失われた世代の自己恢復の痛苦な物語 照る日曇る日第247回
村上春樹によるスコット・フィツジェラルド短編集翻訳の2巻目です。
最近米国のみならず、この稀代のアル中作家の声望が同時代の大作家ヘミングウエイのそれを次第に圧倒していると聞きますが、それもむべなるかな、という気持ちにさせられる珠玉のような名編(と偉大な失敗作ぞろい)です。
フィツジェラルドの最大の特徴は、(村上春樹選手の日本語訳で読む限り、という注釈つきですが)その文章の天才的なうまさにあるといえましょう。
例えば、最初におかれた短編「ジェリービーン」の冒頭は、
「ジム・パウエルはジェリービーン(のらくら)だった。私だって彼のことを魅力的な人物として描きたい気持ちはやまやまなのだが、でもそれでは読者に嘘をつくことになる。彼は生まれながらの、まさに骨の髄からの、99%のジェリービーンだった。」
というもので、じつにうまいものですね。
次の作品「カトグラスの鉢」のはじまりは、
「旧石器時代があり、新石器時代があり、青銅器時代があり、そして長い年月のあとにカットグラス時代がやってきた。」
というもので、こういう文章はつい真似をしたくなりますがところがどっこい、なかなか様にならないものなんですね。(ちなみに素晴らしいのは序幕だけではありません。本書100pからフィナーレまでは疑いもなくフィツジェラルドが生涯に書いた最高の数ページでしょう)
お次はパリのアメリカ人が出てくる「新緑」ですが、これは
「ブーローニュの森の屋外席で食事ができるくらいに暖かくなった。それが最初の日だった。栗の花はテーブルの上をはらはらと舞って、我がもの顔にバターやワインの上に落ちた。」
というもので、こんなのを読まされると思わずパリに行きたくなってしまいますね。
では表題作の「バビロンに帰る」がどうなっているかといいますと、これが村上選手が激賞しているようにとんでもない代物で、いきなり主人公とバーのマスターの会話からはじまります。
「それでミスタ・キャンベルは何処にいるんだろう?」とチャーリーは訊いてみた。
「スイスに行ってしまわれました。ミスタ・キャンベルは具合がおよろしくないんですよ、ミスタ・ウェールズ」
29年の世界恐慌でジャズエイジの黄金時代が一夜にして崩壊し、失われた世代の自己恢復の痛苦な物語がここからはじまるのですが、この渋くさりげないオープニングに一驚された方はぜひとも本書を手にとって頂きたいものであります。
♪テポドンを嚥下しにけり春の海 茫洋
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