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Wednesday, March 21, 2012

鎌倉国宝館で「ひな人形」を見る

茫洋物見遊山記第81回&鎌倉ちょっと不思議な物語第260回 &ふぁっちょん幻論第69回


年年歳歳花相似 年年歳歳人不同。あれからもう1年が経ったのですね。

私は今年もまた、春近い朝、鶴岡八幡宮の片隅にある国宝館のひな人形を見物に行きました。享保時代に製作された大きなうりざね顔、引目鉤鼻の享保雛をはじめ、江戸、明治、大正時代につくられ大家、名家、旧家に大切に保存されていた内裏雛や御殿飾り、雛段飾り、立雛、衣装人形、御所人形などが目も綾に陳列され、この一隅だけは早くも春爛漫の雰囲気です。

昨年も触れましたが、平安時代以降本邦では(右大臣より左大臣のほうが偉かったように)、身分地位が上位の者は左側(向かって右)に立つという伝統と風習があったために、この会場の人形はいずれも男雛が左(向かって右)に、女雛が左(向かって右)側に並んで立っています。

ところが昭和三年一九二八年、昭和天皇即位の折にそれが左右逆転したのはいかなる事情があったのでしょうか。恐らくは西洋から来日した貴賓との会見や接待の折に不都合が生じる惧れがあったために古来伝統の作法を急遽曲げてしまったのでしょうが、どうしてこういう問題に過剰反応する右翼や国家主義者たちが反対しなかったのか不可解です。ここでは礼儀作法という名目に潜む西洋と神国ニッポンの存在理由が問われていたのですから。

それにしても昭和天皇の顰に右に倣って、それ以降の人形業界や日本人が西洋流のレイアウトに盲従してしまったことこそ大問題だと思うのですが、そうゆー下らない話よりも今年のパリコレで話題を呼んだコムデギャルソンの少女風のワンンピースの発想の原点は、縄文巻頭衣ではなく「お雛様」にあるとにらんでいるのですが。


*本展は鎌倉国宝館で4月1日までひめやかに開催中

        
平成のすべての女性をお雛様にする川久保玲 蝶人

Sunday, February 19, 2012

文化学園服飾博物館で「ペイズリー文様 発生と展開」展を見て

ふぁっちょん幻論第67回&茫洋物見遊山記第77回

ペイズリー文様といえばただちに思い浮かべるのが1947年に製作された吉村公三郎監督の「安城家の舞踏会」。その前半部で原節子が着こなしていた大胆なペイズリー柄のワンピースであります。その大柄な装飾柄が、没落する桜の園でけなげに生きようとする彼女の役柄にふさわしい雰囲気を醸し出していました。

本展の資料によれば、ペイズリー文様の起源は、インド北部カシミール地方の可憐な花模様だそうですが、これがインドの染織品と共に18世紀に入った欧州で大流行を遂げ、それが更にアジア、アフリカ諸国の文様と複雑多岐に融合し、その混合物がまた全世界に波及するという一大トレンドを醸成したようです。

18世紀の末から19世紀はじめの欧州は、例のアールヌーボーの隆盛期だから、有機的なものと無機的なもの、植物と鉱物の融合を目指したこの歴史的な文化工芸運動とペイズリー文様はピッタシカンカンのコラボレーションを繰り広げたに違いありません。
当時英国で産声を上げたリバティプリント社や、のちのイタリア・エトロ社の装飾的なファブリックの源流も、すべてここから発しているのでしょう。

大きな涙を垂らしたようなペイズリー柄を見ると、生物のもっとも基本的な単位である細胞の顕微鏡写真によく似ています。ペイズリー柄は、生きとし生けるものの生命の原核を象徴するデザインであるだけでなく、それを身にまとう者に不滅の生命を賦活する呪術的な文様でもあるのでしょう。

人々と時代の生命力が限りなく沈滞し続けている現在、ペイズリー文様復興のビッグ・トレンドが深く静かに待機しているのかもしれません。なおこの展覧会は来る3月14日まで東京新宿の同博物館で開催されています。


