絢爛豪華さです。これは狩野派などの襖絵にも通じる要素ですが、豊臣が滅ぼされ、徳川の御代に転じるに従って、同じ山川松柏鶴亀のモチーフにしても構図とデザインの放胆さが次第に薄れ、小手先の技巧が勝っていく趨勢がみてとれます。

次はデザインの三次元化です。桃山、江戸初期、中期までは着物全体を二次元とみなした平面的な図柄が中心でしたが、江戸後期に入るとそれが立体的な構想をそなえた三次元デザインに進化します。内掛けの背後から眺める人の鑑賞を意識して、背中と胴体と下半身の各パーツに描かれる風景や植物や動物の位置や大きさが意図的にデフォルメされていくのです。デフォルメといっても、着物の鑑賞者にとってはより自然に生きた姿形として受け取られたわけです。

そして、このデザインの三次元化&デフォルメを実現するために、三井家に対して大きな影響を与えたのがわが丹波亀岡出身の画家、円山応挙でした。動植物の写生と西洋画伝来の遠近法を得意としたこの円山四条派の始祖は、それまでの着物を大きく改新するニューデザインを開発することによって、パトロンの期待と新ビジネス需要に応えたのでした。
本展には、亀居山大乗寺(応挙寺)所蔵の下絵もいくつか展示されており、これらを実際の内掛けと見比べてみるのも一興です。


♪丹波なる亀岡の里より出でし人応挙光秀王仁三郎 茫洋

Monday, December 07, 2009

私が好きなNHKの番組

バガテルop116

最近はケイタイのネットに押されて、新聞雑誌のみならずテレビの視聴率もどんどん下がってきたようで、たいへん結構なことだと思っています。つまらないものを無理してみることはありません。いいもの、すきなものだけ目にしておれば、人間きっと極楽往生できるでせう。

さて私は民放が苦手なので、テレビはもっぱらNHKを視聴しています。
 NHKのお気に入りは海外ドラマ。最近はやぶにらみピーター・フォークの「刑事コロンボ」と「アグリー・ベティ2」をかかさず見ています。前者のパターンは毎回同じで、犯行と同時に犯人(有名ゲスト)が出てきます。コロンボとやりとりしながらその犯行のトリックがあばかれていく謎解きがお楽しみ。ここまでパターンを固定していながら、毎回最後まで引っ張って行く脚本の力が素晴らしい。初めのころはスピルバーグも書いていました。

「アグリー・ベティ2」は、アメリカ・フェレーラというブスカワいいメキシカンが、NYの一流ファッション誌の編集部に入って大活躍するお話ですが、恋と仕事と人情話のあれやこれやもさることながら、アラフォーだかアラフィフ編集長のバネッサ・ウイリアムズとそのおかまの助手マイケル・ユーリーのポップな衣装が素晴らしい。よほど腕こきのスタイリストがついているのでしょう。

このほか先日終わってしまった「ダメージ3」というグレン・クローズ主演の弁護士物もむちゃくちゃ面白かった。グレン・クローズは悪人と正義派の両面の顔を持つ超やり手弁護士ですが、そこにローズ・バーン扮する若手女性スタッフやウイリアム・ハート扮する昔の恋人なぞとのえらい確執が絡んで、もはや何が正義で誰が悪か、誰が正義の味方で誰が悪人なのかわからんカオス状況に突入していく。グレン・クローズの灰色の瞳が象徴する人間存在の暗闇に、ペンライトひとつで侵入していく不気味さがたまりません。

猛烈に練りこまれた脚本もすごいが、時系列をあえて取り払ったアナーキーな演出が見る者の心理を揺さぶり、それがいっそうスリルとサスペンスを引き起こす仕掛けになっていましたが、もう続編はないのでしょうか。

最後に、私のいちばんお気に入りだった「サラリーマン・ネオ」をお蔵にした奴は誰だ。民放の笑いにもならないアホバカお笑い番組が氾濫するなか、あれには上質のユーモア、ウイット、批評精神が満載されていました。


♪N響、有働、山田アナ、私の嫌いなNHKもいっぱいあるでよ 茫洋

Sunday, December 06, 2009

梟が鳴く森で 第9回

9月22日

星の子学園からの帰り、三平君がいっしょにトイレへ行こうと言いました。
僕はあんまり行きたくなかったけれど、三平君が無理矢理言うので仕方なくついて行きました。駅の上のトイレです。
僕たちの他には誰もいませんでした。

