Saturday, April 18, 2009

「吾妻鏡」現代語訳 5征夷大将軍を読んで

照る日曇る日第251回&鎌倉ちょっと不思議な物語第175回

建久元年1190年から同三年までは、源頼朝の絶頂期ではなかっただろうか。

平家一門、弟の義経に続いて奥州平泉の藤原氏を滅亡させたこの関東の武人は、相州鎌倉を拠点に都の後白河法皇との平和共存体制のもとで武家政権を確立し、関東以北を中心とした東国支配を貫徹していく。その後の日本国を象徴する権力の東西二重構造の出現である。

 この三年間にどんなことが起こっただろう。鶴岡八幡宮は、大火の後で現在の地に再建され、奥州中尊寺の二階大堂を模して造営された永福寺も山紫水明の地に成り、すでに完成していた父義朝を弔う勝長寿院と合わせて豪華三点セットの七堂伽藍が完成するのである。(余談ながら私の家の近所に大慈寺が建立されて四点セットが完成するのは頼朝の死後のことになる)

その永福寺は頼朝自らが建設場所を選び、恐らくは手ずから図面を描き、何度も現地に足を運んで北条義時や畠山重忠に巨石を担がせて鎌倉二階堂に建立した平安貴族風の雅やかな御殿であり、建久三年に生まれた実朝がちょうどこの季節には花見や蹴鞠を楽しんだ寺院であった。(余談ながらこの近くには晩年の江藤淳や外交官の加瀬俊一、作家の里見敦なども住んでいた)

生涯のライバルであった後白河院亡き後、頼朝は念願の征夷大将軍に就任し、その声望は天下の頂点に到達する。同年一二月三日に生後間もない実朝を両腕に抱いて千葉常胤、三浦義澄、小山朝政、和田義盛、畠山重忠、安達盛長、梶原景時など幕府叢生の苦労をともにした御家人の前に喜色満面の笑みをたたえて姿を現した頼朝は、「此嬰児鐘愛殊に甚し、各意を一にして将来を守護せしむ可きの由、慇懃の御言葉を儘され、あまつさえ盃酒を給ふ」(岩波文庫吾妻鏡三)と原文にあるように、源家の将来を託した息子への忠誠を、心と言葉を尽くして信頼する武将たちに頼んだ。

御家人衆はそれぞれが実朝を抱き、各自がそれぞれ腰刀を献上して頼朝の要請に応えることを確約したのだが、のちの北条政権の陰惨な歴史が残酷なまでに示しているように、その大閣秀吉の晩年にも似た征夷大将軍の悲願が実現される日は、ついに訪れなかったのである。


ついぞ知らずあわれ北条の陰謀に滅亡するとは 茫洋