神様の涙のようなペイズリー滅びゆく我らを優しく包まむ 蝶人

Monday, December 05, 2011

文化学園服飾博物館で「世界の絣」展を見て

茫洋物見遊山記第71回&ふぁっちょん幻論第66回

絣って日本だけのものかと思っていたらとんでもない、どうもインドが原産らしいんだけどアジアを中心にカンボジア、タイ、ラオス、ベトナム、ビルマ(ここで「ミャンマー」などと読み書きする人は軍事政権の支持者だぞ)、中国、インドネシア、ナイジェリア、ウズベキスタン、シリア、ヨルダン、モロッコ、フランス、アメリカ、グアテマラなど世界各国、各地で行われてきた染織方法だったんですね。

なんでも博物館資料によれば、文様にしたがってあらかじめ糸を染めわけたあとに織り上げるもので、経糸に染めを施す経絣(たてがすり)、緯糸に施す緯絣(よこかすり)、経緯両方向に施す経緯絣(たてよこかすり)の3種があるそうです。

会場には23カ国から集められた120点の絣がずらりと並んでいましたが、同じアジア諸国の製品に比べても、国産品はどこか淡白で繊細で弱弱しく感じられましたが、やはりテキスタイルにもそういう国民性が象徴され刻印されてきたのでしょうか。

なーんて下らないことをぼんやり思惟しながら、これは経絣、これは緯絣と目で確かめ、タテタテ、ヨコヨコ、タテヨコ、タテヨコと呟きながら歩いていたら、自分が横歩きするカニさんのように思えてきました。

タテタテ、ヨコヨコ、タテヨコ、タテヨコ 世界の絣の素晴らしさ 蝶人

*「世界の絣」展は12月17日まで堂々開催中です。

Thursday, February 10, 2011

文化学園服飾博物館で「アンデスの染織」展をみて

茫洋物見遊山記第53回&ふぁっちょん幻論第62回

アンデスといえば私のカボチャ頭には、新宿南口でよく見かける汚らしい身なりの楽団が演奏している「コンドルは飛んで行く」やマリオ・バルガス=リョサやインカやナスカ文明くらいしか思い当たりませんが、ここいらへんではおよそ2500年に亘って独創的な文明文化が栄えてきたそうです。

現在のペルーからボリビア北部の総称であるアンデス地方では、古来良質な木綿やアルパカなどの獣毛と豊富な染料に恵まれたために、織物、編み物、染物など多種多様な染織展開されてきました。そしてこの会場を訪れた人は、紀元前1000年のチャビン期から2-4世紀のナスカ、6-7世紀のワリ、12-14世紀のタンカイやチムー、そして16世紀の有名なインカ文明の時代まで、場所と時期を移しながらその様相を変化させてきたアンデス様式の多種多様な染織のバリエーションを堪能することができるでしょう。

鮮烈な赤をバックに映える単純素朴な鳥や人物や魚、わが国の万葉時代をしのばせる貫頭衣、独特の神話的な文様などがわれらを遠い異郷へと導きます。

以上、例によって同博物館の資料を元にご紹介しました。なお同展は来る3月14日まで開催中。日曜・祝日は休館です。


現代より古代が優れるもの多し文化文明人間思想 茫洋

Saturday, April 10, 2010

前田和男著「男はなぜ化粧をしたがるのか」を読んで

照る日曇る日第337回


黄昏迫る平成の御代にあっては、「男のくせに化粧なんて」、と部厚い眉をついついひそめてしまう私ですが、今を去る何十年も若かりし日には自分でヘレンカーチス第2液を美容院から買ってきて会社をずる休みしてパーマをかけたことがありました。

頭は茶髪のナチュラルウエーブで、ベルボトムのパンタロン姿で颯爽と神田鎌倉河岸の汀にあった小さな会社に入っていきましたら、受付嬢が一斉にのけぞって引いていく姿がおぼろに知覚されました。その当時私は、別にオシャレしようと思ったわけではありません。なにやら前途茫洋の憂い深く、ちょいとおのれの身体外観をギタギタにしてやりたかったのに違いないのです。