大の方のトイレにいっしょに入ると、三平君はオチンチンを出してナメロと言いました。
僕はいやだと言いました。嫌だお、嫌だお、と何度も言いました。
三平君は、おっかない顔をして、いいからナメろ、ナメないとぶんなぐるぞ、と言いました。僕はこわいし、逃げられないし、お父さあん、お母あさん、助けて、助けて、嫌だお、嫌だお、と何度も叫びましたが、誰も助けてくれませんでした。

とうとう僕は三平君のオチンチンをナメさせられました。とてもいやな臭いでした。吐き気がしました。
いやだ、いやだ、死にたいおう、と、僕は泣きましたが、三平君は許してくれませんでした。もっとナメロと言いました。またナメました。変な味、気持ち悪い味がしました。

やっと三平君はトイレのドアをあけて僕を出してくれました。絶対に誰にも言うなよ、言ったらひどい目にあわせるぞ、と三平君は言ったので、僕は、分かったおう、誰にも言わないおう、と、泣きながら約束しました。

家に帰ったら、お母さんが、岳君顔色悪いね。どうかしたの。と聞きました。
僕は、どうもしないおう、と答えました。何もなかったおう、と言いました。お母さんは黙って僕の顔をじっと見ました。

僕は、駅のトイレが嫌いです。三平君が嫌いです。あんな奴は死んでしまえ。



♪1か月分の日経朝日が1巻きのトイレットペイパーに換わる金曜日 茫洋

Saturday, December 05, 2009

梟が鳴く森で 第8回

梟が鳴く森で 第8回

9月21日 雨

青山アン子は、加藤かおるに言いました。
バーカ、バーカ、あんたなんか、バーカ。
すると、加藤かおると木地かおると木地広康が怒りました。怒って、アッカンベーしました。よせ、よせ、もうよせよ、と、学のパパと御爺さんが言いました。
もお許せねーと、チビはとびけりをしました。それが人生というもんだ。セラビーだ。と、青山アン子のパパが静かに言いました。

ママは黙ってキッチンでひらめを焼いていました。
外は雨でした。ムクのごはんを近所のドラ猫がパクパク食べていました。
雀もいっぱい集まってムクのご飯を食べていました。


♪敗戦終戦闘争紛争アンガージュマンはありやなしや 茫洋

Friday, December 04, 2009

パッパーノ指揮コヴェントガーデン歌劇場管で「ワルキューレ」を視聴する

♪音楽千夜一夜第98回

2005年7月18日にロイヤル・アルバートホールで行われた「プロムス05」のワーグナー上演のライブビデオです。プタシド・ゴミンドがはじめてプロムスに登場したことで話題になりましたが、そんなことより(この時点で)彼の衰えを知らない豊かな声量と巧みな歌いまわしに魅了されます。

そのドミンゴ扮するジークムントの恋人であり妹役のジークリンデには練達のメッゾ・ソプラノ、ヴァルトラウト・マイヤー、ウオータン役にはバスバリトンのブリン・ターフェル、表題役にはソプラノのリサ・ガスティーンという豪華な配役です。

そしてこれらベテラン揃いの充実した歌唱を、イタリア出身の指揮者アントニオ・パッパーノがじつに手際よく、パッパと引っ張っていきます。
59年生まれのパッパーノは、各地の歌劇場でコレペティトールをつとめ、大野和士の前にモネ劇場のシェフであり、バイロイトにはローエングリーンでデビューを飾った、いわばたたき上げのオペラ指揮者。初めは処女のごとく悠揚迫らぬテンポでオーケストラを歌わせ、半ばではワルキューレの女騎士たちを見事にうねらせ、終わりはワルハラの神殿を紅蓮の炎で燃えあがらせます。コンサート指揮者上がりの小沢某なぞには及びもつかぬ見事なテクニックといえましょう。だいたい歌手やオーケストラをやすんじてドライブさせえない人間がオペラハウスなぞに足を踏み入れてはいけないのです。

兄と妹の許されざる恋、そして父と娘の異常なまでの愛、そして神々の世界の崩壊という3つの主題をもつこの神聖な楽劇を、パッパーノとコヴェントガーデンのオーケストラは過不足なく表出していました。

この公演はコンサート形式で行われたのですが、当節の下らない演出を排し、ヴィーランド・ワーグナーの時代に先祖返りしたような単純で簡素な歌手たちの振舞いが、かえってこのオペラとワーグナーの音楽の本質を力強く闡明していたようでした。



