Saturday, April 11, 2009

「超流行上口中等洋服店」

ふぁっちょん幻論 第45回

これまで明治維新以降のわが国の洋服化の歴史について縷々述べてきましたが、実際は和服に親しむ人たちの潜勢力は根強いものがあり、ようやく大正13年の関東大震災以来、洋服が次第に定着することになったのでした。

昭和7年1932年12月16日、日本橋の白木屋本店(現在のコレド日本橋)で火災が発生し、死者14名、重傷者21名の惨事となりましたが、このとき着物を着ていて、消防夫に下からのぞかれることを苦にして逃げ遅れて亡くなった女性がいたそうですが、この話を伝え聞いた多くの人々が洋装に切り替えたといわれます。

さて「ふぁっちょん幻論43回」で木村慶一、山崎隆造、丸山幸作などメンズの偉大な師匠たちをご紹介しましたが、昭和を代表する個性的なテーラーといえば、(私の母の身内であるという身贔屓からではなく)、まずは上口愚朗(作次郎)に指を屈することになるでしょう。

上口愚朗は、明治25年に東京の谷中で生まれました。彼は小学校を卆業後、宮内省御用の大谷洋服店に弟子入りしテーラーとしての腕を磨きました。当時の慣習に従って丁稚奉公しながら自学自習に励んだようですが、ボタンホールの手縫いの精密さはピカイチだったそうです。

そして大正末期に「超流行上口中等洋服店」を開店したのですが、なんといってもこのネーミングが最高ですね。当時はモガ・モボが新古典派、和服地モーニングなどで銀座を徘徊していました。「超流行上口中等洋服店」のポリシーは、“客自らが来店しないと作らない。値段は教えない。国産生地は使わない。採寸せずに仕立てる”という猛烈なものだったそうですが、逆にこれが人気を呼んで棟方志功など熱烈な愛好者たちが谷中に殺到したそうです。

昭和初期の背広の仕立代は1着25円だったのに、この店では100円以上。ファンから稼いだ金で上口愚朗は江戸時代の大名時計や中国・韓国・日本の茶陶器を収集し、これが現在の谷中の「大名時計博物館」の貴重なコレクションになったのです。

上口愚朗は昭和13年に川喜田半泥子を訪ねて作陶に打ち込み、井戸、志野、黄瀬戸、唐津、古瀬戸、山茶碗、彫三島、天目掻落し、独創的な野獣派陶碗などを彼独自の「ウンコ哲学」で制作しましたが、昭和45年に78歳で没しました。私の祖父も、彼が作ってくれた背広を長く愛用していたそうですが、もはや影も形もないことが残念でなりません。


♪桜散るわが仕出かししことの後始末 茫洋

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