「男はなぜ化粧をしたがるのか」というタイトルを持つこの本も、私と同様化粧せざるを得なくなった孤独な生の実存の根っこを鋭くえぐってくれるのかと予想していましたら、案に相違してああ堂々の「男性化粧&時代相関説」の開陳でした。
日本史にはわが国に統一国家が誕生した上古、初めて国風文化が成立した平安、武士の時代に転換した中世、戦国を経て幕藩体制が確立した江戸時代、近代国家が成立した明治大正、敗戦と戦後レジームの昭和、という6つのメルクマールがあると唱える著者は、それぞれのエポックにおいて男性の化粧がどのように変遷してきたのかを、1)メークアップ、2)整身(髭そり・脱毛など)、3)整髪の3つの視点から詳細に比較対照しました。
そしてついに化粧は時代のバロメーターであり、歴史は「戦時モード」と「平時モード」を繰り返してきたことを実証するに至るのです。
ここで著者がいう「戦時モード」とは神話時代、中世鎌倉、戦国・江戸初期、明治維新から昭和初期の「常在戦場」の時代であり、「平時モード」とは平安、室町、江戸後期、昭和~現在を指していますが、まあ平たくいえば平和であればマッチョな男らしさが忌避され、猫も杓子も全身化粧に憂き身をやつし、戦争になれば男はよりマッチョになりはてて化粧どころの騒ぎではないということでありましょう。
魏志倭人伝から古事記、万葉、源氏はもとよりルイス・フロイス、森銑三、石井研堂、ドナルド・キーン、杉浦日向子に至るまでまるで打出の小槌のごとく自由自在に博引傍証しながら上記の命題を執拗に証明し続ける著者の研鑚努力と異様なまでの執念に激しく打たれた一冊でした。

♪町内の怪しき者は通報せよとパトカーが喚いている恐るべき警察国家ニッポン 茫洋

Saturday, February 13, 2010

アレクサンダー・マックイーンの死

ふぁっちょん幻論第57回

外電によれば英国のデザイナー、アレクサンダー・マックイーンがロンドンの自宅で
亡くなったそうです。世界でも指折りの非凡なクリエーターであった若冠40歳の孤独な死は、惜しみても余りあるものといえましょう。

ロンドンのセントマーチーン・アカデミーを卒業して1996年にロンドン・コレに参加し、その後まもなくジバンシーのデザイナーとしてめざましい活躍を続けた彼は、2001年からはみずからのブランドでパリとミラノのコレクションでメンズとウイメンズの作品を発表し、シーズンごとに高い評価を集めてきました。

アレクサンダー・マックイーンは、つねにファッションの領域を拡大し、前人未到の新しい美を追求しようとする強烈な意欲と冒険精神の持ち主でした。たとえばロンドンのストリート系雑誌「デイズド&コンヒューズド」の依頼に応じてコムデギャルソンなどとともに重度の身体障害者をモデルにした作品を発表したり、03春夏パリコレでは義足のモデルを起用するなど、健常・障碍の区分を超えたユニバーサルデザインに対して先進的な取り組みをみせていました。彼は、私たちが美しいとみなす世界の外側に、もうひとつの美しさを見出すことができた人でした。

けれどもファッションに対してきわめて前衛的な考え方を持ち、その理想を追求しようとすればするほど、バブル崩壊後の世界不況の嵐は、彼のファッションポリシーと生き方を苦難にみちたものに変えていったに違いありません。
他のデザイナーたちと共に、一方では着易いリアルクローズを提案し、プーマ社と提携するなど「食うためのデザイン」を推進すればするほど、「この世にあらざる理想のデザイン」を夢見る彼の良心はするどい痛みを覚えたに違いありません。

彼が死の直前に製作し、私たちへの最期の贈り物となったのは201年秋冬物のミラノコレクションでしたが、そこで登場するメンズウエアたちは、まったくコンセプトの異なる2種類のグループによって暴力的に引き裂かれているようです。

一方における「万人に愛されるリアルクローズ」と、まるでアフガニスタンのアルカイダへの孤独なオマージュのような、「異様でアバンギャルドなシュールレアリスムウエア」――。おそらく彼の内面におけるこの2つのベクトルの存在と内部矛盾、そしてその不可避的な対立と分裂の激化こそが、彼の早すぎる自死の引き金となったのではないでしょうか。

今宵私は、マックイーンと同じような悩みをかかえて激しく苦悩しているであろう山本耀司氏や川久保玲氏、そのほか数多くのクリエーターの健闘と自愛を切に祈りたいと思います。


死んでしまえばすべて終わりだよ山本耀司 茫洋

生きておればさらなる高みに登れたが足元の岩ぐらり崩れて 茫洋

Wednesday, February 10, 2010

閉店迫る横須賀さいか屋  横須賀ところどころ第8回

茫洋物見遊山記第12回&ふぁっちょん幻論第56回


吉祥寺伊勢丹、有楽町西武、京都四条河原町阪急など全国各地で百貨店の閉店が相次いでいますが、ここ横須賀でも名門デパート「さいか屋」の大通り店が閉鎖されることになり、地元商圏に暗い影を落としています。