  ♪あほばか指揮者と演出家よ去れ神聖なるオペラの殿堂から 茫洋

Thursday, December 03, 2009

佐藤賢一著 小説フランス革命「議会の迷走」を読んで




照る日曇る日第313回


1789年、フランス革命は成就したけれど、革命によって誕生した国民議会は、左・右・中間派に分かれて大混迷を続けています。

ジャコバンクラブを中心とした左派は、僧侶をバチカンではなく革命フランスの前に膝まずかせようとして強引にルイ16世を説き、「聖職者民事基本法」を通過させました。神父の献身の対象を神やローマ法王ではなく、フランス憲法と人民に置き換えようとしたのです。しかし全国で宣誓拒否僧が相次いで登場し、いまやフランス宗教界を二分する「シスマ」(教会分裂)が再現されようとしていました。

ここでなおも革命を推進しようとしたタレイランやロベスピエールの動きを抑えようとしたのが、他ならぬ「革命のライオン」、ミラボーでした。彼は国民の「亡命禁止法」にも反対し、左派のジャコバンクラブを骨抜きにして、ルイ16世をパリから退去させ、現議会の解散と新議会の召集をさえ図るのですが、1791年4月2日、持病が悪化して急死します。享年42歳でした。

 ミラボーが、絶対の正義と、とことん純粋な民主主義を熱烈に志向する若きロベスピエールを死の床に呼び寄せ、暗に戒める名場面が本書の読みどころ。つねに清濁を併せ呑むこの巨漢が、苦しい息の下から、

「己が欲を持ち、持つことを自覚して恥じるからこそ、他人にも寛容になれるのだ。さもないと独裁者になるぞ。独裁というような冷酷な真似ができるのは、反対に自分に欲がないからだ。世のため、人のためだからこそ、躊躇なく人を殺せる。ひたすら正しくいるぶんには、なんら気も咎めないわけだからね」(ほぼ原文)

 と、懸命に説くのですが、その忠告は聞き届けられず、このあまりにも誠実で謹厳実直なモラリストは、ついにフランスの「第2のカルヴァン」になってしまうのです。

朝の8時に「友よ、私は今日死ぬ」と医師に告げて紙を所望し、8時半に右手にペンを握って「眠る」と書いて事切れたこの豪傑は、ロベスピエールなど数多くの革命家に比べてじつに幸福な死に方をしたものだ、と言わざるを得ません。


♪今宵また「ねんねぐう」と呟きて即眠りゆくしあわせなるかな 茫洋

梟が鳴く森で 第7回

9月20日

緑豊かに風に乗って、光あふれる窓の外、
夢とちからをひとつに結び、
共に生き、共になやみ、
力あわせて進もうよ、我ら星の子、星の子学園。

心のどかに風に乗って、命かがやく惑星の彼方、
心とからだをひとつに結ぶ
共に泣き、共に笑い、
手をつないで進もうよ、我ら星の子、星の子学園

駄目、中田先生。ね、分かった? 横須賀、笑わないで。
バイバイ。使う。ちゃんと遣って。
泣いたら、休んでて、ちゃんと、して。

長島先生、悪かった。悪かった。悪かった。
ちゃんと遣るなら、ちゃんと、して、あげるから。
はさみで、遣っちゃ、危ないよ。
何でしょう? 
緑豊かに風に乗って、光あふれる窓の外、
夢とちからを……

♪同じ演奏なのに何枚も買ってしまうマリアカラスのCD 茫洋

Tuesday, December 01, 2009

アレクサンダー・ヴェルナー著「カルロス・クライバーある天才指揮者の伝記上」を読んで 後篇

照る日曇る日第312回&♪音楽千夜一夜第97回

昨日の渋谷で思い出しましたが、カルロス・クライバーはよくお忍びで日本に来ていました。東京では渋谷のタワーレコードがお気に入りで、店員さんの話では、アメリカのBEL CANTO SOCIETYから発売されていた、彼がスカラ座のオケを振ってドミンゴ、フレーニが歌った「オテロ」の海賊盤のライブビデオを、なんと3本も買っていったそうです。

この公演は、私などはじつに素晴らしい演奏だと思うのですが、1976年12月7日の夜のミラノの聴衆は、そうは思わなかったとみえて猛烈な「ブー!」を浴びせかけ、2幕の冒頭では、さすがのクライバーも指揮棒を振りおろすのをためらうシーンもあります。

しかし4幕が終わってオテロが死ぬと、スカラ座の屋台骨を揺るがすような大歓声が沸き起こり、全盛時代のクライバーは、悪意ある3階立ち見席の敵対者を完膚無きまでにねじり伏せるのです。

その天才指揮者の微に入り細にわたる伝記が、半分だけですが、ついに公刊されました。
著者のヴェルナーさんがどういう方かは存じませんが、ともかく資料と取材源の豊富さには圧倒されます。