「さいか屋」は明治5年創業ですから、きっと戦国時代の歴史に名を刻んだあの雑賀一族の末裔がおこした当時は流行の最先端をいく商業施設だったのでしょう。現在では、川崎、藤沢、横須賀など神奈川に拠点をおく典型的な地方百貨店ですが、尋ねるたびに来客が減少していることが気になっていました。

しかし経営不振が極まって、まさか目抜き通りに面した大通り店をクローズするとは思いがけない結論でした。横須賀店は大通り店、新館、南館の3館で構成されていますが、あとの2つは大通り店のいわば背中側に立地しており、集客の点では相当のハンディがあるはずです。それなのにどうして今回のような選択をしたのか理解に苦しみます。

販売実績を見てみないと門外漢には勝手なことが言えませんが、現場を歩いてみた感じでは、新館と南館を売却して主力商品のみに絞った大通り店だけで営業を続けたほうがコストダウンと早期黒字化につながるのではないかという印象を持ちました。
南館は飲食街になっているようなので、もしここが黒字ならば大通り店との2館体制で新規巻き返しを図るべきではないでしょうか。

いずれにしても特性のない衣料品を主力とした特性のない百貨店は、特性のないアパレルメーカーとともにこれからもどんどん滅んでいくのでしょう。栄枯盛衰は世の習いとはいえ、総身に凍風が吹き付ける平成22年の横須賀の冬です。


曇天にヘリ低く飛びし朝年少の友独り逝きけり 茫洋

Thursday, February 04, 2010

文化学園服飾博物館の「パレスチナの民族衣装」展を見る

茫洋物見遊山記第8回&ふぁっちょん幻論第55回

新宿の文化学園服飾博物館では「パレスチナの民族衣装」展が3月14日まで開催されています。

聖地エルサレムを囲むパレスチナ地方には、イスラエルとアラブ両民族が政治的、人種的、宗教文化的に厳しい対立を続けている訳ですが、この会場ではヨルダン川西岸とガザ地区に分断されながらも軍事的強国イスラエルにゴリアテに挑むダビデのように礫で戦いを挑んでいるパレスチナの人々の民族衣装が多数展示されています。

アラビアのロレンスを思わせる男性の衣服も興味深いものがありますが、なんといってたっぷりとした着分の生地を贅沢に使い、大きなAラインに造型された女性の色彩豊かなドレスが目を引きます。

ドレスには花や木など自然のモチーフが金の糸などで刺繍されていて、とりわけ胸元に表現されたV字型などの大胆な文様が、エルサレムやラマラ、ガザ、ベツレヘムなど彼女たちの出身地毎のアイデンティティをあざやかに表現しています。

タータンチエックを思わせるこれらの美しい意匠は、先祖代々母から娘に手作業で伝えられ、その地域や部族や家柄の誇り高い象徴であったわけですが、その連綿たる歴史と文化的伝統が、20世紀後半のイスラエルの武断的攻勢と陰険な分断政策によって暴力的に断ち切られつつあることは断腸の思いです。

難民キャンプに追いやられたパレスチナ人たちが、ありあわせの素材と拙い技術でつむいだ貧しいドレスが、そのことを雄弁に物語っているようでした。


♪パレスチナの民族衣装を踏みにじるイスラエルの民の驕り昂ぶり 茫洋

Tuesday, December 08, 2009

「三井家のきものと下絵」展を見る

茫洋物見遊山記第7回&ふぁっちょん幻論第54回


新宿の文化学園服飾博物館では、「三井家のきものと下絵」展が12日まで開催されています。

三井家は、江戸時代の日本橋で越後屋呉服店を開店し、本邦最大規模の呉服小売店として大繁盛しました。維新後は三越などを中核とする財閥を形成しわが国の資本主義の発展と拡大を担ってきた名家ゆえに、歴代の和装品の数々を所蔵していましたが、その収蔵品の一部が現在この博物館の重要なコレクションとなっているわけです。

今回の展示会では、安土桃山時代以降、江戸、明治に至る様々な着物と下絵合わせて70余点が紹介されています。
それらを通覧して分かるのは、安土桃山時代の内掛けの衣装デザインの絢爛豪華さです。これは狩野派などの襖絵にも通じる要素ですが、豊臣が滅ぼされ、徳川の御代に転じるに従って、同じ山川松柏鶴亀のモチーフにしても構図とデザインの放胆さが次第に薄れ、小手先の技巧が勝っていく趨勢がみてとれます。

次はデザインの三次元化です。桃山、江戸初期、中期までは着物全体を二次元とみなした平面的な図柄が中心でしたが、江戸後期に入るとそれが立体的な構想をそなえた三次元デザインに進化します。内掛けの背後から眺める人の鑑賞を意識して、背中と胴体と下半身の各パーツに描かれる風景や植物や動物の位置や大きさが意図的にデフォルメされていくのです。デフォルメといっても、着物の鑑賞者にとってはより自然に生きた姿形として受け取られたわけです。

そして、このデザインの三次元化&デフォルメを実現するために、三井家に対して大きな影響を与えたのがわが丹波亀岡出身の画家、円山応挙でした。動植物の写生と西洋画伝来の遠近法を得意としたこの円山四条派の始祖は、それまでの着物を大きく改新するニューデザインを開発することによって、パトロンの期待と新ビジネス需要に応えたのでした。
本展には、亀居山大乗寺(応挙寺)所蔵の下絵もいくつか展示されており、これらを実際の内掛けと見比べてみるのも一興です。


♪丹波なる亀岡の里より出でし人応挙光秀王仁三郎 茫洋

Thursday, July 16, 2009

三宅一生さんの原爆体験

ふぁちょん幻論第52回

世界的なファッションデザイナーの三宅一生さんが、先日NYタイムズにこれまで秘していた7歳の時の広島における原爆体験を明らかにしたうえで、米国のオバマ大統領に故郷広島を訪問するように呼びかけたそうです。

三宅さんは、1945年8月6日のヒロシマで母親とともに被爆し、放射線を浴びた母を3年後に亡くしたそうですが、「原爆を生き延びてきたデザイナー」というレッテルを張られるのが嫌でいつもヒロシマに関する質問は避けてきたそうですが、オバマ氏がプラハで核廃絶に触れたことが「自分の中に埋もれていた何かを呼び覚まし、体験者の一人として個人的、倫理的な責任をかつてないほど強く感じるようになった」そうです。

三宅さんは1938年広島県生まれ。63年多摩美大卆。パリとNYで学んだ後70年に三宅デザイン事務所設立。73年からパリコレに参加。98年にはパソコンの指令で特殊な編み機が一体成型の服をつくる仕組みであるA-POC=a piece of clothを藤原大さんと開発しました。
さらに06年10月にはNYのADC賞を受賞。07年4月には東京ミッドタウン内にデザイン&芸術、ものづくりの拠点めざす21_21デザインサイトを開設したこともよく知られています。
しかしなんといってもエポックメイキングだったのは、三宅さんの創作の原点である「一枚の布」の発想から生まれた生地の裁断・縫製がいらないA-POCでしょう。コンピュータであらかじめプログラミングされた編機や織機が、筒状の布をつくりだし、布地を裁断後に縫製するというインタラクティヴで新しい技法は、従来の服づくりの概念を根底からくつがえすもので、残り布などの無駄を少なくするばかりでなく、着る人がフォルムを選択でき、自分の着る服の最終デザインに参加することができるのです。大量生産とカスタム・メードという一見矛盾するように思われる二つの要素が、ハイテク技術とイマジネーションの結合によって見事に融合しているところに大きな特徴があると思います。
ところで三宅さんのこれらの輝かしい活動の原点となったのは、今回の報道と同じく広島における強烈なデザイン体験でした。広島市を象徴する平和大橋「つくる」と西平和大橋「ゆく」の2つの橋の欄干は、有名な建築家イサム・ノグチの設計にかかるものですが、三宅さんは高校時代の行き帰りに「鎮魂と再生」をテーマとするこの「心の橋」を渡りながら、みずからもなにかをつくる人になろうと決意したと語っています。

おそらく若き日の優れたデザインとの出合いこそが、その人の生涯そのものをデザインするのでしょう。

   ♪欄干の小さきデザイン火と燃えて人も世界も揺り動かしつあり 茫洋

Monday, May 18, 2009

愛の昼下がりにいざなう「ピーチ・ジョン」

茫洋広告戯評 第2回

伝説の経営者野口美佳が経営する若い女性のおしゃれな下着の会社「ピーチ・ジョン」は全国で12店舗を運営していますが、現在は同じ下着の大手ワコールの傘下に入りました。
最近沈滞気味のワコールは、苦手な若い女性のニーズをうまくとらえて人気のあるピーチ・ジョンのマーケティング・ノウハウを獲得したかったのでしょう。