そして、いつもは誰にも優しく、しかしいったん指揮台に上るや別人に変身し、ある時は神のごとく地上を離脱し、またある時は悪魔のように怒り狂い、再現芸術の演奏に求められる最高の知性と教養と技術と霊感をそなえながら、音楽に対する理想が誰よりも高すぎたために、どんな拍手と喝采にも満足することができなかった、この不幸で、孤独な男の実像と虚像が赤裸々に描かれています。

本書が扱うのは彼の無名時代から、1976年ついにスターダムの頂上に達しながらバイロイト音楽祭の「トリスタンとイゾルデ」から突然降りところまで。偉大なる指揮者エーリヒや母ルースとの葛藤はじつに興味深いものがあります。

聞けば彼は、その長い下積み時代に、オペレッタ「ジプシー男爵」や「美しいエレーヌ」「メリーウイドー」、「ダフネ」「売られた花嫁」「ラ・ボエーム」「蝶々夫人」「リゴレット」「ドンジョバンニ」などの膨大なオペラ、「ウンディーネ」「コッペリア」「三角帽子」「くるみ割り人形」などのバレエ音楽を、すでに自家薬籠中のものとしていたそうです。

これらのレパートリーと合わせて、アルベン・バルクの「ヴォツエック」、ミケランジェリと共演したベートーヴェンの「皇帝」などの録音も、とうとうゆめ幻と消え去り、ついに音源化されることのなかったことを思うと、私たちが失ったものの大きさに今更ながら深いため息が出るのです。


♪よみがえれクライバー、霊界の騎士像に立ちて「ドンジョバンニ」を振れ! 茫洋

アレクサンダー・ヴェルナー著「カルロス・クライバーある天才指揮者の伝記上」を読んで 前篇

アレクサンダー・ヴェルナー著「カルロス・クライバーある天才指揮者の伝記上」を読んで 前篇

照る日曇る日第311回&♪音楽千夜一夜第96回

 クライバーといえば、私はすぐに80年代の渋谷の坂上のシスコというCDショプを思い出します。ある日のこと、一人のサラリーマンの男性が「クラーバーのCDありませんか?」と店長に尋ねていました。

なんでも出張先のミュンヘンで、生まれてはじめてクラシックのコンサートに行ったらそれがあまりにも素晴らしかったので、「クラーバーとかいうその指揮者のCD」を買いに来たというのです。
私と店長は思わずためいきをついて、その男性の幸運と、クラッシックの門外漢をたちまち虜にしてしまうこの音楽家の真価を、改めて確認したことでした。

かくいう私は、残念ながらカルロス・クライバーのライブを見聞きしたことはありません。けれども、彼が遺した2種類のシュトラウスの「薔薇の騎士」、もう一人のシュトラウスの喜歌劇「こうもり」、ロイヤル・コンセルトヘボウと入れたベートーヴェンの交響曲の4番と7番、バイエルン国立の「椿姫」、モーツアルトとブラームスの交響曲、シュターツカペレ・ドレスデンと入れたウエバーの「魔弾の射手」とワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」、スカラ座の「オテロ」などのCDやビデオから受けた驚きと感動は、凡庸な凡百の指揮者のそれとはまったく次元の異なる種類のものでした。

また彼が、若き日に南西ドイツ放送交響楽団と作った「こうもり」と「魔弾の射手」の2つの序曲の公開練習のビデオのすごかったこと! ここには彼の光彩陸離とした指揮術の魔法の秘密のすべてが、をものの見事に記録されています。

彼の音楽の素晴らしさは、「こうもり」の序曲の最初の終楽章を聞けば、どんなロバの耳にも明らかでしょう。指揮棒を一閃するや否や、シャンパンがはじけたように一気に解き放たれる恐るべき昂揚と爆発的な推進力。私たちの心臓は音楽の神様にわしづかみされ、魂魄は宇宙の彼方にぶっ飛ばされてしまいます。

「これが音楽なんだ。これが生きるよろこびなのだ。神様仏様、どうかこの音楽と共にある自分が永久に続くように!」
と私たちが祈らずにはいられない種類の音楽を、この男は、いなこの男だけが、ものの見事にやってのけたのです。もちろんその命を賭した大胆な跳躍が、あえなく潰えた無惨な夜も、いくたびかはあったとはいえ。

げにカルロス・クラーバーこそは、音楽に霊感を吹き込み、私たちの人生を震撼させるほとんど唯一無二の音楽家でした。


♪エーリッヒのトラウマなかりせば聴けたであろうに「フィガロの結婚」茫洋