それはさておき、私がいつも新宿駅で湘南新宿ラインを待っていると、目の前にルミネとピーチ・ジョンの巨大な構内広告が掲示されているのでついつい眺めてしまうことになるのです。

ルミネはコピーライターとフォトグラファーがそれなりに頑張っていますが、コピーはお世辞にも1流とはいえません。写真もなぜかわざとピントの甘いものを多用しており、もしかするとアートディレクターが一癖ある変態者(褒め言葉です)なのかもしれませんが、じつに気になる広告ではあります。

いっぽう「ピーチ・ジョン」は、大方の予想を裏切って全然変態的ではなく、(モデルは大胆な裸で登場してはいるが)、コピーライターがかなり良い仕事をしています。
例えば今回の広告では、ご覧のように、「Lingerie is Love-Jewelry 」とダジャレで韻を踏んであります。

このような手法はタワーレコードのNo music No life(英国の諺No pain No gainのパクリ)や昔の全日空の「北海道、でっかいどお」という真木準のコピーをはじめたくさんの好例があるのですが、この即席日本製英語は、見た目も、発音も、「ランジェリーは愛の宝石ですよ」という意味付けもふくめて、なかなかのものです。

やってみろといわれても、素人には絶対に作れないキャチフレーズ。ということは、かなりの手だれの仕事でしょう。なぜともなくエリック・ロメールの映画「愛の昼下がり」にも連想が及んで、ラッシュアワーの束の間、あらぬ幻想の世界に遊ばせてくれる貴重な広告ではあります。


  ♪いつのまにか遠い世界になりにけりエリック・ロメールの愛の昼下がり 茫洋

Friday, April 24, 2009

60年代のメンズカジュアル

ふぁっちょん幻論 第49回

60年代のメンズ・カジュアルファッションといえばなんといってもジーンズでしょう。アメ横には米軍から放出された大量のジーンズが人気を集めていました。

1964年に「平凡パンチ」、66年には「週刊プレイボーイ」が創刊され、VANに代表されるアイビールックとJUNなどのコンチネンタルルックが覇を競い、TPOなる言葉が石津謙介氏によって流行語となりました。

60年代後半からはベトナム戦争が泥沼化し世界各地で反戦運動が起こります。パリの5月革命、日本の全共闘運動などを背景にカウンターカルチャーが全盛となり新しい思想文化、とりわけ先鋭的なモードが全世界で澎湃として巻き起こってきました。
例えば英国で起こった服飾の新潮流モッズはmodernの略ですが、50年代終わりのロンドンで誕生し、ビートルズなど時代の先端を行く若者や服装の代名詞となっただけでなく日本のGSにも大きな影響を与えました。

また米国原産のサイケデリックは、ヒッピーで流行したLSDによる幻覚を指し、これが現代アートに激烈に作用します。そして前記のモッズと後者のサイケがヒッピーファッションに大合流し、当時の若者の服飾の主流を形成するようになるのです。

67年に登場した新宿フーテン族、演劇では寺山修司「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場」などのアングラ、そして69年には新宿西口でフォークゲリラが激発します。広告の世界では「モーレツからビューティフルへ」「フィーリング」などという言葉が流行語となる頃、モードの古典的な規範は崩壊に近づきつつありました。モードの底が、いったん抜け落ち、擬制の自由とやらにみな酔った振りをしたのです。

長髪と反アイビーの西海岸ジーンズなどが、反体制のシンボルとして定着し、「アンチ・ファッションという名のファッション」が市民権を得たわけです。続いて西海岸に発生した数々のアウトドアルック、パンク、そしてさまざまなイタリアンカジュアル。80年代まで世界中で疾風怒涛のファッド旋風が吹き荒れます。私がベルボトムをはき、ヘレンカーチス第2液を買ってきてはじめてパーマをかけたのもこの頃でした。


♪8時半に演説終えし候補者と隣り合わせの京急バスに乗る 茫洋
♪見知らぬ人に満面の笑顔振舞われ路地に逃げ込む市議会選挙

Monday, April 20, 2009

60年代のスーツ近代化

ふぁっちょん幻論 第47回

1960年代になると西欧から優れたテーラーたちが続々わが国にやってきます。また昭和30年1964年の東京オリンピック開催時には、国際注文服業者連盟国際大会も併せて開催され、翌年から若手優秀者がロンドンのサヴィル・ロウでの研修に派遣されるようになりました。

昭和36年1961年にはパリの仕立て技術者A・クリスチャーニ、昭和39年には伊ローマからアンジェロ・リトリコ(JFK、フルシチョフ、マストロヤンニの服)、英ロンドンマスターズテーラー協会理事長のパッカー、副理事長のスタンバレー(サヴィル・ロウのテーラー「キルガー・フレンチ&スタンバレー」)などの各氏が来日、欧州仕立ての真髄を披露しました。

彼らは「日本のスーツ職人は手先は器用だが、胸のドレープの表情に乏しい、スーツ全体のボリュームがなく扁平すぎる。プロポーションが悪く、アイロンが軽すぎる」などの指摘を行ない技術の改善を指導したために、スーツの仕立て技術が大きく向上しました。

こうした技術革新の波を受けて、74年には三宅一生らの「TD6」が父上がり、72年には「ブリリアント6」が結成され、上原宗市、細野信、中右茂三郎、石川栄治、今井文治などが第1回コレクションを発表。第2回からは池田茂樹、五十嵐九十九、隅谷譲次、松田法明たちも参加し、73年には上原宗市、細野信がイタリア・サンレモのテーラーデザインコンテストで1位を受賞します。しかしこうしたオーダーメードの団体活動は、既製服業界の追い上げと職人賃金の高騰などによって、昭和60年1985年には終了してしまいます。

♪鰤頭とろとろ煮られ花曇り 茫洋

Saturday, April 11, 2009

「超流行上口中等洋服店」

ふぁっちょん幻論 第45回

これまで明治維新以降のわが国の洋服化の歴史について縷々述べてきましたが、実際は和服に親しむ人たちの潜勢力は根強いものがあり、ようやく大正13年の関東大震災以来、洋服が次第に定着することになったのでした。

昭和7年1932年12月16日、日本橋の白木屋本店(現在のコレド日本橋)で火災が発生し、死者14名、重傷者21名の惨事となりましたが、このとき着物を着ていて、消防夫に下からのぞかれることを苦にして逃げ遅れて亡くなった女性がいたそうですが、この話を伝え聞いた多くの人々が洋装に切り替えたといわれます。

さて「ふぁっちょん幻論43回」で木村慶一、山崎隆造、丸山幸作などメンズの偉大な師匠たちをご紹介しましたが、昭和を代表する個性的なテーラーといえば、(私の母の身内であるという身贔屓からではなく)、まずは上口愚朗(作次郎)に指を屈することになるでしょう。

上口愚朗は、明治25年に東京の谷中で生まれました。彼は小学校を卆業後、宮内省御用の大谷洋服店に弟子入りしテーラーとしての腕を磨きました。当時の慣習に従って丁稚奉公しながら自学自習に励んだようですが、ボタンホールの手縫いの精密さはピカイチだったそうです。

そして大正末期に「超流行上口中等洋服店」を開店したのですが、なんといってもこのネーミングが最高ですね。当時はモガ・モボが新古典派、和服地モーニングなどで銀座を徘徊していました。「超流行上口中等洋服店」のポリシーは、“客自らが来店しないと作らない。値段は教えない。国産生地は使わない。採寸せずに仕立てる”という猛烈なものだったそうですが、逆にこれが人気を呼んで棟方志功など熱烈な愛好者たちが谷中に殺到したそうです。

昭和初期の背広の仕立代は1着25円だったのに、この店では100円以上。ファンから稼いだ金で上口愚朗は江戸時代の大名時計や中国・韓国・日本の茶陶器を収集し、これが現在の谷中の「大名時計博物館」の貴重なコレクションになったのです。

上口愚朗は昭和13年に川喜田半泥子を訪ねて作陶に打ち込み、井戸、志野、黄瀬戸、唐津、古瀬戸、山茶碗、彫三島、天目掻落し、独創的な野獣派陶碗などを彼独自の「ウンコ哲学」で制作しましたが、昭和45年に78歳で没しました。私の祖父も、彼が作ってくれた背広を長く愛用していたそうですが、もはや影も形もないことが残念でなりません。


♪桜散るわが仕出かししことの後始末 茫洋